ぜんまい君とネジ巻きの僕

無理

第1話 ぜんまい君とネジ巻きの僕

「頭のネジがゆるむ」

意味、頭が悪い。短慮。愚か。天然、底抜け、無能、でくのぼう…




僕、長月翔太ながつきしょうたがそれをはじめてみたのは4歳の夏のある日だった。ふと気がつくと、道をゆく人々に全て、『ネジ』がついて見えたのだ。

形、大きさ、太さ、場所、色…どれを取っても同じではない。主婦らしい人が膝に直径八センチくらいのネジを埋めていたら、サラリーマンのおじさんが親指に三センチほどの銀色のネジをつけていたり、はたまた友達と話している女子高生が肩にギラギラと光を放つ大きいピンク色のネジをつけていたり。

とにかくそのネジは誰にでもついてる。ヤンキーみたいなお兄さんにも、道端に座るホームレスのおじさんにも、テレビに映る芸能人にも、友達にも家族にも。

その頃の僕は好奇心の塊のような存在で、母さんのおへそに突如として生えた銀色の小さなネジが気になって仕方がない。何回も触ろうとしたが、結局それは失敗に終わった。触っても触っても手が一瞬手が透けるように眩んで、スカッと通り抜けてしまうのだ。僕は心底がっかりして、それ以上何もすることはなかった。あまり気にも留めなかった。

昔から僕は、あまりものを深く考えなかったから。


8歳の夏休み。

母さんの実家への帰省はいつもの話で僕も田舎のおじいちゃんとおばあちゃんが好きだったので、とても楽しみにしていた。一週間ほどだが、クワガタやカブトムシを取ったり、花火をしたり、満天の星を見たり、都会にはない楽しみがたくさんあるからだ。また、おじいちゃんとおばあちゃんも僕にとても優しくしてくれて、近所に住むおじさんおばさん達も僕を見ると

「しょうちゃん、飴食べる?」

「しょうちゃん、スイカ冷えとるよ〜」

となんやかんやものをくれたりする。

その中でも僕が一番好きなのが、最後の日の夜だった。最後だからと、おじいちゃんの家に知り合いの人や近所の人がみんな集まって料理を並べ、酒の瓶が立ち並び、大人は揃って宴会をするのだ。僕は勿論お酒は飲めないからジュースだけど、その日は珍しくいつもより遅くまで起きていても誰も何も言わないので、大人の仲間入りをしたようで、くすぐったかった。しかし、8歳の夏でそれは終わった。

その日、見知らぬ男の人が1人、近所のおじさんに連れられてやってきた。大人しそうな雰囲気で、誰と話す時も腰が低い。笑い声も小さくて、ガハハと笑うおじさんには「うちのせがれ」だと紹介されていた。どうやらおじさんの息子らしい。東京の大学にいたけど、今はお盆で帰ってきているらしかった。僕に対しても「はじめまして。」と柔らかく言うだけで、特に何もしない。でも僕はその人からずっと目が離せなかった。

はじめてみた。

その人の額に、着いているネジが緩んで飛び出していたからである。穴から半分ほど出た銅色のネジは少し錆びていて、締まりがなくぷらぷらと時折揺れている。僕はそんなネジを見たことがなかった。触れるはずがないから押し込むこともできずにただ黙っている。都会にいる人は違うのか、等と僕は思っていた。

そのうちに宴会が始まる。大人達は楽しそうにビールを飲みながら世間話をしている。3時間ほど経つとテレビは誰もみていない状況になるので、その時間まで僕はグレープジュースを飲みながら出てくるおつまみやお菓子を小さく摘む。トイレに行きたくなっていくと、あの男の人がいた。

トイレに向かい立ちすくんでいる。

「あ、あの…」

トイレですか?と言う声は喉から出なかった。

「あ、あ…」

ぽたりぽたり

床に糸を引いて透明な雫が落ちる。男の人の涎だ。ガクガク震える足は生まれたての子鹿より不安定で、黒目は虚ろを見ては時々上瞼の裏に消えたり出たりする。何より額のネジが、僕にしか見えないネジが手も触れられていないのにキリキリと錆びた音を立てて回っていた。ゆっくりと抜けていき、その度に男の口からこの世のものとは思えないような高い声が響く。

