17. 言葉は涙みたいな優しさで

「さて、皆さん、お待ちかねのテスト返しです」


 今日の化学基礎の授業は、前回予告していた通り、テスト返しだった。

 一言だけで、教室の空気が一層張り詰めたものになるのが分かった。席に座る生徒たちは、互いの顔を見合わせたり、手元の机に視線を落としたりして、心の準備をしている。

 先生が一枚一枚テストを配り始めると、その度に名前が呼ばれる生徒の表情が硬くなった。私は自分の番が来るのを恐れて、複雑な思いを抱えながら待ち続けた。


「次、小牧さん」


「はい」


 どきどきしながら紙に書かれた数字を見る。

 65点。悪くはないが、良くもない。

 酷く責められる訳でもなく、かといって褒められる数字が記された紙は、いつか忘れて、無価値なものへと変わっていく。


「エリカ。テストどうだった?」


「普通だった、65。すみれは?」


「77」


「今日、何かいいことあるんじゃない?」


「残念だけど、テストは占いじゃないんだよ」


「おー、耐えたー、40点。あぶなー」


「……ひまわりはもう少し教科書を読んだ方がいいと思う」


「え、でも化学は暗記科目じゃないよ。だから教科書読んでもあんまり効果ないでしょ」


「……それは読んだことのある人だけが言っていいのよ。それに、元素記号なんて、ほぼほぼ暗記みたいなものでしょ」


「でもさ、私、ヨウ素の元素記号なんて分かんだよ、褒めて」


 そういって、ひまわりはテストの第1問目を指さす。


『1. 次の元素記号を書きなさい。』


 1. 硫黄

 2. ウラン

 3. カリウム

 4. ヨウ素


 確かに分からない。現在の学習範囲では、ヨウ素はマイナーの部類に入る。決めつけはよくないが、おそらく大多数のクラスメイトが分からなかったはずだ。

 すみれが言う。


「ヨウ素って、Iなのね」


「すみれもエリカも分からなかった問題を、私は解けてるんだよ。」


「おー、S、U、K、そしてI。全部合わせて『好き』だったのかー、惜しい」


「っていうか何かの暗号じゃない、これ」


「そんなのないでしょ、ただの偶然だって」


 私は咄嗟に反応してしまう。「好き」という言葉に過剰に反応する自分がみっともない。


「確かになんかありそう。教職員の恋愛とかかな」


「私なりに解読するね……おー、誰かを好きになるのには、『』だけが足りなくて、きっと『』が変わらないといけない……悲しいね……誰か、失恋でもしたのかな?」


 あい。愛。I。私。


「ないない。行き過ぎてる。深いようですごい軽い言葉を言うのよね、ひまは。何気にそういうのが得意よね」


 ああ、そうか。

「好き」になるには、私が変わらなければいけないんだ。


 化学の授業が終わり、次はホームルームが行われる。それが終われば放課後というのもあり、教室は部活動参加者の熱気と倦怠感、帰宅する者のほっとする安堵に包まれていた。

 そんな相対する二つの感情が混じり合う中、桜先生が来た。


「はい、静かにー」


 桜先生が話し出すと、教室は静まり返る。

 若い教員は「カモ」といって下に見られる傾向があるが、桜先生は別だ。

 生徒からの信頼が高く、話も上手い。容姿も優れているため、いじるにいじれない雰囲気がある。


「お待たせ。これから帰りの時間だ」


「あたしからは特になし。放課後は気をつけて過ごすこと」


 これが先生の決まり文句で、いつもこれだけしか言わない。それがまた大勢の生徒が先生が好きな理由だ。


「あと」


 今日は、いつも通りではないみたい。


「エリカ、ちょっといい?この後、話したいことがあるから」


 クラスメイト全員が私の方を見る。

 その時に流れる沈黙が気まずい。

 告白するみたいな、気まずい話し方。

 だけど、先生がこれから話すことは、もう分かっている。


「ホームルームが終わったら、視聴覚室に来てほしい」


 ❀


 校舎から見える景色は綺麗で、天候が恵まれていれば、海も遠くに見える。大きな海原に比べたらあたしは小さくて、遠くにある海を人差し指でなぞるくらいしかできない。だけど、自分の小さな指でも綺麗だと感じられる、そんな存在が好き。高校時代から変わらない景色はいつも自分を見てくれていて、あたしは窓の外、遠くに広がるその存在が日常の中でのささやかな幸せだ。

