20. 青藍色の旅人

 先週末、桜姉さんと椿姐さんは旅に出ていたそうだ。詳しい話は聞けなかったが、一泊二日、行き先も決めず、直前まで宿もとらなかったそうだ。食べ物はその時の気分で、真っ直ぐに伸びた道を白い軽自動車で進んでいく、そんな旅行だったそうだ。

 その瞬間、二人には素晴らしい世界が広がっていたのだろうと、羨ましく感じた。今までで知らなかった景色をただじっくりと知ることが出来るから。どこにでもあるようなそんな景色すら、特別であると感じられるから。

 私も旅に出たい。

 でも、一人旅は、ちょっと怖い。ちょっと寂しい。だって私は臆病者だから。

 どうせ行くなら、付き添いが欲しい。

 ずっと傍にいてくれて、私に向き合ってくれる人。


「あのね、リラ」


「ん、どうしたの?白菊?」


「えっと、えっとね」


 なんで私は、十数年共にいる彼女を旅行に誘うのに、こんなにもドキドキしているのだろう?


「……この夏、君と旅行に行きたいの」


「……ほう。りょこう」


「……君と二人きりじゃなくていいよ。みんなで行ってもいい。なんなら、まだ話したことのない人でも、関わりのない人でもいい」


「どこ行くの?」


「……それもまだ、決めてなくて」


「……わかったよ。うん。考えとく」


「絶対だよ。約束だよ」


「うん。嘘ついたら、何して欲しい?」


「針千本飲ます」


「……それじゃつまんないでしょ」


「じゃあ、何?」


「つまらないから、ささやかにキスでもしてあげるよ」


 その言葉を聴いて、嘘でもいいかなと思う。

 旅の存在も、倫理の教科書の中の哲学も、この世界の素晴らしさも。

 だけど私は誠実で、切実に彼女の本音を覗きたい。

 彼女だけは、嘘の存在じゃなくて、本当の自分でいてほしい。


「あら、そう。なら、期待してるわ」


 海辺の夕暮れが色濃く染まる中で、私はポツリと切り出す。風に揺れる制服のスカートが、その言葉と一緒に、軽やかに消えていく。


 夏休みが始まった。

 来年もう一度ある、だけどもう二度とは戻ることのない、そんな日々になっていくだろう。


 ✩✯✭


 バケーションが始まって一週間が経とうとしていた。毎日コーヒーのレシートをちぎりながら、バイト終わりに海を見て読書をしながら、ほんの少しの悩み事を考える日々。

 そんな夏の日の午後、目の前に広がっているのはふたつの青。それぞれが異なる質感をもって、視界を満たしていた。雲ひとつない空は透き通った水色。太陽の光が優しく降り注ぎ、どこまでも果てしなく続いている。その下に広がる海は、深く穏やかな紺青。波が静かに揺れ、水平線まで吸い込まれるように続く。空と海が交わる場所には、白い光が淡く線を描いている。


 その遥か彼方には漁船がぽつぽつと点在しているが、遠すぎてかすかに見えるだけ。まるで蜃気楼のように、ぼんやりと浮かんでいる。目を細めると、それが本当にあるのかどうかも曖昧に思えるほどだ。


「エリカとやっと、二人きりだよ〜」


 甘えるように、お姉ちゃんは私に抱きついた。


「うん。沢山待たせて、ごめん」


「……ねえ、キスしていい?」


「今は駄目」


「……お姉ちゃん、欲求不満?」


「うん、もちろん。私、そういうの、けっこう強めだから」 


「……うーん。初めて会ったとき、お姉ちゃんはこんな感じじゃなかったのになあ」


「……あなたが変えたんだよ。あなたが」


 そうだ。あなたがいるからだ。

 あなたがいるから、紺碧の海も、悔しいくらいに青い空も綺麗だと思える。もっと見ていたいと思える。特別だと思える。

 あなたが傍にいてくれるから、私は――


「……エリカ、椿姉に貰ったワンピース着てる」


「……うん。夏っぽいかなと思って」


「……似合ってる、すごく」


「……ありがとう」


 サラリとした手触りのホワイトワンピースは、夏の陽射しに一際映える。着ているだけで涼しさを感じる薄手の生地の中を、風が通り過ぎる度、ワンピースの裾がひらひらと揺れて、気持ちよさそうに広がる。

