きみの物語になりたい /タイトルの分からない物語
秋色
きみの物語になりたい
香菜は一人で過ごすのに慣れていた。
パパと弟の達矢と三人暮らしなので、家に帰ってから弟が部活から帰るまでの時間は、いつも一人で夕食の準備をしている。ママは十年前、香菜が七才の時に亡くなっていた。
三人だけの暮らしにももう慣れたし、近所に住むお祖母ちゃんも時々手伝いに来てくれる。
ママは十年前、事故に
でも立派なママだね、香菜はしっかりしてるねなんて言われるのが実はちょっと苦痛だ。本当は四人で一緒にずっと暮らしたかったし、香菜にはママにやってほしい事がまだ色々あった。
他の人を優先する前にちょっと自分や弟の事を思い出してほしかった、というのがホンネ。いつもそんな思いだけが残っていた。もちろんママは香菜の誇りだけど。
でもそんな思い出がいっぺんによみがえると辛すぎて、ママの事は楽しかった出来事さえも思い出さないようにしている。
その日、香菜は昼休みの間が手持ち無沙汰で、学校の裏の丘へ行き、一人でブラブラしていた。
空気はまだ少しヒンヤリしているけど、三月の陽射しは肌に心地よい。今日は親友の子が休みなので、天気も良いし、ここで一人で昼休みを過ごそうと、朝から決めていた。
午後の授業が始まるまであと四十分。
その時、誰かが通りかかった。国語の先生の松野先生だ。大学を出て数年しか経っていなさそうな、大人しそうな色白の男の先生で、いつも何にも動揺しなくて
「なんだ、井上。こんな所で何しとるん?」
相変わらず
「別に。ただ時間を
「サイダー飲みに」
見ると、手には小さな薄いピンク色の炭酸水の入ったガラス瓶を持っている。
「井上もどう?」
先生は同じような小さな瓶をポケットから出した。
「はあ……。ありがとうございます。これ、サイダーなんですか?」
「ああ。とよのかサイダー」
「とよのかサイダー??」確かにそこにはとよのかサイダーと丸文字のロゴが入っている。
「うん。とよのかはイチゴの品種やけ」
「へ、へえ……。そう言えば、学年通信で、先生、図書室の係の先生になったとありましたね」香菜は、ありったけの自分の情報の中から最近の松野先生の話題を何とか見つけた。
「ん。正確には学校の図書室利用向上委員会というのの副顧問」と先生は言った。「面倒なんやけどね」と言いつつ、「井上も図書室利用せん? 利用する生徒が多くならんといけんし」
そう言う時も無表情で、本当に図書室を勧めたい風には見えない。
「本てほとんど読みません。子どもの頃は物語の本が好きでしたけどね」
「それならまた物語、時々読んだら?」
「図書室で本選ぶのが面倒なんですよ。カバンに入れたらかさ張るし」
「じゃ、かさ張らん物語にしたら?」
「かさ張らないならいいかも。軽くてすぐ読めそうな物語で、何かおすすめはありますか?」
「なら、これは? ずっと探してるタイトルの分からん本の話」
「何? それ」
「自分が高校生の頃、定年間近の先生が小説の登場人物について話したんやけど……何の本か分からんで……それで調べようとするんやけど、いつも断念してしまう……」
「じゃあ、おすすめにはならないですね」香菜はため息をついた。でも休憩時間が終わるまであと二十五分あるので、会話を続けるために聞いてみた。
「どんな登場人物なんですか」
「船から海に落ちたショックで頭がどうかなって、毎日言葉を忘れるけど、毎日ABCから覚え直す、アメリカ人の少年が出てくる話」
「不思議な話ですね。でもタイトルが分からないなら読みようがないじゃないですか」
「いや、物語はその本じゃなくて、それを言った英語の先生の事やから」
「どうゆう事ですか?」
「地味で目立たんあいそのない男の先生やったよ」先生は一旦言葉を切ってサイダーを飲んだ。「でもクラスで英単語をなかなか覚えられん生徒がおる時やった。そんな登場人物の出て来る小説がある事を先生が突然話したのは。だから何が何でも覚えようとせんでもいいやんって。忘れても、また覚えて忘れてを繰り返せばって」
「は? そうなんですか……」
「面白いやろ?」
「はい。変わった先生ですね。でも気がラクになります」
「そうやろ?」
「学校の先生の発言としては、"んー"かもですね」
「うん。文句ゆうやつもおった。忘れても、また覚えて忘れてを繰り返せばって、そんないい加減でどーなんて。でも……」
「でも?」
「何か仕事の事とかでも覚えても忘れてしまう時とか、失敗した時とか、その先生と先生の言葉を思い出すんよ。あの時の教室の雰囲気とか。春で窓の外は桜が満開やったなーとか。そしたら何か肩の力が抜けて」
「忘れても、また覚えて忘れてを繰り返せばかぁ」
「それが物語。その先生の。いつもそこの場面を思い出す」
「そんな印象的だったんだ」
「何かいくら熱血で色々話しても後になんにも残らない先生もおるのに」
「不思議ですね……」
「こういう物語ならかさ張らんやろう?」
「図書室にはないけどね」
「図書室にはない」
「物語の主人公のその先生は、そうやって思い出してもらえてる事知ったら、きっとうれしいと思います」
「どうやろ。きっと『フフ』みたいにちょっと笑う感じやろうね」
「そういう物語なら私にもあります。でもページをあんまり開けてないんですけど」
「開けてないん?」
「嫌いな話じゃないから、たぶんいつか開けて読むだろうと思います。心の中でかさ張る本だけど、いつも肌身はなさず持ってる感じの物語です」
「なぞなぞみたいやん。じゃ、今度開いて読んでみたらいい」
「そうですね」
「フフって笑うかもしれん」
「え?」
「その物語の主人公が……」
「ああ、そういう事。そう、喜ぶでしょう」
香菜は心の中で
――本当に今度、読んでみよう。ママの物語。きっと私の物語になれた事、喜んでもらえるだろうから――
「あ、今日先生と話せて良かったです。本当は一人きりの四十分は長くて」香菜はサイダーの瓶のロゴをあらためて眺めた。「ね、このサイダー、何かつんと鼻にきますね。涙が出てくる。でも今度買って飲んでみようかな」
ガラス瓶を陽にかざすと、あと半分残っているピンク色のサイダーが瓶の中でキラキラ光っていた。
きみの物語になりたい /タイトルの分からない物語 秋色 @autumn-hue
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