12. アシンメトリー

 トワイライトは平日、午後5時半まで店が開いている。だけど、それも気まぐれで変わる。お客さんがいない日は15分前に閉めるし、逆に長居する方がいれば、美雪さんはそれに合わせる。

 既に今日は、「Close」のプレートがドアに掛けられていたから、やる気のない日みたいだ。


「美雪さん、ただいまです」


 ドアを開けると案の定、美雪さんは一人でコーヒーを飲んで、ただぼーっとしていた。


「エリカちゃん、おかえりなさいです」


「今日のご飯は何ですか?」


「……あなたは、何が食べたい?」


「……スパゲッティとか」


「中々節約するね。コスパいいね」


「……じゃあ、ハンバーグで」


「……鶏つくね?」


「いえ。牛ひき肉で」


「……それはまあまあ面倒だ」


「私も手伝いますよ」


「……それでも、ねえ。今日はめんどうくさいデーなの。猫の手もフードプロセッサーもあっても、やる気がなかったら、お姉さんは作らないよ」


「……だったら、みんなと相談して決めましょう」


「まだ、誰も帰ってきてないよ」


「……そう、ですか」


「……何か、期待してた?」


「……してません」


「……ふふっ、知ってる……あと、三十分後くらいじゃないかな」


「何がですか?」


「それはあなたが、一番分かってることだよ」


 ああ。

 美雪さんはきっともう、そのことを、分かりかっているのだろう。

 悔しさも恥ずかしさもなく、きっといつかバレてしまうから。トワイライトの中では、どう隠したって、無駄なのだ。


 あの日分かった。ずっとそうだった。

 私は、どう足掻いても、私だってこと。だから私は、私のことだけを思えばいい。

 思って、終わって、諦めて。

 そんな日々が続いていければいいだけ。

 ただ、それだけでいい、なのに。

 それでも浮かんでくるのは、彼女のことだけ。

 まだ寒い春の日の午後。長い黒髪と、凛とした表情。冷たい手と、時より見せる温かい笑顔。

 浮かんで、離れない。それは離れないだけじゃなく、心にまで侵食してくる。心が侵食されると、頭が馬鹿になる。頭が馬鹿になると、馬鹿みたいな思いを心は零す。

 彼女の瞳の色を見ると、私の心は言う。


「まだ、離れないで。ずっと、傍にいてほしい」


 まだどこかに、忘れ物があるから。だからそれを、探さないといけない。


 お姉ちゃんの部屋に入る。ウッドラックの二段目には、何の変哲もない丸型の硝子の花瓶が置かれてある。そこには、紫と白のライラックが、二枝ずつ生けられている。


 だけど、そんなものには目もくれないほど私は疲れていた。そして彼女のベッドに横たわった。

 ああ。そうだ。

 こんな感じだった。安らぐけどドキドキする、言いようのない感覚。

 ない胸の中は安堵と緊張感が混ざっている。肩の力を抜こうとしても、余計に力が歪に入ってしまう。

 枕に顔をうずめる。すごく、お姉ちゃんの匂いがした。


「……ヤバい。これ……いい」


 何してるんだ。ほんとに。

 最近、時計の歯車が狂ったようなことばかり起こっていて、それに自我が慣れてきている。そしてその時、ふと思う。

 ああ、私って、脆いんだ。すごく。ちょっと優しくされると、すぐ好きになって。

 何にもなくて、何にもできない私が。何もかもあって、何でもできる彼女を愛そうなんて、不釣り合いだ。愚かだ。馬鹿だから、その全てが馬鹿げてるんだ。

 でも、仕方なかった。


 想ってしまったから。傍にいてしまったから。既に嵌りきってしまって、抜け出せなかったから。


 優しくて、可愛くて、綺麗で、頼りがいがあって、知性あって、社交的で、いい匂いして、髪撫でてあやしてくれて、傍にいると落ち着いて、でもドキドキして。抱きしめると温もりに満ちていて――

 ありふれた美徳だけを容赦なく並べたような、そんなお姉ちゃんがずっと近くにいると、傍にいてくれてありがとうって思う反面、その不自然な関係がいつか壊れてしまうのではないかと心配になる。

