13. イデアと不条理

 耳が隠れる程度のマッシュショートに、水色のパジャマ姿、クリクリとした目、白い肌。その全てが、愛おしく見える。


「エリカ」


 眠りから覚めて、彼女はごにょごにょと話し出す。


「エリカ、起きて」


「……ふぇっ。お姉ちゃん、ごめん」


「エリカ。学校、行かないとだ」


「……あれ。桜さん」


「……」


 その姿を一言で表すと、寝相が悪い。湿気を吸いまくり、不出来な風船みたいに膨らんだ髪。左側に傾いたままのパジャマのボタン。一番下のボタンが外れたせいで、丸見えになったおへそ。


「……」


「……えっ!?あっ!?今、何時!?」


「……7時43分」


「……ばっ、ばすが!」


「……あたしの車、乗せてくから。安心して」


 エリカは真面目だ。だからこそ、時々気が抜けているように見える。



 ❀


 一面に浮かんだ曇り空。ぽつりぽつりと落ちてくる雨粒を、ワイパーが面倒くさそうに消していく。

 雨音が車体に落ちて、ただ響いていく。それが、とめどないやるせなさを連れてくる。なんだか、私のありふれた日常生活を見ているみたいで、どことなく嫌気がさした。


「……ごめんなさい。私のせいで、色々迷惑かけて」


「別にいいよ」


 彼女の言動はいつも自然体だ。だから、危うげでもあって、ふわふわした紺色の混じった髪は、それに合わせて不安定げに揺れている。

 ネイルもメイクもしていない綺麗な白い肌。憂鬱な表情をして、隣で寝癖をいじっている光景は、なかなか物珍しい。


「緊張してる?」


「はい」


「寝坊したときって、死ぬほど焦るよね。先生もさ、そういうとき、『あー世界滅亡しろ!』とか思っちゃうもん」


「私、いつも思ってました。寝坊だけじゃなくて、テストとか、シャトルランの日には。『いきなり隕石が降ってきて、世界終わらないかなー』とか」


「あはは。そうそう」


「でも、どうしようもなくて。現実は変わらなくて。そんな現実が嫌になって、学校に通うのをやめました。嫌なことから目を逸らして、目を瞑ってしまいました。でも次第に学校に行かない生活を続けていくと『嫌なことから逃げる自分』と『当たり前のことができない自分』がリンクして。そうしてまた『世界終わっちゃえ』って思ったり」


