19. 凍えた声に灯をつけて
花を摘むみたいな丁寧な所作で髪を整えながら、息を荒くする彼女は言った。
「ごめん。こんな朝早くに。絶対、あなたをみたいなぁって」
「いつでも見れるじゃん」
「違うよ。この店でバイトをするあなたを、世界で初めて見たかったの」
「世界で一番最初ではないけどね」
樹里さんがにっこりと笑うと、ひまはぶっきらぼうに作り笑いを浮かべた。
「時間はあるの?」
「まあ。10時から部活だけど」
「10時!?ダメでしょ!ここから咲高まで30分はかかるよ!なんで今日きたのよ!」
「だって、今日がよかったんだもん」
「遅れたら怒られるでしょ?」
「怒られるくらいなら、全然へっちゃらだよ」
「そんなことないでしょ。強がり言わないで」
「……ご注文は?時間、ないんでしょ」
樹里さんが私たちの会話を遮ると、ひまは急いで答えた。
「レモンのやつと、シナモンアップルのダブルで」
私はすぐに作業に取りかかる。料理部で培った手際の良さを発揮すると、樹里さんに「いいね」とわずかながらに褒められる。
褒め言葉を胸に閉まって、私は夏の日照りみたいな薄い黄色のジェラートと、琥珀色の宝石が散りばめられたジェラートをカップに入れる。ひまにそれを手渡すと、少しだけ照れくさそうに私の視線から目をそらしながら、ジェラートを小さなスプーンですくい、丁寧に口に運んだ。
「……どう?おいしい?」
「うん、甘すぎなくて、ちょうどいい感じ」
樹里さんが言う。
「うちはね、素材本来の味を引き出すことをコンセプトにしているんだ。流行に乗っかった華やかな味や見た目はないけど、その分なんの飾りもない『ありのままの良さ』を表現できる。まあ、その為に毎週毎週店に引き篭ってあれやこれや試行錯誤するんだけど」
「いいですね、かっこいい。私もそんな風に、率直に何かを追求していきたいです。ね、すみれ。これからも、こうやって一緒にいろんなものを食べに行きたいな」
色んなもの食べたいと言うのを、告白するみたいな口調で言っていて面白い。冗談めいてひまは笑うけれど、その笑顔には、少しだけ本気の期待が混ざっているように見えた。
「地球を救うのは愛なんかじゃなくて、食べ物なんだと切に思うよ」
「でも、料理にはきっと愛がこめられている」
樹里さんがそう答えると、さっきまで強張っていたひまの笑顔が、陽にあたって溶けるジェラートみたいに柔らかくなる。そして、彼女は再びジェラートに目を向けると、私はそんな彼女に本能が刺激されて、やっぱり守ってあげたいと思っていて。
そんな風に、私たちの間には目には見えなくて言葉でも伝えられない何かが生まれている。それがもし本物の××だとしたら。
――少しだけ、素直に生きていこうと思った。
「あー、部活かあ」
「ボールをドリブルしながらコート周りを走るの、めんどくさー。でもさ、叱ったり怒ったりするのも優しさだよね。冬が暖かくて、夏が冷たいのと同じように」
「……ひま、どういうこと?」
「この世の全ては、表裏一体ってこと」
「……てんでわからね」
「おー、すみれが方言使ってるの、初めて見た。なんかギャップ萌え」
実を言うと、方言を使うと周りから馬鹿にされて、変な目で見られる。だからそんなものは、生活の中で、本当に気を惹きたいときや、相手について本当に知りたいと思うときしか使わないことにしている。
「じゃあ、私のギャップ萌えも、教えてあげる」
「唇、触ってみてよ」と彼女はそっと囁いた。
「冷たいもの食べると、心も身体もひんやりしちゃうんだよ」
そう言って、ひまは唇に指さす。いたずらっぽい笑みを浮かべながら。
私はそっとその冷たさに触れる。
一瞬、周りの音が遠のいた気がした。指先が彼女の唇を優しくなぞるその動きに、心臓の鼓動が少しだけ速くなる。軽く触れるだけで伝わる冷たさに、私の手の温もりが移っていく。