 あたしが教師を選んだ理由。

 それは、だれかにとっての小さな海になりたいからだ。もしも誰かが大きな問題や不安に直面したとき、一瞬の憂鬱で心が壊れそうになったとき、あたしは無限に広がる青い海原みたいに、強く支えていきたいのだ。

 教室の窓から見える白藍の海は、今日も変わらず美しい。その広がりの中に、自分の存在を重ねながら眺めていると、エリカが来た。


「遅れてすいません」


「……お土産、買ってきたから食べてね」


「東京、どうでした?」


「うーん。まあ。すごい便利だった。電車が長くて、いっぱいの人が押し詰め状態で乗っていて。あと、ICカードをかざすだけで改札が通れて、都会ってすごいなあって思った」


「満員電車って、見てるだけで憂鬱ですよね」


「便利だけど、その分息苦しいなあって。人も少ないし惨めな土地だけど、先生には多分、こっちの方が合ってる」


「ですよね」


「……なんか、嬉しいな。エリカがこうやって話してくれるの」


「えっ」


「成長したなぁって」


「……私は、変われましたか?」


「全部とは言わないけど、少しくらいは」


「全て変わるには、どうすればいいでしょうか?」


 無理して変わる必要なんてない。変わろうとしなくてもいつか変わって、過ぎ去ったころに初めて変化が分かる。大人になって初めて分かった。生活なんて、そんなものだったということ。

 だから、あたしは言った。


「変わる必要なんてない。あなたは、あなたのままでいい」


「……人は、そういうものなんでしょうか」


「うん。今は分からなくても。いつか変わってしまって、それが分かるときがくる」


「分からないまま、ずっと時間だけが過ぎていくと、私には、何が残るでしょうか」


 あたしは先生として、できる限り注意深く、少ない時間でも、繊細に言葉を選んだ。


「未来に怯えないで。過去は変わらないけど、これからは変えられる。今からするのは、そんな話だよ」


 真実を知って、一週間が経っていた。

 それを伝えても、迷惑じゃないか。あたしの愛情に似た自己満足のために、一方的に彼女を巻き込んでいるだけじゃないか。

 だけど、知りたいと願ったのは、紛れもなくエリカだ。

 見えない怯えに疲れ切ったあたしは、なけなしの勇気を振り絞ろうとした。


「話って、私のお母さんのことですか?」


「そう。あなたのお母さんについて」


「……はい」


「……最初に言っておくね。今から言うのは、そんなに楽しい話じゃないの。だから、辛かったらいつでも言って欲しい」


「……はい」


「じゃあ、始めようか」


「先生。その前に、変なこと言ってもいいですか?」


「何だろう?」


「桜先生、なんかいつもと違いますね」


「ああ、髪?なんかうざったくて、後ろで結んだの」


「いや、そうじゃなくて。もちろん、そのこともあるんですけど。なんか、変だなって」


「……えっと、どこらへん?」


「……上手く言葉にできないんですけど、寂しそうです」


「寂しくはないよ。多分、エリカの心配性が行き過ぎただけだと思う」


「……そうですよね」


 あたしは彼女にルーズリーフの切れ端を渡す。それは生前の小牧希望唯一の意思表示であり、最期を示した遺書だった。


「いきなりだけど、あなたのお母さんは、もう亡くなってしまっている」


 言ってしまえば、「伝えなければいけない」という苦痛は消える。

 だけど、新たに「伝えてしまった」という苦しみが生まれる。

 何かが消えればまた別の何かが生まれて、頭は時間の中で、誕生と消滅を繰り返す。そうして消えたものは、どこにあったかも何だったかも分からなくなっていき、その居場所を探すためにさらなる苦しさが生まれる。


「エリカの母親――小牧希望さんは、あなたが誕生した約二十日後、自殺した」


 それでも、あたしは探した。

 伝えた苦しみが胸を突き刺していく。

 そして、思いが生まれる。

 あたしは、これを伝えて、何をしたかった?

