もう一花

ベラ氏

もう一花

「最近はマスクといっても随分いろいろ種類がありますから。これは今、家で手作りしているスポーツ向けのものです」

 そう言うと女はバッグから幾つか取り出し、テーブルの上に並べてみせた。透き通るように白い指が、家を出ることのなかったであろう長い歳月を思わせた。もう六十は越しているはずだが――。

「こんな詳しいとは思っていなかったでしょう? もう還暦ですから」

「いえ、そんなことは……」

「いいんです。今日は何でも聞いてください。せっかく訪ねてきて下さったんですから」

「そうですか、では……」

 私は気を取り直し、ICレコーダーのボタンを押した。

 半世紀は営業していると思しき鄙びた喫茶店は、そのインタビューにピッタリだった。私は子どもの頃に女の噂を初めて耳にした時からの疑問を次々にぶつけていった。

「すると、今はお母様と?」

「ええ、二人暮らしです。内職の他に父の遺してくれたアパートもありますから、生活には困っていません」

「そうでしたか……何か、不思議だな。私たちは子どもの頃、貴女が普段何をしているかなど考えてみたこともなかった」

「あの頃テレビにでも出ていたら、今頃はお屋敷の一つも建っていたかもしれませんね」

 女は上品に微笑んで見せた。マスクの上の目尻に、小皺が寄った。

 その時入り口のベルが派手に鳴り、男女交えた若者の一団が入ってきた。辺りをひと通り見回した後、若者たちは三つ程離れたボックス席に陣取った。

「なんか賑やかになりそうですね。席を替えてもらいましょうか?」

「いいえ、大丈夫です。でもこんな古い喫茶店にあんな若い人たちが来るんですね」

「昭和レトロ、流行ってるんですよ。こういうところでインスタ映えを狙ってるんです、まったく」

 女は私の言葉の端に漂う刺を感じ取ったようだった。

「あなた、お嫌いなの?」

「だって見てください、パンタロンにトンボ眼鏡、聖子ちゃんカットにリーゼントまで……あんな集団、昭和のどこにもいませんよ」

「いいじゃありませんか、楽しそうで」

 そういう女は自分もどこか楽しげだった。私は何故か違和感を覚え、苛立った。

「彼らはきっと貴女のことだって知りませんよ。あなたは僕らにとって、野口五郎や山口百恵以上の存在だったんだ」

「ほんの一時のことでしょう……あなたはきっと、まだお若いんです」

「若い? そんな、僕はもう五十ですよ」

「ええ、でも子どもの頃の思い出に拘って、意のままにならないと怒っていらっしゃる」

私は暫し押し黙ってしまった。

「お気に障ったらごめんなさいね。でも人間はどこかで、前を向いて生きていかなくてはいけないと思うんです。特にこんな世の中ですから」

 女は時計を気にする素振りを見せた。やはり、コーヒーには口を付けていなかった。若者たちはもう写真を撮るのに熱中していた。

「取材は終わりかしら? 私、そろそろ母に食事を作らなくてはいけなくて」

 私は必死に言葉を探していた。私たちの世代にとっては夢のような相手との対談だ。こういう形で終わらせるのは不本意だった。

「今思うと、あの頃の私は怒っていたんです」

「……怒る?」

「ええ、自分の運命を呪うばかりでね。でも、もう、あれから四十年も経ちましたから」

 そう言うと女は立ちあがった。

「私、今だったら別の気持ちでやれると思うんです。それはもちろん、みんなマスクを付けていたらやりづらいでしょうけど、今は配信もありますから……私なんかでも、もう一花咲かせられるんじゃないかと思って」

 私はふと、先程の違和感の正体に気づいた。

「あの,リーゼントの若者がそこにいますけど、ポマードが嫌いというのは?」

 女は微笑んだ。「そんなことありません」

「じゃあ、三のつく地名は?」

「いいえ。あの頃は、そういうものが苦手ということにしてありましたから。若いって、そういうことだと思うんです」

 こんな結末でいいのか。私は意を決した。

「あの、最後に……今でも,お綺麗です」

 フッと女の目元から、微笑みが消えた。

「これでもォ?」

 女はマスクに手をかけた。たまたま見ていたのか、若者たちが腰掛けたテーブルの方角から、男女の凄まじい悲鳴が上がった。

 私は微笑んだ。

 女の口は耳元まで、ザクロのように赤く裂けていた。 

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