「……冷たい」
私はふと思う。子どものころ、大切な宝物をお洒落なお菓子箱に入れて、押し入れに閉まっておいたみたいに、心の中で声にならない言葉になって。
いつか死んでしまうのなら、あの世は冬がいい。もちろんそこには真っ白な雪が降っていて、今この場所よりは当然の如く寒いけど、それでも悴んでいる誰かの声を温められるなら、私はいつまでも、その銀世界の中で、終わりのない雪道を歩いていきたい。
「私は、あったかい」
「唇、あったまった?」
「うん。今私の声が震えていないのは、凍えた声にあなたが灯をつけたからだよ」
「じゃあもう大丈夫ね」
「いや、まだ足りない。次は、エネルギーチャージ。ほら、頭撫でてよ」
「……樹里さんが見てるんだけど」
「見られて減るもんじゃないし」
「……もー、よしよし」
「……あー、落ち着く」
「いい子、いい子」
「それ、好き。気持ちいぃ」
「はい。お終い。部活、遅れちゃうよ」
「うん。多分遅れる。んで怒られる」
「まったく、無茶しっぱなしなんだから」
自転車の鍵を開ける。空元気で甲高いその音が、彼女の声色みたいだ。
「じゃあ、また今度」
「うん、いってきます」
彼女は懸命にペダルを漕ぐ。その音は、砂利道を走る軽トラックのように、不安定だけど力強い音だ。
ひまの背中が見えなくなったとき、胸の奥がほんの少しだけ締め付けられた。いつも一緒にいるのが当たり前だった彼女と別れた瞬間、私は自分が感じている寂しさに気づく。彼女がいないと、こんなにも静かに感じるものなのだと。
だけど寂しいということは、きっとまた会いたいということだ。つまり、また会えることを信じているから、まだ私の心はまだ正常に動いている。
「……あなた達、仲良いんだね」
「……はい」
「……いい友達だ」
「言っとくけど、そんな関係じゃないですよ」
「じゃあ何なのさ」
「『友達』とは呼べない、それ以上の繋がりがあるけど、かと言ってピッタリな呼び方はない。でも、赤の他人から見るとそんなしょうもない関係になるってことは、私たちはまだまだ足りないですね」
「……うわぁ。ひねくれてる」
「……まだこれでも素直になった方ですよ」
「……どこがよ」
ため息をついた後、樹里さんは言った。
「あーあ。もしかして、とんでもない子を雇っちゃったかもしれない」
❀
学校では誰もが平和で、楽しそうに過ごしていた。童話の中に登場する、悲劇が起こる前の王国みたいに、いつもみんながじゃれ合っていて、明るい声が飛び交っていた。友達同士が放課後の予定を楽しげに話し合う中で、みんなが幸せそうに見えた。全てが順調で、何も問題はないかのように。
だけど、エリカだけは違っていた。
彼女だけは、なぜか悲しそうで。
学校にいる時の彼女は、下を向いていて、作り笑いをして、極度に人目を気にしているように見えた。
入学二日目、彼女はあたしにこんな質問をしてきた。
「私って、普通ですか?」
「普通じゃないね。そういうことを言うくらいには」
「声とか、顔とか、髪とか、臭いとか、歩き方とか、大丈夫ですか?みんな変な目線で私のこと見てないですか?」
「大丈夫だよ、本当に」
この世界に、入学して間もないのにそこまで気にする生徒がこの世にいるだろうか。それに学校では「先生」、家では「さん」と、律儀に呼び方を変えてくる生徒が、未だかつて存在しただろうか。
知らない彼女を知ろうとするのは少し怖かった。そして怖いまま突き進んで、一度失敗してしまった。だけど、今なら怖くない。
一学期終業式という浮ついた空気の中で迎えた忙しない朝に、私は告白しようと決めた。決めたのなら動き出すしかなくて、彼女を部屋に手招きする。
「エリカ、ちょっとこっち来て」
「はい」