ネジが抜ける寸前、男がこちらをみた。

僕はもう失禁してしまっていて、男の目を見た瞬間耐えきれずに叫び声を上げた。

それからはよく覚えていない。母さんが言うにはあの男の人は僕を乗り越えて父さんやおじさん達につかみかかり、8人がかりで取り押さえられたらしい。その間にも噛みつこうとしたり奇妙な笑い声をあげたり、不意にスッと真顔になったらそのまま自分の舌を噛みちぎろうとするので病気と判断し救急車で搬送されたという。その後、精神病棟で治療をしているが、あまり効果はないらしい、と母さんは教えてくれた。

僕は心の底から恐怖した。背中を冷気が這い上がるような感覚。


その後、たくさん観察をして確信した。あのネジはその人物の本当の内面を表しているらしい。そのネジが外れることで元の理性を失ってしまう。気が狂ったようにってしまうのだ。

あの男はおじさんの息子だが、元々は東京にいたらしい。東京で奥さんが不倫をしたから3年かけて離婚していた。帰省したものの仕事もなくほとんど引きこもりのような生活をしていたそうだ。

「我慢強くて、優しいやつだったんだ…」

おじさんはビールを煽りながらそう呟く。目の奥には何も映っていない。ただ、涙が一筋溢れた。







大きくなってもあまり僕は変わらず、とうとう中学に入学した。

『西森第八高校』

校門の前には大きな桜の木が立ち並び、目を引くように見事な桜吹雪が舞っている。入学式、の看板が真っ白な僕たちを祝福しているように見えたが、僕は正直乗り気ではなかった。

クラス分けを受け、校長先生の長ったらしい話を聞いていく。

担任の先生は新任のどこか真面目そうな女の先生だった。ひょろりと教台に立ち、黒縁メガネを押し上げてから人懐こい笑みを浮かべる。

「こんにちは、皆さんの担任の桜川京子さくらがわきょうこです。皆さんと楽しい一年を暮らせたら!と思っています。気軽に、京子先生って呼んでね!」

最後に小さく両手を振るとクラス中から「可愛い〜」という感嘆の声が上がった。陽キャの女子なんかはもう

「え、センセ若くね〜?」

「ってか、ちょーかわいーんだけど。彼氏いんのー?」

「後で写真撮ろー」

と机から身を乗り出している。

僕はそれにもあまり興味がなく、先生のこめかみに刺さるネジを見ていた。

(錆びが所々付着した銀色…幅2センチ、太さは5ミリくらいか。これは溜めて爆発するタイプだろうな。それに1センチくらい出てる。疲れてるのかな。)

「はーい!じゃあ、自己紹介をしましょう!名前と出身中学校を教えてくださいね!では、名簿番号順に前に出てきてください。」

桜川先生が笑みを浮かべて黒板の横に立つ。一番の青銅色のネジをつけた男の子が立ち上がり、黒板の前へ行く。

僕にとって人を知ると言うことはあんまり気持ちのいいものじゃない。ネジの真実に気づいてからは、ずっとそれにばかり目がいく。僕はそれを見て値踏みしているのだろう。誰が僕と友達になりやすいか、誰なら僕と気が合うか、そんなことでぐるぐると思考を回す。自分のクズさにはほとほと嫌気がさしていた。


番号が回り、次々に人が呼ばれていく。


「じゃあ次は、善蒔くん。」

「はい。」

落ち着いた声で返事をした少年が立ち上がる。僕はそのネジを見た、いや、見ようとした。

眠そうな半目で、前髪が長めの暗そうな少年。猫背でも、僕より頭一つ大きいくらいの善蒔成瀬ぜんまきなるせは、黒板にみんなより少し小さく名前を書くとこちらを向いた。

「善蒔成瀬です。よろしくお願いします。」

ボソリとつぶやくように口を動かす。しかし、こちらを見た彼から僕は目が離せなかった。彼にはネジがついていない。代わりに彼の背中から大きく飛び出ていたのは、オルゴールなどについているような『ゼンマイ』だったのだ。