 私たちは二人揃って海壁に並んで立つ。視界には、波に打ち上げられた流木や砂に埋もれた空き缶が見えるが、それでも海の水は驚くほど澄んでいる。上空では、鳶が翼を広げ、私たちの頭上を幾度も鋭く旋回していた。その鳴き声は、風に乗って凛と響き、海と空を背景にしたこの静かな風景にひとつの緊張感を与えているよう。

 辺り一面、冷たさすら感じるほどに、静かで透き通っていた。


「――ねえ、エリカ。一緒に手を伸ばしてみよう」


 潮の香りを含んだ青嵐が私たちの周りを強く巻き上げ、髪を乱す。それでも、私たちは笑いながら髪を抑え、互いに顔を見合わせた。どこか無邪気で、自然に心が解けていく感覚がした。


「……何に手を伸ばすの?」


「青嵐の向こう……もっと先にあるものに」リラがいたずらっぽく微笑む。「私たちがまだ知らない場所にさ」


 リラはゆっくりと私の左手を握りしめた。握り返すと、その手は温かく、柔らかいけど、どこか頼りになる感覚が伝わってくる。私たちはそのまま、まっすぐ前を見つめながら、広がる青い世界の向こうへ心を馳せる。


「これから私、どうなるんだろう?」


 波が砕け、泡沫と共に弾けた潮が肌に跳ね、さっと冷たい感触が走る。乾いたアスファルトに滴り落ちた潮水は、黒く滲んだ点を作り、それは一瞬で消えていった。目の前の景色は変わらないのに、少しだけ時間が止まったように感じた。


「どうしたの?いきなり」


「いや、なんとなく」


「じゃあ、あなたの手を握ってあげる?」


「ねっ、手を繋ぐと、怖くないでしょ」とリラがふと呟くように言う。


「……私は、まだ怖い。けど、楽しい」と私は正直に応えた。いつも感じる不安や戸惑い。それでも、お姉ちゃんと一緒だと、少しだけ勇気が湧いてくる。


「……そっか」とリラは小さく笑った後、囁く。


「でも、怖いのに楽しめるって、すごいよ」


「……そうかな?」


「うん。だから、私も怖がらずに全力で楽しもうと思って」


 二人でただ波音に耳を傾けながら、少しの間、静かに立ち尽くす。言葉にしなくても伝わる何かがあって、そんな時間が心地良い。


「いつか、あなたと旅をしたい。二人きりで」


 そう彼女がぽつりと話し始めた。


「何で?」


 私は少し驚いて理由を尋ねた。


「……うーん。理由を聞かれると分からないけど、とりあえず一緒にいると、楽しいからかな」


 リラが照れ隠しのように微笑む。

 彼女のそんな表情を、私は初めて見た。


「……私も、お姉ちゃんと旅に出たい」


「じゃあ旅、しよっか。今年の夏は、二人きりじゃないけど」


 その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥に違和感が生まれていた。


「……えっ」


「実はね、白菊に誘われたの。みんなと、旅行したいなって」


「……うん、分かった。じゃあ、三人で、どこかへ行こう」


 少し、緊張する。


「稚内とかどう?私、日本最北端の碑を見てみたい」


「宗谷岬かあ。それならノシャップ岬もセットで訪ねたいね」


「旭川経由なら富良野と美瑛もあり。お花畑とか、動物園もいい。あとは、道中に神居古潭とか青い池とかもある」


「あとは、海鮮丼!ウニ!帆立!」


「そんなお金無いよ」


「大丈夫だよ。なんとかなる!」


 青嵐はまだ私たちの髪を乱し、潮の香りが混ざった風が絶え間なく吹いていた。


 ✩✯✭


 バイト終わりに、エリカとまた外に出た。

 同じ場所なのに、違う時間で全く違う表情を見せる。人もそんな風に、空みたいに自由でいいと思う。しだいに赤く染まりゆく空みたいに、寂しげな明るい笑顔を見せてもいい。真っ青な夜空みたいに、悲しさ一点張りの涙を見せてもいい。そして、それらを否定しないで、抱きしめてあげてもいいと思う。


 魔法を纏ったかのように甘ったるくて、妖しげな色の空の中、中央にそびえる紅い円は、夕闇に映える魔法そのものだった。

 トワイライト。サックスブルーの薄明が山々を多い、下には日で肌が焼けたようなコーラルピンクが、その境目で揺らいでいる。

 雲は、あの日の放課後の教室で生まれた思いみたいに、ほんの少しの風でもかき消されてしまうかのように、ただふわりと浮かんでいる。

 