「なんとかなるよ」


「でも」


「だって、皆勤賞だよ、あなた」


「髪切った日、一日休んでます」


「あっ、そっか」


 信号が青になったと同時に、私はアクセルを踏んだ。

 時速60kmのまま、道なりに進む白のアルトは、軽快なエンジン音だけを響かせる。そのエンジン音に、会話は遮断され、ドギマギする雰囲気が漂う。

 信号のランプが直前で黄色から赤色に変化する。行けるか行けないかの狭間で引っかかり、チッ、と舌打ちしてしまう。

 いけない、隣にエリカがいることを忘れてしまうところだった。

 舌打ちをするあたしを見て、エリカは安心したように静かに笑った。


「何か、話をしよう。車内がシーンとするのは、やっぱり嫌」


「……なんの話をしましょう?」


「……じゃあ、先生を褒めちぎって」


「えっ。うーん……」


 自己肯定のために生徒をいい用に使うなと、困った目で見ている。


「担任の先生を褒めるのに、そうやって戸惑わないで」


「……じゃあ……先生って、車の運転、上手ですね」


 数学の授業でも日々のカウンセリングでもなく、車の運転かよ、と思う。


「……そんなん、慣れみたいなものだよ」


「でも、それまでは時間がかかりそうだし」


「……うーん、まあ」


「……その慣れない間で、事故とか起こしたり、人を轢いちゃったりしたら……どうしよう……なんて」


「怖いこと言うのね、あなた」


「……あっ、ごめんなさい。つい本音を言いすぎました」


「……話、変えよう。なんか、今の話を続けてると、運転に支障をきたして、無駄に不安になりそうだから」


「……じゃあ、嫌いな言葉って、何ですか?」


 らしくない。だけど、言い出しから思春期の会話のそれで、年相応に感じる。


「うーん、難しいなぁ」


「因みに私は、『生徒会』です」


「尖ってるなあ」


 意外と、エリカは会社員とか公務員ではなく、ロックバンドとかの方がいいんじゃないか。

 冗談でも、決して悪口ではなく。

 自分の心にあるものを伝えて、他人の心を動かす、そんな職業の方が合っているように見える。


「別に、それ自体が嫌いなんじゃなくて。だけど私と比べて、あまりにも別世界だから、必然的に拒んでしまう言葉なんです」


 「リラが生徒会にでも入るみたいなこと、言ってたの?」


「……」


 あーあ、拗ねてる。

 面白い。生徒会なんて、教師の雑務混じりの書記と集計の作業が大半なのに。

 きっと、彼女は知らない世界に怯えすぎている。


「じゃあ、先生は『一致団結』かな」


「……なんか、私と似てますね」


「……理由、教えてあげよっか?」


「はい。お願いします」


「『一つになること』、それ自体を目標にするのはおかしいから。物事っていうのは、普段交わらない人たちが、何かに夢中になることで始めて、一つになれるものだよ。そして、そこにはきっと、『繋がり』とか『協力』だとか――そんな単純な表現で一括りにできない言葉や思考が、ただ無意識のうちに広がっていると思う」


 つい悪い癖で、私の世界に入りすぎた。

 どうやらエリカには、少し難しい話みたいだ。

 きょとんとした顔。頭の上に、はてなマークが浮かんでいるみたい。

 彼女なりに理解できるように、話の焦点をずらす。


「……純粋に、『みんなで一つに』なんて言葉、気持ち悪いからね。……間違いを間違いのまま、違和感を違和感のまま、その在り方を放置しているみたいで」


 知らない世界に怯える人がいるように。

 私は、知り尽くした世界が、どうにも怖い。


「あー。『マイノリティ』って、最近よく聴きますもんね」


「……『天邪鬼』なんだよ、私たちは。そうやって、自分自身をたった一言で片付けられるのに、何度も言い続けたい本音がある。単純だけど複雑で――そしてそれは、複雑なようで、単純すぎるように解けていく」


 話を続けても、しばらくすると、やっぱり途切れてしまう。

 エリカは自分から話そうとしない。

 だから、私から話を切り出す。


「それにしても珍しいね。エリカが寝坊なんて」


「……実は、昨日、考えごとをしてました」


「差し支えなければ、教えてよ」


「この前、お皿割っちゃったんです。それが、すごく嫌で。ずっと心に残ってるんです」


「へー。でも、食器を割ってしまうことなんて、誰にもあることだと思うけど」


「そうなんです。だけど、そういう簡単なことを失敗したり、間違ってしまうと、『こんなこともできないのに、これから先、大丈夫かな』って思うんです」


 ああ。

 やっぱり、繊細すぎる。

「皿を割ったこと」よりも「皿を割ってしまった自分自身」に対して嫌悪を抱いている。それはそれで問題だけど、やらかしたことのスケールと、その落ち込み方が明らかに見合っていない。彼女は、持つべき苦しみ以上に苦しんでいる気がする。

「気楽な気持ちで」とか「心置きなく」とか、言っても、彼女にはその方法が分からないのだ。


「大丈夫だよ。失敗したことに対して、真っ当に落ち込めるのなら。これから先も、心配いらないよ」

 

