18. 臆病者のフィロソフィー


『beau bord de mer et collines』


『ボーボルドゥメール エ コリーヌ について』


『当店の由来は、フランス語での「美しい海辺と丘陵」を意味します。小さな丘陵で、地元のジャージ牛乳を使った当店自慢のジェラートを片手に、潮風の香りに包まれた贅沢な時間をお過ごしください』


 ホワイトボードに書かれた文字を覗いてみる。日照りみたいに鮮やかな黄色のジェラートのイラストが添えられていて、可愛らしい。


『今月のおすすめ!レモン・ウィークエンド』


 店名はフランス語なのに、メニューは英語。言うまでもなく、ジェラートの発祥はイタリアだ。

 多様性といえばそうなんだろうけど、なんだか痛々しい大学生がつけたみたいなネーミングセンスだなと思う。


「お洒落な単語をただ取ってつけた安直さを見る限り、きっと爪が甘いところがあるに違いない。大丈夫!ちょっとくらいミスしても見逃してくれる!頑張れ!私!」


 そう心の中で呟いてみる。励ますということはただの強がりで、緊張は解けない。


 ボーボルドゥ――私の住む地域から自転車で15分程度の距離にあるそのジェラート屋は、まるで時間が止まったかのような風景に溶け込んでいた。

 淡くて白い光に帯びた海岸線に沿って続く道の先にその店がある。逆光を浴びた針葉樹の木々は、黄色に統一されたベンチテーブルを背後に、狭い駐車場を静かに囲んでいる。そして、真っ白な漆喰の壁に映える濃紺の三角屋根を持つ小さな建物が、絵画のような存在感を放っていた。


「失礼しまーす」


 こんな田舎にお洒落なお店があるなんて、と思うかもしれないが、私の産まれる前からすでに存在しているため、すっかり町民の生活には溶け込み、私も違和感がない。ただ、お年寄りが何の躊躇いもなくフランス単語を話している姿は、少し面白い。

 廃墟の洋館の一部を改装してできたジェラート屋で、内装は入口や窓の上部がアーチ状になっている。

 そんなボーボルドゥは、今年で開業20年目を迎える。古風で優雅な趣きと、少しの時間が経てばすぐに朽ちてしまいそうな危うさが入り交じる不思議な外観だ。

 今日、私がこの店にきた理由は、ジェラートを食べることではない。私自身の何かに、変化を起こすためだ。


「バイト面接に来ました香原と申します」


「香原すみれさんね。よろしく」


「はい」


「私はこの店の二代目店主、鷺ノ宮樹里さぎのみやじゅりです」


「よろしくお願いします」


「早速だけど、アルバイトした経験は?」


「いえ、まだ。アルバイトは初めてで」


「だよねー。ここらへん。セコマくらいしかないからねー。個人でやってる店なんて、うちと、あとは……トワイライトくらいだもんね」


「どっちのお店にもよく通わせていただいて、すごく雰囲気がいいなって思って」


「じゃあ、なんでここでバイトしたいと決めたの?」


「高校で料理部に所属していて、スイーツを作っています。洋菓子だけではなく、氷菓も深く学びたいため、志望しました」


「ほんとぉ?」


「……えっと、疑問に思うことがありましたでしょうか?」


「いや、あんまりジェラート好きじゃなさそうだし……どっちかというとパンケーキとかモンブランの方が好きそう」


「それ偏見ですよ」


「えっ、嘘。ごめんね、私、覚えないわ。なんか、背の高い女の子はよく集団で来てるイメージがあるけど、それ以外はあんまり覚えないんだよね。多分咲高のバレー部だと思うんだけど」


 ふと思うと、彼女とこの店に来たことがなかった。


 あの子が好きなフレーバーを食べれば、私も彼女と同じ気持ちになれるのかな、とか。

 あの子の唇が冷たい理由は、時々ジェラートを食べているからかな、とか。

 色んなことが思い浮かんだけど、きっと一番知りたいのは、そんな理由じゃなかった。


「お金を稼ぎたいのと……」


「のと?」


「『人を好きになる気持ち』が、分からなくて」


 夏の陽射しが柔らかく街を照らす午後、冷たい空気が肌を包み込み、ガラスケースの中で色とりどりのジェラートが輝いていた。その中でも特に、この夏しか存在しない、レモンの爽やかな香りがふんわりと鼻をくすぐる。ほんのりと漂うその香りが、夏の訪れを告げる風のように心地よく店内を満たしている。樹里さんが木のスプーンでそっとすくい上げた。