「クイズ。この空の色の名前は?」


「トワイライト」


「正解」


「……なんで、私たちの家は『トワイライト』なのかな?」


「……私も分からない。名付け親は美雪さんだから、聞いてみた方がすぐ分かるかもね」

 

 手を伸ばせば、そのガラスのような空に指先が触れそうな気がした。けれど、触れてしまったら、きっと全てが壊れてしまう。

 ひとつひとつの色が粉々に砕けていくと、もはや元に戻ることはないだろう。だけどこの空は、見る者の心を揺らし、静かに包み込んでいく。

 壊れそうなほどの美しさが、そこには確かに存在して、ほんの一瞬だけ永遠に続くかのような錯覚を抱かせる。けれどその永遠も、またひとつの幻想で、夜がすべてを飲み込む前の最後の奇跡に過ぎない。

 そんな夕暮れは、そっと語りかけるようだった。「壊さないで」と、「離れないで」と。

 だから私は、その終わりを見守ることにする。

 何も触れず、何も語らず、ただ傍にいる。

 例えこの空の色がいつか変わることを、世界の終わりだとしても。


  次第に空と海の境界は溶け合い、やがて色が重なり始めた。夕暮れが残した微かな光も消え去り、目の前にはただ、深い藍色だけが広がっていく。交わることのなかった空と海が、まるで一つの存在となり、その無限の広がりは、静かに周囲を包み込む。

 エリカは、少しの間を置いてから、ふと呟くように言った。


「……ねえ、お姉ちゃんはさ、どうして私を選んでくれたの?どこにでもいるような、ただの私を」


 その問いかけは、心の奥底から、静かに響いてくるような震えを起こす。私は、その言葉を丁寧に受け取って、優しく返す。


「うーん……『だからこそだよ』って言ったら、答えになるかな?」


「……まだ、よく分からないかも」


 エリカは少し困ったような表情を見せた。私は、彼女に少しだけいたずらっぽく微笑んでから、続けた。


「そっかぁ……じゃあ、いつか分かるようになるために、これから教えてあげるね。少しずつ、ゆっくりと」


「……そのとき、いつか分かった瞬間は、またお姉ちゃんに甘えちゃうかも」


「いつでも甘えていいよ、エリカ。私はいつもここにいるから」


「……でも、最近は少しずつ自分で頑張ろうって思い始めたんだ。成長しなきゃ、って」


「それはすごく素敵なこと。でも……ほんのちょっとだけ、寂しいかな」


 私は、空を見上げた。無数の光が、まるで永遠に続くかのように瞬いている。星々が広がる夜空は、あまりにも広く、そして美しかった。エリカも同じように、静かにその空を見上げていた。


「……星、綺麗だね」


「……ほんとにね。じゃあ、この中で、一番輝いてる星って、どれだと思う?」


「うーん……あの右側にある星かな。ほら、あれ、すごく光ってる」


 星空を見上げていると、やがていくつかの星々が形をなして、静かに北の空に浮かんでいるのが分かる。

 その中でも、ひしゃくのような形をした星々が目に留まる。ひとつ、ふたつと目が星を辿っていくと、それが北斗七星だと分かる。その形作った星たちの縁にある二つの星を結んで、その延長線上に少し目をやると、まっすぐに一点、特に動かずに輝いている星がある。

