一日早いホワイト・デー

すえもり

一日早いホワイト・デー

 大学一年目の後期の授業が終わり、春休み。奈々は下宿の壁の、空白だらけのカレンダーを見上げた。明日はホワイトデーだ。入学後すぐに部活動も休止となり、週末にweb飲み会をする程度。一年もあれば自宅で出来る暇つぶしは一通り終えてしまう。あまりにも暇すぎて、最近は料理を作って自己満足に浸るばかり。

 そろそろ夕飯の準備でも始めようかと思った時、ドアベルが鳴った。モニターに映っていたのは、寝癖が目立つ人畜無害そうな顔の青年だった。

「ナナリー、今日の晩ご飯

 って決めた?」

 彼は隣の部屋に下宿している幼馴染の泰樹だ。家が近く、同じ小中学校に通っていたが高校は別で、大学で再会した。しかも、たまたま隣同士の部屋に住んでいた。偶然というのは恐ろしい。奈々は扉を開けた。

「今からだけど、何? 先にLINEで聞いてよ」

「急にごめん、カレーを作ってるんだけど、うちで食べない?」

 確かに、外からは微かにいい香りが漂ってくる。しかし奈々は躊躇った。まず一つ、いくら幼馴染とはいえ男子の部屋に上がるのはどうなのか?

「カレーならアレンジすれば三日くらい保つでしょ? まあ、飽きそうってのなら遠慮なく貰うけど……」

 躊躇した理由の二つ目は、先月のバレンタインの時に泰樹に告白したあと、まだ返事をもらっていないということだ。いくらマイペースな彼でも忘れているはずはないと思うのだが、照れ臭いのか、それとも断りづらいのか、玄関先で出くわしても一切話に出さなかった。もしかすると今日、その返事をしようというのだろうか? しかし、顔を上げた奈々の目に入ったのは、全く緊張感のない笑顔だった。

「良かった! 前回は一週間も食べ続けなきゃいけなくてさ」

「まず量を考えなさいよ」

「作る時は楽しみで仕方なくて、作りすぎちゃうんだよな」

 奈々は貰うだけでは悪いと思い、冷蔵庫からアップルジュースのボトルを出した。

「いいのに」

「いいから」

 泰樹の部屋は、どこか懐かしいカレーの香りが充満していた。コンロに乗っているのは、一人暮らしには大きすぎる鍋だった。

「あんた、意外とマトモに自炊するのね」

「まあ、カレーくらいはさ。とりあえず先に部屋に入ってて」

 キッチンを抜けた先のドアを押し開ける。以前、一度だけ部屋に入れてもらったことがあるが、子ども時代と同じく汚部屋だった。

 しかし今、奈々の目に飛び込んできたのは、狭い部屋の中央を陣取る赤いテントだった。しかも、見覚えがある。子ども向けの、プラスチック製のフレームを組み立て、テントを被せて紐とマジックテープで止める簡単なもので、奥にはメッシュの窓がついている。

「……何これ」

「それ、懐かしいだろ⁉︎」

「あんたは一人で何やってるわけ?」

「きのう実家で片付けをしてたら出てきてさ、懐かしすぎて作っちゃったんだ。ちょっと非日常気分を味わえるかなって」

「まさか、この中でカレーを食べるって言うんじゃないでしょうね」

「え、だめかな……?」

 泰樹がしょぼくれた声で言うので、奈々は肩をすくめた。

「狭くて二人も入れないんじゃない?」

 奈々はテントの開口部を開けて中に入ってみた。子どもの頃は三人以上入っていたような気がするが、大人だと二人でも狭すぎる。

 泰樹は、カレー皿を部屋の隅に追いやられた卓袱台に置くと、テントの中を覗き込んだ。

「ホントだ。まあいいじゃん」

 そして、部屋の明かりを消した。

「ちょっと!」

 窓からは外の灯りが入ってくるが、手元が見えない。不意に、暗闇の中に泰樹の顔が浮かび上がった。

「ぎゃっ!」

「怖いの?」

 彼は手にしていた懐中電灯を天井部分にぶら下げると、奈々をテントの奥のほうへと追いやり、カレーの皿を手渡した。

「狭すぎ。密でしょ」

「今さらじゃん。ほら、食べよう」

 このマイペースぶりだ。奈々の一大決心の末の告白のことなんて、すっかり忘れているに違いない。腹立たしくなった奈々は、テントの窓のほうを向いてカレーを掻き込んだ。意外と美味しいことが余計に腹立たしかった。泰樹は、ちらりと気にするような視線を送ってきたものの、飲み物かというくらいの速さでカレーを食べ、ジュースを飲みほすと、口を開いた。

「覚えてる? 昔、ナナリーのお母さんがこのテントの中で読み聞かせてくれた絵本。キャンプに行って、青い狐火が出るやつ」

 確か、小さい女の子が初めて行ったキャンプ場で、テントの中で狐火に囲まれるという話だった。

「それがどうかしたの?」

「あれ、見てみたかったんだよなぁ」

 ニヤリと笑う彼の横顔が闇の中に消えた。懐中電灯の灯りが消えたのだ。

「電池切れ? もう」

 奈々が手を伸ばそうとした時、テントの外側に青白く揺れる光がいくつも現れた。

「な……何よ……仕掛け? やめてよ」

 奈々は思わず泰樹の二の腕を掴んでしまった。それが思いのほか硬いことに驚いて、慌てて手を離した。至近距離で目が合うが、彼は全く動揺していないように見える。それどころか怖がる奈々を見て楽しそうに笑っている。小さい頃はひょろひょろで泣き虫で、バッタさえも捕まえられずに怯えていたくせに。