「これ、食べてみてよ」


 レモンの酸味がほのかに鼻先をかすめ、ミルクの甘みが舌の先で溶けていく。だけど私の思いは対照的で、一度消えても全て無くなることはない。


「美味しいです」


 思わず顔がほころんだ。


「いいね、その顔、好き。私はこういう表情を見て、人を好きになったの」


 私が「好き」になれない理由は、色々なエピソードが関わっている。

 まずは小学生のころ。男の子に振られた女の子を慰めるとき、先生が放った言葉。


「運命の人なんて星の数ほどいるんだし、良い人なんてすぐに見つかるよ」


 違う、と思った。運命とやらが無数にあるなら、選ぶべきものが多すぎて、私の生活は音もなく破綻してしまう。


 そして先月、教室の隅で聞こえた小耳。


「すみれちゃんってさ、いっつも向日葵とくっついてるよね」


「付き合ってるんでしょ」


「女子同士で?いや、そんなの、変だよ」


「仮に変な関係だとして、じゃあ、どっちから先に告ったんだろ?」


「すみれちゃんじゃない?多分、すごく頑張ったんでしょ。その頑張りに向日葵が付きあわされてる感じでしょ」


「そうだよね。あの子、なんか地味だし」


「いつか分かるんでしょ、すみれちゃんも。一時の気の迷いだったって。そうやって世間体を知って、成長していくんでしょ」


 ――周りの話す言葉は理解できないし、外野にあれこれ決めつけられるのにも少し嫌気がさした。それ以上に、そのことを誰かに言おうとする気にもなれなかったことだ。


「何も知らないんだろうな。ひまが私を好きな理由も。私が彼女を愛せない理由も。私が『好き』を知らない理由も」


 自力でないものに守られているのは、何かに負けている気がしてもちろん悔しい。だけど、どうすることもできない。もちろん、気が変われば何かできることの一つや二つあったかもしれない。それでも心では信じきれなくて、「愛」という彼女の強い感情にただ流されて、私は生温い生活を送り続け、未だ抜け出せずにいる。


「人を好きになりたいからです。ただ純粋に、人を理解して、分かち合って、好きになりたいからです」


「よし。じゃあ、採用ってことで。いつからこれる?」


「明日から!」


「おお、やる気いっぱいだね」


 ❀


「今日からよろしくね」


「はい……一つ、知りたいことがあって」


「……何?」


「……樹里さんは、一度地元を出て東京に行ってたと親から聞きました。それで地元に戻ってきたとき、どうして今まで縁もゆかりも無かったヴォーヴォルドゥを継ごうと思ったんですか?」


「……うーん。昔はね、夢ばかり見てた。だけど、いざ将来のことについて考えると、いつか行き詰まりそうな気がして……それで私の出来ることは何かと。まあ、消去法みたいになった結果、ここにいるって理由。すみれちゃんにはこんな話、まだ早いかな」


「いや。私も何となくだけど、分かる気がします」


 私だって、同じだった。

 これから先のことが分からなくて、怖い。

 ただ、それだけのことだ。


「『夢』と『停滞』がすぐそこにあるなら、私は後者を手に掴んでしまいそうな気がします」


「じゃあ、すみれちゃんは、何か変わりたいってこと?」


「多分」


「無理して変わろうとしても、ねえ。きっとどこかで行き詰まるよ」


「そう思い続けて、何も変われなかったら、私はどうなるのでしょうか?」


「フフッ」


「何ですか」


「無駄に青いなあ、って」


「……青い」


 私は樹里さんの言葉を繰り返す。

 時間の中で青色があるなら、どういう意味だろう。

 寂寥、孤独、永続、憂鬱、淡麗――想像して生まれた色んな言葉を当てはめても私にはしっくりこなくて、だけどそんな正体のない意味が青色なのかもしれない。


「いいなあ。若いとき、私もそうだった。後ろから何かに追われ、前からは別の何かに押しつぶされそうになって。前進してるのか後退しているのか、それすら分からなかった、そんな日々のこと」