 何を、伝えたかった?

 伝えたところで、何が起こる?


「……やっぱり、そうですよね」


 知っていた、とでも言いたげな表情。

 期待なんて最初からなくて、それでも諦めきれなかったのかもしれない。


「薄々気づいていたんです。もうお母さんは、どこにもいないってこと。だけど、『死んでしまったこと』が真実になるのは、すごく不思議な感覚なんです。もう分かっていたことなのに、心が動揺してしまって。すごく悲しいことなのに――涙はでなくて、『死』への理解が脳内で掬いきれずに、心からぽっかりと消えていく」


「消えないで」


 思わず、いまにも潰れそうな声で囁いていた。

 我儘だった。

「消したい記憶をずっと覚えていて」なんて。私利私欲でも、あたしは今のエリカを守りたかった。弱いままのエリカを変わらせずに、守ってあげるべきだった。


「えっと、先生」


「……何だろう」


「先生、泣かないで」


「……えっ、あたし、泣いてる?」


 自分でも気付かなかった。


「はい」


 涙なんて時間が経つほど意味を持たなくなって、むしろ意味が無いからこそ生まれてくるものになる。

 そんなことは分かっているのに、あたしはなぜ涙を流しているか分からない。小牧希望の自殺はあたし自身の悲しみでもないし、もちろんエリカにとっての哀れみでもない。


「……ごめん。気にしないで。話を続けよう」


「でも、ひどく辛そうです」


「大丈夫だよ、いつものことだよ」


「いつもの先生は、こんな顔しません」


「……うるさい。うるさいなあ」


「……えっ」


「それはあなたが、本当のあたしを知らないだけでしょ」


「……あの、その……怒らせてしまって、ごめんなさい」


「……あっ、えっと、ごめん」


 思わず、口を噤んでしまう。

 本当はこんなこと、言いたくない。

 どうしてあたしは、伝えたい思いを、思いのまま伝えられないのだろう。


「……あたしも、ごめん。こんなこときつく言うつもりじゃなかった。あたしだって、先生だって、辛いときはあって、だからそういうときは、ね。子どもみたいに、少しだけまともじゃなくなって。言うことを聞けなくなるの」


「……だったら、安心しました。先生だって、そうなるときもあるんですね」


「えっと、ちょっと、待ってね」


 ああ、次は何を言えばいいんだろう。

 答えを出した後は、何を答えにして言葉にすればいいんだろう。

 悩んでも分からないままで、心をでっちあげて、咄嗟になって言う。


「希望さんはね、直前まで鬱病を患ってた。病院からは、『マタニティブルー』っていう一過性の落ち込み症状だと判断されていたんだよ」


 こんなこと言う必要はなかったのに、言ってしまったのは何故だろう。

 青色。芒さんが飲ませてくれたバタフライピーに浮かんでいた、青紫の花びらが綺麗だったことを思い出す。

 エリカははっとした表情をした。ずっと分からなかった謎が解けたようだった。


「ああ。だからあの時、色だったんだ」


 彼女は少しだけ笑った。この話をして初めて彼女らしい表情が生まれていた。

 諦めか、決別か。それでも諦めきれない何らかの思いがその表情に浮き彫りになっている。

 小牧希望の遺書を見て、彼女は言った。


「それにしても、私と似てますよね。『生きる』才能がないところが。逃げたくても、上手く逃げられなかったんでしょう」


 やめて。

 苦しいの。胸が痛いの。

 あたしの教え子が、あたしの家族が、ただの女子高生が、生きている人が、そんな悲しいこと、言わないで。


「やめて。そんなの、すごく悲しいから」


 あたしは彼女を支える小さな海になれなかった。心の奥から捻り出した声は弱々しくて、今にも消えてしまいそうだった。


「悲しいことを知るのはつらいけど、少し嬉しいんです。だから私にとっては、悲しいも、嬉しいも紙一重なんだと思います」


「なんで、そんなことを思えるの。悲しいなら、悲しいと叫べばいい。あなたは、そんなに無理しなくてもいいし、変わらなくていい。苦しさを紛らわすために、『嬉しい』なんて、言わなくてもいいの」


