15. 古ぼけた思いを辿って
土曜日の午後。
梅雨の代わりに発生する、水分を含んだ冷たい空気。
だけど、太陽が満遍なく家の周りを照らしていて、天気は気温に敏感な私たちに意地悪だなと思う。
「エリカ。この前、学校間に合った?」
「うん。次からは気をつける」
「いいよ。気をつけなくても。そんなに気にすることでもないし」
「同じことを失敗したら、またがっかりする」
「エリカは真面目だねぇ」
気を抜く方法を知らないから、いつも行き詰まってばかり。
裏返せば、みんなそう言いたげ。
たまには、明るく振る舞いたい。
「おーい、姉妹たち」
「これ、焼けたから、話でもしながら食べようよ」
そう言って美雪さんから渡されたのは、お皿にのったシフォンケーキ。
「えっと……これ、食べてみてもいいんですか?」
「うん。毒味してみて。多分失敗作だから」
「せっかく美味しそうなのに。少しくらいは期待してあげて下さいよ」
優しい橙色の生地。ケーキの上には砕かれたオレンジピールとピスタチオ、その横には甘く煮詰まれたマーマレードと、ふわふわと波打つホイップクリームが添えられている。
最近、キッチンシェルフにあった果物ナイフで、大きなオレンジを切っていたのは、このためだったみたいだ。
「あと、このコーヒーも。一見普通だけど、仕掛けがあるから」
「……これ、ブラックなのに、甘い香りがします。……バニラ味、ですか?」
「フレーバーコーヒーだね。私のは、キャラメルの味がする」
「そうそう。焙煎するときに、色んな香りを豆につけるの」
「面白いですね。他にもチョコレートとか、ヘーゼルナッツとかできそう」
「ナッツは選択肢になかった。候補に入れておくわ」
「飲み物はみかけによらない。人と一緒だ」
目線をケーキの方に移す。口に放り込む前に、リラの方を少しだけ見る。
そして、一瞬だけ想像する。お姉ちゃんの口に、シフォンケーキを放り込む光景を。
「……今日はしないよ」
「何のこと?」
「いや、何でも」
「……少し、期待してた」
彼女の口元が少し綻んでいて、私はそれを見て後悔してしまう。
美雪さんが私たちの会話を割って、口を開いた。
いつも静かに見守る美雪さんが、間を割って話すことに違和感を覚えた。
「期待だって、いつかは裏切られる」
煌びやかなスイーツの傍に、現実を突きつける言葉があるのは、いつだって不釣り合いだ。
「ケーキ、美味しいと思いますよ。私の期待を裏切らない程度には」
「……もう、そんなこと言わないでよ。エリカちゃんは、お菓子作りのハードル上げてることに気付くべきだよ」
「そっちこそ、プレッシャーかけてますよね」
私と美雪さんは笑いあった。だけどリラだけはきょとんとして、置いてきぼりにされたような顔をした。
「もう、意味わかんないんだけど」
「お姉ちゃんはいいの。知らないで」
「知ることで、何か悪いことでもあるの?」
彼女への返答を閉ざすかのように、銀色のフォークをぎこちなく握って、ケーキを口に入れる。
美味しい。
濃厚なコクがあるしっとりした生地の中に、さっぱりとしたオレンジの酸味。そして、優しい舌触りのホイップクリームが、喉を優しく通り抜ける。甘いのにもたれず、なにより口溶けがいい。フレーバーコーヒーとセットで売り出せば、お客さんも増えるだろう。
見た目も味も夏にぴったりなメニューなのに、何が駄目なのか分からない。
「何だか、懐かしい味がします」
「だよね。素朴なケーキって、ノスタルジーを感じるよね」
「全く悪くないですよ。何がそんなに気になるんですか?」
すると美雪さんが答える。
「私はね、これを食べるのが苦しいんだよ。昔のことを思い出しすぎて、この美味しさが怖い」
よく分からない。
美味しさが怖いなんて、当てずっぽうすぎて、その発想そのものが怖い。
「美雪さん。私は、懐かしいからこそ、好きになれるものだと思います」
「エリカちゃん。『愛らしさ』って、そういうことだと思うんだよ」
「何ですか、それ」
「古ぼけた思いを辿ってみなよ。今はどうしようも無いものだと思うけど、きっといつか、それを大切だと感じるときが来るはずだよ」