 未来も過去も、私には息苦しい。

 そんなことを思いながら、長い明日を待つ。そんな思いが、ただの日常の中で、じっくりとスローモーションで揺らいでいる。


「あの頃は、音と声と言葉だけが救いだった」


「私さ、高卒で上京したんだよ。バンド組んで、骨を埋める覚悟で音楽で生きてくって、それくらい音楽が大好きだった。『音楽がないと生きていけない』みたいな生半可な気持ちじゃなくて、『私は音に生かされている』って、本気でそう思い込んでた。知り合い全員に馬鹿にされて、親とは絶縁気味になって、都会では孤独になって、ストレスで情緒不安定になったりもして、本気で自分のことを『病気』だと思った。けど、そんな気持ちを必死で殺すようにして、音を聞いて、奏でて、それでも開いた穴は詞で満たした」


 樹里さんは話を続ける。


「バンドは人気になったよ。小さなライブハウスくらいなら満員にできたし、レコードショップのインディーズコーナーでは常に完売してた。メジャーデビューもあるんじゃないか、とか思ってた」


「だけど、私は夢半ばで辞めちゃった。進むのが怖くなったんだよ。進むことを諦めることは、これ以上のものが生み出せないこと。すなわち、音は止まって、バンドにとっての死を表す。そして、音楽からは身を引くと決意して、地元に帰って来た日に、泣きながらここのジェラートを食べたの」


「ジェラートは、どんな味がしましたか?」


「冷たくて、甘くて、美味しかった。そんな美味しさが悲しくて、泣きながら『ここで働かせてください!』って言ったんだよ」


 私には分からなかった。

 なぜ美味しさが悲しさになるのか。

 なぜ悲しいのに、「働きたい」と言えるのか。

 果たして、そんな樹里さんは臆病者なのか。


「音楽は好きだよ。選んだ道も、その進み方も、後悔はしていない。それでも、私はその『好き』を、中途半端に食べ残した臆病者なんだよ」


 音楽の死と冷たいジェラート。

 樹里さんの世界に「青」があるなら、『好き』を貫けなかった自分勝手なエゴ。

 それと似たような思いを壊して、私は、向日葵を愛せるだろうか。

「好き」を考えて、悩んで、苦しんで、決意して。そして、抱えながら生きていけるだろうか。

 愛も恋も、そんなに複雑なものなのかと思い知らされる。ただ感性や見た目だけじゃなくて、将来のこと――もしかすると進路や結婚、金銭の問題、それから世間体なんかも考慮しなければならない。だけどそれら諸々は果たして本当の「好き」なのかとふと思う。


「ところで、何、こっち見てるの?」


「樹里さん。大きいですよね」


「……男もそうだけどさ。なんでみんな、胸ばかり気にするんだろうね」


「だって気になるもん」


「いきなり何言うかと思ってびっくりした……大丈夫だよ、私着痩せするタイプだし。エプロン着けると、あんまり分からないし」 


 エプロンを付けた後、樹里さんは私の胸部をまじまじと見つめる。


「私今Fくらいあるんだけど、すみれちゃんは?」


「……Eです」


「あー、それくらいあったら、これからもっとビックになるね。どう?男子にモテるでしょ?」


「私。そういう風に人にジロジロ見られるの、あんまり好きじゃなくて」


「へえ。すみれちゃんって、胸あるって言われない?」


「……えっ。まあ。バストきついし」


「そっちじゃない。度胸、って意味だよ」


「どきょう……?」


「他人に自分の胸見られるのは嫌いな癖に、バイト初日に、店のオーナーに向かって『あなた巨乳ですね』って言うの、洒落抜きにすごいと思う」


「セクハラしてました、すいません」


「別に失礼だから謝れって強制してる訳じゃないよ。ただ、面白いなあって」


「……樹里さんは、それでいいんですか?見られても何も思わないんですか?」


「別にと言ったら嘘だけど、私を見に来てくれるだけで、店が繁盛するなら、万々歳だよ」


 ああ。きっと、自分の身体を数字に利用できる人は、強い人だ。

 好きなことに全力を注いで、それを「好き」だとはっきり主張できる人ももっと強い。

 強い人には、しっかりとした手の温もりが宿っている。これまでの人生で起こってきた悲しさや逆行を、全て受け入れてきたような手のしわだってある。

 私の手はまだ純白で、綺麗で、まだ傷なんてない。だけどそれは、まだ枯れることを知らない緑の葉みたいに、無知でみっともないと感じてしまう。だから、もっと深く、広く、目の前の何かを受け入れたい。

