最終話
3月4日。
約11年前、俺が彼に死を宣告された、約束の日。
この日のために、俺は1週間前から色々と準備をしてきた。
先ず両親に、高校で支給された奨学金の残りを全て渡して、夫婦2人だけで旅行に行って貰った。
斎藤さんへの支払い以外は全く手を付けなかったから、まだ90万円近くあり、母はとても喜んで、金沢と京都で美味しい物を食べたいと言って、仕事を休み、父を連れて行ってくれた。
あと3日は他に誰もいない家の中で、俺は少ない私物の整理をし、最後の日記を付け終える。
やり直し以前、看護師の仕事で難病患者の自殺現場に遭遇した母が、その死体の状態に関して話していたのを覚えていたので、第一発見者になるであろう西本に、俺の見苦しい姿を晒したくはなくて、
今日の夕方以降に、西本がこの家に来る。
もし寝ていたら起こしてくれと、家の合鍵も渡してある。
彼が俺の感想とやらを聴きに、脳内に話しかけてくるまで、斎藤さんに作って貰った曲を何度も聴こうとして、世に出たばかりのウ○ークマンに手を伸ばす。
ちょうどその時、当の彼が話しかけてきた。
『久し振りだな』
「・・お久し振りです」
『どうだった、やり直した残りの人生は?』
「お陰様で、満足のいく、素晴らしいものになりました。
心から感謝致します」
『随分と口調が変わったな。
どうやら心のゆとりが良い面へと流れたようだ』
「あの時の私は、何の希望もなく、心が荒んでおりました。
今考えると、お恥ずかしい限りです」
『もう悔いはないのか?』
「全くないと言えば噓になりますが、自分なりに、この11年弱を精一杯生きましたので・・」
『1つ尋ねたいが、お前が彼女に手を出さなかった理由は何だ?』
「それは私がディープな純愛主義者だからですよ」
『ほう?』
「やり直させていただく前は、小説でもアニメでも、ゲームでさえ、私は純愛ものしか手に取りませんでした。
たとえ主人公が何人ヒロイン候補と
そんな自分勝手な内容のものを好んでいました。
既に男性経験があるという設定のヒロインは、
だから、どんなに苦しくても、彼女には手を出さなかった。
数年で死にゆく定めにある自分が、これから長い人生を歩む彼女の
彼女に新しい恋が
こんな自分に、有り得ないくらいの幸せを与えてくれた彼女に、私がしてあげられる事は、これくらいしかなかったから」
『成程。
相手がそれをどう思うかは別として、そういう考え方、自分は嫌いではない』
「神様にそう言っていただけると、救われますね」
『(自分が神だと)分るのか?』
「それは勿論。
時を
『ならば自分(声の主)に、新たな願い事の1つでもあるのではないか?』
「叶うことなら、彼女を幸せにしてあげてください。
これからの彼女の道のりに、どうか笑顔と素敵な出来事が溢れますように。
重い病に
今の私の、心からの願いです」
『良いだろう。
その願い、叶えてやろう』
「ありがとうございます!
