16. 心の底よりも青い、ただその一瞬を
驚きの色を全く見せずに、彼女は言った。
「いきなり来て、びっくりした」
「一応メール送ってたでしょ」
「うん、ちゃんと見たよ」
「来ないとでも思ってた?」
「いや、絶対来ると思ってた」
「じゃあ、何にびっくりしてるの?」
「ついに、この日が来てしまったか、ってこと」
芒さんはお茶菓子を手渡す。袋の中には、貝型のマーマレードが入っていた。
「……最近どう?『スクール』の調子は?」
「ただの収容所みたいな、そんな無機質な言い方はやめて。トワイライトは喫茶店で、裏を返せば一種の児童養護施設なの」
「そうだね。否定してはいけないね。学校に学校なりの、病院には病院なりの、ゴミ箱にはゴミ箱なりの、居心地の良さがあるからね。それらを比べてしまうと、その全てを否定してしまうことになりかねない。私も、あなたも、エリカも。トワイライトは『捨てられた子』が集まる場所だからね」
「違う。居場所がなくて独りきりの子たちを、育てる場所だ」
「まあ、そういう言い方もある」
「言い方の問題じゃないよ。信念の問題だ」
「信念かぁ。この前、エリカと話したときを思い出すなぁ」
「『ここにある時計たちが、優しい人に見える。その優しさっていうのが、それぞれ違って見えてしまうから、その全てを否定したくないんだよ』、ってあの子は言ってた」
「やっぱり、心優しい子だよ」
「そうだよ。彼女は優しすぎる。優しすぎるから、心が弱くなる」
「優しいことの、何がそんなに悪いの?」
「『優しい』とか『繊細』なんて性格は問題だよ。聞こえはいいけど、結局冷たい現代で生きてくには、バッドステータスにしかならない」
ああ。
こんなことを思ったのは初めてだ。
何が「ゴミ箱」で、何が「捨てられた子」だ。
この人とは、あまりにも思考が離れすぎていて、絶対に分かり合えない。
芒さんは、埃ばんだ放射線状に広がった幾何学模様の時計に優しく触る。秒針は落ちてしまっていて、分針はもう息の根が止まっている。
「ここには私の好きなものしか置いてないから、嫌いなものはない。特に、この動かなくなったヴェデットの時計が一番好き。フランスのヴィンテージブランドで、小さな北欧雑貨屋で買ったの。一番好きだけど、すごく憎たらしくもある」
「なんか矛盾してない?」
「歪な形をしてるから、心の底から憎いし、それが愛おしいんだ」
意味が分からないけど、彼女にとっては、好きも嫌いも、本当にどうでもいいものなんだろう。
「その話をする意味ってあるの?」
「人によっては大事かもしれないし、そうではないかもしれない」
これ以上の進展はないとみて、あたしは話を切り出した。
「芒さん、一つだけ。エリカのことを、全て教えてほしい」
「あー。そうだったね」
「一つじゃないね」と彼女はつぶやく。優しさを置き去りにした、何の興味もない表情のまま。
「そんなの、本人に聞けばいいんじゃない?」
「エリカが知らないから。知っているのはあなた以外に存在しない」
「面倒くさいねぇ。そんなことしても、自分を苦しませるだけだよ」
どういう意味か、分からなかった。
意味なんて考えたくなかった。
余計なことを考えずに進んで行く。
だけど一度だけ、未来に少しだけ足踏みする。
指先が震えている。
結末も現実も真実も、全て飲み込む覚悟を決める。
「『そっとしてあげてよ』なんて、言っても無駄か」
――正解なんてない。だからこそ、何もかも、受け入れてみせる。
「それはそうと、バタフライピー。飲んでいってよ」
吐き気がするくらい、青い液体。
つまらないくらい真っ青な青紫の花弁が添えられている。
「味のしない真っ青なハーブティー。こんな今日に、ぴったりの飲み物だよ」
甘い香りも、深い苦味も感じない。