「知れて良かったんですよ、ほんとのこと。知ることだけでは前に進めないけど、これで後ろを振り返る必要はなくなったと思えるから」


「前だけ見るのもダメだよ。たまには、苦しいときは、後ろを振り返るべきだよ。あなたは、どれだけ繊細で、どうしてそんなに綺麗なの」


 違う。弱いのはきっと、あたしの方だ。

「たまには後ろを振り向いて」なんて言うと、馬鹿馬鹿しかった。「未来に怯えないで」と言った、そんなあたしには。

 現実が上手くいかず、未来を見たくない私は、いつも過去に縋っている。そんな自分がエリカに対して「生き方」を教えることは、誰の教えよりも醜くて、人の事を指摘できないくらい脆かった。


「過去も未来も、私には難しいんです。今までは、綺麗なものだけを見ながら生きていたいと思っていたけど、それじゃあ息詰まる。だから、少しくらい過去と向き合える時間ができてよかった」


 ああ、そうか。

 教えなくてよかったんだ。真実なんて。

 彼女は何も知らないまま、ずっと何かのせいにして生き続ければよかったんだ。

 息をし続けてひっそりと残っているのか、それとも、すっかり消え失せて色褪せてしまったのか――あたしは、あるのかも分からない記憶を、抉り出して覗いていた。

 当事者の気持ちを無視して、内側に何があるのかも知らずに。

 だから全部、あたしのせいなんだ。

 ようやく気づいた。気づくのには遅すぎた。

 涙の理由は、何を嫌えばいいのか分からない嫌悪感と、何も知らずに何かを知ろうとした自分への罪悪感だった。


「エリカ、ごめんなさい。苦しい思いをさせてしまって」


「……そんなにですよ。私よりも、先生の方が、ずっと苦しそうですよ」


「あたしは、あなたのことを知らずに、あなたを知ろうとしていた。だから今、すごい苦しいの」


『そんなことしても、自分を苦しませるだけだよ』。今なら、理解出来なかった芒さんの言葉が手に取るように分かる。分かった言葉の意味は、今の自分を突き刺している。


「先生、何を伝えればいいか、とか分からないけど。えっと、泣かないで下さい」


 それでも涙は零れている。

 仕方なかった。

「泣かないで」なんて言われても、ずっと泣いてしまう人間だから。

 そんなみっともない姿を見せたあたしに見兼ねて、エリカは言った。


「私は、今日を過ごせて嬉しいです。嫌なことばかりだけど、それが重なってもなお生き続けられることが、すごく嬉しいです。だから、今日は、先生と過ごせて、話ができてよかった」


 言葉は涙みたいな優しさで。皮肉なことに、彼女は満面の笑みで、伝えたい思いをそっと伝えているようだった。

 人は、それぞれが欠陥している。だけど、それを隠すようにして、素晴らしい特性だって備わっている。

 彼女にとっての素晴らしさは、「伝える思い」だと思う。自分の気持ちは自分にしか分からない。他人の気持ちも、その人にしか分からない。それでもなお、彼女は自分の弱さや脆さを伝えて分かち合おうとする。当たり前のことだけど、あたしにはできないことだから。いつからか憧れていて、それがどうしようもなく好きだった。


「こういうことにしましょう。私のお母さんは旅に出ているんです。身体の中にあるその青を、ただ消し去っていくために」


 すごく、優しい子だと思った。

 そして、その優しさにあたしはぎゅっと胸を締め付けられる。それはまるで、彼女の思いに縛られているようで、私は自分自身のことすら、何も考えることができなかった。


 ❀


 桜 『ねえ、今日呑みに行っていい?』


 椿『またかよ』


 桜『今日は泣きたいの』


 椿『いつも泣いてんな、アンタ』


 桜『泣いて、失敗して、また間違えた』


 椿『そんな悲しいこと言うなよ。アンタらしくない』


 椿の家に来るやいなや、あたしは涙腺が崩壊して泣きじゃくった。彼女に抱きついて、嗚咽まみれの声を吐き出した。そのせいで、彼女が着ていた深緑のTシャツには、あたしの涙の染みがべっとりと着いていた。


