14. ちぐはぐな愛のリボン

 誰に対しても親しくできる天性の女の子が、私だけを愛している。


 人によっては素晴らしいのかもしれない。

 青春映画の一コマが現実世界にやってきたみたいで、一部の男子は大喜びするだろう。

 だけど私には、よく分からない。

 ふんわりしてるのだ。本当のことなのかもしれないが、未だに信じられない。嬉しいと素直に言えればいいけど、嬉しさよりも怖さの方が勝る。


 ――私は、彼女を勘違いさせたのではないか。


「私の何が一番好き?」


「……正直に言っていい?」


「……好きに嘘は禁物だよ」


「じゃあ、見た目って言ったら?」


 私は数秒間、目線を下に移す。その後、視線を彼女の方に戻して、ため息混じりで告げた。


「……知ってた」


「……いや、別に、そういうこともある、かもしれないけど」


「……授業中、チラチラ見てたもんね。あなたの視線、男子より感じた」


「……ごめん」


「そんなに、怒ってはいないよ。そんなに、ね」


「……じゃあ、大丈夫だね」


「許してあげるよ、見られることくらい、慣れっこだから」


 思いとか感情とか、目に見えないものよりも、むしろいい。胸の大きさとか髪の匂いとか。可視化できたり、嗅覚で察知できるものを好きと言ってくれた方が、信ぴょう性は高い。


「じゃあ、今から言うことも許して」


「何?」


「チューしたい」


「……ダメっていったら?」


「私も、言うよ。『ダメ』って」


 彼女は私の言葉を振り切って、思いを無視する。

 我儘な彼女は、直ぐに唇を重ねた。

 校則で禁止されているから、口紅なんてしていない。今ある柔らかな感触は、何の偽りもない、純粋なひまの唇。

 二つの温もりで、悴んだ唇が温まっていく。空気が変わる。じっとりとした氷雪の積道を、ブーツで歩くような――温かくて、だけどその中に確かな冷たさがある。

 私の吐息、彼女の吐息。キスの後、私の呼吸は少し落ち着いていったけど、彼女は違う。心拍数に急かされた彼女の呼吸音は、駆け出していくみたいに大きくなっていき、止まることを知らない。そんな姿は、止まりたくても走り続け、わざとじゃないのにミスをして、自分を責めて、それでもなおボールを打つ、部活での彼女そのものだった。

 恋愛と部活、現実と想像。

 それぞれで生きるひまは、どちらも息苦しそうで。

 連想してしまった私も、少し苦しくなった。

 

「……イジワル」


 肌が近づくと、今まで見えなかったものが見える。

 彼女の肌の少しだけ濃くなったそばかすだったり、アーモンドの形をした瞳の形だったり。もちろん、それは身体だけじゃなくて、服装だったりもする。特に、私が思い浮かんだのは、胸元のリボンの結び目の不甲斐なさだった。


