第20話

 「・・何この詞。

こんな物を、一介いっかいの高校生が最初に書けるものなの?

これは曲次第で大化けするかも。

私の持ち歌にしたいな。

・・完成したら、彼にお願いしてみよう」



 「久住、悪いけどこれにサイン入れてくれねえか?」


矢島が真新しい硬球を持って来て、俺にそう頼んでくる。


「そういうのは全部お断りしてるんだけどな?

僕は芸能人でもプロでもないんだから」


「それは分ってるが、今回だけは特別に頼むよ。

俺の彼女が、どうしても誕生日プレゼントにお前のサインボールが欲しいって言うんだ。

お願いだよ」


今年の春の甲子園で、俺達は到頭とうとう優勝を果たした。


俺も遂に甲子園のマウンドを経験し、準決勝と決勝の2試合でリリーフして、計4回を0点に抑えた。


監督の指示で密かに練習していたチェンジアップとフォークボールが何とか様になって、150kmを超えるストレートの威力をかなり増した。


タイミングが合わない打者から、かなりの三振の山を築いたのだ。


「・・決勝戦でホームランを打ってくれた礼だからな?」


あの大会でも5本のホームランを打った俺は、決勝ではほとんど勝負して貰えなかったが、最後に歩かされた俺を生還させてくれたのは、5番の彼が放ったホームランだった。


「おお、サンキュ」


「僕の名前と今日の日付だけでい?」


「『○○さんへ』と、彼女の名前も入れてくれ」


「え!?