・・ああ、これで、もう何も思い残す事はない。
安心して眠れる。
こんなに心が豊かになるなんて、以前なら信じられなかった」
『・・あと5分程で時間になる。
中々有意義な時間であったぞ』
彼の声が、そこで途切れる。
俺は
緩やかで静かなメロディーと共に、斎藤さんの歌声が耳に流れてくる。
それを聴く俺の頭の中に、西本との沢山の思い出が
『透君・・・』
彼女に出会った頃は、まだあどけない少女でしかなかったが、その幼くもかわいらしい姿に心を奪われた。
瞳に力があって、澄んだ眼差しを向けられると、言葉に詰まる事が多かった。
豊かな家庭で、親族から過保護気味に育てられたのに、ちゃんと他人の心の痛みが分る
中学に入る頃には益々かわいらしく、美しくなって、その隣を歩ける事が誇らしかった。
毎日毎日、考えない日がないくらい、ずっと彼女を想っていた。
『透・・・』
初めての男女交際は、驚きの連続だった。
友人や幼馴染とはまた違う、高揚感と焦燥感。
握り合う掌に加わる力加減の変化や、互いを抱き締め合う、腕に籠る気遣い。
彼女の髪をそっと撫でるのが好きで、彼女に背後から
組まれた腕に当たる彼女の胸に心乱され、真剣に問題を解く姿に目が放せず、肩に載せられたその頭に、必死にバランスを崩さぬよう緊張する。
一瞬でも、一枚でも多く、彼女の記憶に留めて貰えるよう、血の滲む手で振り続けたバット。
走り込みで倒れても、筋トレでもう限界だと感じても、やり直し以前の己の姿を脳裏に浮かべ、もう一歩、もう1回と、歯を食いしばりながら頑張った。
先のない自分が、未来を描けない俺が、彼女の彼氏面をしないよう、その言動には極力気を配った。
自分と親しくする事を、彼女が少しでも誇れるよう、非難されないよう、励み続けた11年だった。
閉じた目の端から、絶え間なく流れ落ちる涙。
俺は幸せだった。
こんなにも愛し、愛されていた。
ありがとう。
西本、本当に・・ありがとう。
「透、寝てるの?」
玄関のチャイムを鳴らしても、何の応答もない。
仕方ないので、預かっていた合鍵で、勝手に家の中にお邪魔する。
彼のご両親はご旅行の最中だと聞かされていたので、遠慮なく2階の彼の部屋へと足を運ぶ。
「何よ、机で居眠りしてるの?
渡したい物って何なの?」
力が抜けたような姿で、だらしなく
ふと、机の上にある、日記帳らしき物に目が留まる。
そう言えば以前、高校を卒業したら見せてくれるって言ってたっけ。
私が来るって知っていて、ページを開いたままにしているのだから、ちょっとくらい見ても良いよね。
そっと手を伸ばし、そのページを読み始める。
『 3月4日
どんな言葉で、どんな顔をして、君にこの事実を告げたら良いか分らない。
だから少し
今の僕は、いい歳をした爺さんが、神様のお陰で人生の一部をやり直した姿なんだ。
ろくな努力もせず、君に想いも伝えずに、底辺のような暮らしを余儀なくさせられていた僕に、その愚痴や負け惜しみを聞き飽きたであろう神様が、特別にやり直しの機会を与えてくれたんだ。
君がここに引っ越してくる8歳から、僕はその人生をやり直した。
今度こそ君の隣に立つため、君に相応しい男になるために、僕はその日から必死に努力し始めた。
勉強ができたのは、人の2倍は同じ事をしていたから。
元々運動神経は良かったけれど、甲子園での活躍だって、短くしか生きられないと予め分っていたからこそ、あそこまで努力できて、それが運良く結果に繋がったというだけなんだ。
幻滅させちゃったかな。
神様に与えられた
そして今日がその最終日なんだ。
君に渡したかった物は、この日記帳と、ウ○ークマンの中に入っているカセットテープ。
僕が詞を書き、学院のクラスメイトに曲を依頼した、君の為の歌だよ。
ある日突然、理不尽に取り残された君の心を、僅かでも癒して欲しくてこれを残す。
それなら仕方ないけど、できれば捨てずに、押し入れの奥にでも終っておいてくれないかな?
時が過ぎ、君の気持ちが落ち着いた頃、一度で良いから聞いてみて欲しい。
今更何を言っても信じて貰えないかもしれないけれど、僕が君を愛していたのは本当なんだ。
心の底から、全身全霊で以て、君のことを愛していた。
今までありがとう。
こんな僕に、幸せな時間を与えてくれてありがとう。
君の貴重な人生の一部に係われた事を深く感謝して、ここでペンを置きます。
君が今後も、笑顔で過ごせる事を祈りながら・・』
「・・・」
途中から、読むのが怖くなった。
彼の方を振り向くのが怖くて仕方がない。
日記を持つ手が、今もぶるぶる震えている。
ギギギと音がしそうなほど、無理やり首を動かして、彼の顔をよく見る。
「透、起きて。
お願いだから返事をして。
ドッキリというやつなんでしょう?