だけど、やけに細胞に侵食して、記憶に入り込む。
「……美味しい?」
「……正直に言えば、美味しくない。味がしなくて、どこか苦しい」
「……私はね、色あせたブルーの生真面目さが好きなんだよ」
「長話しても駄目だし、そろそろ始めようか?」
それはこっちのセリフだ、と言いたいところだけど、彼女の言動は彼女なりの個性があって面白い。私は自分から話をするよりも、誰かの話を聴く方が性に合っている。
「覚悟はいい?」
「覚悟なんていらない。道端に捨ててきた」
「……そう。桜ヶ丘の坂は、とても急だけど、大丈夫だった?」
「急だからこそ、失くせたんだよ」
「それはまあ。何かに感謝しなきゃね」
芒さんは飴色に染められた飾り棚から、一つの額縁を持ってきた。そこには、笑顔で映る眼鏡姿の女性の写真が入れられていた。
「
「そしてこれが、希望の写真」
「すごい、エリカと似てる。顔も、髪の色も。眼鏡してなかったら、どっちがどっちか分からないかも」
「桜ちゃん。『マタニティブルー』って知ってる?」
「妊娠中や出産後に生じる『一過性の情緒不安定な状態』。女性ホルモンの急激な減少だったり、出産の疲れや不眠、プレッシャー、生活の変化などの理由で、出産直後から数日まで、気分が変わったり、涙もろくなったり、そんな心身の不調が続く」
「そう。本来は、ね」
「彼女は、エリカを出産した後、その症状が治らなかった。二週間後も、その後も。むしろ、より酷くなっていったそう。言葉にすると『産後うつ』って言うんだけど――マタニティブルーは一過性の生理現象だから、っていう理由で、誰もが深く考えずに、ケアを怠っていたの。蓋を開けてみると、実際はただの鬱病だったんだけどね」
ただの鬱病、その言葉に不快感を覚える。
「出産から22日後、退院から17日後。小牧希望は亡くなった。享年21。住んでいたマンションからの飛び降り自殺だったという話を、エリカを引き取るときに聞いた」
一片の紙切れ。
あたしは知る。
もう変わることのない過去。未来を変えられない現実。
期待だって、いつかは裏切られる、そんなこと。
それだけが真実だった。
端は乾いた茶色に変色している。
薄まったボールペンの色素。
今にも消えそうで、か細い飛行機雲みたいな当てずっぽうの字。
『もう、疲れた。生きることを考え続けると、死にたくなる。育てられなくて、ごめんなさい。忘れたいと思っても、何もかも消えないの。だからもう、ぐしゃぐしゃにして切り捨てることにした。分かってる。空の向こう側には、きっと強い風が吹いていて、私をめちゃくちゃにしてしまうって』
「希望の遺書。飾りっけのないルーズリーフの切れ端」
「……何で、誰も気づかなかったの?」
「さあ。分からない」
芒さんは続ける。
「分からないけど、希望は全てを隠して生きていたんでしょう。辛いことがあっても、『辛い』って言わずに、苦しい日常を過ごしていた。そんな嘘で塗り固めた自分には、無垢な心を持ったエリカに愛情を注げないって、そう思ったんでしょう、私の憶測だけどね」
そう言われて、希望の過去を探りたくなる。彼女が過去、何を思って、何に苦しんで、最後は何を言っていたのか。
だけど、想像だけで補うには、あまりにも失礼だ。
「面白いよね。崩壊寸前の心が、何かを必死に伝えようとしてるの」
「どこが面白いのよ」
「私たちも一歩踏み間違えていたら、こんな風になっていたのかもって」
芒さんは続ける。
「当たり前のことなんだろうけど。私たちが普通に生きて、『生きること』に普通に苦しんでいることは、すごく奇跡的なことだと思う。だから、分かるよ、何となく。桜ちゃんの気持ち」
「何が分かるの?」
あたしは言い続ける。
彼女に、あたしの何が分かるのだろう?