あまり声が聞こえないうちに善蒔君は黒板を消して机へ戻ってしまった。

僕は驚きすぎてぽかんと口が開いていた。あれもネジに入るのだろうか?今まで見たことのない新種のネジなのか?輝くわけでもなく、鉄の色合いを持ってただそこにあるあのゼンマイは、巻いたら抜けるのだろうか。善蒔君、改めぜんまい君は僕のそんな考えを知る由もなく席の隅で縮こまっていた。


それからはやくも二週間が経ち、クラスの中には輪ができている。

「よぉ!翔太!帰ろうぜ!!」

放課後の鐘を待たずして僕の席に駆け寄ってくる。金色でギラギラ眩しいネジが左耳からでている少年は、僕の新しくできた友達である。ツンツンと跳ねる髪と明るい笑顔でみんなに好かれている彼橘雷都たちばならいとは、なぜか知らないがよく僕に懐いていた。

「うん、橘君。」

「水臭ェな!雷都でいいって!ら、い、と!!」

「うん、橘君。」

「かーーっ!冷たいねぇ!」

根はいいやつである。多少ノリが軽いが。

橘君に連れられて教室を出る。

「そういえば、聞いたか!?あの例の不審者の話。まだ捕まってないらしいぜ。」

「そういえば桜川先生が今日のホームルームで言ってたよ。」

「そうそれ!気持ち悪りぃよなー。」

そんな橘君の言葉に変質者の話を思い出す。

初めて変質者が出たのは2週間前。

とあるセンター街近くの中学校に出てナイフで生徒を襲う。襲われた生徒のうち2名がナイフで切られ軽い怪我をした。変質者は茶色く長いコートを着ていて、体をすっぽり覆っているらしい。それがよくある露出魔の風貌と似ているから不審者ではなく変質者と呼ばれているようだ。

そこだけは可哀想である。

「ま、俺らは大丈夫だと思うけどな!俺も翔太も明日は休みだし!」

「まぁね。」

そう言って分かれ道に差し掛かる。またね、と後ろを見ると、おう!と元気のいい笑い顔が見えた。

「ただいまー」

家に帰って母さんに声をかける。母さんは洗濯物を干しているのか、ベランダに出ている。

ピンポーン

チャイムがなり、僕が鍵を開けにいくと、お隣に越してきたという女性が立っていた。綺麗な人だ。年は僕より5個くらい上だろうか、それをうまく化粧で引き立てている。それでいながら化粧は厚くなりすぎず、ナチュラルメイクが施されている。口元に絞められたネジは小さい黒で、一見すると黒子のようだった。

「隣に家族で引っ越してきました。善蒔梅です。どうぞよろしくお願いしますね。」

にこりと微笑まれ、思わずうっと声が詰まる。その時、お姉さんの後ろから覗いた顔に別の意味で声が詰まった。

「こっちは弟の成瀬です。近所だから、弟とは同じ学校ね。人付き合いが苦手な弟なんだけど、根はいい子だから、仲良くしてあげてね。」

「…はい。勿論。」

僕はかろうじてそう返した。


ぜんまい君は翌日から変わった。僕にずっとついてくる。雛鳥のようについてくる。

「長月君、理科室行こ。」

「長月君、お昼食べよ。」

「長月君、一緒に帰ろ。」

移動教室は勿論、昼休憩も放課後も、帰り道は隣なので家の前ギリギリまでついてくる。

「だめーー!翔太は俺のなの!」

最近は「束縛はしたくない」?橘くんが痺れを切らして叫び出すまでが一日である。

「橘くんのものじゃないよ。善蒔君のものでもないけど。」

そう言えば橘くんがあっ!と声をあげる。そばへきて耳元に口を近づけてこっそり喋る。

「そういえばさ!今日、5時半から学校で肝試しやるんだぜ!何人か来るから、翔太も来いよ!」

言うだけ言ってさっさと帰ってしまう。その元気そうな後ろ姿をぼけっと見ていると、

「…僕も、じゃあね」

ぜんまい君がそそくさと遠くへ行く。僕は何か知らないけど、呆然としてその場に立ち尽くした。そしてなぜか腹立たしくなってきた。いったいなんなんだ!僕の隣にずっといたかと思ったら、僕のことほったらかして!