「……フフっ」


 私たちの唇には口付けの跡が重なる。キスの跡、彼女は悪気しかない笑みを浮かべた。

 「向日葵」という名前が皮肉に聞こえるくらいに、嫌味で、不敵で、不純で、綺麗な笑みだった。


「……あー、こういう感じかぁ」


 その後、上唇を舐めて真顔になる。


「なんか、味とかした?」


「いや、特に」


「『美味しい』って言ってよ、嘘でもいいから」


「じゃあ、すみれって、こういう味するんだね」


「ごめん、やっぱり……気持ち悪いから、嘘のままでいい」


「……いやー、うわー」


「……何、その反応」


「……いや、なんか。キスって、こういうものなのか、って。そんなにすごいものでもないというか、現実的だなあって」


 確かに、キスなんてしたところで――

 何が見える、なんて。何もない。

 キスはどんな味がした、なんて。感触だけで、味なんてない。

 口付けなんてしても、時計の秒針は無造作にせかせか動くし、教室は夕暮れに照らされたままで、何も変わらない。

 それでも、楽観的なひまがこういうことを言うとは。ロマンチックという概念を壊して、中々冷めたことをぶちまけるなあと関心する。


「……あなた、私のファーストキス、奪ってるんだよ」


 そう言うと余程恥ずかしくなる。言ったことを後悔した。


「私も、初めてだよ。最初で、最後のファーストキスだったよ」


「弄ぶのが無駄に上手い」


 馬鹿だけどずる賢くて、情熱的だけど冷淡で。

 それが今の彼女だった。予想の斜め上ばかりを突いて、私にはひまのことがよく分からなくなって、目前にある問題を解決できなかった。


「……こういうことなんて、する必要ない。私は、あなたが傍にいてくれるだけでいいの。他には、何も要らないの」


「事足りるものなんて、そんなの限界だよ」


「愛は満たされて生まれるものなの」


「満たそうとしても完璧に満たされない――そんな行き場のない気持ちが愛だよ」


 私、そんなこと言ってたような気が。

 いや、違うか。


「……例えば、こんな感じ」


 いきなり、ひまは私の胸に顔をうずめた。

 ブラジャーが押しつぶされたようになって、少し苦しい。


「……んっ」


 あー、と素っ頓狂な声。


「……どうして、こういうことするの?」


「うー、うーうーー」


「こら。ちゃんと話して」


「……眠いし、疲れた。それになんか、甘えたくなって」


 制服のしっとりした布越しでもはっきりと伝わる、彼女の吐息。顔を擦ることで生まれる微振動のせいで、胸の下あたりがくすぐったい。体温は上がっているはずなのに、鳥肌が立つ。思わず震え声が出てしまう。