 私はきっと、無知だ。何かを考えるときは、いつも周りを見るだけで満足してしまい、自分の思い描く正しさをそのまま汲み取れないでいる。無知であることは、未熟であることだ。そしてそれは臆病になることととイコールを成す。

 たがら私には、長い生活の中で多くを経験した樹里さんのどんな部分が臆病者か、彼女の横顔だけを見ても分からない。同様に、樹里さんに私の思いを伝えて、私の持つ「弱さ」を理解できるかと言われれば、きっと違うと思った。


「あとね。すみれちゃん」


「はい」


「あんまりこういうこと言いたくはないんだけど。勤務中、深いことは考えない方がいいよ。多分なんかやらかすから」


「……実は今日、私の友達が来るんです。それで、いつもと違う私を見てどんな反応をするか、気になって」


「すみれちゃんって、恋でもしてるの?」


「いえ」


 言い淀むまでもなく、私は本音を拒絶する。

 きっとこういうところが、人を好きになれないということだ。


「じゃあ、面倒見がいいタイプだから、その子の世話焼きをしてる、とか?」


「そういうのでもなく」


 なぜこの人は透いた嘘を見抜くように私のことが分かるのか。季節限定フレーバーに「レモンの週末」というよく分からない名前を付ける癖に。


「じゃあ、それはただの自意識過剰だと思うよ。だって、あなたは、普通の可愛い女子高生なんだもん」


 そうだったらいい。何も考えることなく、等身大のままでいれたらいい。

 だけど、無理にでも背伸びしようとする気持ちが胸の中から消えないでいる。

 まだ私の気持ちは足りないままけど、いつもの日々が彼女で満たされることを、いつか恋と呼んでみたい。今日までそんな思いを変えることなく繰り返してきた。繰り返してきたから、満たされることはなくて、今でも恋が分からないままだ。


「『普通の可愛い』って、なんか不思議じゃないですか?」


「あっ、ごめん。『普通だから可愛い』に変更で」


「つまりさんは、『ごくごく普通の平凡なJK』が大好きってことですか?」


「うん。そういうこと」


 はあ、と溜息をついてしまう。

 落胆ではなく、ただ単に樹里さんが心配で仕方がない。それはひま以外に初めて見せた母性本能みたいなものだった。

 つまり、こういうことだ。テスト勉強のときも。バレー部の朝練のときも。あの日、強引にキスしたときも――私は、ひまのことをいつも心配していた。彼女の思うがままに甘えさせてあげて、その度に彼女のことを考えていた。

 毎日必ずひまのことを頭に浮かべて、それでもこの気持ちを恋と呼べないなら、私は人を愛する才能がない。

 それでも彼女の愛にしがみついているのは、きっと私が臆病者だからだ。


「もう。そんなことばっか言ってると、警察に捕まりますよ」


「胸がどうのこうの言ってた子に言われたくない」


「……うっ」


「それに悪事は好きじゃない。ただじっと見ていたいの」


「もっと危ないこと言ってる」


「中学生くらいの男の子はもっと好き。だって可愛いから」


「そこまで言ったらもう擁護できません」


「親にジェラートをねだる幼稚園児も、シングルを黙って食べてる小学生も好き」


 ああ、もう後戻りできない。

 でも、樹里さんみたいに、色々なことに対して「好き」と言えたら、きっと幸せなんだろうなと思ったりもする。


「おはようございます。いらっしゃいませ」


 扉が開いた。髪に逆光が当たって少し眩しい。一瞬だけ目を閉じてまた開いて、わたしは前を向く。

 ――ああ、こんな早くに、自転車で来たのだろうか。

 私の前には、苦し紛れに呼吸している、私のよく知っている子が立っていた。


 ❀


 ページをめくる音が店内の中で響いていた。

 社会科目は暗記が重要だと先生が言っていたけれど、ただ暗記するだけでは頭に入ってこない気がしてならなかった。教科書の細かな文字が彼女の視界に広がり、ページをめくるたびに、膨大な情報が押し寄せる。