今ならまだ、許してあげるから・・」
彼が動かない。
耳を澄ませても、呼吸音が聞こえない。
ドサッ。
私の手から、分厚い日記帳が床へと落ちる。
「・・透。
透!!」
腰が抜けたように、その場に座り込む。
「あ・・・ああっ。
ああああ!!!」
放心して何も考えられない私の目から、細い涙がゆっくりと流れ落ちてゆく。
思考が停止した私の頭に、勝手に浮かび、流れていく光景。
子供のくせに、妙に達観した横顔。
でも何時しかそれが、頼もしさに変わる。
良く言えば思慮深い、悪く言うなら遠慮が過ぎる、彼の私への態度。
その目が語っている彼の気持ちと、その口から紡がれる言葉が示す内容が、大分違う。
何をそんなに気にしているの?
どうしてそこまで私に臆病になるの?
もっと近寄って良いんだよ?
もっと沢山触れて欲しいの。
・・ああ、やっと、到頭口に出してくれた。
私を好きだと言ってくれた。
これからの私達は恋人同士。
まだ秘密や我慢が多いのが不満だけど、それもその内どうにかしてみせる。
甲子園での彼、カッコ良過ぎる。
ビデオに写真にスクラップブック、あと何を残そう。
大人になったら、今の貸金庫には、貴金属より絶対こちらを入れるんだから。
お母さんは、私が高3になってからずっと、私達2人が大学で一緒に暮らす部屋を探していた。
『どうせなら、家ごと買う?』と言われたけれど、掃除が面倒だから、マンションにして貰った。
『子供ができたら、また買い直せば良いしね』
そう言われた時は、『はは、何時の事やら』と、彼の奥手を嘆いた。
女子高で、何度も渡されそうになった彼への手紙を、必死に断り続けていたのは内緒にしている。
恋人として付き合い出してからも、『ラブレターじゃなくて、ファンレターだから』とお願いしてくる人達には辟易した。
勿論、帰りの電車の中で、私自身に差し出してくる手紙を無下にしていた事も秘密だ。
余計な心配を掛けたくないからね。
お陰で、1人の時は、わざわざ人の多い車両に乗る癖が付いてしまった。
彼の笑顔、彼の言葉、彼の匂い、彼の体温。
私の好きなものが、どんどん脳内から溢れて来る。
それからどれくらいの時間が経ったであろう。
窓から見える空に、ほんのりと赤みが差し始めた頃、私は未だ呆然としたまま、何とか立ち上がって、彼の机の引き出しを開ける。
意外と古風で、渋い趣味を持つ彼は、手紙などの書類を開ける際、必ずペーパーナイフを使っていたから。
小振りだが、品の良いそのナイフを摑み、そっとその鞘を取り除く。
そしてナイフの切っ先を、ゆっくりと己の首へと向ける。
「透、待っててね。
今私も、あなたの側に行くからね?
言ったでしょう?
もうあなたは、私から
たとえそれが、死んだ後であってもね」
そこでふとある事を思い付いて、一旦刃を降ろす。
「散々焦らしたんだから、ファーストキスくらい頂戴ね」
彼の
「・・ご馳走様。
じゃあ、あの世でまた会いましょう」
勢いよくナイフを首に刺そうとした腕の動きが、見えない力によって強引に止められる。
「え?」
「こらこら、一体何をしようとしていたんだ?」
「誰!?」
声がした方に視線を向けると、部屋の入り口付近に、知らない少年が立っている。
全身黒ずくめの、スーツ姿の少年が、呆れたような顔をしてこちらを見ていた。
「あなた誰よ!?
何時の間に入り込んだの!?」
身構えるように、手にしているナイフをその少年へと向ける。
「彼の日記を読んだのなら、自分が誰だか想像がつくだろう?」
「・・神様とでも言う訳?」
「否定できないな」
「・・それで、その神様とやらが、どうして私のする事を止めるの?」
「それが彼の意思だからだ。
彼は自分への最後の願いとして、君を幸せにして欲しいと頼んできた。
そしてそれを、自分は了承したのだ」
「私を幸せにするですって!?