 そうだ。どんなにたくさんの星が瞬いていても、あの星だけが、私にとって唯一無二の優しい光を放っていたのだと。


「ねぇ、エリカ。その星の名前って知ってる? 」


「分かんない」


「北極星って言うんだよ」


 またの名を、ポラリス。

 北の方角に浮かぶ、眩しい光を放つ二等星。はるか昔の大航海時代。荒波を越えて遠い異国の大地に辿り着くために、旅の目印となってきた星。

 その星は、そこから何百年経った今も、ただ静かに確かに光を放っている。どんな時も同じ場所で光を放ち、暗闇の中で迷った時に道を示してくれる。


「どんなにたくさんの星がある中でも、北極星だけは、一年中、変わらない場所にいるんだよ。、いつも同じ場所で輝いてるの」


「へー、ロマンチック」


「あんまり興味なさそう」


「だって星とかそんな詳しくないし」


「でも、綺麗でしょ?」


「そうだね。何かに惹かれて輝いてるのじゃなくて、自ら光っているように見える」


「エリカみたいに、ね」


「……そんなことないよ。私はただ、あなたに導かれた。あなたが眩しいから、その反動で私も明るくなった」


「ねえ、お姉ちゃん」


「何?」


「手、触っていい?」


 人差し指と中指と薬指の三本の爪を使い、エリカは私の腕をなぞる。指が触れる度、柔らかく繊細なその動きが、肌の表面を滑っていく。

 性感帯でもないのにそれがくすぐったくて、全身がぶるっと悶えて、少しだけ笑いが漏れる。


「フフっ、やだ。くすぐったい」


 耳元でこしょこしょ囁いて、仕上げにやさしく耳を吹きかける――いつも、私もこういうことを、エリカにしているんだ。

 今はその仕返しをされているのだと思うと、微笑ましいと同時に、もっと彼女を弄っていたいと思った。


「エリカ、お姉ちゃんにそういうことするようになったんだ」


「えっと、うん」


「……生意気ね」


「あっ、えっと、ごめんなさい」


「冗談だよ。怒ってなんかないよ。でもあなたは良い子だから、してはいけないことくらい、分かるよね」


「あっ、はい」


「よしよし、偉いわ。賢いわ」


「……あと。それとね。ありがとう、お姉ちゃん」


 その瞬間。

 エリカは私の手の甲に、そっとキスをした。

 彼女の唇は冷たくて、妙に青々しい空気を纏っていた。


「これが、私の優しさ。あなたへの、ささやかな恩返し」


 私は思い出す。大雨が降って、喧嘩したあの日。怖がったまま、寂しがったまま、それでもあなたは、ありのままの思いを伝えてくれた。

 だからあなたの声は、強い鼓動のまま、私に届いた。星の光が空を越えて届くように、あなたの心が、そっと私に触れていた。

 遠いはずなのに、その光が繋がって、まるで手を取り合うように抱きしめ合って、お互いの存在を確かめ合っている気がした。


「今度は、あなたの番だったのね」


 今、私は思う。

 彼女の姉として。彼女を愛する人として。

 ――北極星が、遠くの空を目指す旅人たちを導くように。暗い夜でもくっきりと光り輝くように。

 あなたは綺麗で、決して弱くなんてない。

 キスの後、エリカが夜空を見上げて言う。今までよりも強く、それでも今まで通りの、すっと受け入れられる優しい声で。


「星の名前とか、星座とかは詳しくないけど。私にとって、ここから北極星までの距離は多分、これから起こりうるであろうかけがえのない出会いを表した旅の尺図みたいなもので――だからあの星は、思いが変わってしまう中でも、変わらずそこにある道標なんだよ」


 エリカも、私にとってそんな存在だった。

 もちろん、この煌めく星の中で――世界には星の数ほどたくさんの人がいる中で――エリカを見つけるのは簡単じゃなかった。むしろ、私はあのとき見えてなくて、エリカの方から私に近づいてきた。

 でも今この瞬間、あなたはずっと変わらず、私の傍で輝いている。


「……じゃあ、あなたは大丈夫だ」


「そう。私が生きていけるなら、お姉ちゃんも大丈夫。だから、みんな、浅くてもいいから息をし続けて、安心して今を生きていられる」


 エリカは静かに、でも確かに私の言葉を受け止めているように見えた。いつか彼女が、自分自身の光をもっと強く輝かせる日が来るだろう。それでも、私はきっと、ずっと彼女を見つめ続ける。北極星のように変わらず、そこにいてくれると信じているから。


 ――私は心から、生きていたいと思う。


 私が彼女に近づいて、その傍で彼女が私を悲しそうにそっと見つめているとき。私はその光を掴みにいく。

 そんな瞬間の訪れを、ただ待ち続けていたいと願う。今夜、二人で肩を寄せ合いながら、じっと星を見つめるみたいに。


 ✩✯✭


 私と海と空と――それだけじゃなくて、この世界を丸ごとを包み込むような青嵐が吹く。


 現在の時刻は深夜2時23分。

 ブラジャーの下に、白のワンピース一枚。おへそと下着はその白から少しだけ透けて見える。脇の下が冷たくて、腕には鳥肌が立って、私は小さくくしゃみをする。

 今夜、私はトワイライトから一人で抜け出した。一人抜け出して、いつもの海をめざした。

 懐中電灯とライター、それとたった2枚の紙切れを手にして。

 真っ暗闇の世界。だけどその黒は、果てしなく純度を高めたような冷たい青色のようにも見える。だけど同時に、見ているだけで心が深く吸い込まれていくような温かさも感じさせた。まるで、その藍色に包まれた瞬間、世界の全てがただ一色に溶け込んでしまったように。