「意味わからん」
「美雪さんって、よく分からないこと言うよね」
「ミステリアス、というか。すごく大事そうなことを、私たちに分からせないまま言ってる感じがする」
「フフっ。今は分からないけど、あなたたちにも、いつかは、分かるときがくるよ」
「そういうところだよ」
「答えがあるけど、理由がない。だからわからないんです」
「理由は、あなたたちが探すべきだよ。私はただ、ヒントを言っているだけだから」
美雪さんは、続けて言う。
「『愛おしさ』って、オレンジの花言葉なの。私にはそれがどうも、怖い。愛って、結局は答えの出せないものなのに、みんなが答えを求めようとしているから」
まだ寒い春の日、愛し合った私たちのことでもあるし、それ以外の不特定多数の誰かのことでもある。むしろ、この世界そのものを疑うかのような、そんな言葉だった。
そして、一人だけ笑いながら、美雪さんは言う。
その笑みは、どんな言葉もしっくりこない、言いようのない表情だった。
「『大切なもの』に、答えは必要なのかな?」
自室に戻る。かといって、何にもしない。何もする気力が起きない。図書館で借りた新刊を読むのも、週末に課された課題を終わらせるのも。お腹が満たされた今、やるべきことではない。
退屈は遊びだ。退屈という時間の中に、退屈という想いを重ねる――その隅から、また新たな感情を作るために。
そうして、ふと思う。
「大事なものって、なんだろう」
真実なんて、思いの中ではどうにでもなる。だから、もう決まりきったものにしたい。
だけど。だけど――
奪われてしまったもの。
消えて捨てられてしまったもの。
遠くの過去には確かにあったのに、今ではもう、どこにも無いもの。
自分だけが知らない。だからこそ、忘れられない。言葉にできない思いも、思いのまま、心にしまいこんでいきたい。
「あなたのお母さんはね、旅に出ているんだよ。身体の中にあるその青を、ただ消し去っていくために」
あの日の芒さんの言葉を思い出してみる。
青色の正体。
旅の意味。
そして――お母さんの居場所。
年季の入った窓に、陽の光が差し込んでいく。いつしか慣れてしまったけど、その光はまだ眩しいまま。反射した逆光に視界は遮られて――怖がりの私は、いつも目を閉じてしまう。
何かを変えようとしても、過去は過ぎ去って、もうどうにもならない。
それでも、呟いてみる。
「お願い」
「私のお母さんの、居場所を教えて」
失くした日々の欠片。どうか、行き場所のない言葉の続きを――
尖った三角の思い。
鋭利だけど、もう古錆びていて、誰も傷つけない。だけど、意地を張る子どもみたいに、私を掴んで離さない。
そんな、痛みのない鋭さを胸に抱えて、古ぼけた思いを辿った。
❀
目が開いた。今まで寝ていたか起きていたかは分からない。だけど夢も鋭い視線も見えなかったから、気分が悪いわけでもない。
傍には、桜さんがいた。
なんでいるの、とプライバシーの侵害を訴えることもなく、今ある感情を空気みたいに吐いて流してみる。
「なんか用ですか」
「よく寝るねえ」
「シフォンケーキ、美味しかった?」
「はい。すごく」
「眠りにつくくらいだから、さほど美味しかったんだ」
「寝てないです。光が眩しくて、目を瞑ってただけです」
桜さんは静かに答えた。
ひとりぼっちの兎みたいに、寂しそうな眼差しで、私を見つめた。
「……嘘が下手だね」
「……はい。やっぱり、分かりますよね。私は、嘘が怖いんです。そして、気が抜けるときはいつも、眠くなるんです」
「……それは、毎日頑張ってる証拠だよ」
「今が辛いなら、辛いって言えばいいのに。だけどやっぱり、言えないんだよね」
「辛い」なんて。なくはない。
だけど、桜さんの思ってるように、そんな単純なものでもない。
何も言い出せないから、悲しさがある。
そこから何かを言い出すことができれば、悲しさなんて、私の心からは失くなっているはずだ。
「寝言、聞いたよ」
「えっと……私、どんなこと言ってました?」
