いつか時の彼方に 第1部ー3

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第9話


               ■


 ぼくは小学生の頃、柴犬を飼っていました。この柴犬は六月生まれなので、ぼくはただ単純にこの犬にジュンという名前を付け、そうで呼んでいました。

 犬には散歩が必要不可欠です。ぼくは、仕事が早番のときはそれが終わる夕方に散歩に連れて行き、仕事が遅番のときは早朝にジュンを散歩に連れて歩いていました。。

 ジュンはまだ子犬です。元気が良すぎて、家から道路に出るとジュンはリードをぐいぐい引っ張るほど前に進もうとします。リードを離すとジュンは、とんでもない速さで走っていくんだろうな。おいおい、ジュン。そんなに慌てなくてもいいんだよ。ぼくはいつもそんなことをジュンに言いながら、散歩を楽しんでいたのでした。


               ■


 その年の夏、ぼくはジュンの散歩中に別な柴犬を連れた年配女性と出会いました。ジュンはいち早くそれを見つけ、尻尾を振りながらその女性に近づいて行きます。

 その女性の柴犬もジュンに気づいて立ち止まっています。やがて2匹に柴犬は鼻と鼻を近づけ、しばしお互いのお尻を嗅ぐような仕草をしたあと、やがてお互い尻尾を振り回してじゃれ合いました。

「あら、珍しいわね。ウチの子、ほかのワンちゃんと会うと、いつも攻撃するのに」

 その年配女性はちょっと驚いた顔を見せ、

「そのワンちゃん、何て名前なの」と、ぼくに訊きました。

 ぼくは答えました。

「ジュンです。今年六月に生まれたから、ジュンって名前です」

 するとその年配女性は、まあ、と言いながら、

「うちの子は五月生まれだから、メイなの。でも12歳のお婆ちゃんなのよ」。

 こうしてぼくとその年配女性は同じ柴犬同士の飼い主ということもあって意気投合し、散歩で出会うたび、挨拶のあとの動物談義で言葉をを交わすのでした。

「わたし、つい最近、松戸から引っ越してきたばかりなの。あそこは公園が少なくて、犬の散歩には不便な場所だったわね」

「だからここは近くに大きな中川公園もあるでしょ。だから気に入ってるの」

「ところで、お兄さん、何て名前なんですか。それからこの街のこと、いろいろ教えてちょうだい」

「ぼくはケンジっていいます。普段は近所のスーパーで働いています」

「生まれてからずうっと亀有です。この辺のことなら何でも訊いてください」


               ■


 それ以降、ぼくとその年配女性は犬の散歩の途中、道や公園で出会うと、犬の話やこの街の話やら、お互いのことなどで言葉を交わすのでした。

 しかし夏が過ぎ、季節が秋に映り変わろうとする頃、ぼくはその年配女性とメイに出会うことがなくなってしまったのです。

 どうしたんだろう。散歩の時間を変えたんだろうか。散歩コースを変えたんだろうか。それともどこかに、引っ越してしまったんだろうか。

 そんなことを思っていたある日、その年配女性がぼくがアルバイトしているスーパーに、買い物客としてやってきました。

「おばさん。お久しぶりですね。メイちゃん、元気ですか」

 その年配女性は最初、懐かしそうにぼくに微笑んでいたのですが、話題がメイのことになると、急に顔を曇らせました。

「実はメイ、死んじゃったのよ」

「もう高齢だったし、仕方ないことなんだけどね」

「朝、ご飯を食べさせようとしたら、死んでたの」

「その前の日までは、いつもと同じようにご飯をいっぱい食べて、元気だったのに」

 そのあと年配女性は声を詰まらせながら、そして目を赤くはらしながら、涙声で、

「ペットはどうしても飼い主より先に死んじゃうのよ。今までありがとうって言って」

「でも、ありがとうって言うのは、こっちの方なんだよね。だってずいぶん一緒に、いっぱい楽しい時間を過ごせたんだから」

 その言葉でぼくも涙ぐんでしまいました。

 ジュンも可愛いけど、メイも可愛かった。2匹でじゃれてる姿は、ほんとうの親子のようにも見えた。そのメイはジュンとじゃれ合ったあと、かならずぼくの手やら顔を舐めまわしてくれました。それを思い出したぼくも、ついつられて泣いてしまったのでした。

 そのあとぼくは年配女性にお悔やみの言葉を言って、家に帰ってからジュンに言いました。 

 ジュン。メイちゃん、死んじゃったんだってさ。可哀相にね。

 ジュンは首をかしげながら、ぼくの顔を見つめていました。たぶんジュンも何か悲しいことがあったんだなって、気づいたのかも知れません。なぜなら犬は、人間の喜怒哀楽を理解できるからなのです。



               ■


 やがて秋も深まったある夕暮れ。ぼくがいつものようにジュンを連れて散歩していると、その年配女性が前から歩いていることに気づきました。何とその年配女性は、犬をつなぐリードをきずりながら歩いていたのです。

「おばさん。お久しぶりですね。でもそのリード、どうしたんですか」

 ぼくが訊ねるとその年配女性は、イタズラを見つけられた子供のような顔をして、

「あ、これ、これね」

「今度、新しい犬を飼おうと思ってるの」

「だ、だから、その練習よ。練習」とその場を取り繕うように言いました。

 ぼくは違うな、と思いましたが、それは言葉にしませんでした。

 たぶんその年配女性は、メイのことが忘れられず、今もこうしてリードだけいて、メイをしのんでいるんだろうな。

 そう思いながらもぼくが年配女性のウソに合わせようとうなずきました。

 するとどうしたことでしょう。ジュンが、急に動きだしました。何とジュンは尻尾を振りながら、リードの先端にじゃれつきだしのです。

 ぼくはとっさに理解しました。そして言いました。

「おばさん。メイ、いるじゃないですか。ここに」

「ほら、ジュンがこんなにじゃれついている」

 ぼくはリードの先端にひざまずき、あたかもそこにメイがいるかのように

その空間を撫でました。

 するとその年配女性も「あら」と声をだし、ぼくと同じようにリードの前にしゃがみ込みこんで、「メイ、メイ」と、何もない空間に手を動かします。

 やがてジュンはその場所でせわしなく前足を動かし、穴を掘るような仕草をしました。見ると年配女性は、うっすらと涙を浮かべています。

 もしかしたらメイは、ほんとうにここに来ているのかもしれません。そしてその姿はぼくには見えないけれど、もしかしたらジュンと年配女性には、その姿が見えているのかもしれません。

そうしてぼくとその年配女性は長いあいだ、ずいぶんリードの先端部分の空間を撫で続けていたのでした。

 その年配女性の横顔に、つるべ落としのような夕暮れが、影を落としました。

 そして一陣の風が見えないメイを偲ぶかのように、落ち葉をその場所に運ぶのでした。




                                   《了》




 






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いつか時の彼方に 第1部ー3 狩野晃翔《かのうこうしょう》 @akeey7

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