 藍一色の世界は、きっと今に至るまで、いろんな人が見てきたのだろう。

 生き続けることを選んだ人も、息絶えてしまった人も、そして、今、この場所に生きている多くの人も。

 そして、こんなことを思っていたに違いない。


 自分という存在が、この広がる藍の中でどんな意味を持つのかは分からない。

 だけどこの青藍を見ると、心は月の光に揺れる波のように震えてしまって、自分をどこかに連れ去ってしまう。


 純粋で、どこまでも澄んだ色なのに、その中には無数の青の世界が複雑に折り重なっているような深みがある。その色は、冷たく美しく、触れたら心地よいのに、手を伸ばすことをためらわせる。それはまるで、ラピスラズリのペンダントだ。静かでありながら、どこかしら動きを感じさせる不思議な感覚。時間すら止まってしまったかのような静謐の中で、その藍色はひっそりと息づいている。


 防波堤に辿り着く。冷たい潮の香りが漂う中、ふと空を見上げると、砂金のように星が散らばっていた。

 前を向くと、青白い光を射したスパンコールたちが波の狭間で煌めいている。彼らの鳴らす満ち引きは、そっと目を閉じていてもかすかに聞こえてきた。空と水面が溶け合うように広がるその音は、どこまでも続く夢のよう。

 柔らかな白い砂に足をとられながらも、歩いて行く。体の先がとても冷たい。

 私は、どこに行けばいいのだろう。

 どこまでも続く夢の中を巡って、どこでその夢に終わりを告げればよいのだろう。


 行先も分からないけど、這って行く。

 この果てしない道を。この、青藍に染まりゆく道を。


 今夜――いくつもの星が降る夜、その青の中に消えていったに、さよならを言うために。


 私の手の中には、桜さんの部屋から持ってきたジッポー製のオイルライターがある。

 金属の表面は長い年月を刻んで、少し鈍く光っている。盗んだようにこっそりと隠して握ってきたからか、拳からは埃っぽい鉄の匂いがした。

 カチン、と軽い音がして、火花が跳ね、橙色の小さな炎が揺らめく。まるで、この暗闇の中で、命がひとつだけ燃え始めたかのようだ。


 あの放課後、くしゃくしゃにした遺書をそっと手に取り、静かにその炎に近づけた。薄い紙がゆっくりと熱を帯び、端から黒く焦げ始める。

 ただ一点の光り輝く星を見上げる。

 ポラリス。またの名を、北極星。

 祈るようにして付けられた、この不動の星の意味。


「人に尽くす誠意と同情」

「弱者への理解」

「情愛・情熱」


 優しさを思うときは、真っ暗闇な夜空で探し物をしている、そんな感覚に近い。手を伸ばせば掴めるほど近くにあるはずなのに、その場所が遠すぎると錯覚していて、分からない。

 私の心の中には、夜空を照らす微かな星の光がない。分からないまま進んで、その光がいつか見えるかどうかも分からない。分からないことだらけの私が、何が起こるか分からない世界を生き延びれるかも、分からない。

 そんな惨めで無知な私が、知らない誰も寄せ付ける為には、分からない何かを知る為には、優しさが必要だった。

 だから祈りなんて無駄かもしれないけど、願うことで少し報われる気持ちがあるのなら、私はこれからもずっと、静かに手を合わせていたい。


 世界中の青を集めて重ねたような深い青藍の海と、夜の匂いが溶けだし、幾多の星が煌めく空。その境界線の防波堤で、死への永遠が紡がれた言葉の束を、私は燃やした。


 私がこの夏、初めて書いた、あなたへの手紙とともに。


 ✩✯✭


 拝啓 孤独に寄り添い、孤独と戦い続けたあなたへ


 あなたが亡くなって15年。それは即ち、私が15年生きたということです。


 そっちの世界はどうでしょうか?

 嵐が吹く夜みたいに、私には想像つかないような冷たい世界でしょうか?

 それとも夏の暑さもうだるような、灼熱の世界でしょうか?