「うおぉ、何いきなり」


「ごめん。ごめん」


「なんでアタシに謝る。何があった?」


「エリカに、本当のことを教えたの」


「いや、わからん」


 そういって、泣きながら全てのことを教えた。エリカの事実上の母親は亡くなっていて、あたしはそれを何も知らない状態で知って、エリカに伝えてしまったこと。


「……それ、何が悪いことなん?」


「全ていけないことなの。エリカは繊細だから、知ってしまうと何かが変わってしまうから」


 はー、とため息を吐く。


「めんどくせー。変わるって、いけないことなのか?」


「……全部、あたしの我儘。だって、心が弱い人は、無理して変わらなくていいでしょ?」


「……自分勝手だなぁ、みんな。相変わらずだよ」


「ごめん。『心が弱い人』って、一括りにしちゃった」


「なあ、エリエリは、そんなに弱いのか?」


 椿はそう言った後、「ああ、弱いか」と自己解決した。

 あたしは、決めつけていた。

 弱さの意味も、変わる価値も。

 人の性格も、特徴も。

 小さな海という、自分自身の夢の存在も。

 全部、日常の中で変わり続けるものなのに、あたしは哲学のような普遍的な固定概念だと思い込んでいた。


「ねえ、あたしって、HSPかな?」


「なにそれ」


「心の病気。ちょっとしたことで落ち込みやすくて、強い自己否定が生まれる。そんな病気」


「ばーか」


「ほんとに、馬鹿でごめん」


「おいマジか、一旦落ち着け。前々からやばいと思ってたけど、ついに頭がおかしくなったか?」


「言葉では隠せても、不安なの」


「誰だって生きてたら不安くらいある、当たり前の話だろ」


「あなたは怖くないの?嫌なことがあったら、落ち込んで。そんな自分のことすら否定していく。そんな心はどうかしていると思わないの?」


「病気は、ふとしたときの気の緩みみたいに、取ってつけれるものじゃないんだよ。そもそも『心が落ち込む』ことを病気と言うなら、この世の全人類みんな病気だ。アンタもアタシも病気だし、それこそエリエリなんて重症だ」


 ああ。そうだった。

 数学の証明問題みたいに。

 真夜中にするゲームみたいに。

 恐怖心、不安、どきまぎ、救い――

 一切のことを受け入れられれば。

 苦しみが当たり前のものだと無意識に受け入れられれば。そんな弱さを心が許してくれれば。あたしは笑顔になれて、それで全てが解決するのだ。


「うっ、ううっ」


「一旦、水飲め。ほろ、ごっくんしろ」


「……あっ、ありがと」


「誰に似たんだか、全く」


「悲しみも苦しさも弱さも、色んな人が口を揃えて言いまくってるけどさ。結局そんなのが何か、頭の悪いアタシには分からない。分からないから、失くならなくて、多分一生それに苦しんでいくんだよ」


「だから、どうしろと?」


「アンタが不安なら、アタシも不安って叫ぶし、それを病気だと言われて社会から否定されようものなら、アタシも社会を否定する」


 自分勝手だ。否定を否定する過激思想だ。自分の問題を他人に押し付ける我儘だ。

 それでも、大好きだった。


「言い換えると、これから、二人で頑張ろう、ってこと」


「それ、あたしが言ったセリフじゃん」


 ようやく、あたしは笑えた。

 泣きじゃくた後の笑顔は、多分、自分で思うよりもすごく変な顔だったに違いない。

 そんなあたしを見た椿も、困惑しながら笑った。

 辛いなら、辛いと言えばいい。

 それが出来なかったら、何もかも打ち明けられる人と、笑えばいい。

 ただ、それだけの話だった。


「あーこんなこと言わせんなよ恥ずかしい」


 私たちはちぐはぐだ。

 上手く噛み合わなくて、すれ違って、伝えたいことが伝えられなくて、日々喧嘩と説得と慰めを繰り返す。

 けれども、それでも切り捨てられないものがある。

 あたしたちはそれを愛と呼ぶ。

 即ち愛とは、ありとあらゆる物事を捨てて、その中で交わるたったひとつの結び目を、切り捨てないで大切に取っておくことだと思う。

 翌朝になると、あたし達はいつも通り眠気を押し潰して起き上がった。体中の動きが鈍くて、変な寝方をしていたせいで背中が痛い。乾き切った息はアルコールだけではなく、若干煙草の臭いも残っている。