「……いきなりだけど、あなたは、みんなと同じじゃない」
「ちょっとよく分からないけど、私は、普通じゃないってことですか?」
「うん。人一倍繊細で、人一倍敏感。だからこそ、何かに人一倍苦しんでいて、その反動ですごく優しくて。だから人には見えないものが、あなたにはすごく鮮明に見えるのだと思う」
「『優しさ』って、何なんですかね。みんなが口を揃えて言うけど、結局は何の個性もないから、その言葉に縋ってるだけじゃないかって、時々思うんです」
ああ、そうか。彼女は優しすぎるから、その優しさの正体が分からなくて、だからこんなにも苦しんでいるんだ。あたしには想像できないことも、彼女は感じ取ってしまうから。
「そう思っているなら、あなたはあなた自身に満足していないってこと?」
「はい。大嫌いです」
だけどあたしは、その「嫌い」と言うエリカを、好きになった。
「じゃあ、こうしてあげるよ」
その瞬間、あたしはただ、抱きしめた。胸が苦しくなるくらい、彼女を抱きしめた。
「……桜さん、苦しいです」
彼女の顔にあたしの胸が当たっていて、当然のことみたいに苦しそうだった。
だけど、暗闇の中を探るような正体不明の何かに怯えきった瞳の奥も、本音が見え透いて震えている声も、全身全霊を捧げて、すべて包み込んであげたいのだ。
「苦しくていい。そうじゃないと、伝えられないものだってあるから」
「思いが、重いです」
「ごめんなさい。こんなところ誰かに見られたら、嫌だよね」
「いえ。私、好きですよ。誰かに見られるの。ニコチンの臭いはするけど、なんか落ち着きます」
「私もね、好きだよ」
「……桜さんにとって、『好き』ってどんな意味ですか?」
「99.9パーセントのライクと、0.01パーセントのラブ」
「もう、職権濫用、ですよ」
彼女の髪を撫でる。触り心地のよい、彼女らしい匂いのする髪。アッシュのかかった紺色のショートヘアは、夜の海のように吸い込まれてしまいそうな深い色合いで。短く整えられた髪に触れるたび、波のように微かな銀色の輝きを放ちながらさりげなく揺れる。
頭皮からは彼女だけの匂いがする。柑橘系のシャンプーの残り香がのった、彼女からしか嗅げない匂い。彼女に染み付いたその体臭を鼻から勢いよく吸ったせいで、心は落ち着いていた。それを別の言葉に置き換えると、快楽に堕ちる感覚が、既に脳内を支配していた。既にもうおかしくなっていて、取り返しのつかないことになっていた。
「……臭いますか?」
「……ごめんなさい。好き。大好き。守ってあげたいくらいに、好きなの」
――脳裏には、人生最悪の未来が思い浮かんでいる。
懲戒免職処分。教員免許剥奪。不同意わいせつ罪容疑。無職実名報道。
今この瞬間、リラにナイフで刺されても文句は言えない。むしろあたしが全力でリラを擁護すべきだ。悪いのは未成年に性的な目を向けて手を出したあたしです。あたしが妹の代わりに刑務所にいきます。みたいに。
卑猥な行為を犯したあたしが何を思っているのかも知らずに、エリカは苦笑しながら言う。
「……教師なのに、こんなことするんですね」
「……ごめん。あたし、もう屑だよ。教え子にこんな変なことしてる、生きる資格ないゴミ人間になっちゃった。だからね、あなたはこんな大人になっちゃ駄目だよ」
「桜さんは良い人ですよ。毎日頑張って、一生懸命働いて、私の気遣いだってしてくれる。それの何が悪いんですか」
「そういうこと言うから、あたしは甘えてしまうの。あなたに、勘違いしちゃうの」
「別にいいですよ、これくらいなら。だってこういうことされるの、私も、ちょっぴり、好き、だし」
「……じゃあ、あなたは怖くないの?あたしのことが」
「……全然。だって、私たち、家族ですよね?」
――ああ。なんでこの子は、こんなにも優しいのだろう。