 そもそも、そんな完璧で不自然な人間が、私に本当に向き合う訳がないと、今でも思う。

 だけど、あの時彼女は私に向き合ってくれた。その彼女の思いが、本当か嘘かは分からない。

 ただ、本当なら嬉しいし、嘘ならずっと騙されていてもいい。それくらい、私の心は、彼女に依存していた。

 そんな彼女が居てくれるだけでも、最高の幸福なのに。

 私は、それ以上の何かを求めてしまう。


「私は、もっと、近づきたい。だけどやっぱり、近づけない」


 声にならない声。心音に映る、どうしようもない鼓動。それは、救いようのない私の、救いを渇望する音。


 意識が朦朧として、目が閉じかけようとした、その時。


「匂い、やっぱり好きなんだね」


「……ん」


「おはよう、エリカ。夢から覚めて、おかえりなさいだね」


「……ひっ!?」


「……うわ、すごい声でてるよ」


「……だって、いきなり来るから」


「いや、結構前から居たけど」


「……じゃあもっと早く声かけてよ」


「……なんか、不思議なことしてるなって思ったから」


「……うっ」


「……それで、何してたの?」


「……何もしてない」


「……ほんとは?」


「……寝てました」


「寝てるだけじゃ、そんなみっともない顔しないでしょ」


「……怒らない?」


「……怒ることなんて、何も無いと思うけど」


「……えっと、匂いを……くんくんって、してた」


「へー、そういうの、好きなんだ」


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいから、いたずら、もっと見せてよ」


「……それは、嫌」


「……好きなのに、なんで嫌なの」


「誰かに見られながらするの、嫌」


「……じゃあ、もっと見ててあげる。エリカのこと」


 お姉ちゃんはじっと私を見つめて、軽く首を傾げる。


「ただいま、エリカ」


 じっと見つめられたら、好きになってしまう。だけどその時、想ってしまう。


「『好き』って、なんだろう」


 何もかも分からなかった。だけど、一つだけ、分かりきっていた。

「好き」が分からない――その想いを、「好き」と呼べなかった。


「……今日のご飯、ハンバーグらしいよ」


 そんな言葉で、分かりきった答えを誤魔化すばかりの日々だ。


 ❀


 進んでいるのか、それとも後ずさりしているのか。歩く度そんなことをつい考えてしまうから、前へ前へと歩くのが怖かった。

 停滞が幸福、とまではいわない。だって、止まり続けていくと、また誰かに追いつかれ追い越されで不安になるから。

 だけど、一歩進んで、何も無かったら、何になるんだろう?また一歩進んで、確証もなく、何かあるのを願えばいいのだろうか?

 きっと、次はいける。

 ずっと続けていたら、夢は叶う。

 なんて、それこそ夢の話だ。

 現実の中でよくある事が、嘘みたいに欠けている。リアルからかけ離れた青春ドラマみたいな、馬鹿らしさと、無力感。

 ――運命なんてただの言い訳で、偶然が全てなのだ。

 私は、そんな固くて脆い鳥籠の中に、自分自身を閉じ込めている。


 学校に行って、生徒会の事務作業をこなした後自習をする。そこから習い事の茶道を終え、帰宅する。自分を閉じ込めた先にある感情はきっと疲労感で、今日もドアを開けたその瞬間から、どっと疲れが押し寄せてきた。

 子供部屋にしては若干ゆとりのある広さ。ミントグリーンの式壁、ピンクのカーテン、シャビーチック調のキャビネットとウォールミラー。

 綺麗なものはいつだって、綺麗なものの中にある。そんな洗脳めいた乙女心は、一体誰が思い始めたのだろうかな、なんて。きりがないくらい考え事をした後でも、そんなくだらないことを考える――華やかな振りをした部屋で、小一時間耽るのが好きだ。

 二人がけのラムズゲイトソファで寝転がる。いつもだったら、そのまま寝落ちしてるところだけれど、今日は違う。程よく脳を使って、程よく疲労と眠気が吹き飛ぶくらいには大きい悩み事を抱えていた。