 あたしたちは同棲ができない。付き合っていても何かが致命的に気に食わなくて、5年間ずっと別居したままだ。

 たまに一緒に寝ることはある。同じ寝室で、同じベッドで、吐息がかかりそうな距離で向き合うことはあっても、「おはよう」は言わない。

 第一声は、あたしの声だった。咽喉の乾燥した寝起きの低い声で、あたしは言った。


「ねえ。髪伸びたから、今度切りに行くね」


「ボサボサのまま方が、いいと思うけど」


「夏だし、暑いし」


「あっそ。じゃあどんなのにする」


 椿はあたしの髪に触れようとする。あたしがしゃがもうとすると、「余計なお世話だ」と彼女は言う。


「よく分からんから、お任せでいいや」


「お前、それでも女かよ……だから、セックスだって出来ないんだよ」


「いや、それは関係ないでしょ」


「逃げてばっかじゃなくて、そろそろ腹くくれよってことだよ」


 椿は背伸びしながら、あたしの頭を撫でる。

 その後、あたしの背中を押して、そっぽを向いた。

 彼女の頬は少しだけ赤く染まっていた。


「まったく。もうちょっと、よく分かるように伝えてよ」


 ❀


「ねえ、エリカ。辛かったら、いつでも言って欲しい」


 そう言われる方が、よっぽど辛かった。

 悲しいけど、別に涙が出るほどじゃない。だから、そんなに気を使わなくていいのに、いつも以上に優しく接されるのが、やけに不気味だった。

 桜先生は長い髪を黒いクリップで止めている。変わらず綺麗で、かっこいい。ありふれた光景だけど、私にはいつもの明るい桜先生が見えなくて、それが少し寂しくなった。


「――私のお母さんは旅に出ているんです。身体の中にあるその青を、ただ消し去っていくために」


 私は誤魔化した。冗談半分で過去をねじ曲げた。曖昧な世界の中の、変わらない真実から逃げるために。私の記憶をどこからか探り寄せてきて、泣き続けるままの桜先生の涙を隠すために。私のお母さんを、自由にさせるために。


「よかった。これで、よかったんだ」


 命は、思ったより身近なところにあって。だけど人なんて、どれだけ縋り寄ってもみんな孤独だから、「死」すらも、他人事で済ませることもできる。


『分かってる。空の向こう側には、きっと強い風が吹いていて、私をめちゃくちゃにしてしまうって』


 遺書に書いてあった言葉を口に出してみる。

 情けなくて、それが私に似ていて、思わず笑ってしまう。呆れと、諦めと、愛しさが入り交じった笑顔だった。


「汚ねえ字だよ、ほんとに」


 これが反抗期か。自分でも、思わず変な言い方になってしまって、更に笑う。

 私にとって、「顔すら一回も見ることの出来ずに消えていった母親の命」は、当たり前に重くて、思ったより軽いのだ。

 何もかも分からないままで、思うがままに進んで。そして、その思いのままどこまで行けるのか。いつの日か、そんなことを思い浮かべていた。

 だけど、思いは思いのままで、過ぎ去った真実は変わることなんてなかった。 そのことを知ってしまったから、もうどこへも行けなかった。

 探していた人に会えなかった。なのに全てが腑に落ちる。何一つ叶えられなかったけど、その全てに納得してしまう。偽善の心すら見せられなかった悪役の、惨めだけど愛おしくなる結末みたいだった。


「あー、そろそろ夏休みか」


 視聴覚室には私以外、誰もいない。

 一人きりは慣れている。

 孤独な時間なんて、今まで過ごしすぎて、飽き飽きしていた。

 だけど今日は――寂しさで教室が満たされて、孤独な私はそれに耐えきれない。

 私は黒板に向かう。

 いつもの授業では、自分なりのルールに則り、綺麗な字とデコレーションを駆使して、綺麗なノートを書いていて――そんな意味の無いことで、少しばかり褒められるのが私だった。だから授業の内容より、蛍光ペンのカラーで迷っていて、それがこの頭の悪さに繋がっていた。