あたしは、物事を考えるとき、一つだけの答えを導き出すのが嫌いだ。だって、たった一つのもののためだけに、他の全てを否定しなければならないから。
だけど、人が生まれつき持っているものの美しさにはどうあがいても勝てっこなくて、それを初めて見たとき、あたしはただただ憧れていた。好きだった。
そしてそれは、実質的な敗北宣言だった。
「あたしの我儘だけどね、あなたはみんなと同じにならなくていい。ずっと優しさに怯えながら、本当の優しさを探していてほしい。答えがないのは決められた正しさに追われ続けることで、すごく怖いかもしれないけど、その分誰よりも、人を思いやれる女の子になってほしいの」
「フフっ。桜さん、すごく教師らしいこといいますね」
「いや、教師として、どうかしている。あたしは、反面教師だ」
「私、最初に桜さんを見たとき、すごく多幸的な人だと思ってたんです。お酒を飲んだくれて、脳内は大雑把な考えばっかり、色んな趣味を持って、悲しいことなんてなくて楽しい日常を過ごしている人だと。でも接していく内に、印象が変わっていって。一生懸命現実に向き合って、他人のことをしっかり支えてあげる人格者。でも時々心細くなって、少しだけ人に悲しさを擦り付けることもある」
彼女は続ける。
不器用な伝え方だけど、しっかりと意味のある言葉。
「だけど、私は大好きです。人として、教師として、いつも側にいてくれる人として。だって優しいから」
「優しくなんかないよ、自分勝手なだけ。だって、踏み込んではいけないところは、踏み込まないのが優しさだから」
「だけど、あの日、桜さんが言ってくれたおかげで、私、分かった気がするんです」
「私は、旅に出たいんだって」
「旅行ってこと?」
「……それもあるんです。だけど」
エリカはあたしを見る。
今までの逆境を跳ね返すような、しっかりとしたアイコンタクト。
彼女と目が合ったのは、これが初めてだった。言い換えると、初めて目を合わせてくれたのは、彼女からだった。
それはすなわち、彼女はあたしに怯えていないということ。彼女はちっぽけな生活の中で、僅かながらに進んでいるということだ。
「いつもの生活とか、日々の葛藤とか。嬉しさも悲しさも妬みも、毎日毎日繰り返して、その中で色んな人の思いや価値観に出会う。その中で好きになれた誰かを後追いするために歩き出すことを、私は『旅』と呼びたいです」
――ああ。自分というもの探しているんだ。彼女は。
「生きること」に未熟で、無知で、不安定で。それでも実直で、自由であるということ。
あたしにはとても眩しくて、その眩しさに触れていたいのだ。
優しい人には、弱さがある。
その弱さがあるから、優しくなれる。
優しさはこの世界の中では、とても不器用なものだと思う。例えば、一欠片のチョコレートのように。時には甘くなりすぎたり、時には苦くなったり、強い光に照らされると、溶けて消えそうになったり。
「桜さん。私は、旅の中で正しい私になれるでしょうか?」
だから誰かの優しさなんて、知らない人から見れば、ただのゴミかもしれない。分からない人からすれば、意味の無いことなのかもしれない。
それでもあたしは、探していきたい。
「……分からない。だけど、一つだけ教えてあげる。もし正しさに苦しめられたなら、そんなもの、捨てていい」
「……多少なら我慢しますよ。そんなの」
「そんなのいらない。あなたは自由でいい。好きに生きて、好きに思えばいい。間違っていてもいい。正しさを理解して、受け入れられるまで、変わらないままでいい」
「……桜さん。ごめんなさい。あなたが『変わらなくてもいい』と言ってくれたおかげで、変われないままの私は、少しだけ救われた。だけど、私は『変わりたい』です。だって、そのためにここに来たんだから」
