自分ニダケ見エル誰カ

RAY

自分ニダケ見エル誰カ


「お母さん! こっちよ、こっち!」


 母の姿に気付いた私がソファから立ち上がって大きく手を振ると、少し間が空いて、母の顔に笑顔が浮かんだ。心の底から笑っていないようなは相変わらず。ただ、慣れてしまったせいか違和感は感じない。


 白い壁のところどころに切り花が飾られた、清潔感の漂う、明るい空間。

 社会的距離ソーシャルディスタンスが十二分に確保された、六組の応接セットがゆったりと並び、壁にはめ込まれた二台の大型ディスプレイには、空から撮影された、南極大陸の雄大な風景が映し出されている。微かに聞こえてくるのは、映像にマッチした、静かな環境音楽。

 身も心もリラックスできそうな、広々とした空間は一流ホテルのラウンジを彷彿させる。初めてここを訪れた人は、病院の面会スペースであることが信じられないだろう。


「元気だった? 少しせたんじゃない?」


「そう? 変わってないと思うけど」


 母は私の対面に静かに腰を下ろすと、小さく笑いながら問い掛けに答える。

 生気が感じられないのはいつものこと。月に一度、こうして面会をしているが、心なしか前回会ったときより弱々しくなった気がする。


「もうすぐ七十の大台なんだから気を付けてね。高齢者はコロナに掛かると重病になりやすいって言うから」


「わかった。気を付ける」


 母は今年で七十になるが、弱々しい風貌に加え、言葉少なにポツリポツリと話す様やゆっくりした動きから実際より十歳ほどけて見える。何年か前に父が病気で亡くなってから急激に老いた気がする。


 ただ、そのことを口にするのは禁句タブー

 本人が無意識のうちに自己暗示を掛けて老化が進行するようなことがあるらしい。いつだったか、主治医が言っているのを聞いた。


「コロナが大変なことになってる。どんなときもマスクはしないと駄目。それから密は避けないと」


 母が心配そうな眼差しで、小さな子供を諭すように言う。

 はっきり言って、三十を過ぎた女にするような話ではない。しかし、ここで下手に否定するのはよろしくない。これも主治医が話していたことだ。


「そうそう、コロナで思い出した。緊急事態宣言が発令された関係で、先週からすばるが通ってる小学校が休みになって、おうち時間……家にいる時間が長くなっちゃったの」


 私は話題を変えて一人息子のすばるのことを話し始めた。母の話をはぐらかしたことに少し罪悪感を覚えたが、彼女にとってもこれが得策だと思った。


 しかし、次の瞬間、私は言葉を失う。

 なぜなら、母から思いもよらない反応が返って来たから。


「すばる……? 誰のこと?」


 母は額にしわを寄せて怪訝けげんな表情を浮かべている。

 私はポカンと口を開けたまま、母の顔をまじまじと見つめた。表情を見る限り、洒落や冗談で言っているとは思えない。


「……お母さんったら何言ってるの!? しっかりしてよ! 私の息子でお母さんの孫のすばるだよ! サッカーとポケモンが大好きな小学四年生の男の子だよ!」


 少し間が空いて大きな声が出た。

 ハッと我に返って周りを見回すと、他の患者と家族が驚いた様子でこちらを見ている。


「皆さんの迷惑になりますから、大きな声は出さないようお願いします」


 背中越しに看護婦の声が聞こえた。言い方こそ丁寧ではあるものの、厳しい口調であるのがわかる。彼女の方に身体を向けて、目を合わせないようにペコリと頭を下げた。


「孫のすばるのことね。ちょっと思い違いをしていたわ。明美あけみちゃん、ごめんね」


 私の大声が合図であるかのように、母の口から謝罪の言葉が漏れる。


「私の方こそキツイ言い方をしてごめんなさい。つい興奮しちゃって……」


「それで? すばるがどうかした?」


 気まずそうな私をなだめるように、間髪を容れず、母は優しい笑みを浮かべる。気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いながら、私は努めて笑顔を作る。そして、途切れてしまった話を再開する。