 だけど読み進めるうちに、教科書の言葉が次第に記憶の中に染み込んでいく感覚があった。それは単なる暗記以上のもので、まるで一つひとつの概念が頭の中でパズルのピースとしてはまっていくような感覚だった。

 黄色の蛍光ペンで「イデア」をマークして、長く動かしていた手を止める。少し内容が難しいため、もう一度読んで、そこから自分の脳に知識を読み聞かせることにした。


『「イデア」とは、現象の世界にある具体的なものや出来事の背後にある普遍的で不変の本質的な形、または概念のことを指す。現象の世界で見えるものは、イデアの影や不完全な模倣でしかなく、真の知識はこのイデアを知ることによってのみ得られるとプラトンは主張した。この考えは、プラトンの「洞窟の比喩」でも象徴的に表されている。』


 知ることに重点を置くため、巻末ページを開いた。


『洞窟の比喩』


『昔、ある囚人が洞窟の中に拘束されていた。その洞窟にはたき火があり、たき火の前で看守が動物の模型を持っていた。囚人は洞窟の壁に移った模型の影を見て、それが本物の動物だと思い込んでしまう。このように、プラトンは、私たち人間は洞窟の中に住んでいる囚人のような存在であり、世界の本質(=イデア)は私たちには見えないところにあるのだと主張した。』


 視線が文字を追ううちに、瞼が重くなり、文字の流れが頭に入らなくなる。肩や背中にじわじわと広がるぼんやりとした疲労感だけが、読書の続きかたわらに残るのを感じ、付箋を貼ったあと、ページを閉じる。

 言い換えると、人間は本質の片鱗を見ただけで、全てを理解したつもりになっているということ。つまり、この世界で感じる嬉しいことや悲しいことというのはあくまでも表面的なものであり、その裏側には、「正体不明の本質的な何か」が渦巻いているということだ。

 よく分からない。意味の理解は出来るけど、あまりにも壮大すぎる話で、果たしてそんなものが別次元の世界にひっそりとあることが信じられない。

 教科書の重苦しい世界から解放され、顔を上げると、美雪さんが話しかけてきた。


「こんな時間に来るの、珍しいね」


「リラはどこに居ますか?」


「今、リラは休憩中だよ」


「よかった」


「会いたいんじゃないの?」


「ただ会ってしまうとつまらないじゃないですか?だから、もしも会えたら何を話そうかなって、そんな妄想を重ねる時間の方が好きです」


 小倉トーストとアイスコーヒーを頼む。

 変わらない、いつもの味。すぐに出来上がるし、充分なエネルギーも補給できる。そして何より食べやすい。文庫本を片手に広げても手は汚れないし、何か考え事をしても口に運ぶことが出来る。

 リスクを背負うのが怖いと言えば、それだけの話だけど。


「でも、みんながいないと退屈でしょ?」


「みんなって、誰のこと?」


「リラと、桜と、椿と、それからエリカちゃん」


「エリカちゃんって、ああ。あんまり話したこと、ないです」


「話してみると、結構面白い子だよ」


 と言われても、会う機会がない。


「夏休み、みんなと、いろんなことしたいなあ。もちろん、エリカちゃんとも話してみたいし、リラとはいつも通り遊びたい。椿さんにはご飯奢って貰いたいし、桜姉さんには勉強を教えてもらいたい。オーキャンにも行きたいし、旅行にも行きたい。だけど一人きりの時間だって沢山ほしい」