もしかして、2年の女子マネの?」


「ああ」


何時いつの間に・・」


「お前の自主練に付き合って、ヘロヘロになってた俺に、以前から優しくしてくれてたんだ」


「そうか。

・・大事にしろよ?」


「勿論だ」


サインを入れたボールを矢島に渡しながら、未来の有る彼らが、少し羨ましかった。



 夜中の3時過ぎ。


不安と恐怖にあらがえない日の夜は、ベッドを抜け出して、外でひたすらバットを振る。


3年生になり、俺が過ごせる時間があと1年を切った。


これまでの努力の甲斐あって、やり直し以前の俺とは比べものにならないほど、大事なものが増えた。


向けられる好意的な視線の数々、背負しょって立つ責任の重みに、自分を奮い立たせながら、懸命に生きている。


まだ死にたくない。


もっと西本と生きていきたい。


死へのカウントダウンが始まると、俺の中でそういった未練の声が徐々に大きくなる。


その度に、今の俺があるのは、『あの約束』のお陰なんだと無理やり自分を納得させる。


残りの11年を、何の希望もなく惨めに過ごさねばならなかったはずの俺に、あいつはチャンスをくれた。


いや、今となっては『あいつ』なんて呼べないな。


せめて『彼』と呼ぼう。


彼のお陰で、前回後悔していた事を全て失くせ、隣に西本が居るという、幸せな環境に身を置けている。


同じ死ぬにしても、その死に方には大きな差がある。


日々のスキンケアを欠かさなくても最早硬さの取れないてのひらに、新たな肉刺まめができそうな頃、やっと落ち着いてバットを置く。


新聞配達のおじさんから直に朝刊を受け取ると、少しでも休むために、またベッドへと戻る俺だった。



 「少し休憩しよう」


日曜日の定番である、家庭教師の時間。


最後の甲子園に向けての予選が既に始まっており、次からはまた、9月になるまでお休みになる。


「珈琲とケーキを持って来るね」


西本がそう言って、一旦部屋から出て行く。


その間、俺は気分を落ち着けるために、窓から外を眺めていた。


今日の西本は、かなり薄着だ。


いつもはタンクトップでも下にきちんとブラを付けているが、今日はノーブラだし、下もかなり短めのショートパンツを穿いている。


俺は家庭教師をしている間は、西本の横にずっと立ったまま教えているので、視線を彼女に向けると、否応いやおう無しにその胸の深い谷間が目に入る。


彼女の胸はとても大きいので、純情な俺にはかなりのダメージになるが、決してそれを表に出さないよう、必死に平静を装う。


死が間近に迫ってきた事に関係があるのかどうかは分らないが、最近、性欲が高まってきた気がする。


練習で身体を酷使して、何とか気を紛らわせているが、油断すると直ぐ、無防備な西本の身体に目が行ってしまう。


無意識に、そこに逃げ込みたいのかもしれない。


彼女に優しく包まれる事で、少しでも安心したいのかもしれない。


早紀さん達は、今日は東京に出かけていて、夜まで帰って来ない。


長い闘いになりそうだと気を引き締めた頃、西本が戻って来る。


「お待たせ。

御免、そこのテーブルにある、ティッシュの箱をどけてくれる?」


「気が利かなくて済まん」


外を見ていて片付けを怠っていた俺が、急いでそうすると、両手にトレーを持っていた彼女が、身を屈めてそこに2つのトレーを置く。


「・・・」


また視線が固定されそうになり、慌てて他へと移す。


「気になるの?」


無言で珈琲を飲んでいたら、西本が明後日あさっての方を見ながら、ポツリとそう口にする。


「・・何が?」


「別にあなたなら良いよ?

我慢する理由なんて、あの口約束だけなんだし・・」


「・・・」


「あまり我慢させ過ぎて、他の女性で発散されたら嫌だし」


「そんな事はしないよ」


「何でそんなに我慢するの?

私、もう十分に大人だよ?

心の準備だって、しっかりとできてるんだよ?」


「・・・」


「私、そんなに魅力ないかな?」


相変わらず明後日の方を見ながら、僅かに赤い顔をした西本が、小さな声で誘ってくる。


「魅力があり過ぎるから困ってるんだよ。

僕の不躾な視線で気を遣わせて御免ね。

偉そうな事を散々言っておきながら、上手く欲望をコントロールできない自分が恥ずかしいよ」


情けなくて、思わず苦笑いする。


「ちゃんと着ければいんじゃないかな?

私、持ってるよ?」


「!!!」


「この間京都に行った時、念のために買っておいたの。

何時あなたがその気になっても良いようにね。

・・机の、鍵がかかる引き出しに入れてあるよ?」


「ストップ!」


俺は両手を前に突き出し、ここでその会話は終わりとばかりに意思表示をする。


「意気地なし。

女の私がここまで言っているのに・・」


こちらを向いて、恨みがましいジトッとした視線で俺を見る。


「前にも言ったと思うけど、一度始めたら、それ以降も切りが無くなるから。

今は勉強がとても大事な時期なんだ。

2人揃って合格するまで、取っておこうよ?」


「でもさ、あなたは勿論、私も既に合格圏に入っているじゃない?

最低限、何かでこの気持ちを発散させた方が、勉強だってはかどると思うけど」


「・・じゃあさ、会った時は1日1回、思い切り抱き締め合おう。

お互いに思いを込めて、力一杯抱き締め合おう。

満足いくまで、心ゆくまで。

それでどうかな?」


「・・仕方ないわね。

あと数か月だし、それで納得してあげる。

でもさ、平日の朝の登校時は何処でそうするの?

周囲の人に見せつける?」


「この夏が終われば、僕は部活を引退する。

そうなれば、帰りも君と一緒に帰れるから・・」


「今回であなたの野球姿も暫く見納めかー。

ありがとうね。

凄くカッコ良いし、見ていると、ときめきが止まらないの」


雑念の取り除かれた、眩しい笑顔でそう言ってくれる。


「あ、でも誤解しないでよ?

私、別に性欲が強い訳ではないからね?

あなただからだよ?

あなただから、抑えが利かなくなるし、そうしたいと思うんだよ?」


「分ってる」


「それと、もう私から逃げられないからね?

