サイクリングアプリ『ドリフト・オンライン』――おうち時間に先輩と一緒にレースをしたいから

草薙 健(タケル)

自転車乗りのおうち時間は、他とはちょっと違います。

 肺が押しつぶされる。今にも心臓が破裂しそう。止めどなく襲ってくる苦痛に耐えながら、高校一年生の美咲はロードバイクのペダルを必死に漕いでいた。


 Mocoさんは振り切れなかったか……。


 三次元グラフィックで描画されたアバターとロードバイクが、目の前のテレビモニターに表示されている。数は自分のアバター『Misakin』を含めて四人。


 このままじゃ、またMocoさんに負けてしまう!


 思考がほとんど停止しているのに、そんなことが頭をよぎった。


『どうしたんですか? あなたの実力はこんなもの?』


 チャット欄に表示される、Mocoさんからの挑発。


 なんてことだ。この人はレース中にチャットする余裕があるのか!?


 レースは後半にさしかかり、佳境を迎えていた。


 ■


 美咲がサイクリングアプリの存在を初めて知ったのは、冒頭のレースシーンから約半年前に遡る。高校の学生食堂で自転車部部長である先輩と話していたときだった。


「ねぇ、美咲。『ドリフト・オンライン』って知ってる?」

「何ですか、それ」

「ローラー台とパワーメーターさえあれば、世界中のサイクリストとレースが出来るんだって――」


 自転車はローラー台と呼ばれる室内トレーニング器具が充実している。ランニングで言えばトレッドミルのようなものだ。先輩曰く、パワーメーター動力計と呼ばれる十万円前後の計測機器によってペダルに加わる力を測定し、それを元に自分のアバターがゲーム内で動き回ると言うのだ。

 また、サイクリストの実力もパワーメーターのデータを基に数値化されており、出来るだけ同じくらいの実力を持った人同士がマッチングされるシステムになっているらしい。


 自分の部屋に居ながら車のレースゲームをしているような感覚で世界中のサイクリストとレースを楽しめる気軽さから、現在人気急上昇中なのだそうだ。


「美咲って、パワーメーター持ってたわよね」

「はい」

「羨ましい。うちのお小遣いじゃ高すぎて買えないからなー」


 その話を聞いた夜、美咲は早速『ドリフト・オンライン』を試してみることにした。パソコンが必要なのかと思ったらスマホでも出来ることにビックリし、試しにレースをやってみたら勝ってしまい、美咲はその魅力に一気に引き込まれたのだった。


 ■


「ただいま、お母さん」

「おかえり。今日は遅かったわね」

「今何時?」

「夜の七時を回った所よ。外は寒かったでしょう?」

「大丈夫。平気」

「ご飯、もうすぐできるけどどうする?」

の後で食べる」

「分かったわ。ところで、あなた宛に荷物が届いてたわよ」

「本当!?」

「えぇ。あなたの机の上に置いておいたわ」

「ありがとう、お母さん!」


 美咲はそう言うと自分の部屋へと駆け出した。ドアを開け放ち、勉強机へと向かおうとしたそのとき、彼女は床に敷かれたマットに躓いて転倒した。

 その物音を聞きつけた母親が、心配して彼女の部屋へやって来た。


「ちょっと、大丈夫?」

「大丈夫」

「そそっかしいんだから、私の娘は……。それにしても、いつ見ても異様な光景ね。女の子の部屋じゃないわ」

「そうかなぁ?」


 美咲は自分の八畳間を見渡した。

 勉強机とベッドの間にはピンク色のマットが敷かれており、その上にはすでにトレーニング可能な状態にセットされたロードバイクとローラー台が鎮座している。フロントホイールの前には巨大な工業用扇風機が設置されていて、今にも嵐を引き起こしそうな雰囲気を漂わせていた。


「私は気に入ってるけど」

「そう。ところで、その小さい荷物は一体何なの?」

「秘密」

「あらあら。もうすぐクリスマスだし、これ以上聞くのは野暮かしらね。じゃぁ、トレーニングが終わったら教えて。ご飯暖めるから」

「はーい」


 美咲はトレーニング用のジャージに着替えると、『ドリフト・オンライン』用に父親から借りたパソコンを起動してログインした。


「さーて、今日はどのレースに出ようかな?」


 自分に合いそうなレースがなかなか見つからず、自分でレースを主催しようかと考え始めたとき、チャット欄にメッセージが届いていることに美咲は気がついた。


『Misakinさん、こんにちは』

「Mocoさん、今日もログインされてるんですね」

『はい』


 プロフィールによると、Mocoさんの国籍は日本で性別は女性。年齢設定はなし。実力もほぼ美咲と同じくらいで、色んな意味で美咲と似ていた。しかし、戦術が的確で勝負勘も良く、一度も美咲は彼女に勝ったことが無かった。


「今日は私達に合いそうなレースがないので、私が作っちゃおうかと思ってます」

『お願いします』


 参加者が集まるまでには少し時間がかかる。その間、美咲――MisakinとMocoは仮想のロビールームで、『ドリフト』ならではの戦術やガールズトークで盛り上がっていた。