 そんな言葉を聞き流すように美雪さんが次の話を持ちかける。


「ちなみに、期末テスト、どうだった?」


「リラが1番で、私が2番。もう何年も勝ててない」


「んー、残念」


「いつになったら、追いつけるんだろ」


「勉強のこと?」


「いや、色々と」


 この片田舎の辺鄙な地で、やれるだけのことはしている。

 水泳、料理、習字、茶道、英会話――習い事は数多く経験した。

 全般的にどれも才能があるといわれた。だからこそ何を選べばいいのか分からず、私が本当に誇れるものは何だろうと考えてみると、色々なものがこぼれていって、手に残るであろうものは少ないし、今でも若干分からない。

 中学では私が生徒会長になり、リラは副会長を担当した。もちろん私達二人が組むと、生徒間の権力を実質占領したようなものなので、反対票の一つもなく当選した。

 だけど私は気に食わなかった。番数頂点の座に立つリラが生徒会長を務める予定だったのに、彼女はそれを断った。代わりに推薦された私は、なんだか彼女に譲られた気がして悔しかった。


「身長は追い越してるけどね」


「そんなので勝ったところで、です」


「でも、追いたいと思える人がいて、今すぐにでも駆け出したいという気持ちがあるのは、素直に羨ましいよ」


「まあ、それはそうですけど」


「ちなみに、今までされた告白の回数は?」


「いつもそれ聞きますよね。そんなのいちいち数えたって意味がないですよ」


「きりがないの間違いでしょ?」


「……あー。『女が好き』って全校生徒の前で断言したら、愛の破裂を見なくて済むかなぁ?」


「そうすると、女の子の期待が膨らむよ」


「それに、そんなことを言うと、生徒会長になんてなれやしないですよね」


「ってことは、白菊ちゃんは、リラが好きなの?」


 私はリラが好き。そんなの、今更隠すようなものではない。

 小学生のころからずっと傍にいて、一緒に過ごして、二人で道を切り開いてきた。

 けれど、今でも彼女について分からないことがある。だから私は、彼女の秘密を知りたい。だけどいざ言うとなると、少し緊張してしまう。大人になって、早くこの未熟さから抜け出したい、なんて。


「うーん。確実に好きではあるんですけど、好きと言ったら嘘になります」


「フフっ、どういうこと」


「正確には、リラを好きになりたいのだと思います。もちろん、好きではあるんですけど、その根拠づけとして、私はその『好き』の正体を探しているのです。目には見えない、言葉にもできない、知ることすらできない、そんなものを」


 私は「恋の正体」を知りたかった。

 ふとした日常に垣間見える、ゆらゆらと揺らいだ空気の中の、浮ついた思いの居場所を探している。

 そう。あの教科書に記されていた、イデアみたいなもの。

 日常の断片じゃなく、ただ全てにおいて「好き」で満たされているもの。

「愛」とか「好き」とかでは伝えきれない、心の奥底よりも深くにあるもの。


「――だから私はきっと、欲張りすぎてます」


「でも美雪お姉さんには、あなたが悲しそうに見える。そして、何かに怯えているようにも聞こえるよ」


「私は苦しくはありません。むしろ今よりもっと遠くへ行きたい。だけど怖がりだから、きっと何か頼れるものが欲しいのだと思います」


「ああ、そうか。あなたって、青いね」


「青って、どういうことですか?」


「青春とか、青二才とか言うでしょ?力のある若さに満ちていて、どこまでも行けるけれど、色々と経験不足で未熟なところがあって、なんだかもどかしい。そんな強さと弱さが混じり合ったものが『青』だよ」


 青色。彼女を――私の好きな人を海辺で見たときの色。

 傷がなく無欠で美しい、だけど今すぐにでも溶けていきそうなすごく脆い色。

 何も変わらなくていいのに、何かを変えてしまう、そんな彼女の色。


「そんな思いはきっと、大人になったら消えてなくなる。一度灯をつけたらすぐに消えてしまう、線香花火みたいなものよ。だから、大切にね」


 ああ。私は怖いのだ。

 その思いに縋って、自我を芽吹かせて生きている自分が。縋りながら、見えないどこかへ進んでいくのが。そしてきっと、その自我という領域が変わってしまって、次第にこの思いが薄れていくことにも怯えている。

