もし、明日死ぬとしたら
烏目浩輔
もし、明日死ぬとしたら
ノートパソコンを前にして、
「んー……」
木曜日の午後一時過ぎだった。本来なら高校で弁当を広げている時間だが、臨時休校中であるため自宅ですごしている。生徒のひとりに新型コロナウイルスの感染者が出たのは二日前だった。
感染した生徒はどこかの大きな病院で入院治療していると聞いた。その生徒の友達の何人かはPCR検査を受けて結果待っているとのことだ。暁人は学年もクラスも違ったため、濃厚接触者扱いにはならずに済んだ。おかげで自宅待機を二週間続けるだけでいいのだという。
感染の疑いがなかったのは素直によかったと思う。だが、自宅待機は思っていた以上に暇だった。課せられた宿題も終わってしまうと、いよいよやることがなくなった。
なにか暇つぶしになることは? ぼんやりとそんな思考をしていた暁人は、ふと一度アレを書いてみようかと思い立った。そして、ダイニングテーブルに腰をおろしてノートパソコンを開いた。そうやって今に至るのだった。
しかし、テキストエディタを立ちあげたものの、キーを打つ手はさっきから止まったままだ。
「んー……」
暁人は再び小さな唸り声をもらした。書くものがなにも思い浮かばない――。
家にいるのは暁人と五歳年上の姉だけだった。共働きの両親は朝から仕事に出ている。姉も事務の仕事に就く社会人なのだが、ここ最近は週の大半がリモートワークだ。言わずもがなではあるが、それも新型コロナウイルスの影響だ。
姉はリビングのソファーを陣取って仕事に勤しんでいた。ノートパソコンを膝に乗せてパチパチとキーを打っている。仕事で使い慣れているだけあって、その打鍵音は軽快で素早い。
「んー……」
暁人が頭を抱えてまた唸ったとき、姉がガバッとこちらを振り返った。苛立った声で訴えかけてくる。
「さっきから、んーんー、うるさいねん。仕事に集中できへんやろ」
リビングとキッチンには敷居がないため、暁人の声は筒抜け状態で姉まで届く。
姉は「そもそも」と小言を続けた。
「なんでそこでパソコン使ってるん? 自分の部屋にいきいや」
「それは姉ちゃんも一緒やろ。自分の部屋で仕事したらいいやん」
「リモートでしょっちゅう家にいるとな、自分の部屋は気分的に息苦しく感じるねん」
その気持ちはわからなくもない。姉の部屋も暁人の部屋も五畳でせせこましい。ここにいたほうが開放感がある。しかし――。
「息苦しいのは俺も一緒やんか。自分の部屋にいるのしんどいねん」
「あんたは学生やろ。社会人をなめんといて。ていうか、んーんー、唸ってなにしてんのよ」
暁人は言うか言わないか悩んで、結局言うことにした。別に隠すことでもないだろう。
「遺書を書いてる」
すると、姉は眉間に深い皺を刻んで、蔑むような目で暁人を見た。その表情に
「あんた、自殺でもする気なん?」
「今のところその予定はない。生きているうちに遺書を書く人っているやん。暇やから俺もそれを真似してみようかと思って」
「また変なことを……」
姉は呆れた顔をする。
「そういうのは、四十代とか五十代の人がするもんやろ? せめて社会人になってからとちゃうの。高校生で遺書を書くなんて、わりとしっかりキモいわ。そんなんやから、彼女ができへんねん」
いろいろ反論したいところだが、「うるさいなあ」とだけ言っておいた。どうせ姉と口喧嘩をしても勝てない。だからといって、腕力に頼るのも違う気がする。結局暁人は口も手もだせないまま、今日も負けを認めざるを得ないのだった。
姉は雑談をやめて仕事に集中した。一方の暁人は遺書に集中した。しかし、軽快にキーを打つ姉と違って、暁人の手は相変わらず止まっていた。
そこそこの時間が経った頃だ。姉が突然立ちあがってキッチンのほうに向かった。
「コーヒー淹れるけど、あんたも飲む?」
暁人は壁にかかっている時計を見た。午後三時ちょうどだった。姉は必ず三時に休憩をとる。暁人も一緒に休憩することにした。
「アイスのカフェオレがいい」
「カフェオレか……私もそうしよ」
しばらくして、ふたつのマグカップを手にした姉が、ダイニングテーブルのところにやってきた。暁人の対面に腰をおろして、マグカップをひとつ差しだしてくる。氷がカランと澄んだ音を響かせる。
「はい、どうぞ。私が淹れてんから、ありがたく飲みや」
「ありがたやー」
そう言いながらカフェオレに口をつける。ミルクの優しさと砂糖の甘さで、ホッとした気分になった。
姉もカフェオレに口をつけ、それからこう尋ねてきた。
「で、キモい遺書は書けたん?」
暁人は首を横に振った。
「アカン。全然書かれへん……」
「全然ってどのくらいよ」
「一文字も書けてへん……」
一時頃から今までノートパソコンと向き合ったのだが、文字を打っては消しの繰り返しで、テキストエディタは未だに真っ白のままだった。