「どうする、こんなとこ、誰かに見られたら」


「……うーん」


「バレー部の子たちに見られたら?」


「……まあ」


「……男子が興奮しながら入って来たら?」


「……こーふん」


「……ねえひま、聞いてるの?」


「えへへ。もっと、なでなでして」


 彼女のクールな低音ボイスで、「えへへ」を聞けるのは、違和感の塊だけど、かなりレアだ。

 教室では周囲に慣れ親しむために、むしろ大人びた行動を取っている。部活では鷲のような鋭い目つきになり、戦う顔をしたまま声を張上げてボールを打ち込んでいる。

 だけど今は、こんな幼児退行にも似た何かを好んでいて、一体ひまはどっちが本心なのか、私にはさっぱり分からない。


「もう。私の話聞かないで、ねむーくなっちゃってる」


 なでなでの代わりに少しだけ優しく頭を叩いた。その反動で、彼女は目が覚めたように理性を取り戻した。


「……やっぱりいい匂い」


「どんな匂いがする?」


「……すみれの匂い。すみれからしか嗅げない、すごいいい匂い」


 荒い鼻呼吸で私の胸元の匂いを確かめている。一歩間違えたら大問題になりそうなのに。というか、もう大分深刻だ。


「犬か、あなたは」


「……わんわん!」


 私の胸に頭を擦りながら、一人吠えている。

 多分そこは鼻を鳴らした方が様になるけど。


「それに、あったかい」


「私はむさ苦しいけどね。くすぐったいし」


「いいよね。上手く言葉にできないけど、身体は別々なのに、こうやって一つになるのは」


「意味わかんない。それで、いつまでするの?」


「……あと十秒だけ、このままでいさせて」


「……まあ、それくらいなら」


「……ねえ、私は、すみれが好きなんだよ」


 嬉しいけど、嬉しくない。いや、どちらかと言うと困る。そんな台詞、胸に顔を埋めて言わないで欲しかった。

 彼女は小さく呟く。まるで弱音を吐くみたいに。


「……明日は、部活があるなぁ」


「……嫌なら、休めばいい」


「……嫌じゃないよ。バレーは好きだけど、やり続けていくと気持ちが張り詰めるだけ」


  好きなことがあるのに、自由に「好き」だと言えない気持ち。だから、嫌うべきことも素直に嫌えないでいる。

 好きと嫌い。二つの思いが引き合っているだけなら、一つは捨ててしまって、もうちょっと楽にすればいいのに、と思うけど。

 そう思った瞬間、トワイライトでエリカと初めて話した時の私の言葉が、私自身を責めたてるように頭によぎる。

「好きも嫌いも、ある意味気分的なもので。私たちはそれに、穏やかに狂わされている」

 ――私とひまの関係もそんなもんか、と思って、何かを隠すように目を閉じる。


「それに独りだと、また寂しくなっちゃうから」


 目を閉じても、過去も未来もなくて――

 いざ目を開けてみると私たちは、今しか見えていない。進もうとしても、その進み方が分からなくて、いつしか怖くなる。

 だけど、信じられる人の傍では、吸うも吐くも自由。だから、長い夜を使い果たして生まれた弱音も、日常にこびり付く不安定な本音も、受け入れていたい。


「よーし、よーし」


 言葉を包むみたいにして、頭を数回撫でる。彼女の髪は気持ちのいいくらいストレートの黒髪ショートで、触り心地がいい。うなじを弄ってあげると、気持ちよさそう。

 ――きっと、全て一緒なのだ。

 みんな同じで、それぞれが弱ってるのだ。


「……あなたは、何も変わらなくていい。ただ、私の傍にいてほしい」


 彼女といることに理由はいらない。

 理由がいらないから、二人で傍にいれる。

 それで充分だ。思いを探さなくても、私の心は満たされる。

 だけど彼女は、それを受け入れるかは分からない。もっと、思いを込めるみたいに先の関係を望むかもしれない。


「……私は、今よりもっと、かなぁ」


 彼女には「特別な存在になりたい」という好きがあって、だけど私は「何もせず、ただ傍にいてほしい」という好きがある。「変わらないこと」を願うのは、ひまに出逢えたからこそ芽生えた自我であると同時に、それはきっと、彼女に対する私の小さな反抗心でもあるのだ。