振り回されたようで怒りが沸騰してくる。ふと、肩を叩かれると桜川先生が立っていた。いつもよりニコニコしている。

「あら、翔太くん、まだいたの?もう帰りなさい。」

「あ、はい。すみません。」

そのまま学校を出る。振り返ると先生だけが僕を見ながら手を振っていた。


夕方になり、もうすぐ夜になる。僕は赤く染まる部屋の中で宿題を解いていた。肝試しなんて行く気はない。元々、お化けとかは信じていない。生きている人間の方が怖いからだ。あの日、泥のように濁ったあの目を見た時から、僕の中でそれは決められている。怒ったお母さんよりも、雷よりも、近所のよく吠える犬よりも、あの目が怖い。僕の見えないネジもいつか抜けて、ああなってしまうのが怖い。そう思って手をギュッと握ると、シャーペンの芯がぽきりと折れてしまった。折れた芯を捨てようと手に持って立ち上がる。

足元のランドセルが足に当たって倒れた。はずみで中からプリントや教科書が溢れ出す。その中には前もらった『不審者のお知らせ』というプリントが入っていた。

「…あれ?」

何かが引っかかる。プリントを裏返したりして見てみる。何か、忘れている気がする。

夕日がどんどん沈んでいき、空に一番星が見え始める。白い月が金色を帯びてくる。電気もつけないまま、僕はプリントを見つめた。見つめて、見つめて、見つめて。


放課後のいつもの帰り道。雷都が笑う。月と同じ、金色に輝くネジが、歩くたびに日光に反射して光る。

「そういえば、聞いたか!!?あの例の…」


夕日が消えた瞬間、僕はパッと時計を見た。

『5時47分』

アイツは5時半からだと言っていた。もう始めている!僕は部屋を飛び出した。

ちょっと行ってくる!と叫んで母さんの静止を無視して学校へ向かう。街灯が点々と付いている住宅街を全速力で走る。いつも走っていないからか、足が重い。息が上がる。それでも走った。


校門は勿論しまっていたので、裏道へ向かう。前に教えてもらったのだ。教えてもらったというか、無理矢理教えられたのだが。

「裏門のすぐそばにさ、大きな茂みで隠れてるんだけど、フェンスが壊れてるところがあるんだよ。先生誰も知らないけどさ、1人くらいなら余裕で通れる抜け道なんだぜ!」

僕は「ふーん。で?」で済ませたような気がする。それに対してアイツはまた「翔太はクールだな!」と笑っていた。

フェンスの穴をくぐり抜ける。校庭へ向かうとひらけたところに誰かがいた。男が1人立っていて、子供が5、6人倒れている。男は茶色く長いコートを着ていて、1人の子供の首を絞めていた。

「ぐぁ。」

子供の左耳から金色が見える。

「雷都!!」

「しょ、た」

思わず叫ぶと雷都が苦しそうにこっちを見た。と、同時に男がこちらをみる。ゾクリ、と肌が粟立った。男の目はぐるりと黒目が宙を浮いていて、口から苦しそうによだれをぼとぼとと垂らしている。男は雷都の鳩尾を1発殴って気絶させると、ゆらりと立ち上がってこっちへ走り出した。

僕も逃げる。体育館の扉が空いていたので、そこへなだれ込み前方のステージへ走った。カーテンの影に逃げ込む。男は見失った僕を探しているようで、キョロキョロしながら時々意味のない単語を叫んでいた。男をこっそり観察する。すると、男の側頭部にぽっかりと穴が空いているのが見えた。びっくりして腰が抜けそうになる。普通の人間なら死んでいるであろう穴には、きっとネジが埋まっていたんだろう。僕にしか見えないネジの穴。しかしそれをみるのは初めてで目を凝らす。穴は真っ暗でそこが見えない。かなり大きいことから、自尊心が高いタイプなのかと思う。