「でしょうね……生きてるうちの遺書って、財産分与とかを書くもんやろ。あんたに財産なんかあれへんやんか。そら、遺書なんて書かれへんわ。アホなん?」
「アホって言うな。というか遺書は別に財産分与とかだけと違う。ほかにも書くことがあるねん」
「なにを書くんよ?」
「それはやなあ……」
暁人は答えられなかった。今さらになって気づく。なにを書けばいいのだろうか。
「わからんのかい」
姉はそう突っ込んだあと、「そうや」とひらめいた顔をした。
「明日死ぬと思ってなにか書いたらええんちゃう?」
「明日死ぬ?」
「そう。明日死ぬと考えてみ。そしたらなにかしたいこととか、心残り的なことがあるやろ? そういうのを書くと遺書になるんちゃうの。知らんけど」
暁人は首を傾げた。
「そういうのが遺書なん?」
「だから、知らん言うてるやん」
「それは遺書とは違う気がするで?」
「だから、知らんて」
それが遺書にあたるかは判然としないものの、明日死ぬのだと考えてみると、確かにいろいろ書ける気がした。マグカップを置いてノートパソコンに向き直る。さっきまでとは打って変わって、すらすらと遺書の作成が進んだ。
「できた! 遺書かどうかはわからへんけど、とりあえずなにかしらができた!」
暁人が嬉々とした声をあげると、姉が「ほら」とドヤ顔をした。
「私の言ったとおりやん。すぐに書けたやろ?」
「確かに姉ちゃんのおかげや。
姉の目がギロッと反応する。
「今、
姉は物騒なことを言ったあと、暁人のノートパソコンに手を伸ばした。
「書いたの見せてみ」
あまり見られたくなかったが、絶対に拒否したいほどでもない。暁人は素直にノートパソコンを明け渡した。
姉はノートパソコンを自分の手前まで持っていくと、暁人がテキストエディタに書いた遺書を読みあげた。
「N店のショートケーキが食べたい。K店の
一呼吸の間があってこう続いた。
「N店のショートケーキはうまいし、K店の粒餡どら焼きもうまいで。でも、死ぬ前の願望がこれって、あんたの人生つまんないな。それに箇条書きって……内容も書き方も小学生やん」
さらに姉は続けた。
「
「樋口と足立は友達やな。一番仲のいい友達」
「ふーん……じゃあ、三井って子は? 友達じゃないの?」
「三井は彼女」
姉は「え?」と目を丸くした。
「あんた、彼女いるん?」
「一応はいる」
「いや、そんなん聞いてへんけど」
「うん、言うてへんからな」
なんで言わへんの? その口は飾りなん? おバカさんなの? 暁人にさんざん文句を言ったあと、姉はふいに動きを止めた。ノートパソコンの画面を見たまま固まっている。たぶん、遺書の最後の部分に気づいたからだ。
しばらく沈黙が続き、姉はまた話をはじめた。しかし、遺書の最後には触れようとせず、妙に真面目なことを口にした。
「これ、明日死ぬってことで書いたんやんな? だとしたら、ショートケーキやどら焼きはあれとしても、名前が出てきた子たちはあんたの大切な人なんやろな。これからも仲良くしときや」
確かに大切なやつらだ。そこにいるのが当たり前すぎて、大切さがわかりにくくなっているが、遺書を書くと改めて大切だと気づく。遺書はそういったことを整理するのにもいいらしい。
「それとな……」
ここで姉は、遺書の最後の部分に遠まわしな言い方で触れた。
「私に言いたいことがあるんやったら、今ここで言うてくれても全然ええよ。ちゃんと聞いたるで」
「今は照れくさくて言われへんな。でも、家を出ていくまでにはちゃんと言う。……ていうか、それ読んだんやから、言うたことにならん?」
「ならん」
姉はニッと笑ってこう言った。
「ちゃんと口にだして言うて」
「ならんか。じゃあ、一ヶ月後までにはちゃんと言うようにする」
「うん、楽しみにしてる」
残りのカフェオレをグイッと飲みほした姉は、マグカップをキッチンで洗って仕事に戻った。
自宅待機の措置で今は強制的に家にいる。だが、自宅待機が解除されたあとも、暁人はなるべく家にいるつもりだった。学校をさぼってまではそうできないが、ここしばらくはできる限り家ですごしたい。今後は家族が揃う時間も貴重になってくるだろうから。
結婚が決まった姉は一ヶ月後に家を出ていく。お相手は職場の先輩らしく、姉よりふたつ年上だと聞いた。一度だけ写真を見せてもらったことがあるのだが、優しそうな目をしたなかなかのイケメンだった。仕事も相当できるという話だから、きっと姉はいい人を射止めたのだろう。
暁人は姉が奪ったノートパソコンを自分のもとに引き寄せた。テキストエディタに打ちこんだ遺書が画面に映しだされている。その最後に明記してあるのは暁人の意思表示だ。照れくさくてまだ言えていないあの言葉を、ちゃんと伝えなければならないという意思表示――。
姉ちゃんに結婚おめでとうって言う。
もし、明日死ぬとしたら 烏目浩輔 @WATERES
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