おうち時間とドリップコーヒー

八百十三

おうち時間とドリップコーヒー

 緊急事態宣言、営業時間短縮、外出自粛。そんな、世の中から活気を奪うワードが飛び交う昨今。

 私こと、秋島あきしま奈央なおは自宅の洋間に敷いたラグの上で、だらしなく寝そべりながらスマホをいじっていた。


「ステイホーム、おうち時間……ねぇ」


 そんなことを呟きながら、私はスマホの画面をスクロールする。

 ニュースサイトもSNSも、目に入るのはそんな文言ばかり。もう耳にたこができたというか、目にたこができたというくらいに見てきた。

 分かっている。そうしないとならない状況にある、ということは。だけどそういう状況に置かれた私の生活の、無味乾燥なことと言ったら。

 好きなお店はどこも住まいから遠く離れている。テイクアウトを推進されたって、私にはそれを使うすべがない。近所のお店を新規開拓しようにも、そこは外出自粛何するものぞな連中がたむろしてて、入るのが結構怖い。

 つまり、行けるところが無い。自粛せざるを得ないのだ。


「ああもう。もどかしいなあ。どうして私はこんな田舎でアパートを探しちゃったんだ」


 そんなどうにもならない文句を垂れながら、私は仰向けに転がった。都心部へのアクセスが良く、家賃がそこそこ安く、部屋が広いということでこの場所に住んで早三年。まさかこんな形で不便を感じるとは思わなかった。

 くちびるをアヒルみたいに尖らせながら、私は好きなコーヒー屋のサイトを眺める。そろそろコーヒーを買い足そうと思ったのに、お店はどこも休業中だ。


「あそこのコーヒー屋さん、行きたいんだけどなぁ……ん?」


 悲しみに暮れながら、私がサイトのトップページに戻ると。今まではそんなに目に入らなかったバナーが目に付いた。

 すなわち、「豆の通販を始めました!」の文言。


「へー、ここもやってたんだ、豆の通販」


 曰く、店舗を休業しても豆の輸入を止めるわけにはいかないため、100グラム単位での豆の通販を始めたのだそうだ。値段は店で買うのと一緒、メール便を使える範囲なら送料無料。ロースト度合いや豆の挽き具合も対応してくれるとのこと。

 これを機に、自分でハンドドリップするのもいいかもしれない。ドリップバッグはよく使うから、勝手を知らないわけではない。


「……よしっ」


 私は立ち上がってカーディガンを羽織った。目指すは駅前のスーパーマーケットと100円均一ショップだ。




 樹脂製のドリッパー、コーヒーフィルター、耐熱ガラス製のジャー。さしあたってハンドドリップに必要なものを買い揃えた私は、意気揚々と自宅に戻って来た。練習用に、スーパーで売られていたレギュラーコーヒーも買ってある。ついでに夕飯のお弁当も買ってきた。


「やー、見つかった見つかった。やるじゃん百均」


 意外とコーヒーに関するアイテムを取り扱っているものだ。メジャースプーンは流石になかったが、計量スプーンが家にあるから、それで何とかなるだろう。

 ドリッパーにフィルターをセットし、一旦皿の上に置いて馴染みのコーヒー屋がやっていたようにお湯で湿らせる。そこに、開封したてのコーヒーの粉をひと掬い。


「まぁ安い豆だし、おためしで……ってことで」


 コーヒーの粉を均してからジャーの上にドリッパーを置いて、私は電気ケトルを手に取る。既にお湯は200ミリリットル沸かして準備済みだ。


「たしか最初は……豆を湿らせるよう、にっ」


 注ぎ過ぎないように、ゆっくりと細く。豆全体を軽く湿らせるように、ペーパーフィルターにお湯をかけないように気をつけながらお湯を乗せていく。

 そうしてから、数十秒。豆全体が膨らんでくるのを待ったら、いよいよお湯を注いで抽出だ。


「こんなもんかな。じゃ、あとは三回くらいに分けて……おっと」


 最初は多く、後につれて少なく。ドリッパーの中心に小さくのの字を描くようにしながら、私はゆっくりお湯を注いでいく。

 この電気ケトルは注ぎ口が広くて短い、ごくごく一般的な商品だ。コーヒーのドリップに使うには、注ぐお湯の量を調節しないとならないので、少し難しい。


「難しいなー、やっぱりドリップポットも買おうかなあ……」


 細口の、コーヒー抽出がしやすいようにデザインされたドリップポット。電気ケトル式のものでなくても、ああいうポットに沸かしたお湯を移して注げば、いい具合に注げるようになるのではないだろうか。何事も形から入るのは大事だと言うし。

 とはいえ、残業が無くなったせいで収入も少々減っている。仕事が無いわけではないから生活が苦しい、というほど減ってはいないが、それでも無駄な出費は止めておいた方がいいだろう。


「まいっか、練習、練習」


 とにかく練習を重ねなくては。今の道具で美味しく淹れられるようになったら、いい道具を買った時、いい豆を買った時にもっと美味しく淹れられるはず。時間だけは十分にあるのだから。


「よーし、こんなもんかなぁ……あ」


 お湯を注ぎ終わり、垂れてくる雫がテーブルに落ちないように気を付けて皿にドリッパーを移す。そしてジャーからマグカップにコーヒーを移そうとして、気が付いた。

 ふわりと漂ってくるコーヒーの香ばしい香りと、仄かに甘い香り。安い豆だからと侮っていたが、なかなかどうして美味しそうな香りを出すではないか。


「へぇ……」


 コーヒーメーカーの企業努力というものに感嘆しながら、私はカップにコーヒーを移し、そして静かに口を付けた。

 ジワリと広がる苦味とコク、奥の方で静かに主張する酸味があり、これはこれで美味しい。どことなく、大手カフェチェーンのコーヒーや、コンビニのドリップコーヒーを思わせる風味があった。

 きっと、プロが淹れたらもっと美味しいんだろうけれど、ハンドドリップ一回目でこれなら、まぁ合格点というところだろう。きっと。


「うん、どうせ私は素人なんだし。こんなもんでしょ」


 自分で自分に言い聞かせながら、私は再びマグカップに口を付けた。

 どれだけこだわっていても、私は結局素人なのだ。コーヒーを淹れるプロに、ドリップの腕前で敵うわけがない。それなら味わいだって同じにならないのも当然だ。

 豆が同じでも、ロースト具合や挽き方が同じでも、淹れ方によって味わいには差が出る。だから、コーヒーはやめられない。

 ぐーっとマグカップを傾け、中のコーヒーを干した私は、ドリッパーに残ったままだったコーヒーフィルターを持ち上げた。中では水気のとんだ豆の表面が平らになって、リング状にコーヒーの粉が付着している。


「よーし、もっと練習するかぁ。どうせ時間はたっぷりあるんだし!」


 フィルターを燃えるゴミのごみ箱に放り込んだ私は、ぐっと拳を突き上げて立ち上がった。時間も時間だし、お夕飯にしないといけない。

 おうち時間は退屈だけれど、こういう楽しみがあるのも悪くはない。コーヒー屋に注文したお気に入りの豆が家に届くのが、今から楽しみで仕方なかった。

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