 いつか、この思いが消えてなくなる瞬間、私は何を思っているのだろう。


「……私は、まだ弱いですね」


「本当に、白菊ちゃんは、いつもいつも真っ直ぐだよね」


「真っ直ぐすぎて、何かを知るのが怖くて、でも何かを知りたいです」


「……楽しんでよ、今、この瞬間。その弱さも悲しみも不安も、今しか見えないという優越感に変えて」


 ああ。美雪さんらしい言葉だ。ネガティブな言葉を暈して、少しでも希望を持たせようとする。だけど苦しさは残ったままで、私はどうすることもできない。

 今この瞬間、会話の主導権は美雪さんに渡り、私の言葉は完全に彼女に支配された。


「負けました」


「何のこと?」


「その言い回し、巧いなあって」


「会話に勝ち負けはないよ」


「勝敗はないけど。私はこれ以上会話を拡げられない。だから美雪さんって、賢いなって思いました」


「賢くはないよ。学校には通えなかったし、青春なんてものもなかった」


「そういうのじゃなくて。地頭がいいというか、頭の回転が速いというか……私のする質問はみんなにとっては難しいようで、よく相手にされないんです。だけど、美雪さんだけは難なく答えてくれて、納得できる答えが返ってくるというか」


「お見通しだよ。みんなの言ってることは」


「何考えてるとか、何言おうとしてるか、とか、分かるんですか」


「分かるよ」


「ちょーのーりょくしゃ、ってこと?」


「流石にそこまでって程じゃないよ。でも、大人の勘、ってやつ?」


「セクシーですね」


「あなたにはエロティックって言って欲しかった」


 美雪さんの薄い桃色の唇から「エロ」の文字が発せられると、なんだかドキッとしてしまう。だけど、見栄を張ったやましさというよりはすごく自然体で、なんだか気品めいている。


「……『エロい』ですね。美雪さんは」


 少しだけ、頬が熱くなっていた。その熱を冷ますためにグラスを傾けると、氷で薄まったアイスコーヒーが一気に喉を通り抜けた。


「あー、ようやく聞けた。白菊ちゃんの純白で誠実な『エロ』。好きだなぁ」


 私にはよく理解できない。これは、ふざけた男子が発したものよりもずっと難しい、今の私では考えられない大人の世界なのだと諦める。けれど、大人になれば、そんな言葉も当たり前に感じてしまう日々が待っているのだろうか。

 そう考えると、見えないどこかへ進んでいくのは、少しだけ楽しそうだ。


「大人の世界って、楽しそうですね。もっと知りたいなあって、思えるようなことばかりです」


「きっとそれが、あなたの魅力だよ」


「そう言ってくれれば、思う存分欲張りでいられます」


「じゃあ、教えてあげよっか?リラのこと」


 美雪さんの目は冷めている。この人の瞳には色がない、というか光がない。それなのに、目つきは鋭い。

 こんな人が、どうして暖かな話し方をして、美味しい料理を作れるのか、甚だ疑問だ。


「なんでも知ってますか?」


「知っているというか、分かってるよ」


「じゃあ、美雪さんには、世界の裏側も見えますか?」


 世界の裏側。プラトンのイデア。それはきっと、臆病な私の恋の行方。


「……欲張りだなぁ、白菊ちゃんは」


「きっと」


「世界に裏側なんてないよ。自分を取り巻く人や物や環境を知って初めて、ほんの少しだけ自分を理解できるように。全ては何らかの方法でリンクしている」


「でも、なりたくてもなれないもの、手を伸ばしても届かないものだってあるじゃないですか」


 例えば、私とリラの、左右非対称な髪の色。

 例えば、大人になると消えてしまう、いつか忘れる記憶。


「私はこの世界を何も知らない。だけど、何も知らないなりに、無知であるということも自覚している。そんな『無知の知』みたいなのを、丁寧にあなたに噛み砕いて、教えることはできるわ」


「もっと、知りたいなあって。話をして、少しでもいいから大人に近づきたいなあって、そう思ってます」


「話は好きだよ。その人がどう感じて、何を考えているのか知るのが好き。色んな人がいるんだなぁって、そう思えるのが好き」


「私もそういうのが得意です。そしてそれが好きなのだと思います。だから、私は美雪さんに着いていきます」


 私は何かを探すために、彼女に着いていくことにした。

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