青藍色の旅人

11. 浮かない顔、浮かべた想い

 


 両親の記憶がないと言うことは、私にとっては幸福なことみたいだった。辛いことがあっても、私自身への嫌悪感が独り立ちして、身近な人を嫌わずに済むから。

 学校は死ぬほど嫌だったけど、「オールドクロック」での生活に何ら不満はなかった。芒さんは私を叱りつけることもなく、私は母に会いたいと言って泣きじゃくった記憶もない。

 苦しくても平坦な生活だったけど、それを引き換えに何か大切なことを失くしている気がした。


 ――私は、これから、どこに行けるのか。

 そして、その想いのまま、どこまで行けるのか。


「私のお母さんは、今、何をしているの?」


 薄々、気づいていた。

 私の母は、もうどこにもいないということ。

 言い換えると、死んでしまっていて、もうこの世にはいないということ。


「あなたのお母さんはね、旅に出ているんだよ。身体の中にあるそのを、ただ消し去っていくために」


 芒さんはそう答えた。

 いつも優しい声は、どこか淡々としていた。その冷たい声音に私の心は暈されて、青色の正体が、何なのか分からなかった。

 だけど、青空に描かれた、か細いひこうき雲みたいに――何もかも分からないままで、思うがままに進んで。そして、その想いのままどこまで行けるのか、試してみたい。

 私は今でも、浮かない顔のまま、そんなことを考えている。


 ❀


 さすがに5月の下旬ともなると、北海道も暖かくなる。

 目を凝らしてようやく判別くらいに黒の主張が激しいネイビーのダッフルコートはもう、その役目を終えている。だけど先月椿さんに貰った純白のノースリーブワンピースを着飾るのには、少し肌寒くはある。だから今週末は、久しぶりにアイスブルーのジーンズを履いてみようか。

 授業中は、消しゴムとあくびをお供に、そんなことを考えながらノートを書いている。


 退屈とは、ただただ遊びのようなものだ。退屈という時間の中に、退屈という想いを重ねて――そしてその隅から、また新たな感情が芽生えてくる。

 五月二十六日、水曜日。

 ただ無意識に、ノートに字を埋めていく。それだけだと眠くなってしまうので、気分転換に淡色のマーカーペンで色を付ける。マス目からはみ出さないよう、慎重に。

 だって、女の子はデコレーションに命をかけるから。

 授業の内容なんて二の次で、どれだけ綺麗にノートを取れるか、ただそれだけを考える。そうすると、五十分なんてあっという間に過ぎていった。


「ノート纏めるの、上手いね」


 ひまわりは、ショートヘアが特徴的だ。顔立ち、髪型、姿勢、低い声のトーンが相まって、尚且つバレー部。初対面は「かっこいい」なんて思っていた。だけど、言動や授業態度、それに、ある少女との会話を見てみると、別にそうでもなくて――むしろ、ポンコツ気味だったりする。


「いや、別に。そんなことないと思うけど」


「後で見せて」


「……ひま、私の見せてあげるから。人の邪魔しないの」


「はい」


 そのもう一人の少女は、すみれ。ひまわりのことを、「ひま」なんて呼ばれてたりもする。友達というか恋人というか、あるいはまた別の関係か――言い表せられないけれど、いつも二人でいることが多い。