「『もっと』はお預け。はい、おしまい。顔、あげなさい」


 私はひまの耳元を掴み、彼女の顔を私の胸から離した。


「うん。ありがと。すみれ成分、満タンになった」


「何それ」


「定期的に身体に入れないと、寂しくなっちゃう。そんな心の栄養」


「あっそ、ひまは『発情期』なのね」


「言い方!もうちょっと、興味持ってほしいな」


「……ほら、またいっぱいあげるから。今日は『ごちそうさま』して」


「じゃあ、明日まで、しばしのお別れだね」


 明日もするのかよめんどいなあ、と思いつつ、まあいいかと心を説得する。

 曖昧な思いを背負って、だけど苦しさはない。手を伸ばしても届かないもどかしさを心に残して、長い明日を迎える。


 ❀


 復縁前の高校時代。椿とは一度、セックスしようと思ったことがある。だけどその寸前まで、何を考えればいいのか分からず、結局は至らなかった。


 女同士の行為なんて分からなかった、なんてことはない。


 とれかけのブラジャーのホック。やけに香料のキツいシャンプーの匂い。くしゃくしゃにした新聞紙みたいな埃っぽくて、湿った空気。

 純文学、洋画、ラブコメ、絵画――演技や作品で観たその行為が目前にあって、それが自分を突き刺す。そこにはただ純粋に、心を抉るような気持ち悪さがあった。


「……ねえ、椿。なんで、こういうの、するんだろうね」


 愛しているから。

 もっと相手を知りたいから。

 気持ちいいから。

 ――繋がって、たった一つの存在になりたいから。


 愛。繋がる。一つ。存在。

 吐き気がした。

 生半可な気持ちを拗らせた、罪悪感が浮かんで心に侵食してきて、消えなかった。

 消えない記憶を作り上げてしまったせいで、涙が零れた。


 悪酔いしたような――ウイスキーを一本空けて、目が虚になったときの視界に似ていた。

 一つになること。

 一人には、一つの道があって、一つの意味がある。

 じゃあ、二人には、二つの意味があっていいはずだ。

 一つのことを選ぶことは、もう一つのことを切り捨てることになる。

 だから、なにも一つにならなくても。二人なりの二つの思いを、尊重していけばいいんじゃないか。

 ――だけど、それだと、愛なんて成り立たない。


 何かを切り捨てることが愛。

 私にとって、愛は「諦め」だ。

 だからそれは、私以外の誰かにとって愛じゃない。


「……桜、なんで泣いてるん?」


「……なんだろ、いや、わかんない」


「しないでおく?」


「……うん。ごめん。やっぱ、無理」


「……桜って、嘘つくの、下手だよね」


「……苦しいことを誤魔化せないんだ、アタシは」


「なんか、すーぐ行き詰りそう」


「ごめんね、逃げ方も避け方も分からなくて。何か、出来ればよかったね」


 ❀


「……こないだはありがとね、エリカの髪。子犬みたいに可愛くしてくれて」


「……ああ、エリエリか」


「何そのあだ名」


「……いや、別に」


「……そんな趣味あるんだ」


「……るっせえな」


 復縁後の現在、コンタクトが乾いて、目薬をさしていた。レンズは潤いを取り戻したが、ピントがズレて、逆に視界がボヤけてしまった。


 視界も生活も言葉も、何かが噛み合わない。

 努力したものが報われなくて、手を抜いたものが上手くいく。

 教師として働いて数年、身を粉にして精一杯行動することよりも、常に等身大のままでい続けることが多くなった。だからこそ、たまにつく嘘に疑問を抱えながら、日々を送っている。


 あのとき、「ヘタレ」とか、「意気地無し」とか、手に添えられる言葉を選ばずに、椿はただ「嘘が下手」といった。優しさではあるけど、むしろその優しさがあたしを困らせている。