 本音を言うと、すごく心配だけど。

 それを彼女に伝えると、さらに不安になってしまいそうだから、必死に支えるように、ただ口を閉ざす。


「でも……」


「ふふっ」


「なんですか?」


「いや、なんでも」


 諦めるときはいつも、笑ってしまう。笑う以外、どうしようもできないから。笑うことで、少しくらいは誤魔化せるから。


「……あたしは、エリカのドライブ、乗ってみたいけどなぁ」


 ただ、愛おしかった。

 教師として。

 家族として。

 人として。

 ずっと、彼女を見つめていたいと思った。

 だから、彼女をもっと知りたいと思った。


 ❀


「桜先生、お疲れ様です」


 すみれとひまわり。

 二人は、不思議な関係だ。

 毎週木曜日の放課後、膝枕をしている仲。それがどこまでも自然体で、ゆらゆらと漂っているようだ。


「……二人とも、今日もやってるのね」


「何か問題でも」


「いや、面白いなあと思って」


「面白いですか?私たち」


「結構度胸あるよね、二人とも。一年生が、まだ慣れない教室で膝枕って。普通じゃできないことだよ」


 あたしは思う。

「普通」って、何だろう。

 みんなが「普通」と言うけど、みんな違った「普通」がある。

 そんな「普通」がいつか衝突するとしたら、あたしはどう解決すればいいのだろう。


「木曜日はバレー部が休みです。そして、部活も読書もできなくなったら、これくらいしかできないんです」


「勉強しろ、勉強」


「何時間も勉強し続けても、たまにはゆっくり過ごす休みが必要なんです」


「そうだね、息抜きも必要だね」


「……ひまわり、あなたは課題を出すことから始めないとね」


「……うっ、すいません」


「明後日には、提出すること」


「はーい」


 その言葉から、少しの間だけ、沈黙が入る。


「いつも、これ以外に、何かしてるの?」


「いえ」


「ずっと、ぼーっとしてるだけ?」


「はい。何もすることなく。何も思うことなく。ただ風に当たって、二人でいるだけです」


「そっか」


 心地いい風が吹いた。

 何も考えなくていいということが、やけに心地よい。そんな二人だけの居場所なら、自然と私がいるのが申し訳なくなってくる。

 さっさと本題を話して、去ることにしよう。


「暇なら、一つ。聞き取り調査をさせてほしい」


「なんですか」


「身の回りの友達について、色々と聞きたいなあって」


「……先生、いつもエリカのこと気にしてますよね」


 すみれが答えた。彼女の前ではあたしの言動は見透かされてしまって、とっくのとうに分かりきっているのだろう。


「……気づくの早い。勘が鋭いね」


 すると、ひまわりが間を割って言う。 


「エリカのこと、好きなんですか?」


 的はずれだけど、それを戸惑いなく言えることは素直に羨ましい。


「好きと言えば好き。だってクラスのみんな、全員大好きだから。でも、色恋みたいな不純なものでもない」


 腐っても担任だから、みんなに目を配らなければいけない。

 だけど、彼女に限っては、余計に気にしなきゃいけないように感じる。


「エリカは、私たちにとって、友達です。『かけがえのない』なんて大袈裟ですが、エリカには、くだらないことも真面目なことも、本音で話していたくなるような、そんな力があると思っています」


「そっか。よかった」


「こんな感じでいいですか?」


「うん。100点。素晴らしい」


 たかがJKなのだから、そこまで深刻なことを考えないでほしい。難しいことを考えすぎないで、もし辛いことがあったなら、一緒にいて支い合えるくらいの関係でいてほしい。


「私からも質問していいですか?」


「どうぞ」


 ひまわりが言い出す。彼女は、ストレートに思ったことを口にする。それが一つの彼女の強みだ。


「先生は『恋愛』ってしたことないんですか?」


「別に。したことない」


 高校生特有の、実直で純情な質問が苦手だ。

 こういう時の、うまいはぐらかし方を知りたい。


「勿体無いですね」


「だって『不釣り合い』が怖いんだよ。好きな人と傍にいるときのね」


「『同じじゃない』からこそ、好きになれると、私は思います」


 すみれが答える。彼女は、会話するとき、不意をつくような答えを出すことが多い。知的というか、大人っぽい返し方だ。


「時が経つにつれて、開けなかった引き出しは、ただただ怖くなる。だからこそ、今、みんなに伝えておかなきゃな。『好きになれ』って」


「随分と他人任せな『好き』ですね」


「ごめんなさいね。反面教師で」


「……うーん。すみれ、『好きになる』って、どういうことだろうね」


「無理して考えるほどのことでもないと思う」


「そうだね。まあ今は、こうするしかないか」


 ひまわりは、またすみれの膝にもつれる。


 どこまでも自然体で、ゆらゆらと漂っているよう。好きが何か分からない。そんな不条理に逆らうみたいに。ただ、二人だけの理想を描いていく。


「邪魔して悪かったね。そろそろ職員室戻るよ」


「はーい。先生、また明日」


「おつかれ」


 申し訳なさを感じたあたしは、甘い匂いのする教室をあとにした。


 ❀


『プラトンのイデア論では、私たちが日常で見るものは「理想」の影にすぎず、その本質は別の次元に存在する、とのこと。


 つまり、イデア論を恋に例えると、理想の恋愛とは「完全で永遠に美しいもの」が存在し、それを私たちは無意識のうちに追い求めている、と考えることができる。


 恋愛においても、私たちが感じる愛や恋心は、ある種の理想や完全な愛を求める衝動の反映だ。しかし、現実の恋愛では、私たちはその理想に完全には到達できず、影や不完全な形でしか体験できない。この論に従えば、真の愛とは目に見える形ではなく、精神的・永遠的な次元に存在しており、それを感じる瞬間は、現実の中でその理想の愛を垣間見るに過ぎない。