彼女はあたしの手を放す。どうやら、彼女には彼女なりの一つだけの道があって、それを選んでいくことにしたのだろう。
「そっか」
昔、高校生のころ、煙草を吸っていたことが学校にバレて、教職員に散々怒られたことがある。そのとき、みゆきちに言われた言葉を思い出していた。
「私の思う『青』とは、若さに満ちていて、どこまでも行けるけれど、色々と経験不足で未熟なところがあって、なんだかもどかしい。そんな強さと弱さが混じり合ったもの」
諦めと、希望と、不安交じりの淡い優しさ。
そんなものが漠然としたものを抱えながら、見えない「青」を行く旅人。
あるいは、平凡な生活に苦しみながらも、一歩一歩進んでいく15歳の少女。
それが小牧エリカだ。
「だから、行ってきます」
「いってらっしゃい」
エリカがドアを開けた後、何気ない朝の挨拶を口に出す。いつも言い忘れる、口に出した瞬間に空気に溶けていくような、特に意味のない言葉。だけど、そんな言葉が、あたしに必要なのかもしれない。
悲しいさよならの代わりに、あたしは言う。
「上手く進めるよ、あなたなら」
彼女に出会って、心の中で決めたことがある。
あたしは、不確かに揺れる日々の中で、誰もが気にとめないであろう優しさだけを頼りに、生きていたいと思う。
暗闇の中を歩くみたいに。ゴミ箱を漁るみたいに。灰色の空の中で、微かに煌めく青を掴むみたいに。とめどない潮騒の流れに、そっと耳をすましてみるように。
みんなに捨てられるような些細な言葉のひとつひとつ、その在処をじっくりと考えながら、日々を過ごしていく。
❀
「うー」
「今日、呑みすぎじゃね」
「あー」
「悪い癖だぞ。チューハイ呑みすぎたら、『あー』とか『うー』しか言えなくなるの」
「ほら、水、いるか?」
「いー」
「もう。なんでウチがいるときだけ、こんなのになるのよ」
「……ねえ、しよ」
「何を?」
「したいって言ってたじゃん」
気づけばあたしはシワのついたシャツの固いボタンを一つずつ取っていった。素肌は寒気がして、鳥肌が立っていた。
無茶だった。いきなりそんなことするのは、勇気も、経験も、美徳も、性欲も、思いも。何もかも足りていなかった。
「は?」
「あー!」
叫んだ。酒やけで、喉に痰が絡まったような声。
「えっ、は?ちょ、おま」
「よし。やるぞー!」
「待ち待ち、落ち着け」
「やるやる!今日からいっぱい!」
「ダイエットみたいな感覚で言うな!」
「タイム!タイム!脱ぐな、見せるな!」
「うるさい!やるの!」
「デカイ胸を押しつけるな。下着のまま股間を足にのっけるな!」
「わー!」
「ちょっ、やめ――」
「もう人生なんて、クソくらえ!」
目を開けると、背中に直接当たる床の冷たさが、次第に温かくなっていくのを感じた。
時刻は深夜の2時16分。
ぼーっと時計を見ていると、針が止まって見える。誰も気づけない廃墟の中を探るようような、言葉になれない空虚な思いが心の中で充満していく。それが何故か美しくて、ずっとここにいたいと思えた。
あの後、気づけば眠りについていたみたいで、あたし達ふたりは裸のまま床に突っ伏していたようだ。成功したのか失敗したのかも分からないまま、彼女の部屋には二人の衣服が散らばっている。
とりあえず、これまで溜まったものを吐き出すためにトイレに行った。
頭が真っ白になるくらいすっきりと全て吐き出した後、ふと思う。
女同士なのに、ゴムなんて要らないだろ。なんで、致命的に何も知らないのに、何かを知ろうとしてたんだろ。
彼女の部屋に戻ると、もう既に起き上がって、ブラジャーをつけていた。
「……こういうこと、したことあるの?」
「何、いきなり」
「えっと、セックスって、どうやってするのか知ってる?」
「は?」
「あたし、分からないんだけど」
「……いや、そう言われても。ウチだって知らんし」