 だけど。


「寂しい。悲しい。辛い。嫌い。大嫌い。それでも好き。大好き。離れたくない。思いはいつもどっちつかずで、私にも分からない。だから――」


 もう迷うことなんて、何一つない。

 粉受けから真っ白なチョークを手に取り、頭の中に生まれた単語を、吐瀉物を吐き出すような殴り書きで記した。

 生まれてきて今までで一番汚い、当てずっぽうな字。

 ハネやトメなど、ありとあらゆる手順を破棄した字体は崩壊寸前で、最早別の言語のように見える。


『現実逃避!』


 黒板の両端が、不細工な白い線で一つに繋がっていく。粉まみれの手をスカートの生地で拭った後、私はスカートをたくし上げて、付着した粉を全力で振るった。

 気持ちよかった。こんな変なことをするためだけに額には汗が垂れて、息が荒くなっていた。

 だけど、現実から逃げようとした途端、すぐにその現実が押し戻してくる。おかしなことをする自分に、急に恥ずかしさが込み上げてきた。恥ずかしくて死にそうになって、頬は焼けそうなくらいの熱を帯びているのが分かった。

 それでも良かった。誰かに見られて、笑われて、そんな自分が嫌われてもよかった。

 私はただ、決められた規範から外れる、罰当たりなことがしたかった。


「……汚いけど。まあ、それが私か。馬鹿で汚くて、みっともないのが私で、お母さんで、それが遺伝子か」


 私じゃない私。

 母になれなかった母親。

 教師の建前を持つ反面教師。

 私と同い年なのに、ついつい甘えたくなる母性を持った少女。

 私と同い年なのに、社交的で、かっこよくて、未来も明るそうな少女。

 姉と呼ぶには完璧すぎる、私の好きな人。

 そして、相変わらず何も出来ない不出来な自分。


 何もかも噛み合わなくて、全てがどうでもよくて、答えを出すのが億劫になった。それでも何かを諦めきれなくて、目指したくて、何となくでできた日々を、全力で過ごしていきたい。

 生きているから。

 死ねずにいるから。

 ここで終わってしまうと、誰かが悲しくなると分かっているから。


「今年の夏は、どこか行きたいな。遠く、何も見えない場所まで」


 去年まで家に引きこもっていた不登校児が、まさかこんなことを言っちゃうなんてね。

 自分でも信じられないけど、それでもいいじゃん、なんて。

 私は

 進みたかった。逃げたかった。

 何にも縛られず、どこへだって逃げることの出来る。すっと気楽に深呼吸が出来る、透き通った場所。

 そんな、馬鹿げた理想の「居場所」へ。

 私の手元には、出来損ないの化学のテスト用紙と、今すぐにでも破れそうなルーズリーフの切れ端。切符にも、紙幣にも、緊急時の紙ナプキンにだってなれない。

 どこかへ行こうとしても、どこにも行けない。何かの代わりになろうとしても、何者にもなれない。そんな感情の破裂を抑えるように、2枚の紙を優しく握りしめる。

 だけど、潰れないようにそっと握っても、消えることのない跡ができていて、皺くちゃになっていた。


「ああ。の心の中みたいだ」


 空を見上げる。なんて事のない、いつもの空。

 ただ、地平線まで見渡せる、息ができなくなるくらいの空の青さが、少し苦しいだけ。

 心の奥深くまで侵食してきて、青が飽和し、思いが黒ずんでいく。

 この空もいつか、何も見えなくなるくらいの藍で満たされて、光のない世界の味方になるのだろうか。

 そんな空に、憂いに似たひそやかな声を送る。


「ねえ、聞いて。今度は上手に逃げられるかな?」


 いつも通りの晴れ空を、教室の窓の向こうから見上げた。私以外の生徒はみな、そんな空には気づかずに、なんて事ない日常を過ごす。

 だけど、空は私の瞳にほんの数センチの雨を降らせた。雫は静かに頬を伝い、机の上の乾いた教科書に落ちて、少し滲んで消えていった。


「――逃げられなくて、いつか何かが音もなく消えていくなら、私は最後までそれを見届けたい」


 

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