『Misakinさんは、クリスマスの予定とかあるんですか?』

「ありませんよ(笑) あ、でも、大切な人にプレゼントは用意したんです」

『それはいいですね。どんな人なんですか?』

「私、高校で自転車部に入ってるんですけど、その先輩です」

『男の方?』

「いえ、女子です。『ドリフト・オンライン』の存在を教えてくれた人なんですけど、先輩はパワメパワーメーターを持ってないので出来ないんです。先輩と一緒にレースがしたいんですけど……」

『そうだったんですか。もしかして、プレゼントと言うのはパワメですか?』

「いえいえ、流石に高すぎます!」

『ですよね。うちが使ってるパワメは二十五万円しますし』

「その代わり、心拍からパワーを推定できる装置があるのはご存じですか?」

『知ってますよ。『パワーキャリー』ですね。あれもそこそこ高いのでは』

「はい、三万円くらいです」

『結構なお値段ですね』

「こんな高価なプレゼントをしたら、先輩からドン引きされそうで……。私、不安なんです」

『なるほど』

「やっぱり、渡すのやめとこうかな……」

『Misakinさん、提案があるんですけど』

「なんですか?」

『私と勝負しましょう』

「え?」

『あなたが私に勝ったら、ちゃんと先輩にプレゼントを渡してください』

「なんでそうなるんですか(笑)」

『Misakinさんは、まだ一度も私に勝ったことありませんよね。もし私に勝てたら、色々勇気が出てくると思うんです」

「……分かりました。その勝負、受けましょう」


 ■


 全長三十四キロメートルに設定されたバーチャルコース。スタート時点では十八名いた集団も、二十キロメートル地点から始まる山岳ポイントでアタックした美咲により粉砕され、残り四名。その中には、当然Mocoも含まれている。


 やはりMocoさんは強いと美咲は戦慄していた。

 平地では集団を牽引できるほど強力な巡行力があり、山岳ではダンスのステップを刻むかのごとく軽やかに登っていく。それに加えてスプリントによるパンチ力もあるのだから手が付けられない。


「今回のゴールは登り基調の平坦。スプリント勝負に持ち込んだら確実に負ける」


 美咲には、ここから勝てるビジョンが見えなかった。


 スプリント以外で勝つためには、アタックを仕掛けて全員を振り切って独走する必要がある。しかし、美咲の脚質はどちらかと言えばクライマーであり平坦巡行は決して速くない。さっきのヒルクライムでMocoを蹴散らせなかった時点で勝機を逸したのだ。


『先輩に用意したそのアイテム、私が貰っちゃいますよ?』


 またチャット欄にMocoからのメッセージ。向こうも苦しいはずなのに、一体どうやって入力してるんだ!?

 ……いや、待てよ。アイテム? そうか!


 レースは残り一キロメートル。四名による位置取りと牽制が始まった。皆が速度を落とし、相手を出し抜くタイミングを見計らっている。


 残り五百メートル、イギリス国籍を纏ったアバターが最初に動いた。猛然と加速を始め、ゴールラインに向けて怒濤のスプリントを開始した。逃すまいと、他三名も当然追走する。美咲は最後尾だ。


 残り二百メートルでMocoが先頭に立った。他の追随を許さない圧倒的なスプリント。一メートル、二メートル、五メートル……二位との差がどんどん開いていく。それでもなお、美咲は動かない。


 まだだ、もうちょっと――もう少しで間合いができるはず!


 残り百メートルを切り、勝利を確信したのかMocoの勢いが少しだけ緩んだ。


 よしっ、扉が開いた!


 美咲は『スプリントアイテム』を使用すると同時に全力でもがき始めた。ギアとチェーンがこすれる無機質な音が部屋の中に響く。


 前は見ない。見なくても事故ることはない。何せバーチャル空間だ。進路は『ドリフト』の方が勝手に決めてくれる。


 進め! もっと速く! もっと前へ!!


 「あああああああ!!!」


 そして、MisakinはMocoに勝利した。


 ■


『お見事でした。スプリントアイテムを使うタイミングが絶妙でしたね。登り基調で失速することも織り込んでたんですか?』

「いやー、そこまでは」


 美咲がMocoに勝利出来た理由、それは現実の勝負ではあり得ないゲーム要素が『ドリフト』には存在するからだ。

 その一つがアイテムである。『スプリントアイテム』は瞬間的ではあるが爆発的なパワーアップをしてくれるアイテムで、美咲は足りないスプリント力を補うために使ったのだ。


『約束通り、先輩にプレゼントしてあげてくださいね』

「はい。Mocoさん、今日はありがとうございました!」

『また一緒にレースしましょうね。さようなら』


 ■


「また一緒にレースをしましょうね。さようなら」


 入力で最後のチャットを送った後、Mocoはふぅっと溜息をついた。


 はじめてMisakinに――いや、美咲に負けてしまったな。


 ロードバイクから降りるとき、本棚に飾った自転車部の集合写真が目に入った。それを見ながら、自転車部部長――美咲の先輩、菰田こもだは呟いた。


「パワーメーターを持ってないなんて嘘、つかなきゃよかったな。どんな顔をしてプレゼントを受け取ったらいいのかな?」

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サイクリングアプリ『ドリフト・オンライン』――おうち時間に先輩と一緒にレースをしたいから 草薙 健(タケル) @takerukusanagi

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