「えっ?」の声が、重なり合う。
「は?」の声が重なり合う。
この変な音の数秒間の疑問符が、今までで一番思いが共鳴した瞬間だった。
その時だけ、冷たい空気が、少しだけ温かかった。
「本当に、お互い何も知らないんだね」
最初から、致命的に何もかも欠けていて、何も分からなかった。
セックスの方法も。
苦しくなったときの息継ぎの仕方も。
日常の中で心を分かち合う方法も。
みんなに褒められるような上手な生き方も。
だけど、それでよかった。
それで、自分自身を肯定できるなら。
必死に惨めな自分を守るために、悲しみを吹き飛ばすくらいの笑い声をあげた。
「なにわろとんねん」
あたしにも分からなかった。素っ裸で笑う理由も、こんなことで爆笑する自分になってしまったことも。だけど、そんなくだらないことを十数年幾度なく続けてきた。そんなことを頭で理解しようとすると、本当に馬鹿馬鹿しくて、おかしくて、笑ってしまう。
「全然わかんないけど、それがすごく面白くて」
「ウチはそんなあなたが分からん」
「今からしてみる?スマホで調べながら」と言うと、「いややわ」と即答された。
月の見えない夜空を見上げた窓際。月明りの代わりに、木のランプの暖かな明かりが、あたしたちを包みながら、夜を満たしていく。
椿があたしの肩にもつれかかって、あたしたち二人は、明日への思いを拒むみたいにゆっくりと目を閉じた。
❀
雲ひとつない、羽毛をばらまいたような薄い青――そんなパウダーブルーの空は、まだ眠りから覚めきらない街を広く覆っている。
教室の窓からいつも眺める、煌めいた小さな海は霞んでいて見えない。だけど、夜の冷気が残る大気を、霧がかった朝の光に温められるのを見ていると、何だか救われた気になった。
インナーの上に、昨日も着ていた無地の白のオックスフォードシャツ一枚。下は細いジーンズ。メンズライクでなんの捻りもない服装は、多分椿に突っ込まれる。「もっと服にこだわれ、オシャレを楽しめ」と。椿はやはりフリルのついた黒のブラウスを身に纏い、こっちに近づいてくる。
「つまんねえ服着てるな」
「ごめん、身なりに無頓着で」
「まあ、そんなに謝ることでもないけどさ」
「ねえ、変なこと聞いてもいい?」
「アンタ、いつも変だよ」
「なんであたしと付き合うって決めたの?」
「……高校生の時。喫煙行為は退学処分だと分かっていながら、校庭の裏で堂々と煙草を吸っていたから。そして、そんな屑が学年一の秀才で、頭のいい大学をでて教師やってるから」
「噓でしょ?」
「なんで嘘つかなきゃいけないんだ」
「馬鹿みたい」
「それおま」
「もっとなんか他にないの?」
「……どんだけ苦しくなっても、希望しか見えてないところ」
「……違う。元から無いんだよ、希望なんてものは」
こんなことを言うつもりはなかった。
綺麗事じゃない。あなたも生徒も家族も、あたしにとっての大切なものだった。
だけど「あなただけが希望だよ」なんて言ってしまうと、彼女と離れ離れになりそうな気がして、あたしはそっとしまい込んでおくことにした。
「でもそれをどうにかして信じないと、きっと生きられなくなっちゃうでしょ?」
「……ああ、綺麗。空、虹が出てる」
「全然出てないじゃん」
「冗談だって。今アンタ言ってただろ。あるはずのない奇跡を信じていかないと、いつか足跡は途絶えてしまうって」
椿は続けて言う。
「ウチはね、本音を言うとアンタと付き合いたくなかった。いつもは優しいのに、よくわからないことでキレて時々顔でも殴ってくる、そんなイケメンを近くで愛でていたかった」
「それ、昔聞いた」
「……それでも、なんかもういいやって」
「……あたしもさ、エリカみたいな子が好きだったんだよ。年下で、不器用で、優しくて、文句一つも言ってこない、あたしの全てを肯定してくれる子が」