「ナナリーは怖い話がキライだもんな。委員長キャラなのにさ」

「う、うるさい!」

「あはは! まあ、外に出てみてよ」

「隠れて飼ってる猫にLEDをつけて歩かせてるなんて言わないでしょうね」

「違う違う」

 テントの外に這い出ると、クリスマスツリーによく巻き付けられているLEDが明滅していた。

「なーんだ」

 泰樹が延長コードのスイッチを切ったのか、LEDが消える。すると室内には、無数の金色の星が煌めいた。

「あ……」

 プラネタリウムだ。

「これでキャンプ気分が味わえるだろ?」

 泰樹はテントから顔を覗かせ、満足気に笑った。

「これがやりたくて私を呼んだの?」

「うん。昔みたいに一緒に遊びたかった」

「……他に用事はなかったの?」

「ん?」

 奈々は、とぼけた顔を手で鷲掴みにした。こんな演出をしておいて、それはない。

「うぇええ⁉︎」

「いつになったら返事する気⁉︎」

 泰樹はハッとして、それから、わかりやすく目を逸らした。

「それはホワイトデーにしようと思ってたんだけど、分からないから返事しようがなくて……」

「どういう意味よ」

 手を離すと、彼は体育座りした。

「付き合ったら、何か変わっちゃうだろ。始まったら終わりが来る。それが怖いんだ」

 彼は先月、付き合っていた彼女と別れたばかりだ。そんな時に告白したのは良くなかったかもしれない。けれど、自分の気持ちに気付いて、誰かに取られたくない一心で言ってしまった。

「ごめん。まだ元カノのこと忘れられてないよね。待つから」

 泰樹は目を伏せた。

「いや……僕なんかのどこがいいのさ? ぼんやりしてて優柔不断だし、空気は読めないし」

「誰かに言われたの? それ、あんたのいいところを悪く言ってるだけ。変にかっこつけなくていいし」

 奈々は、気付かれないように、そっと深呼吸した。

「そういう緩いところが好きなのに」

 彼は小さく身じろぎした。沈黙が流れる。プラネタリウムの星は、音もなく静かに、ひどくゆっくり移動していく。

「僕は……友人とか恋人みたいな名前がない関係でいいんだ。だって、近づき過ぎたら、どうしたってお互いを傷付けちゃうんだよ。もしもナナリーと話せなくなったら寂しい。そんなの嫌なんだ」

 自分が知らないところで、彼はひとり傷付いて変わっていく。どうしようもなく抱きしめたいと思うのは間違いだろうか。

「そりゃ、前みたいに、誰かに泣かされてるナナリーを見るのは嫌だ。誰かと笑ってるのも遠くに行っちゃったような気がして、ちょっとだけ嫌だった。でも僕は、ホントはあんまり強くない君を守れるようなヤツじゃない」

「それでいいのに」

 泰樹の目がこちらを向いた。

「私は泰樹を独り占めしたかった。私が知らないあんたを全部知りたかった」

 好きな人と壁一枚を隔てて暮らしているのは、奇妙な感覚だ。生活サイクルがわかるから、何でも知っているような気になってしまうけれど、何を考えているかまで分かるはずがない。顔を合わせていても、私がドキドキしていることを彼は知らなかったのだから。

 天井や壁に映し出された星々の、回転する中心にある星は北極星だ。私にとっての泰樹は北極星だ。ずっと変わらずそこにあるのに遠くて、本当は何も知らない。そのことが寂しくて仕方ない。

「でも、変わらずにいられないもんね。泰樹だって泣き虫じゃなくなったから、もう私が守らなくてもいいし」

 そう言って奈々が背を向けて立ち上がろうとすると、泰樹に手首を掴まれた。どこにそんな力があるのかと思うくらい強く。

「ナナリーを泣かせる奴は絶対に許さない。だから、殴ってくれよ」

 奈々は、バレていたことに一瞬戸惑った。拳を握りしめたが、そこから先には動かせなかった。

「カッコつけてんじゃないわよ。殴って許せるわけない。バカ」

 彼の寝癖がちな髪は、指に引っかかった。闇の中で、奈々を見上げる色素の薄い瞳が瞬いた。

「でも、ずっと私と話したいんだ。好きって言われるよりもいいかも」

 涙が重力に逆らえず落ちた。顔を見られたくなくて両手で覆って泣いていると、泰樹はぽつりと言った。

「あと一日、考えさせてくれる?」


 翌朝、開口一番に泰樹が口にした言葉は、奈々の予想の斜め上をいくものだった。

「いいことを思いついたんだ。結婚しよう」

 彼の目は、まるで世界の真実を見つけてしまったかのように恐ろしく真剣だった。

「は……? 付き合ってもいないんだよ……?」

 それどころか、まだ成人してもいないし働いてもいない。

「あ、そ、そうだよな……だから婚約で。そしたら誰かに取られることもないし、ずっと一緒にいるって約束できるよ?」

 なぜこんなバカに惚れたのかと思うが、もう遅いのだった。今度は笑いで涙が出てきた。

「やっぱ変だよな」

 泰樹は頭を掻くと、ポケットからチョコレートの箱を取り出した。

「返事は何年か先でいいよ」

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