ふざけないで!
散々透を
「弄ぶ?」
「だってそうでしょう!?
希望を与え、手を差し伸べておいて、これからって時に突き落とす。
それを他に何て言葉で言い表すのよ!?」
「この日に死ぬことを選んだのは、彼自身だが」
「11年しか時間を与えなかったからじゃない」
「それが彼の寿命だったからな」
「随分けちなのね。
今時の神様は、赤ん坊からやり直させるのが主流じゃないの?」
「何故それを知っている?
その設定は、まだこの時代には生まれていないはず・・」
「何時だったか、透が教えてくれたのよ。
『これからは、きっとこういう内容の本が増えるよ』って。
子供の頃は、その時間の貴重さに、多くの人が気付かない。
だから大人になって、今の自分を振り返った時、後悔する人が多いんだとね」
「・・・」
「分ったら邪魔しないで。
直ぐにでも透に会いに行きたいんだから」
「それは無理だな」
「何でよ!?
自殺したら、地獄に落ちるとでも言いたいの?」
「自分の話を聴いていなかったのか?
自分は、『君を幸せにする』と言ったのだぞ?
君にとっての、最高の状態とは一体どういうものだ?」
「そんなの決まってる。
透が私の側にいること・・ってまさか?」
「そうだ。
君達2人には、もう一度だけやり直す機会を与える。
それも、今回は11年と言わず、8歳から其々の寿命が尽きるまでだ。
ただ、彼はまた二度目のつもりで生き始める。
君が知らせない限り、彼はまた11年弱で死ぬものと思って努力をし始める。
どの段階で彼にこの話を告げるかは、君の判断に任せよう。
再び甲子園での彼を見たいというのなら、その試合が終わるまでは黙っているのもありだ」
「
「いきなり口調が変わったな」
「尊敬できる神様には、きちんと敬語を使いませんと。
やり直したら、毎年透とお参りに行きますね。
お寺と神社のどちらが宜しいですか?」
「好きにしろ。
補足しておくが、彼の寿命は必ずしも79という訳ではない。
この数字は、前回の不健康な状態でのものだ。
だから当然、もっと長生きする可能性だってある」
「ではそれまでは、2人とも大病に罹ったり、事故には遭わないんですか?」
「君を幸せにすると、彼に約束したからな。
君達2人は、自然死するまで自分が守護してやるよ」
「
お賽銭、毎年弾みますから」
「最後に、自分は『けち』だそうだから、この日記は没収な。
ここに書かれた内容に囚われず、また2人でゆっくりと関係を築いてゆくが良い」
「うう、意外と根に持つタイプですか?
まだ最後のページしか読んでいないのに・・。
・・あの、最後に1つだけお聴きしても宜しいですか?」
「何をだ?」
「透がどうして私に手を出さなかったのか、ご存知ですか?」
「・・純愛主義者の
因みに、彼と
変にプライドをこじらせて、誰とも付き合わず、親の残した莫大な遺産を食い潰していた。
まあ、君の母親の、
「お母さん・・」
「では、そろそろ失礼する。
2人で楽しく暮らせよ?」
そのお言葉とともに、私の意識は一旦失われた。
ピンポーン。
「はあい」
「突然失礼致します。
私達、今度隣に引っ越してきた、西本と申します。
この子は一人娘の若菜」
「まあ、それはご丁寧に。
透、お隣さんがご挨拶に見えたわよ?」
その母の声で、俺は待ちに待った瞬間を迎える。
玄関まで出向き、丁寧に挨拶する。
「初めまして。
久住透と申します。
小学2年生です。
どうぞ宜しくお願い致します」
そう言って頭を下げる。
「随分丁寧に挨拶できるのね。
ほら若菜、あなたと同い年よ。
あなたもご挨拶なさい」
心なしか、そう言われた彼女が、じっと俺を見てる気がする。
「初めまして、透君。
また宜しくね!」
その顔が、笑顔で輝いている。
『ん?
また?』
失った時の重さを嘆いて 下手の横好き @Hetanoyokozuki
★で称える
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