心なんて、交わらない。
思いなんて、ぴったりと重ならない。
ちぐはぐなリボンの結び目みたいに、絡まっているけど少しだけ重なる部分すらない。
「知らぬ間にトワイライトを抜け出して、一人きり少年院に入って、今はのこのこと暮らして、『育てられない』って理由で、平気でエリカをあたし達に押しやる、そんなあなたに」
すると、芒さんはなんの迷いもなく、躊躇わずに言った。
「こ、こ、ろ」
あたしにはそれが、とても怖かった。
「心について」
「『心は、歪な形をしてるから、心の底から憎い。だけどそれが、言いようもなく、愛おしい』。桜ちゃんは、そう言いたげだね」
ああ。
すごく、大切な話だった。
心なんて、時計と一緒だった。
壊れるもの、動き続けるもの、ゴミ同然の醜いもの、ジュエリーが煌びやかなもの。
その全てが、一つになって時間を共有している。
「小牧希望はそれが怖かったから、空の向こう側で、まだ旅をしているんだ。ずっと、何かを求めて。彼女は最後まで、青色のままだったんだよ」
古ぼけた思いを辿ったら、いつか分かる日が来る。
真実を知った。知ってしまった。
その瞬間。
その一瞬だけ、心の底よりも青い何かが、すっと心の中を通り過ぎていった。
その青は伝える。
愛なんて、さよならを言わずに過ぎ去ってしまう、どうしようもないものだと。
そんなことはないと、私は伝えようとする。
怒り、悲しみ、妬み、慰撫――
言葉なら、いくらでも思い浮かんだ。
だけど、何を伝えていいのか分からなかった。
ああ。どうしたって、伝わらないんだ。
それだけ優しくしても。思いを伝えられないんだ。
その青はどこかへ消えていった。目に見えることもなく、その後の在処を教えることもなく。
伝えたい思いを、伝えられない。
一人一人が違う世界。その中で、誰しもが同じ思いを抱えて日々を送るみたいに、この世界は矛盾している。
この世に生きる誰もが、人間として、どこか欠陥している。
あたしも、それ以外の誰かも。
心は、歪な形をしてるから、心の底から憎い。だけどそれが、言いようもなく、愛おしい。
だから、一瞬でもいい。わがままでもいいから、少しだけ――
その言葉の続きを探していると、芒さんは言った。
「味のしない真っ青なハーブティー。こんな今日に、ぴったりの飲み物だよ」
怒ることもなく、泣くこともなく。誰が何と言っても、顔色すら変えないその表情は冷淡で。何かを考えすぎることで、いつしか考えること自体が嫌いになって、思考を破棄しているようだった。
そんな彼女につられて、私は、言葉を伝えたいのに、何を言いたいのか分からなくなった。
「人って、やっぱり我儘だよ。目を合ったと思ったら、いつしかすれ違ったり、分からないままだ」
味のしない青い液体の湯気が、息を引き取るかのように、静かに消えていた。
❀
土曜日、昼のピークを過ぎた頃。店内には、食事を終わらせて話し込んでいる客も、次第に退店していった。
美雪さんが言った。
「リラ。少し、休憩してきなよ」
「大丈夫?お客さん、またいっぱい来ない?」
「いいよ。少しくらいは、私も一人でいたいの」
「……分かった。じゃあ、エリカ。二人で、少し、外でよっか」
振り返ってみると、久しぶりに忙しい日だった。
手を動かさない時間がなかった。
その中でも、フレーバーコーヒーと、オレンジのシフォンケーキがよく売れた。
みんなが、「美味しい」と言って、笑顔でケーキをフォークで縦に切り下ろす。そして、鮮やかなオレンジマーマレードとホイップクリームをつけて、頬張っていく。
子どももお年寄りも、高校生も。個性も考えもまばらな色んな人たちが、同じような笑顔で、食事をしていた。そして、その風景が、何よりも贅沢なものに思えた。
だけど、ただ一人。
ケーキを食べていた中年の女性がいた。
「久しぶりに来たの。トワイライト。今は東京に引っ越しててね。もう来ないかなと思ってたのに、何か急かされて、ここに来ちゃったの」
「それは。遠路はるばる、ありがとうございます」
「……何頼もうかしら」
「おすすめは、この新メニュー。オレンジシフォンケーキとフレーバーコーヒーのセットです」
「じゃあ、それをお一つお願い」
東京の方はせっかちだと姉に聞かされたので、少々待たせたかな、と不安になりがらシフォンケーキとバニラ風味のコーヒーを運ぶ。
「……大変お待たせしました」
「……ありがとう。一生懸命作ってくれて」
「……いえいえ。こちらこそ。お時間をおかけ致しまして」
「……ああ。懐かしい。あの頃も、そんな感じだったわ。昔はね、ここにはいっぱいいたのよ。それこそ、ある種の学校みたいだった」
そう言って、女性はケーキを口に入れる。
「心が苦しくなるね。いつの日か、何も無かった日を思い出す」
フォークをぎこちなく握ったまま「美味しい」と言って、寂しそうに笑っていた。