「それがね、すばるったらおかしなことを言うの。独りでいるとき、いつも誰かがいっしょにいるらしいの。何でも、同じ年の女の子で、名前が私と同じアケミちゃんなんだって。ただ、どこの子か聞いても、どこから来たのか聞いても『わからない』の一点張り。『お母さんにも会わせてくれない』って言ったら『恥ずかしがるからダメ』とか言うの。ほら、よく小さい子が一人遊びで自分だけに見える友だちを創り出すことってあるでしょ? たぶんあのたぐいだと思うの。でも、それって、ある意味ストレスが溜まってる証拠だからすごく心配なの。はっきり話してくれないから、どうしていいかわからなくて……あっ、ごめんね。私の方から一方的にしゃべって。久しぶりに会ったのに訳の分からない話に付き合わせちゃったね」


 申し訳なさそうにする私に、母は柔和な表情を浮かべて首を横に振る。


「気にしなくていい。そんなのはよくあること。特別でも何でもない。そんなこと気にしてたら、コロナとは違う病気に掛かっちゃうから」


 母が朴訥ぼくとつとした口調で発した言葉が、何のわだかまりもなくスーッ胸に染み渡っていく。心が穏やかになっていくのを感じた。


「お母さん、ありがとう。何だか楽になったよ」


 年を取って弱々しくなって、言ってることもあやふやで、どこか危なっかしい存在ではあるが、母はやはり母だった。「いくつになっても私はお母さんの子供なんだ」。改めてそう思った。


 気持ちが落ち着いたせいか、ついつい饒舌になって、私はここ一ヶ月にあった話を思いつくままに話した。母は何も言わず、いつものぎこちない笑顔で聞いていた。


 月に一度の面会もかれこれ三年になる。正直なところ、無駄な時間を過ごしていると思ったこともある。でも、今はそうは思わない。実の母娘が顔を合わせて言葉を交わすことで、良い方向に向かっている気がする。


 壁の大型ディスプレイに目をやると、いつの間にか南極の氷の世界がアフリカのサバンナに変わり、夕日をバックにフラミンゴの群れが一斉に飛び立つシーンが映し出されていた。おそらく一時間以上経っている。


「お母さん、私、そろそろ行くね。すばるのことが心配だから」


「わかった。明美ちゃん、身体に気を付けて。またね」


 私たちが挨拶を交わすと、後ろにいた看護婦がやって来てペコリと頭を下げる。


「では、次回の面会日を確認させてもらいます。一ヶ月後の〇月〇日午後一時でいかがでしょうか?」


「はい、結構です。よろしくお願いします」


 が深々と頭を下げると、看護婦は笑顔で会釈をする。

 母はそのまま面会ルームを後にした。


「あの……すばるはどうしていますか? あの子、変なこと言っていませんでした? あの子にしか見えない友だちがいるらしくて」


 心配そうに尋ねる私に、看護婦が笑顔を向ける。

 それは、母と同じ、心の底から笑っていない、どこかぎこちないものだった。


「じゃあ、様子を見に行きましょう。明美さんのお部屋に」


 私は看護婦に連れられて面会室を後にした。

 扉の向こうには、薄暗い空間――切り花も環境音楽もない殺風景な空間が広がっている。長い廊下の突き当りに別棟があり、その一角が私の部屋。


「診察の時間までお部屋で待っていてください」


 看護婦に促されて部屋の中に入ると、背中越しにギギっという鉄の扉が閉まる音とガチャリという鍵がかかる音がした。


 鉄格子が組まれた、分厚いガラスを通して外を見ると、ちょうど母がタクシーに乗るところだった。


「すばる? お婆ちゃん、また一ヶ月後に来てくれるって。今度は、すばるも会ってみる?」


 私は、ベッドの端に座るすばるにおもむろに話し掛ける――が、何の反応もなかった。私のことなど眼中にないようだ。誰かと話すような仕草をしていることから、見えない友だちとの会話に夢中になっているのだろう。


「困ったわ……。でも、仕方ないか」


 一つため息をつくと、私は気持ちを切り替えるように首を大きく縦に振った。


「すばるは今日で終わりにしましょう。やっぱり男の子はダメね。今度は高校生の女の子がいいかな。年が近い方が話も合いそうだし」


 私が満面の笑みを浮かべた瞬間、すばるの姿は跡形もなく消えて無くなった。



 RAY

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