 エリカちゃんのことについて。

 リラのことについて。

 記憶を旅した私は、ふと思い出す。

 今日と同じくらいの日で。時刻と、気温と、放課後に見た白雲の形さえも似ていて。

 ただ、二年という長いようで短い年月だけが違っていた。

 その日の放課後、私とリラは、二人きりで海岸通りを散歩していた。

 ネイビーのサブバック、防波堤の上、貝殻模様のストラップ。

 失くした記憶を、はめ込む作業。

 継ぎ接ぎの思い出を色付けしていく。

 二年前。それは、『好き』を知って、それと同時に、分からなくなった瞬間だった。


 ❀


「貸して。私が開けてあげる」


 自販機で買ったサイダーの缶を開ける。

 プシュッ、という心地のよい音がした。


「んー、ありがと」


「もうすぐ高校生なんだし、これくらいは開けられるようになりなさい」


「……白菊って、なんだか年上のお姉さんみたい。私のと交換してほしいくらい」


「桜姉さんはいい人だよ。フレンドリーだし、社交的だし。何より、分からない問題を教えてくれるのがいい」


「ふーん。……私だって白菊のこと、まあまあ好きだよ」


「でもあなた、アイスクリームも好きでしょ」


「……好きだけど、どういうこと?」


「つまり、そういうことだよ」


「白菊とアイスクリームを同じ天秤にかけるつもりはないけど……」


「例えで言っただけ。忘れて」


 こういうとき、「好意」と「恋愛」を結びつけるのは、良くない。自分でも分かっている。

 彼女は、彼女自身に対して、あまりにも無防備だ。だけどその無警戒さが、冷淡すぎて、むしろ人を簡単に惹き付けないのかもしれない。

 続けて、私は言う。


「あなたって、不思議」


「どこが?」


「なんか、『冷たい』なぁって」


「……えっ、私、優しくない?」


「かもね」


 違う。

 彼女が優しすぎて、その冷たい優しさが私の心を溶かしていくだけ。


「……私の逆恨みだよ、ごめんね。ホントのことを言うと、君は優しい」


「じゃあ私は――白菊が納得できるように、今よりもっと優しくなればいい?」


「別に、その必要はないよ。君は何も変わらなくていい。空に白雲を浮かべるように、テトラポットが波に打たれ飽きるみたいに――ただ、君は君のままでいい」


「それはまあ、随分と詩的な」


 こんな気持ち悪い表現で伝えられるのも、きっと世界で君だけだ。


「この空、好き?」


「何、いきなり?」


「空、綺麗だから」


「うん、好きだよ」


「アイスクリームと空と私――きっと、一緒なのに。全てが違っているね」


「だから、どれも好きだよ。でもその『好き』は、どれもこれも、意味が違うよ」


「意味の違った、沢山の『好き』があるとして。それを気にもとめずに伝えてしまうのも、すごく危ないことだと思うの」


 彼女の口から「嫌い」という単語が出てきたことがあっただろうか?


 ……いや、あった。いつもの会話。

 いつもそうだ。いつも。桜姉さんといる時はひねくれているんだ。正直が見え隠れしているのに、嘘をつく。

 きっと二人は、通わない振りをしたいだけなんだ。勝手なイメージを勝手に持っては、「大嫌い」なんて勝手に言い合っているだけなのだ。

 複雑に交錯した生真面目な感情の中に、簡明な無邪気さがある。ワンピース外れたホワイトパズルのよう。リラも、桜姉さんの関係は。

 私もそうなりたい。その境界線を越えてみたい。それは憧れだった。悪く言うなら、嫉妬だった。

 ずっと彼女の傍にいて、「幸福」という言葉の意味を知った。

 だけど、いつからかそれは「恋愛」というものに変わっていて。心臓には、「好き」という気持ちが芽吹いていた。

 でも、彼女の「好き」と私の「好き」は違う。

 きっと、それは交わることのない感情。

 煌めく波が押し寄せ、引いていくように。

 私たちの感情は、すれ違うこともないほど、遠く離れていた。


「……ん」


 そう言って、彼女はサイダーの缶を私の前に差し出した。


「なんだろう?」


「飲む?」


「そういうのに抵抗とかないの?」


「白菊なら、大丈夫」


「ふーん」


 なんとなく、これは彼女の本心だろうと思った。友人として信頼されていること。それについては素直に嬉しいと思うべきなのだろうけど。

 でも、なんだか納得いかない。


 君にとっては、全て同じ。

 だから私には、全てが違って見える。


 大きさの違う、青と白の波が押し寄せては引いていくみたいに。

 私の心と、彼女の心――大きさも、色も、形の凹凸具合も違う。

 私はきっと弱虫すぎて、境界線を踏み出せないのだ。踏み込めないから、その波の描く曲線を壊せないのだ。

 そんな私たちの関係みたいに、乾いた砂浜には、いつも波跡だけが残る。消えても残るから、それはどこか後悔と似ている。

 