お父さん達が今日東京に行ったのは、お中元の品選びと、おじいちゃんに用があったから。

お母さんが、あなたを私の婚約者として、おじいちゃんに正式に報告するって言ってた。

大学生になったら同じ部屋で暮らせるように、今の内に形だけは整えておくんだってさ」


「・・・」


「良いよね?」


「・・ああ。

さて、そろそろ勉強を再開しよう」


「え、ちょっと待って。

まだケーキを食べ終えてない」


申し訳なくて、まともに彼女の顔を見れなかった。



 結論から言うと、夏の甲子園は最高の成績で幕を閉じた。


優勝。


春夏連覇という、春まで優勝すら経験していなかったうちの野球部が、今年を完全に制したのだ。


俺は6本のホームランを放ち、俺が打ち立てた、甲子園における個人での総本塁打記録は、今後決して破られる事はないとさえ言われている。


学院のある市内での優勝パレードには、物凄く多くの観客が訪れ、市長にまで表敬訪問させられて(彼は理事長の派閥にいるらしい)、来年度の入学パンフレットの郵送希望が過去の倍にまで達したこと(表紙の俺の写真目当ての、遠方に住むファンからも多かったそうだ)に笑いが止まらない理事長が、甲子園出場で集めた多額の寄付金を基に、新たなトレーニングルームを建てると申し出てくれた。


暫くはお祭り騒ぎだった地元を離れ、俺と西本家の面々は、9月の連休には北海道に、11月の連休には箱根の温泉へと旅行に行き(またしてもご招待)、クリスマスは俺一人だけ東京に連れて行かれて、西本の祖父母に紹介された。


そこで初めて知ったのだが、彼女の祖父は、日本人なら誰もが知っている、超一流企業の社長であった。


幸い、それほど気難しいかたではなく、西本に対しては寧ろ甘々であった。


『大学卒業後、プロ野球に進んでも良いから、引退後は我が社の経営陣に加われ』と、有難いお言葉を頂く。


どうやら、俺の学業成績や、早紀さんと2人で時々話していた、今後の経済の展望などの所見を、彼女からじかに聴かされているらしかった。


その場は、作り笑いと曖昧な返事で遣り過ごし、明確な言葉を避ける。


もう直ぐ死にゆく者が、大勢の従業員を抱える企業の将来に、無責任に関わってはいけないから。



 作曲を頼んでいた斎藤さんから、『完成した』との報告を受けたのは、12月30日の年末であった。


わざわざ家に電話をくれ、ぎりぎりまでかかった事を詫びられた後、年明け最初の登校日に、楽譜と、歌を録音したカセットテープを渡すと告げられる。


何度も何度も手を加え直し、様々な楽器を想定して曲を作り始めたけれど、結局はピアノの伴奏だけの曲にしたそうだ。


あの詞が持つ静かな雰囲気を大切にするためには、その方が良いと最終的に判断したという。


本来なら、依頼者である俺に一度聴かせて、必要なら修正を施すのが筋だが、彼女にはもうこれ以上のものは作れないそうだ。


それくらい、『自信がある』と言っていた。


また、今回完成した歌を、彼女の持ち歌にしたいとの提案を受ける。


作詞者欄に俺の名を明記し、将来商業化されれば、印税の4割を支払うという。


その彼女のお願いに、俺は作詞者名の表記だけで了承した。


俺にとって大切なのは、西本の為に、彼女の心を癒すことのできる歌を残しておくことだけ。


それ以外の権利や利益は、最早必要ないものだから。



 最後の正月を、西本と2人で初詣に行く以外は、家で両親と過ごす。


大好物である、母の作った雑煮を何杯もおかわりしながら、降りしきる雪を見て心を落ち着ける。


共通一次試験の足切りを、西本と2人で難なく突破し、私学の受験を終える。


学院の有名大学合格実績を水増しするために、受験料と滞在費などは全て学院持ちで、何校も何学部も受けさせられた。


2月の末には、その全てに合格したという通知が届き、本命である東大文Ⅰの2次試験も、会心の出来だった。


西本も、『数学で苦戦したけど、あとは大丈夫』と笑っていた。


そして到頭、あの彼との約束の日が来る。


それが何時いつ訪れるのか、その正確な時間までは分らないので、俺はその日、朝から1人で部屋に閉じ籠っていた。

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