 ――そうですよね。真っ黒な世界の中、独りぼっちは怖いよね。


 だけど、そんなに心配しないで。もう自由にしてあげるから、大丈夫だよ。辛いことも苦しいことも、もう目にしなくて済むよ。

 まずは謝ります。あなたが死のうとしたとき、私はあまりにも無力でした。

 その当時、私はこの世界のことを何も知らなさすぎて、泣き声しか出すことしかできなかったから。

 出来るなら、あなたに向き合っていたかった。抱きしめてあげたかった。一緒に泣いてあげたかった。悴んだ手を繋いで、どこか遠くへ逃げようって言ってあげたかった。冗談じゃないですよ、ほんとにほんとです。

 その孤独に寄り添うことができなくて、思いやることができなくて、本当にごめんなさい。

 その後にこんなことを言うと卑怯だけど、あなたのことはよく知りません。何なら生まれてから顔すら見たことがないし、声も聞いたことがありません。憶測ばかりで申し訳ないですが、あなたは私よりも声が低くて、すっと心が受け入れてくれるような綺麗な声をしてるのでしょう。一度でいいから、あなたのことを、あなたの目の前で、「お母さん」と言ってみたかったなあ。そして、どんな声で私の名前を呼んでくれるのか知りたかったなあ。

 しかも私は、あなた自慢の手料理を食べたことも、それを食べて美味しいと答えたこともありません!だから、私の夢見ていた生活の話をしましょう。あなたと私は、狭い1LDKのアパートに二人きりで暮らしていて、台所に二人並んで、料理を作っているんです。でも、あなたは大事にしていたステーキ肉を焦がして、私はお皿を割ってしまいます。きっと、二人揃ってこの世の終わりみたいな顔をしながら、真っ黒な焦げたお肉に齧りついているのでしょう。


 ――そんな風に一生悲しいことばかり考えて、自分を責め続けて、意味もわからぬまま涙に溺れて、それでもそんな思いの中で、笑い合って生きていくんです。


 ああ、話が逸れてごめんなさい。

 最後にこれだけ、今まで言えなかったので、言わせてください。


 私を産んでくれてありがとう。

 私はまだ何者でもなくて。目線が下をむいたままで、人より上手く話せないけど。外に出るときはいつもお腹痛くなるけど。嫌なことから逃げてばっかりの日々だけど。

 それでも、この街に来て、ようやく笑顔を出せることができました。


 これから、私は旅に出ようと思います。自分というものを探す為に。尊敬できる誰かを見つける為に。その旅の中で、あなたの名前を追い続けていく為に。


 だから、そんな私をたまには見ていてください。

 生き続ける私を見て、あなたらしく妬んで、嫌っていてください。

 私はそんなあなたをたまに思って、時には泣いて、いつかは笑えるようになります。


 どんなに辛くても、無理はしないでね。

 少しくらいは、身体と心を休ませていてください。

 そしていつか、二人きりでお話しできることを祈っています。


 それまで、どうかお元気で。

 また逢う日まで、おやすみなさい。


 ✩✯✭


 無くした日々の欠片。

 交わせなかった会話の続き。

 誰にも気付かれなかった憂鬱の在処。


 最低な夢を見ていた私は、目前で燃える光の粉の行く末を気にかける。言の葉の束が燃え上がり、空気に溶けていくように、ひとつひとつの文字が消えていくのを、ただじっと見ていた。

 初夏の訪れを告げる風は、もう既に止んでいる。それなのに、炎は小さく揺れながら紙を包み込んでいく。あなたの遺書と私の手紙は、かすかに立ち上る煙を残しながら灰となって、焦げた匂いととも海に落ちた後、煙となって、北極星の光が指さす夜の空に消えていった。