「……知ってる。なんか、あの子が来てから、アンタおかしくなったし」
「もう、歯車なんて狂ってるんだよ」
「ウチと別れてもいいんだよ、嫌だったら」
彼女は歯車を戻そうとする。
壊れてしまった、人生の歯車。
あるいは、一時の夢。甘くて、一度浸ると抜け出せなくて、その中で跡形もなく溶けてしまいそうな、妄想の中に戻ろうとすることを提案している。
「……それは無理だよ。別れることが怖いから。普段の怖いあなたよりも、あなたのいない生活を想像するのが怖いから。……それにもう、振られちゃったし」
あたしは拒む。
地獄の中で地獄を嫌がるように。
希望の失った場所で、希望的観測をするように。
「ああ、屑だなぁ。アンタも、ウチも。だからもう、弱音なんて吐くな。屑は、屑らしく生きていけ。嫌な目で見られながら、屑らしく生き延びていけ。それもホントの『自分らしさ』だろ?」
一度立ち止まっても、歩き続けなければいけない。
そのためには、目には見えない正しさに抗い、たまには間違いだらけになりながらでも、前に進んでいく。
「アンタの泣き顔キショいから、ウチはそんなん見たくないんよ。だって目障りだから」
あたしの脳内では、「あなたに涙は似合わないから、涙を隠して顔を上げて」という言葉に変換される。
優しくて、優しすぎて、思わず笑ってしまう。
そして、椿はとても強い人だ。
背中を押してくれるというより、自己憐憫で抜け出せなくなったあたしを、その穴から引っ張り出してくれる。あたしはそんな椿の向かいに座り、動きをじっと見つめる。彼女の目はどこか遠くを見つめ、あたしの胸に冷たく刺さる。
「……ウチら、何しているんだろうね」
その言葉は静かに空気を震わす。あたしはそこから何も答えず、ただ彼女を見つめたままだ。
見つめたまま、あたしは煙草に火を灯す。
まずは一回、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
「こんなこと、するつもりじゃなかった。こんな風に生きるつもりじゃなかった。こんな人間になりたい訳じゃなかった」
「そう。でもウチらはいつもそう。諦めようとしても、逃げようとしても、過去が後を追ってきて、素直な気持ちになれない」
煙がゆっくりと口元から漏れ、曖昧な空間を漂っていく。
椿がぽつりと、のように言った。
「忘れたい」
「でも、消えないね」
「嫌いたい」
「でも嫌う理由もないね」
「……好き、は」
「それ以上言っちゃいけない」
「何でよ」
「……まだ、あたし達は旅の途中だから」
そして、椿は煙草を咥えたまま、あたしに顔を寄せる。
「ほら」
あたしもそこまでされて、顔を遠ざけてしまうほど愚か者じゃない。お互いが口に咥えたままで、そっと近づく。
「ん」
キスするみたいに、スティックを重ねる。
だけど先端同士を当てるだけじゃ火が点かない。あたしはタバコのフィルターへと口を当てて一吸息を吸い込んだ。
それでも温度の上昇が足りないようで、更にフィルターから空気を吸い込むと、やがて赤黒い火種が自分のタバコに侵食していく。そうすると、椿が咥えた煙草の先端に、あたしがつけた微かな火が移っていた。
「ほんと、何してるんだろ」
指に挟んだタバコに酸素を取り込むと、当てもなく一筋の煙が上昇する。その意味もなく消えていく煙に、足りない情を抱きながら、あたしは肺から毒を吐き出した。その毒は、朝の新鮮な空気と混じりあって、肺の中に甘ったるいカプチーノを生み出していた。
「ただ、今この瞬間を感じてるだけ。だから、何もないし、何も残らない」
「でも、そんなどうしようもない気持ちを埋めるには、これが必要だったのかもしれない」
椿は苦笑しながら答えた。