「白菊こそ、大丈夫なの?」


「意識するわけないよ」


「そっか」


 防波堤の端っこに向かって、彼女は走り出す。そしてその先に広がる海に向かって、手を伸ばす。

 何を伝えればいいのか分からなくて、口元を隠すように、彼女が飲みさしにしたサイダーを飲んだ。ただ甘いだけなのに。温くて、炭酸も抜けているのに。

 忘れられなかった。甘さに、心が痺れてしまった。


「白菊、どうしたの?」


「……何か?」


 彼女の色は青。

 止まらずに、ただ駆け出していく青。

 隣合うことができないくらい、綺麗な青。

 私はその姿に憧れる。いつしか私は彼女に、囚われているみたいだった。


「……ぽかーん、ってしてる」


 私にはその果てを、そっと耳を澄ませるように、ただ見つめていくしかできない。

 

「……なんだろうね。何かに、閉じ込められてる気がして」


「……悩み事が多い子だなぁ、白菊は」


 何秒かの沈黙が続いた後、風が吹いた。私たちの言葉を空に溶かしてくれるような、そんな涼しげな風。

 その風の反動で、スカートが揺れる。

 彼女の白いブラウスからは、白い肌と黒い肌着が僅かに見えた。


「中、見えてない?」と後ろを向いて尋ねてくる。


「見えてるよ」と一言。


「えっ、本当?」


 冗談だということを知らずに、リラは顔を赤くしてスカートを押さえ始めた。いつもはこんな表情見せないのに。


「うん、嘘」


 そんな彼女を見て、素直に可愛いと思った。一度可愛いと思ってしまったら、いつの間にか、ずっと彼女について、知りたくなっていた。もっと素直にその本心を明渡したいという思いもある。でもそれは上手くいかない。