分からなかった。
何も無い日のことを、やけに覚えていること。
それに、心が苦しくなること。
何もかもが陳腐なストーリーテリング。
その声は、やけに私の胸を締め付けた。
❀
空が青くなると、冷たい空気が次第に消え去っていく。目には見えないけれど、水を弾くような、瑞々しい若葉の匂いがする。
いつもの海岸線。吸い込んだ潮風と不安げに揺れるクローバー。自然のリズムに身を任せると、もうすぐ初夏になる音が聞こえる。
さらりと澄んだ空は、どこかすっとして、薄影を作る青葉が、風に揺れていた。
強い風に負けじと、髪を抑えながら前を向いた。
「風、強いね」
「青嵐だ」
「あおあらし。またの名前を、せいらん」
今まで感じた全ての青を集めて、重ねたような風。名残り惜しくて、儚い。
私は、右手を伸ばす。
心の底を撫でるような、青。
ただその一瞬で、何かを失いそうになる。
その反動で鼓動が強くなる。
もう逃げ場所なんてないんだ。
理由なんて分からないけど、ただその青色の在処を探したくなる。あの日、あの人を居場所を教えて欲しいと願うみたいに。
空の向こう側。きっと誰かが、見ている。
そう思って、私は手を伸ばす。
――その青に、その先に、何があるのだろう。
「エリカは、これから、何かしたいことある?」
「特にない、かな」
「私はね。なんか、不思議なんだよ、今。すごい心地いいのに、心の隅っこだけ、苦しいの。だから空を見ていたら、何か分かるかもって」
「空を見て、なにか分かった?」
「まだ、何も分からない。だから、どこかへ行きたい。遠く、誰も知らないところへ」
遠く、誰も知らないところ。
思い出す。中学生のころ、なにも出来なかった自分。「どこかへ行きたい」と思って――そうして逃げてきたこの場所。
「……旅をしていたい。この青を、手で掴むみたいに」
そう言った瞬間、青嵐は止んで、どこかへ消えていった。目に見えることもなく、その後の在処を教えることもなく。
「私は、何を思えばいいんだろうね」
好きの、その先。
伝えたい思いを、伝えられない。
そんな彼女につられて、私は言葉を伝えたいのに、何を言いたいのか分からなくなった。だけど、不器用なりに、何かを伝えてみたいとも感じた。
「強いて言うなら。私は、誰かに優しくしたいな」
私は彼女の手を握る。冷たくて、だけどその中にしっかりした温もりがある手。触れているだけで心の底が震えてくる、柔らかな温もり。
「……こういうの、久しぶりだね」
彼女は少しだけ笑っていた。
「……ねえ。少し、緊張してる?」
「別に、そんなに」
「お姉ちゃんはしてた」
「……そう言われると、私も緊張しちゃう」
感情だけの言葉につられて、思いが伝染してしまう。
「……じゃあねえ、ハグしてあげよっか?」
「何で?」
「意味はないよ。だけど今は、そんな意味を求めたくないの。意味の無いことを、ずっとていたいなあって」
「……私からしてもいい?」
「……だーめ」
――そこから、少しだけ色んなことをして、時が終わっていた。
もしお母さんが生きていたらこの光景を見てどう思うか。娘が何かに縋りながらも生きていることを、嬉しく思うか、うざったく思うか。
けれど、もしもこの世にいないとしたら、私はこの想いを。真っ直ぐな青の中に、ポツリと存在しているこの恋を、蕾を咲かせるみたいに、時間をかけて大切にしていきたい。
それがきっと、「生きたい」という意思表示だから。
この世界に「小さな恋」があるとするなら、変えられない真実みたいに、すぐに消えてくようなところに、ただひっそりと浮かんでいる。
❀
「風、強いね」
エリカの声が耳に届いた瞬間、私はふと立ち止まる。風の音が強くなる度に、あの青色を思い出してしまう。
「青嵐だ」
無意識に言葉がこぼれる。青嵐、またの名前を「せいらん」。夏のはじまりを告げる、強くて冷たい風。不思議な名前だと、昔からそう思っていた。
エリカが呟くようにその言葉を繰り返すのを聞いて、私は少し笑ってしまった。彼女はいつもこうだ。淡々とした表情を崩さないまま、私の言うことに耳を傾ける。その無表情の奥で、何を考えているのだろうか。
風が強まり、髪が揺れる。今日つけた香水の、シトラスの爽やかな香りがふわりと漂い、時間とともに、ユズやオレンジみたいな甘い香りが優しく残っていく。エリカが右手を伸ばして、青い空に向かって何かを掴むような仕草をするのを、私はただ見ていた。
「エリカは、これから、何かしたいことある?」
私は自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からない。心の隅で、彼女にもっと話して欲しいと思っている自分がいたのだろうか。エリカはしばらく考えた後、淡々と答えた。
「特にない、かな」