「ウチはウチで、精一杯生きてるんだ。別に誰のためでもなく、ただがむしゃらに、色んな髪を整えながら、今を生きてるんだ」
「……あたしは違う。誰かのために、精一杯、苦しさでいっぱいになる今を生きていたいんだ。なにか、優しいものを忘れないでと、色んな人に教えていきたいから」
「……そんな風に思ってるなら、ウチら二人には一生埋められないものがあるんだよ」
あたしはかすかに微笑み、椿の手に軽く触れた。煙草の煙があたし達の間を漂い、静かな苦しみを分かち合うように消えていく。
「愛してるよ、椿」
愛すること。
「……は?え?何?キモい」
それはきっと、すごく難しい。
口に出すと意味が無いし、心に閉ざしたままだと物足りないし。
「そういうところも」
気持ち悪いし、安っぽいし、足りないし。
頭の中で思いのない思いが空回りしている。
「……だから、いきなり。意味わからん」
まだ意味の分からないことも、知らないことも、たくさんあるかもしれない。
明日への不安で足潰されるときもあるかもしれない。
だけど、それでも言いたい。
「……全部、好き」
不安も怖さも悲しさも、全て一緒に、二人で共有したい。
「愛せない魂ごと、ゆっくり愛してあげる」
傷つきながら、傷つけられながら、愛憎にぶつかりながら、その理由に気付けないまま、それでも傍にいたい。
愛の為に必要なものは――それ以外に、その感情の他に、一体何が必要だと言うのだろう。
「辛いなら、何度だって泣いていい。もう駄目だと思ったら、諦めたっていい。だけど諦めてしまって全てが終わる訳じゃない。そこからまた、進むべき道がある」
「そういうとこ」
「何?」
「そういうとこだって」
凍えたような、震えた声の椿。
だけど頬は赤くて、それはあたしが彼女の心に灯をつけたせいだ。
「……ウチが、アンタを選んだ理由」
あたしは笑う。
なんでだろう。今日は悪酔いから覚めたような、笑いっぱなしの日になりそうだ。
「ああ。今日は、シラフでいたい気分」
空に広がるパウダーブルーが徐々に濃くなっていく。夏特有の眩しい光と、気怠げな暑さが入り乱れる、ずっと続いていきそうな熱気に包まれた、重たい青色。
「今日は土曜日だから、どこか出かけようか」
「二人だけで、どこまで行けるかな?」
「近くで留萌、行けて小樽」
夜景と海が綺麗で、海鮮と牛乳が美味しい街ならどこでもいい。あなたと行けるなら。行きはソフトクリームを溶かしながら海を見て、カツゲンを片手に海を見よう。
あと、帰り道は、小さなリサイクルショップにでも寄ろう。そこで、ボロボロのアコギと、安売りされた弦でも買ってみようか。
――ああ、あたしって、しっかり生きてるんだ。安定を適当に繕った、一歩間違えると破綻寸前の生活だけど、それでも傍に好きな人がいるんだ。
そんな風に妄想を膨らましていると、煙草の寿命が縮んでいた。
剥き出しになって崩れそうになった灰をみるとなぜか――独りきりでずっと過ごしてきて、その中で思いが飽和して壊れていった人を想像してしまった。
希望という名の彼女を思いながら、あたしは心の中で呪文みたいな痛々しい言葉を吐き出した。
「あたしは、あなたの気持ちが分かる。だけど、分かったままあなたを素通りするよ」
生まれてきて27年間、こんなに頑張って自分を騙して生きてきたんだ。
永遠がないということは、いつか色褪せてしまうこと。だから、見えない明日を生きることは、死ぬことより恐ろしいこと。そんなのはもうとっくに知っているから、あたしは全てを抱えて、生きていくことにする。
――ああ。屑だな、あたしって。
灰皿に途切れた命をぐっと押し付けると、唇からは、吸い残したタバコのフィルターの焦げる匂いがした。
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