「……あなたが嘘つきになるの、初めてじゃない?」


「まあね。私の花言葉は、『誠実な心』だから」


 ぴったりとくっつくことのない、たまに手の甲が触れ合うようなその距離感がもどかしくて、心地いいから。


「……それはまあ、偽りの心をお持ちで」


「……いいわ。嘘はつかない。これ以上は」


 好きになって初めて、嘘をついた。

 その嘘は、「好き」を真実だと心に言い聞かせるのに、必要なものだった。


「……綺麗だね」


「何が?」


「……この辺り一面。全部が青色で、私たち以外、誰もいないから」


「……そう」


「何か、期待してた?」


「……別に」


「あー、すねた」


「……綺麗だよ。白菊も」


 ただ鈍い甘さの刺激で喉を潤しても、すぐに乾きをみる。

 心だって一緒だ。ただ満足感で心が一杯になっても、またすぐに別の欲望が生まれて、心はまた私にそれを求めようとする。

 また満たされてれて、また求められればいい。

 そしてそれを、いつかその求めた先にある答えを誰かに見られて、素直に間違いを認められればいい。


「……リラ、ありがとう」


「……ええ。それだけ?」


「うん。それだけよ、今は」


「……届かないなあ。どれだけ、手を伸ばしても」


 既に完璧なのに、今更何を求めているのか。

 何も答えられない私は、どうしようもなくなっていた。だから、悲しくて笑うしかできなかった。


「そろそろ、夏がやってくるね」


 リラの花言葉。白色は青春で、紫色は恋。

 だけどそんなのは名前も知らない誰かがでっち上げた格言や都市伝説みたいなもので、私にとっては彼女の色は、青。

 透き通る青。美しい青。でも、冷たくて悲哀の混じった青。

 その青は孕んで、弾けて、なんだか夢幻泡影に近い感情みたいなのを生む。心のどこかで、響いて、染まって、惹かれて、溢れて、そして消えていくから。

 海波の飛沫で溶けるくらいに儚い水性の日々の、「好き」を綴った独り言には、ぴったりの色だ。

 だけど、そんな色に、彼女は何を思っているのだろう。その淀みのない色を見て、彼女はどんな嘘をつくのだろう。

 髪を靡かせ、駆け出す青へと手を伸ばそうとする彼女を見ると、今すぐに別れる訳でもないのに、胸が高鳴る。

 私はずっと彼女を見ていたいけれど、きっと見ているだけでは、永遠に触れられないから。流れる波の小音と煌めく水面の光を言い訳にして、私は瞳と鼓膜を塞ぐ。


 ――どうやら私の現実は、思ったよりも現実的みたいだ。


 ゆっくりと開けた瞳に映るのは、青色の彼女。だけど、私の前に立って、海と空の間に右手を伸ばして、次第にその色が濃くなっていく。


 ――どうやら彼女の現実は、思ったよりも幻想的みたいだ。


「そろそろ、夏がやってくるね」


「うん。でも、その前に『リラ冷え』を耐えないと」


 ❀


 何度も繰り返しているけど、あの日から二年もの月日が経っていた。中学生だった私は、高校二年になった。月日に比例して、制服も、校舎も、その中で出会う人も変わっていた。

 だけど変わらないものもある。気温も食べ物も海の青さも、私の不甲斐なさも。

 そして何より、街を覆っている霧のような空気も。この現象を「リラ冷え」と呼ぶ。北海道では、梅雨という季節は存在しない代わりに、夏の前、このような冷たい空気が発生するのだ。

 水で薄めた水灰色が広がった、家の前の街道では、リラの花が霜をつけながらしっとりと咲いている。

 それは青みを帯びた、藤紫色だった。

 それを見て、青色ほど自然体な色はないと強く思う。白は純粋すぎて、黒は完全体すぎて、赤は人工的すぎて、緑は生命的すぎるから。何だか、心にスッと入ってきては溶けていくから、何よりも脆くて、その弱さが綺麗だと感じる。

 リラの美しさは、空気の冷たさに比例する。そう誰かに教えてもらった。

 空気が冷たい程、美しさは増していく。空気が暖かくなる程、それは失われていく。

 つまるところ、リラの花はひねくれている。どっかの誰かさんみたいに。でもその天邪鬼な感じさえも、どこか愛おしいから、左手を添え、一輪の小さな花に触れる。

 その反動で、掠れた甘い匂いが、ふわっと香る。

 でも、それは自然の、嫌味のない素直な甘さだった。あの子の匂いみたいに。

 会いたい。

 話していたい。

 傍にいたい。

 もっと、ずっと――

 ふと、我に返る。

 思ってはいけないことを思ってしまったような気分になってしまう。


「――ここままだと。私は、彼女に触れられないな」


 早く、大人にならないと。

 感情の整理がつかない。

 ため息に似た深呼吸をひとつ。

 その息は、空気の冷たさに混じっていく。

 期待と、不安と、迷いと、微かな希望と。

 ふわっとした空気の中で、すっと気持ちを込める。


「ああ。『好き』って、一体なんだろうな」


 何も変わらなくていい。

 彼女が彼女のままでいるように。私も私のままでいい。急いで走る必要もないし、かと言って何かを警戒するように止まる理由もない。ゆっくり歩いていくように、隣合わせでいられる日々を、続けていければいい。

 そんなの全部、嘘なのに。

 彼女みたいに。もっと、その先へ――届かなくても、手を伸ばしてみたい。

 だから私は、想う。

 彼女のことと、私のこと。それぞれをひとつも切り離さずに、同じくらい大切に。


 ――私は、垂れると消える海水の一雫でも、来る度に壊れるさざ波でもない。どれをどう拒んで、何をどう無くしても、私は私なの。

 だから今日は、そっと彼女の傍にいよう。

 近くにあって、でもずっと遠くにある心の本音を見逃さないように、見透かされないように、探し続けるように、知りたいと願い続けるように。

 もう、後悔なんてしないように。


 ここまで来たら、感情の整理がつかない。

 深呼吸をひとつ。自分で自分を振り解くように、ずっと長く、もっと遠く、きっと強く。

 彼女には、ありのままの自分で向き合いたい。だけど私は、私自身に対して、嘘を塗り固めていく。全てが私たち二人の髪の色みたいに非対称で、その準透明な関係のまま、日々は進んでいく。


「リラ。おはよう」


「おはよう、白菊」


「今日、暇?」


「うん。いつも暇。あなたはいつも忙しそうだけど」


「……ええっと、それはそうなんだけど。今日だけの、特別な話があるんだ」


「何だろ?」


「えっと、あのね」


 ああ。

 彼女は青すぎて。その青が綺麗すぎて。

 触れたら壊れそうで。

 「好き」なんて言葉は、私には重すぎて。軽い気持ちでは言えない。言いたくない。


「――なんでも、ない。かな」


 まだ、籠の中。

 分かっては誤魔化して。見せたくては隠してを、その中で繰り返して。

 ずっと近くにいるのに。

 どうすれば、私はあなたへの心を隠すことが出来るの?