男がこちらを見て、ニヤリと笑った。見つかった。髪が逆立つような感覚が全身を覆う。手元に偶々あった手頃な木材を持つ。カーテンの裏を出て飛び上がると、男はまだニヤニヤしながらこちらを見ていた。木材を一生懸命振り上げ、男の体に振り下ろす。男は最も容易く木材を受け止めて笑った。そして僕に向かって手を伸ばす。男の不気味な姿と目に、見たことがない人なら一瞬硬直するだろう。

けど僕は、見たことがある。

首に手が触れそうになった瞬間、僕は木材をグイッと引いて体を捻る。男が体勢を少し崩す。それでも、少しだ。すぐに体勢を立て直し、僕の方を向く。その顔面に向かって僕は消化器を思い切り噴射した。体を捻った直後に男の後ろに回り込み、消火器の蓋を開けたのだ。思い切りガスが吹き出して、男は咳き込み暴れる。その腹に向かってからになった消化器を遠心力で投げ飛ばす。勢いがついた消化器は木材よりも硬く重いので、男の腹にめり込んだ。メキョ、と変な音がして男が体育館の床に倒れ込む。気絶しているようだった。

ホッと息を吐いて体育館を出る。男への恐怖と体の疲れが相まってヘトヘトに疲れていた。校庭の真ん中に倒れている雷都と他の子達はみんな気絶しているだけで、少し殴られた痕はあったが、そこまで重症ではない。安堵のため息をつく。後は交番にでも行けばいいか、いや、家に帰って警察に連絡するか…そこまで考えた時だった。

「だめよ。あの人の邪魔をしちゃ。」

お腹にヒールの蹴りが食い込んだ。息ができないまま校庭を数メートル吹っ飛び砂利の上を転がる。あたりどころが悪かったらしく、ヒールで蹴られたところが真っ赤に内出血していた。雷都の方を見ようと顔を上げる。無表情で立っていたのは桜川先生だった。

「だめ、だめよ。あの人の邪魔をしちゃあ。あの人は、私がいなきゃいけないの。殴られても蹴られても、あの人には私しかいないの。あの人は、子供が好きなんだから。子供を連れて行かなきゃいけないの。あの人は、あの人がぁぁ。」

桜川先生のこめかみのネジが抜けそうにギリギリで回っている。ギュイギュイと錆びた音がどんどん大きくなる。

「お前のせいだ。」

そう言った先生の手がガシリと僕の首を掴んだ。ギリギリと音が鳴り、息ができないまま宙に浮く。足がつかない、もがいても届かないまま、真っ暗な瞳が僕を蔑むように見ている。

(死ぬ、)