 海の波がそっと岸を撫で、火の光も煙もすべてが闇に溶け込むその瞬間。しばらくの間、私はただ黙って立ち尽くしていた。


 ――ああ、終わっちゃった。


 私はライターの蓋をカチンと閉め、暖かな灯火を消した。

 奇跡は起こらない。それで構わない。

 世界は私の中で、無慈悲に終わりを告げて、どうしようもなく始まっていくから。

 何か大切なものを失ったとしても、全てが終わる訳じゃない。そこからまた、進んでいけばいい。


 ――だけど今日だけは、ここにいたい。


 儚い夢の中から覚めるような感覚で、夜縹の中の道を、独りで歩いた。

 家に着くと、そのまま崩れるように玄関の床に座り込んだ。

 すると、人影が見える。振り向くと、風で前髪が崩れた桜さんが視界に映る。


「……なんでこんな身勝手なことするの」


 彼女のその声が、普段とは違う冷たさを帯びて私の耳に届いた。


「……えっと、ごめんなさい」


「一体どういうつもりなの!こんなことして、自分がどうなるかなんて考えなかったの!」


 その声は、いつもの優しい穏やかなトーンとは違い、明らかに怒りを含んでいた。


 私が何も言えずにうつむくと、桜さんは少し苛立ったように息を吐く。


「どうして何も言ってくれなかったの?あたしは別に、夜になったら黙って寝ろと言ってる訳じゃない。ライターなんて、言えばいくらでも貸してあげる。こんな無茶なことを一人でやって……何を考えてたのかって聞いてるの!」


 その声には、怒りだけでなく、はっきりとした心配が滲んでいた。言葉の一つ一つが鋭く、胸に突き刺さるようだった。


「もし何かあったら、どうするつもりだったの?あなたが倒れたら、誰が助けるの?あなたは知らないと思うけど、ここの海は夜になると低体温症になりやすくて、波も荒くなりやすい。もしあなたが溺れても、誰も助けてあげられないよ?」


 桜さんの声は、次第に少し震え始めていた。まるで、自分でも感情を抑えきれなくなっているような、そんな不安と焦りが混じっていた。


「……でも、波はおだやかでしたよ」


「あたしはそんなことを聞いてるんじゃない」


 桜さんは、目に涙を浮かべながら、私に縋り付くように震えた声で言う。


「……あのね、エリカ。しっかり聞いて、ちゃんと理解して。お願いだから、何も言わずに、どこかへ消えないで……私はあなたのことが、心配でたまらなくて、まだ傍にいてあげたいの」


「ごめんなさい」と言い、私はライターを彼女に渡す。


「……あたしは別に、ライターを何も言わずに取っていったから、こんなに怒ってるんじゃないの」


「遺書を燃やしてたんです、あの日の」


「……それに、何の意味があるの。こんな時間に、死んでもおかしくない場所で」


「……意味なんてないんですよ。でも、それに意味があると信じてしまうから」


「……そんなの、駄目。あなたはどうして――そんなに。無茶で、無意味で、繊細で、優しいの?」


「優しくなんかないですよ。ただ、祈ることは、人として当たり前のことです」


 悲しい声で、「一人きりで、寂しくなかったの?」と言いながら、彼女は私を抱きしめた。

 好きよりも重くて、愛よりは軽い思いで。

 言葉の中で、しっかりと教師としての桜さんが息づいていた。

 私は「はい。怖かったけど」と答える。

「そう」と彼女は相槌を打って、会話は終わった。

 その最後の言葉は、彼女の怒りを超えて、悲しみほんの少しの安堵が入り混じった声だったように感じる。


 意味の無いことに無茶をして、案の定何も残らなくて、こっぴどく怒られる。それでも心のどこかではしっかりと進んでいる感覚があって。


 ――もしかして、大人なるって、こういうことなのかもしれない、と思ったりした。


 ✩✯✭


 その夜、あたしはエリカを初めて叱った。真夜中に一人で海に行って、真っ暗闇に近づいた彼女に。

 彼女が寝坊したときも、勉強に付き合ってあげたのにも関わらずうとうと寝ていたときも、じっと見つめて爪を噛んでいたときも、注意不足で皿を割ってしまったときも、あたしは彼女に何も言わなかったのだ。何もこの口で言えなかったのだ。


 ――あたしはエリカに、どう接すればいいのだろう。本当に、あの子はいつも、何を考えているのだろう。


 ずっと分からないことを考え続ければ、強く雨に打たれるような、けいれんに似た頭痛が起こる。リビングでその痛みを抑えていると、一つの足音がこちらに向かってくる。

 足音で分かる。夜中とは思えないほどの軽快な歩調のリズム。その音で、心が拒絶する。

 可愛くて、知的で、才色兼備な――はっきり言うと、あたしが世界でいちばん嫌いな人間だった。


「ごめんなさい」


 リラは頭を下げて私に謝る。


「何であなたが謝るの?」


「だって、寝てたのよ。一緒に。もし私がその時起きてれば、彼女を止めれたかもしれない」


「……気にしないでよ、そんなこと」


 あたしは慰めるように、妹の頭を撫でる。風呂上がりのヘアオイルで艶めいた、ロングヘアーの芳香が漂う。


「ほんとはね、エリカを自由にしてあげたいの。でもね、大人として見守る責任があるから、ここの保護責任者として、心配でしょうがないの。だって彼女は弱いまま、どこへだって行ってしまいそうだから」