 どうすれば、私はあなたへ心を届けることが出来るの?

 ずっと近くにいるのに、どうしてこんなに離れているの?

 彼女は、変わらない。いつも、変わり続けてるところが。

 私だって、変わらない。いつも、変われないところが。


「――白菊って、不思議な子。まるで何かに、囚われているみたい」


 囚われている、か。よく分かってる。何も私のこと、知らないのに。

 思わず、笑ってしまう。自分が変われないその代わりに、彼女を愛す、そんな感情のせいで。硬い支柱の籠に閉じ込められているのが私だとして。その籠中からリラを見るなら、その恋の色は青。

 響いて、染まって、惹かれて、溢れて。そして消えていく――そんな彼女の色。

 青く滲んだ水性の日々が、過去の乾いた思い出に貼り付いて。潤みを帯びたそれは欲望だけが透けた願いとなって、再び私の前に現れてしまう。

 何回でも、何通りでも、何日でも、何遍でも。

 私はこうやって、後悔という名の自分自身と、夢という名の彼女から、逃げていくんだろう。


 空気が元通りになる速さから見るに、今年のリラ冷えはきっとすぐに終わってしまう。冷たさが消え、空気が熱気を帯びた頃には、檸檬を搾った紅茶みたいな色をした、初夏の日照りが力を増すのだろう。

 日差しが強い、なんて彼女は言うのだろうか。日々は止まってくれないのに、それでも私の心は進もうとしても進まない。

 運命は昨日と今日をまた繰り返そうとしているのに、心は「明日」という名の絵を、明日から描こうとしている。そんな随分と自分勝手な二者に挟まって、私は迷子になっている。だけどそれが怖くて、どこかへ逃げようと思っている自分が、実は一番我儘なのでは?なんて思ったりもして。

 逃げて、悔やんで。でも、しょうがないか。

 だって、それが私だから。

 

「……暇なら、また海に行こう。近くにあるベンチにでも座って、また他愛のない会話でもして、時間でも潰そう」


「そうだね。制服がオレンジ色に染まるまで、二人でいよう」


 きっと、私にできることは、それしかないから。また、一日が始まっていく。意味の無いことに意味がある、そんな一日が。

 何があるだろう。何を見るだろう。何が分かるだろう。


 ――そして何を、思うだろう?


 今日起こりうることなんて、何一つ分からない。

 だから、無理に変わろうとしたくない。私は、「私」のままでいたい。彼女がいるなら。彼女がいるから。私はそこにいたい。

 これが、「愛する」ことのできない私の、彼女への愛し方なんだ。

 私は恋を知る。

 私は恋をする。

 そうやって生きていく。

 この思いも、いつか忘れてしまうのなら。この景色も、見えなくなってしまうのなら。私は、その終わりを先延ばしにしていく。今日だけは、分かりきった結末を、分からないままの答えにしておきたい。


「じゃあ、今すぐにでも行こう。また、冷たい青を見に、海へ。きっと、今日も変わらない景色が広がっているはずだよ」


 ❀


 今日の放課後、私たちは海を見た。二年前と何も変わらない、潮風の匂いがした。

 彼女は言う。明るげな笑顔で。


「やっぱり、何も変わっていないね。すごく、綺麗」


 二年前、この場所で。彼女は私の瞳をじっと見て、こう言った。


「綺麗だね」


 なぜか私は、今になってそのことを思い出している。

 その瞬間、あの日のサイダーの味が蘇る。温くて、甘ったるくて、あまり美味しくはなかったけれど、それでも目前の青を打ち消してくれた、あの日の微炭酸の味。

 目を瞑って、開いて。そしてもう一度、海を見る。

 ただ、青が溶けていた。

 綺麗だけど、どこか冷たくて、今にも泣き出してしまいそうな青色だった。


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