 よって、恋愛における「理想のパートナー」や「完全な愛」、いわば「キス」、「セックス」、「その他諸々の性的行為」とは、実際には私たちが持つ愛のイデアを投影したものなのだ。それを完全に理解することは難しいが、恋する人は、その理想を求めて、意味も分からぬまま恋愛を続けるのだと思う。』


 教卓の引き出しの奥、高校生の頃に書いた日記を見る。彼女に見せたときの反応は、「意味分からんとりあえずキモイ」と一蹴された。その後丁寧に説明しても、「天才の言っていることは理解できん」とまたそっぽを向かれてしまった。

 個人的には分かりやすく書いたんだけどなあと思いつつも、今読んでみるとやっぱりよく分からない。逆に言うと、こんな痛々しい思いは、当時だからこそ書くことができて、すっと理解出来たものなのだと思う。


 昔はただただ病んでいたのか、厨二病だったのか、それとも本当に天才だったのか。そんなことを考えていると、日が西に傾いていた。

 午前中の雨空が嘘みたいに、綺麗な夕立ちの空が広がってる。

 暗かったり、明るかったり。綺麗だったり、みすぼらしかったり。

 空模様は、人の心に似ている。心の喜怒哀楽を表現した空模様も、きっと姿を変えた仮の理想なのだ。


「もしもし、椿」


「……あ?」


「ごめん。今日、呑み行っていい?」


「いいけど。なんで」


「また、嘘ついちゃって。ちょっと、しんどくなったの」


「嘘くらい、流石にもう慣れろよ。アンタはとうに大人で、立派な教師なんだから」


「……教師になってしまったからだよ。誠実でありたいと思っているから、嘘は私を、糸を引くように追い討ちをかけて、引き摺り込む」


「……やっぱりあんた、繊細すぎる」


「あたしはやっぱり、人のこと言えないのかもしれない」


 酒もタバコも、心も。自分のことで精一杯なのに。それでもやっぱり、誰かを支えていきたい。

 アブソード――不条理が自分への心配だとするなら、真の理想の仮の姿――イデアは他人の幸福だ。多分論理的には破綻しているけれど、その壊れた思いが本心なのだ。


「……あー、もう。支えてあげるよ。として」


 あたしは自分が思っているより大人じゃない。凹むときも何かが分からなくなるときも、見えない何かを恐れることもある。それはきっと夢見たいなもので、目には見えないけれど心はしっかりと記憶している、消したくても消えないものだ。夢見がちなあたしは、行き詰まったとき、夢という断片的な記憶を消していけるだろうか。そして、もしもそれがずっと消えないでいるなら、彼女はあたしを救ってくれるだろうか。

 今は酒とタバコと、ほんの少しの会話のあてだけが頼り。

 すぐに過ぎ去ってしまう夜をまた無駄にすることを後悔しながら、余すことなく使い果たしくのだろう。


 ❀


「すみれ。『好きになる』って、どういうことだろうね」


「無理して考えるほどのことでもないと思う」


「気にならないの?」


「気にしてもきっと分からないから、今は放っておくほうが無難だと思う」


 「じゃあ、こういうことかな」と言って、私のブラウスの匂いを嗅ぎ始める。彼女の鼻息が、お腹にあたってくすぐったかった。


「こちょがしい?」


「もう、そうやってクンクンしない」


「すみれ、いつまで経っても慣れないよね」


「多分、死ぬ間際まで慣れないと思う」


「流石にそこまで繰り返していると、『慣れ』より『飽き』が来ると思う」


「じゃあ、飽きるほど繰り返すことが、私たちには必要なのかもしれないね」


 私がそういうと、彼女はまた真っ白なブラウスに顔を疼くめた。

 もはや匂いを嗅ぎたいのではなくて、こういうみっともない姿勢を見られたいだけに見える。


 頭を撫でていると、ひまはいきなり言い出した。


「ねえ、すみれ。変なこと言っていい?」


「何?」


 彼女が言った瞬間、冷たい風が吹いた。

 風音のせいで、うまく聞き取れなかった。


「――を重ねてみたい」


 ああ。


「今はただ、『好き』を知りたいから、何か特別なものが欲しい」


 上手くいかない不条理に抵抗できない私は、怖がりだ。


「……私は、純粋に、二人きりでいたい。だから今は、まだ何もいらないよ」


 好きなのに、好きでいられない。

 きっと、私たちは、不器用な形のリボンみたいにチグハグで、交わらない感情を手に持ちながら、離れられなくて、傍にいてしまう。

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