「……エリカ、どう思った?」


「……どうって……なんか、正直、心配」


「……そうだよねえ」


「……なんか、桜と似てると思う。なんとなくだけど」


「……えっ、そう? あたしは、あの子と絶対に正反対だと思うけど。あんなに真面目しゃないし、何より――」


「……あー分かった分かった。っていうか、相変わらずヤニ臭いな。アルコールとニコチンって、最悪のハッピーセットだよ……教師がするもんじゃない」


「……椿。『好き』って、なんだと思う?」


「……は?」


「……へ?」


「……いや、いきなりキモいわ。酔ってんな、会話がなってないんやが」


「……うーん、ごめん……なんか、ずっと付き合ってるけど、その付き合い方が、今になって分からなくなって」


「それを真ん前にいる彼女に聞くか?」


「結婚とまではいかないけど、同居くらいはした方がいいと思う。でも、椿がこのままでいいなら、私もいいかもって」


「……別に、どっちでも」


「……あたしは、あなたの望む方でいいの」


「……こっちも、アンタが思った方でいい」


「……何、それ」


「……は?こっちが言いたいんだが」


 酔ってる。何言ってるんだろ。

 その感覚があるのに、思いは止められない。

 ハンドルから手を離すように、思ってもいない言葉が、思ったように出てくる。


「相手のことばかり考えるより、自分の思ったことを優先しろ」


「……あなたの事情を考えてから、自分の思いを作った方が合理的でしょ」


「……ああ言えばこう言う。酔っ払ってんのに、頭は冴えてる。あのさ、『好き』って、理屈とか、理論とかで片付けれるのか? アンタは、極端なんだよ」


「自分でも分かってるよ。両極端だって」


「分かってない、全然」


「だって『好き』は、一つになることでしょ。今のあたしたちは一つになれてないから、その在り方を考えなきゃいけない」


「あのな。思いなんて、ぴったりと重ならない。その中での「好き」っていうのは、ちぐはぐなリボンの結び目みたいに、絡まっているけど少しだけ重なる部分なんだよ」


「なるほど」と思う。

 椿は基本、言葉選びが下手で無愛想なところがあるが、たまに鋭いことを言う。


「だから、心なんて通わせられない。交わらない。一緒になんてならない」


 そんな悲しいこと――

 だけどあたしも、一度は思ったこと。


「……じゃあ椿は、それを『好き』だって言えるの?」


「……うるさいなあ」


 こうして、会話は途切れた。

 気づくと全てがどうでもよくなって、目に見えない何かを拒むように目を閉じていた。


 ❀


 ――「同じじゃない」からこそ、好きになれると、私は思います。


 やけに心に響いた、昨日の放課後、すみれが言った言葉。

 悔しかった。他人に向けた悔しさじゃなく、なんで私はそう思えないのか、という自分への悔恨。


 数学の証明問題みたいに。

 真夜中にするゲームみたいに。

 恐怖心、不安、どきまぎ、救い――

 女同士が付き合うこと。

 そして、二人でいられること。

 そういう行為や、これからの付き合いを考えること。

 一切のことを受け入れられれば。

 前提としてあることを、無意識に許容できれば。


 椿を愛するのを諦めるんじゃない。

 あたしが何かを諦めることで、椿を愛することができれば、それでいい。


 ――ああ。すごく、何もかも気持ち悪い。


「……起きろ」


「……うー」


 風呂上がり、彼女の膝に頭を突っ伏してて、寝落ちしてたみたいだ。睡魔に襲われて乾かさなかった髪は、ペシャンコになって崩れている。


「重いんだよ、アンタ」


「あー、ごめん……色々」


 何に対して謝ってるのか。寝落ちの膝枕か、はたまた昨日のことか、それとも、ダメ人間の自分自身に対してか。多分、思い当たったその全部だ。


「……昨日、何したっけ」


「痴話喧嘩と飲み食い」


「何言ってたっけ」


「……変わるか、変わらないか。言い換えると、このままの関係で居続けるか、いっそのこと別れるか、ってこと」


 そんなの、言った覚えはない。


「そんなシビアなこと話してた?」


「……ウチは、そういう風に感じた」


「……ただ、同居するかしないか、だったはず」


 そうだったそうだった、と椿は言う。

 感じ方次第では、そうなるかもしれないけど。


「……まあ、一回寝たらどうでもよくなってた。別れようと思っても、その勇気がない。もう大人だから悔し涙なんて出ないから、そのまま舵を取ればいいと思った」


「社蓄からしたらね、『諦め』って、努力することだと思う」


「だから、何が言いたい?」


「だから、二人で一緒に頑張ろうってこと」


「なんだ、それ。陳腐なプロポーズかよ」


 恋は諦めだ。だけど、諦めることは希望から抜け出すことじゃない。

 ありとあらゆる物事を捨てて、その中で交わるたったひとつの結び目を、切り捨てないで大切に取っておくことだ。


「……だったら、いいけどね」


「……アンタが膝乗ってきたせいだ、足めっちゃ痺れてるんだが」


「……あなたの膝、硬かったせいで、私だって今、首痛いんだけど」


「……るっさい。アンタがデカいだけなんだよ」


「スレンダーボディにデカいとは失礼な」


「スレンダー、ねえ」


 そう言って、胸元を触る。


「……ウッザい。どこでこんなに格差がついたのか」


 そんなに羨むことでもない気がする。むしろ異性の視線とか身体的負担とかを考えすぎるから、無い方がいいと思う。


「……あー、そこより、肩揉んで。最近重くて、凝りが酷い」


「巨乳の嫌味って、ほんと酷いよね……ウチに指図するなら、アンタも何かしてよ」


「……分かった」


 そして、ハグをする。


「口づけ、すると思った?」


「……したら『別れる』って言うところだった」


「冷めてるなぁ。見せたことない可愛げな表情くらい、サクッと見せてほしいんだけど」


「正直者の桜には、甘くて固い氷砂糖は似合わない。コップから溢れる水くらい、無気力で無意味に、接していたい」


「同じじゃない」からこそ、好きになれる。

 そんな、一切のことを受け入れられたら。

 何も考えずに、ありふれた日々を生きていくことを、二人で受け入れていければ――分からないものも、いつか分かるようになるのかもしれない。

 今は分からないけど、多分それはきっと、難しいことじゃないはずだ。


「……今日も、めんどくさいなぁ」


 バターロールを割って、乾いた口に強引に放り込んで、ねっとりした油脂を洗い流すみたいに、牛乳を飲む。

 だけどやっぱり、舌にこびりついた不快感は消えずに残っていて――もうこれがあたしの生活なんだな、と思うことにする。

 残り半分を椿に差し出すと、彼女は言った。


「ほんとはステーキがいいよね」


「いやいや、朝から肉料理はキツい」


「気分なんだよ、好きも嫌いも。だから明日には、何か変わってるかもしれないし、やっぱり変わらないままかもしれない」


「あたしたちは、未来のことなんて何も知らない。だから、明日はフレンチトーストとカフェラテにしようよ」


「……少しでも良くなりますように、ってか」


 闇雲な朝の喧騒に口出しさせないように、憂鬱をしばし忘れて。二人きり、少しだけ見つめ合った。





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