本気でそう思った。

口から泡を吹き始めると先生の笑みが広がる。ネジがコトリと嘲笑うように、鈍く光って地面に落ちた。


その時、何かが飛んできた。靴だ。水色の、運動靴。

ガクンと先生の腕に当たって、先生の腕から力が抜ける。

「あぁ?」

先生が運動靴を飛ばした方を見ると、間髪いれずにもう一つの靴が先生の顔に当たった。砂が舞い、先生が苦しそうにギャアギャア喚く。

「翔太!!!」

大きな声で初めて僕の名前を呼んだその少年が、初めて目に入る。背中の銀色のゼンマイが、天使の翼のように見えた。

「ぜんまい君…?」

しかしそれも一瞬で、僕が崩れ落ちると僕の方にぜんまい君は駆け寄ってくる。

「大丈夫か!?怪我は!」

「っ、大丈夫…」

「じゃないだろ!!怪我見せてみろ!」

お腹をめくられ、絶句される。

「くっそ、今すぐ病院に…」

「ぜんまい君!」

叫んでぜんまい君を掴み、右に転がる。先生のヒールが僕たちがいた場所に食い込んでいた。

「なん、で?なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでよけるのぉお」

「チッ、まずいな。」

舌打ちを残し、ぜんまい君は僕を抱っこすると、そのまま先生の蹴りを避ける。しかし、その衝撃で僕の右足に痛みが走った。

「っつ、」

「翔太!?」

一瞬気をこちらに向けたぜんまい君の足元に、先生の蹴りが入り、ぜんまい君ごと吹き飛ばされる。

「いってぇ…」

「当たった、あたった!あたり!あたぁり、!」

先生が体を揺らしながらこっちを見た。ゆらゆらと近づいてくる。ぜんまい君が僕を庇うように立つと、その胸ぐらを先生が掴んだ。

「お前のセイダ!!!」

唾が飛び散るほどに叫ぶ。何をそこまで人のせいにしたいのか、よくわからないが、恐怖だけが頭の中にあった。

昔の、あの男が、狂った時と同じ。

僕のせいだ、ずっとそう思っていた。見えるのは僕だけだったから。大人に言えばよかった。特別な力を、いいことに使わなかったから。

「ネジが見える」

と言って笑われるのを恐れたから、バチが当たったのだ。

昔母さんに、一度だけ言ったことがある。心配されただけだった。冗談だと笑われたり、引かれたりしなかっただけ良かったのかもしれない。

だが、信じられることはなかった。

それでも、僕の中で、モヤモヤと形をなしているものがある。僕だけが見えるネジの世界で、それらは結局人の形をなしている。僕だけが見えるからと言って、その責任を僕にも押し付けるのか。


理不尽だ。


俺のせいじゃねぇよ僕のせいじゃないよ


苦し紛れにニヤリと笑ったぜんまい君の声と、心の内で叫んだ僕の声が重なる。

僕は衝動で体を動かしていた。手を伸ばすのはぜんまい君の背中。ピンと伸びた銀色のゼンマイ。触れないということも頭から抜けて、僕は必死で両手を伸ばして、それを掴んだ。鉄のひんやりした感触が手に伝わる。ぜんまい君がこちらを見て驚愕に目を見開く。僕はそんなこともお構いなしに、ギリと歯を食いしばった。ぜんまい君が大きく口を開く。


「回してくれ!翔太!」

「おりゃあああ!」

ガチャ、と音がして銀色のゼンマイが一周した。

瞬間、ぜんまい君は先生の手から抜け出していた。背中のゼンマイがゆっくりと回るに連れ、ぜんまい君の足元に亀裂が走る。ものすごい勢いで地面をひと蹴りし、先生の頭上へ高く高く飛び上がる。ぐるぐると体を回転させ、そのまま先生の頭へ渾身のかかと落としが決まった。


僕はそれを呆然と眺めていた。あっという間にぜんまい君は先生をやっつけてしまい、僕の方へ歩いてくる。ズイ、と顔を近づけられて、思わずぎゅっと目を瞑る。

「あ、あぁ、違うんだ。長月くん。さっきのは必死で、えっと、その…」

そんな声が聞こえてそろそろと目を開くと、ぜんまい君がうって変わってオロオロとしていた。僕はそんなぜんまい君を見て、なんだかおかしくなって少し吹き出してしまったのだ。


先生を放っておいて、僕たちは少し話をした。ぜんまい君はすっかりいつも通りになってボソボソと喋っていたけど、いつもより少し興奮しているように見えた。

「…俺の背中のゼンマイは、昔から見えてたんだ。俺にだけついてる。親は勿論ついてないし見えないし触れない。これがついてるのは俺だけで、他の人が変になるのは、真っ黒い穴のせいだと思ってたんだ。でも、その穴はネジの穴だったんだね。肝試しって聞いて、嫌な予感がしてきたんだ。」

「うん。本当に助かったよ。」

ふと、ぜんまい君が思い出したように声をあげた。

「そういえば、長月くんはどうしてきたの?肝試し、しにきたわけじゃないよね?」

「前、雷都と不審者の話をしたときに、不審者が変質者って呼ばれてることを桜川先生が話してたんだ。でも、その呼び方をしてるのは先生だけだったから、なんか関係があると思って。それに、肝試しの話をした時、先生が後ろで聞いてたから。きっと狙うなら今夜だろうと。」