「違う。エリカは、弱くなんてない」


 そう。あなたの言うことも理解出来た。

 あの時、大人になる前のあたしだったら。

 校舎の煙草をふかして、未来のことなんてどうでもいいと思考を放棄していた、高校生の時のあたしだったら。

 だけど、尖りが納まって、丸まりきった心の前では、そんな言葉は無力に等しかった。


「何も違わない。彼女は弱いから、何も言わずにどこまでも行くし、だからこそ心細くなって、他人に優しくするんだよ」


 会話が止まって、部屋が静まり返る。この静まり返る時間が、あたしの生活の中で二番目に嫌いだ。


「……私、やっぱりあなたのこと、大嫌いだわ」


「あっそ。勝手にしろ」


 おやすみの一言も言わず、私たちは離れ離れになる。だけど明日にはまたすれ違って、対話のないギスギスした関係が積み重なっていく。


 ああ、心って、なんで素直になれないんだろう。

 もっと、あの子みたいに、伝えられれば、こんなに苦しまなくていいのに。

 こんな関係も、早く終わらせられるのに。


 ボロボロになったノートを開いて、あたしは今日の日記を書く。眠気が充満した脳内で、言葉を捻って。

 高校の時から始めて十年目。

 一年に一冊書き終えるとして、今日がその十冊目の最後のページになる。


 痛々しくて、尖っていて、病んでいる単語の集まり。十年もの間吐き貯めた、意味の無い言葉。だけど明日から、その海の中で言葉を泳がすことはない。

 少しだけ大人になろうと思ったから。

 弱いものを守るため、少しだけ強くなろうと思ったから。

 だから今日で、最後のページにする。

 日記を書き終えたらどうしようか。

 彼女みたいに、ライターで燃やそうか。


 書きながら、そんなことを考えていた。


 ✭✯✩


 2024年8月4日


 今夜の空の色と、旅人である彼女について


 空が夜の帳を下ろし、星々が静かに輝くその時、わずか15歳の旅人はひとしずくの涙を頬に溜めた。彼女の祈りは、時の風にさらわれ、空の彼方へと消えゆく。


 空には、深い藍色のしじまが広がり、流れる雲がその影を落とす。過ぎ去った日の記憶が、静かに心の奥底に溶け込んでゆく。


 灯火は語らぬ言葉を星に散らし、星はその光で道を照らす。

 今はぐっすりと眠りについた彼女の心の中に残るのは、たった一夜の感情の記憶と、ささやかな光の粒たち。


 そして、青藍の彼方へと消えゆくあの人の姿を背に、夜風がひとときの安らぎを運ぶ。

 それを見て安心した彼女のさすらいは、これからも静かに続くのだろう。


 いつか旅路の終わりに、青藍色の旅人は微笑みながら、今日に似た夜空を仰ぎ見ることを願って。


 追記


 今日はいっぱい怒ってごめんなさい。

 びっくりしたよね。いきなり怒鳴って。

 だけど先生も、あなたに少しだけ伝えたいことがあったの。

 あなたのことを「好き」にはなれなかったけど、あなたが大人になるまでのほんの少しの間だけ、まだ隣にいて守ってあげたいって。


 不安だよね。

 未来も、その中で生きてる自分も。そしてなんにも無い今、それを想像するのも。

 分かる。分かる。抱きしめてあげたいくらいに、もう全部分かる。

 でも大丈夫だよ。10年前、先生もそうだったから。

 不安でしょうがなくてもう嫌だったけど、それでも今思うの。

 何も考えなくても、未来なんてどうにかなる。お酒と、その傍で愛してくれる人がいれば。


 だから安心して。緊張しないで。急いで走ったりして、無理しないで。

 あなたなら、上手く進めるから、絶対。


 ✩✯✭


 思いを伝えられないから、私は書いた。

 誰にも気づかれない場所で、そっと火を灯すみたいに。

 最後まで書いてノートを閉じた瞬間、私は椅子に座りながら、テーブルに突っ伏したまま、そっと眠りについた。


 ――きっと、あたし達は、これから見る夢の中で、どこまでも行ける。二度とない思いの中で、一歩一歩確かめながら、旅するように。




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リラの蕾を芽吹かせて 一ノ宮ひだ @wjpmwpdj

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