「まだ、忘れられないんでしょ?」
根暗な私は、簡単なことさえ、面と向かって上手く話せないでいる。
だけど夢の中では、伝えきれない本音も、木漏れ日みたいに溢れてきて。閉じてしまった思いも、閉ざしきれないでいる。
「あたし、探しに行くよ。あなたの――『大事な人』の居場所」
「私は、別に」
そう言おうとした瞬間、言い淀んでしまう。
ああ。
違うんだ。
私と、桜さんの思いは。
私は、過去を知りたい。過ぎ去ったことは、変わらなくていい。そこにある悲しみも妬みも怒りも、そのまま受け止めていたい。
だけど桜さんは、変わらない過去の影に、微かな希望の糸を垂らしている。
美雪さんの言葉が、やけに頭に響く。
「愛って、結局は答えの出せないものなのに、みんなが答えを求めようとしている」
なんだか皮肉めいていた。ほんの些細なことなのに、あまりにも理不尽だった。もうこれ以上、逆恨みなんてしたくないくらい。
「大丈夫。きっと、大丈夫だから」
桜さんの声は優しかった。
優しくて、優しすぎて。
不確実なことに目を背ける、心地よくて暖かい寂しさみたいに聞こえた。
❀
職業柄取りにくい有給をとって、二日間だけ、無防備な旅人になる。
たった一人の少女の過去を知る旅。
記憶を探しに行く旅。
行く先は、あてのない東京の、すみっこの綺麗な街。
聖蹟桜ヶ丘。
東京特有のけたたましい喧騒があるのに、この場所だけ時間はゆっくりと流れていて、なんだか、少し寂しく感じた。
エリカが最初、何も知らない北海道の街に来たときも、こんな風に思っていたのだろうか。
駅から南方向、保全緑地から5分ほど歩いて行き着いた先は、不思議な喫茶店だった。
「オールドクロック」。あまりにも捻りのない店名。
海岸線の美しさも潮風の香りもない。強いて言うなら、青葉の香りと、無機質な白いマンション、それに似合わない人混み特有の澱んだ空気。
理由は上手く言えないけど、少しばかり緊張してしまう。
ああ。やっぱり。誰しもが、最初はこういう感じなんだ。
「こんにちは。というか、お久しぶり」
店内には、数えきれない古時計が壁一面に吊るされていて、ただ純粋に、居心地の悪い店だと思った。
秒針が落ちて止まってしまったもの、ガラスが割れてもなお動いているもの、一定の時間毎に鐘を鳴らすもの、それに共鳴するもの。ただ静かに、動き続けていくもの。
その全てが違っているのに。「一つのもの」として、奴隷みたいに操られている。
自我のない不気味な時計たちの視線に、心が落ち着かなかった。
「うん。こちらこそ、お久しぶり。えっと、何年振りかな」
「6月21日。あなたがトワイライトを出てから、13年になる」
「13年ぶりの今日か。15歳から28歳。古ぼけちゃったね」
「もう待ちくたびれて、退屈そうな顔してる」
「……いつものことだよ。いつも退屈。時間をかけてたって誰も来ない。それでも、ずっと待ってるから」
芒さんはお湯を沸かすために、ポットに水を汲み始めた。
「今日は、何でここに来たの?」
「過去の思いが、ここに来いと心に訴えてきたの」
数学教師のあたしが、数学が嫌いな理由。
それは、答えを出すことが、ただ怖いからだ。
何事にも、人それぞれ、一つ一つの答えを持っていると信じている。
だけど、イコールで結ばれた方程式はそれを打ち崩す。たった一つの正解を導きだすために、それ以外の全てを「間違い」として踏み台にしなければいけない。
臆病なあたし。
だけど今は、答えを出さなきゃいけない。
分からないことだらけ――それも答えの導き出せないものばかりの世界。
一回つまづいてそのまま進んでいくと、永遠にマルをもらえずに、バツだけがつく、そんな理不尽な世界――それでも、探していく。
たった一人の少女に、本当のことを教えるために。
唇が震えて、ずっと下を向いている彼女の前では、頼られる存在になるために。
「エリカについて分かることを、全て教えてほしい」
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