「す、すごいね!探偵みたいだ!」

キラキラと目を輝かせるぜんまい君に気分は悪くはない。それと同時に僕には思いついたことがあった。

「ねぇ、もしかして。あれ触れる?」

指さした先にはネジが一本。先生から抜けたものである。ぜんまい君は見えないからか、少しゴソゴソと探ると

「あっ。」

と言ってネジを掴んだ。

「なんか見えないけど、触れる!」

これが、ネジ?と続けながらくるくると手元でネジを回している。

「そのネジを、先生のこめかみにある穴に入れて、回せる?」

「うーん」

先生の頭を抱えてこめかみを見るぜんまい君の手伝いをする。何回か失敗したけど、ネジはピッタリと先生のこめかみにはまった。その瞬間、先生の表情がフッと柔らかくなる。

「これで大丈夫な筈。先生が暴れた理由がネジだから、多分。」

「あとは目を覚ますのを待つだけだね。」

遠くからぜんまい君が呼んだらしいパトカーの音が近づいてくる。

「そういえば」

「ん?」

「長月くん、俺のことぜんまい君って」

「アー、忘れて。」

「やだ。」

「忘れろ」

「嫌だし」

顔を見合わせると面白いものを揶揄う顔になったぜんまい君がいる。僕らは顔を見合わせて、一気に吹き出した。


「安直だね。」

「うざ。」



その後、変質者は逮捕され、先生は変質者の手引きをしたとして塀の中へ。僕たちはしっかりと叱られた。雷都達は無事で、むしろ帰ってきてすぐに

「翔太!あの時俺のこと雷都って呼んだよな!もう一回!もう一回!!」

とうるさかった。

唯一救いだったのは先生の意識が戻り、ネジがしっかり巻かれている状態だったことだ。ネジが外れている時のことは忘れているらしく、面会のガラス越しに僕たちにとても謝っていた。

変質者の正体は先生の彼氏だった。定職にも付かず、先生を見るたびに暴力を振るうようなとんでもないやつだったらしい。でも、先生は変質者には自分しかいないと自分に言い聞かせ、我慢していた。その耐えきれないストレスでネジが緩んだのだろう。相手は精神病院へ入ったようだが、先生はこれまでの罪を含め六年ほど捕まっているらしい。免許も剥奪されるけど、先生は晴れやかな顔をしていた。

「しっかり償って、今度こそいい人を見つけてくださいね。」

僕がそう言うと、先生は涙を浮かべて笑っていた。



しかし謎は残っている。僕だけがネジが見える理由や、ぜんまい君の背中のゼンマイについて。特にぜんまい君についてわからないことばかりがある。なんでぜんまい君は僕にばかりくっついてくるのか、嫌な予感とはなんだったのか、彼はまだ何か隠しているような、そんな気がしている。このネジは結局なんなのかもよくわかっていないのだ。

それでも、僕以外にネジの存在を知って、信じる人ができた。

今はそれが、純粋に嬉しかった。


「翔太は俺のだーー!」

「な、長月くん。雷都くん、怖….。」

「うるさい。」

いつもの放課後、僕の頭上で橘くん改め(かなりごねられた)雷都とぜんまい君が言い争いをしている。

「成瀬!お前ずるいぞ!翔太とは俺の方が付き合い長いのに、あだ名で呼ばれて…っ!俺だってハナハナとかライライとか呼ばれたい!」

「いや、パンダか?」

「ハッ。」

「ぜんまい君も鼻で笑って煽るな。」

ずーるーい!とまだごねている雷都を放っておき、ぜんまい君を見る。彼の背中のゼンマイは今日も銀色に光り、そこにある。一見大きくて無骨に見えるゼンマイだが、よく見るとそれを感じさせない曲線の美しさと明るさがある。

僕は桜が舞う窓の外を見てため息をつくと、ぬけるような晴天に少しだけ笑った。








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