期待していたわけではないけれど、その返事に少しだけ胸が痛んだ。私は話を続ける。
「私はね。なんか、不思議なんだよ、今。すごい心地いいのに、心の隅っこだけ、苦しいの。だから空を見ていたら、何か分かるかもって」
言葉にするのが難しい。でも、エリカには伝えたいと思った。彼女なら、何か感じてくれるかもしれないと。
「空を見て、なにか分かった?」
エリカの問いに、私は少しだけ戸惑う。何も分からない。それでも、私はどこか遠くへ行きたいと思った。
「まだ、何も分からない。だから、どこかへ行きたい。遠く、誰も知らないところへ」
中学生のころを思い出す。あの頃は「今」というものにもがいている自分がいて、そのときはいつも「どこかへ行きたい」と願った。けれど、その願いの先に待っていたのは、何でもそつなくこなし、だけどなにか満たされない感情のある、今の自分だった。
「……旅をしていたい。この青を、手で掴むみたいに」
そう言った瞬間、青嵐が止んでいくのを感じた。エリカも何も言わずに、ただ私の隣に立っている。
「私は、何を思えばいいんだろうね」
自分でも分からない感情が渦巻く。何かを伝えたいのに、言葉にできない。
「強いて言うなら。私は、誰かに優しくしたいな」
そう言いながら、私はエリカの手を握る。彼女の手は冷たくて、でもその中に確かに温もりがあった。その温もりを感じると、胸が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……こういうの、久しぶりだね」
エリカが少しだけ笑った。いつもはしないのに、その笑顔を見ると、私は不意に緊張してしまう。
「……ねえ。少し、緊張してる?」
私はつい、そんなことを聞いてしまう。
「別に、そんなに」
「お姉ちゃんはしてた」
言った瞬間、私は恥ずかしくなってしまう。でも、エリカが「私も緊張しちゃう」と返してくれて、少しだけ救われた気がした。
「お手伝い、疲れたでしょ」
「……いや、別に」
「う、そ。顔見れば分かるんだから」
「……うっ」
「……じゃあねえ、ハグしてあげよっか?」
お姉ちゃんが甘やかして、何が悪いのだ。
「何で?」
「意味はないよ。だけど今は、そんな意味を求めたくないの。意味の無いことを、ずっとしていたいなあって」
意味の無いことに、意味を込めるみたいに。
そしたらきっと、何かが生まれる。
私がそう言うと、エリカは少しだけ考えてから言った。
「……私からしてもいい?」
その瞬間、私は不意に心がざわついた。だけどエリカは私の妹だから、私の言うことだけに従っていれば、それでいいのだ。
「……だーめ」
私はエリカをしっかりと抱きしめた。彼女の細い体を自分の腕の中に包み込みながら、胸を背中に押しつけながら。すると、鼓動が少しずつ静かに落ち着いていくのを感じる。彼女の体温がじんわりと伝わり、二人の間に漂う沈黙が心地よく、安心感に包まれる。
「……ねえ、エリカ」
彼女の耳元でそっと呼びかける。エリカは小さく応じるように頷くけれど、特に言葉は返してこない。それが彼女らしい。
「お姉ちゃん、けっこう、我慢してたんだよ」
少しだけ、私は彼女の顔に近づいた。誰も周りにいないことを確認し、静かに、そっと唇を重ねる。エリカが驚いたように一瞬身を強張らせるのを感じたが、すぐに力が抜けて、柔らかく私の唇を受け入れてくれた。
この前よりも、長くて、温かいキス。
その時間の中で、青嵐が私たちの間を吹き抜ける。エリカの唇には、彼らが運んできた潮の波の味がほんのりと感じられた。瞳から落ちる涙みたいに少ししょっぱくて、でもどこか懐かしい味。
「……なんだか、海の味がするね」
私は微笑んで囁いた。エリカは何も言わず、ただ私の肩に頭を預けた。その静かな仕草だけで、彼女の気持ちが少しずつ伝わってくる。
潮の香りがまだ鼻をかすめる中、私はエリカの存在を強く感じていた。唇に残る感覚と、彼女の体温。
今この瞬間だけが、私たちを繋いでいるような気がした。だから、今だけだから、私は少しだけ悲しくなった。
「……大好きだよ、エリカ」
心の中でそっと呟いたその言葉は、風に乗ってどこかへ消えていった。けれど、それでもいいと思った。たしかに悲しいけど、この瞬間を共有できるだけで、私は十分だった。未来に待ち受けているものが何であれ、目一杯今を生きたいと思っているから。
キスが終わった後、エリカは私にある誘いを告げる。
「……いつか、旅に出よう。二人で、何も知らない場所へ。心の底よりも青い、ただその一瞬を掴むまで」
その一言で、風がまた吹き始めた気がした。力強い青葉を揺らすような、激しくて冷たい風が、凪の水面を揺らしていた。
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