「あなたいつも授業爆睡してるけど、今度のテスト、大丈夫なの?」


「まあ、大丈夫だよ。多分……」


「分かった、大丈夫じゃないのね。じゃあ、テスト前は、分かってるね?」


「えっ……あっ、はい」


 不敵な笑みをひまわりに見せているのは、すみれ。


「……まあ、そんなことより、ご飯にしよう、お昼なんだし」


「……そうね」


「ほら、卵焼き作ってきたから、あげる」


 そう言って、すみれはひまわりの弁当箱の蓋に卵焼きをのせた。


「……今日の甘々だね。伊達巻みたい」


「……甘い方が好きっていうから」


「……うん。好きだよ。大好き」


 あまりにも純粋すぎる。そういうことを想像している私にも問題があるのかもしれないけど、無防備すぎて心配になる。


 私が張本人でもないのに、周囲の視線を感じてしまって、やけに落ち着かない。

 男子の反応は私のものと似ていた。ただ頬を赤らめている。何も言えなくて、ぽっかりと口を開けた、そんな反応。

 女子は、それとは対照的に――にやけた視線だった。


「好感度アピールきっつ」


「うわー、もうお母さんじゃん」


「ヤバい」


「……女子力というか、もう育児だよね」


「やってること、『嫁』だよ、『嫁』」


「……それはキモいわ」


 ここから更に悪化することはないだろうけど――それは、何かを馬鹿にしているな小声。

 否定できないが、肯定したくはない言葉だった。


 ❀


「誰も居ないと、心がスッキリする」


「……エリカって、集団にいるの、苦手なんだっけ?」


「……なんか落ち着かないというか……あがり症というか……視線とか小声とか気になる」


「でも、学校にはもう慣れたでしょ?」


「……そうかな?」


「……だって、この間まで、『あ』と『え』しか言ってなかったし」


「……うっ」


「……ごめんなさい。『う』もあったわね」


「……うぅ。優しいのに優しくない……」


 放課後、多くの生徒は帰るなり部活行くなり遊びにいくなり。全ての教室は、人気がなく、ガランとしている。ひまわりの部活終わりまで、すみれは待つそうだ。

 私とすみれ――二人だけの教室には、窓越しに伝わる、スズメの鳴き声だけが聞こえていた。


 二人で、四階からグラウンドを見下ろす。


「楽しそうだね、みんな」


「……そうだね」


「……ねえ、二人なんだし、楽しいこと話さない?」


「……何、それ」


「二人だけでしか言えないこと」


「……えっと、うーん。二人だけ、か」


「……」


「すみれって、包容力すごいよね」


「そうきたかぁ」


「……ひまわりと話してるとき、いつも世話焼きしてるから。なんか、母性、って感じ」


「へー、母性かぁ。フフっ」


「……『育児』とか『嫁』とか言われてるの、ウザくないの? 他人事なんだけど、私にはどうも――」


「私は、むしろ、そういうのが好き」


「……あっ、じゃあ、ひまわりのお世話、よろしくね」


「うん、頑張る」


 彼女の口角が上がっている。案外、お菓子やジュースをあげるよりも、こうやって褒める方が喜ぶのかもしれない。単純すぎないか、とは思うけど、逆にそれがいつもの穏やかな印象とは異なっていて面白い。


「……それで終わり?」


「……うん」


「……もっと」


「……これ以上言うと、よからぬ方向に進みそう」


「……えー。じゃあ、次は私ね」


 制服越しの二つの膨らみ。それは漫画で見るような極端に不自然な感じではなく、微々だけど現実的で。すみれはその片方を、唐突に優しく触り始めた。

 そして、自分の姿に目をやるように、短い髪にそっと触れた。


「知ってる?歩いてるとね、よく見られちゃうんだよ」


 羨ましい(?)。私も、こういうのがあれば、また何か違っていたのかもしれない。

 ただでさえ短い言葉なのに、それさえも彼女は軽やかに言う。だけど私にとっては、重く突き刺さる。一瞬だけチクリと痛みが溢れる、注射みたいな台詞だった。

 

「……こういうのって、ハニートラップっていうんだっけ?」


「いや。別にあなたを誘惑したいんじゃないの。私の苦労、分かって欲しかっただけなの」


「……嫌なの?」


「……嫌と言われれば嫌だよ……肩凝るし、視線感じるし、なんか重いし。パツパツして苦しいし。でもね、それを素直に言えないの。もう諦めたというか、慣れちゃったんだよね」


「……確かに、視線とかは、ちょっと嫌かも。……でも私は、そういうのも、悪いものでもないんじゃないかなって、おもったりもする」


「……へー、エリカって、そういうの、好きなんだ」


「えっ、何?そういうのって」


「……エリカ、人にとか、好きそうだなって」


「いやいやいや。そんなの、恥ずかしいし」


 すみれは、眼鏡を外した。


「でも、ねぇ。私には、そういう風に見えちゃうんだよ」


 眼鏡ケースからクロスを取り出し、レンズを拭いた。

 いつも温厚で、おっとりした母性。そんな彼女の印象が、少しだけ変わる。アンニュイというか、どこかクールな印象になった。だけど、そこから見える柔らかな知性は、すみれ本来持っているもので、特段変わることはない。


「……なんか、知性というか、すみれは持ってるものが違うから、説得力あるね。自分では思ってないことなのに、あなたが言ったら、それさえも信じてしまうというか」


「フフっ、ごめんね。はしたないこと言っちゃって」


「はしたない」。すみれには、ちょっと似つかわしくない単語。


「……すみれって、こういう会話、結構するの?」


「……いつもは全然しないよ。でも、なんか、あなたには、ふと言いたくなっただけ」


 思わず笑ってしまう。まあ、彼女には彼女なりの考えがあって、それについて一番よく分かっているのも彼女なのだろう。私はそれを傷つけずに、頷いて尊重することにした。


「フフッ、意外」


「……まあ、女子だからこそ、話せるのかも」


「確かに、男の子がいたら、こういうの話せないね」


 だけど、男の子に聞かれたらどんな反応するのかも気になるところではある。


「……いつもはね、そんなどうしようもない感情を押し殺すんだよ。見せたい、でも見せられない感情を。誰にも見られないように」


 少し強引だけど、理解はできないことはない。


「じゃあすみれは、頑張り屋さんなんだね」


「そう言われると、嬉しい」


 私には何も無くて、何もかもを手放しているから。他人を尊重することくらいはしてあげたかった。そしてその後で、何かを探すことが出来れば、私は嬉しい。


「……あと、今気づいた。すみれって、眼鏡外すと、なんかかっこいい。お母さん系から、ボーイッシュ系になる」


「……へー、嬉しい」


「……あんまり嬉しそうじゃないね」


「『かっこいい』なんて言われるの、慣れてないし。それに、『母性』なんて言われたら、思ってなくても、そういう気になっちゃうから」


「……すみれって、めちゃくちゃとんでないこと、めちゃくちゃあっさり言うのね」


「……えっ、ほんと? 私、とんでもないこと言ってる?っていうか、エリカ、顔真っ赤だよ」


「……あっ、うん。いいと思う……うん。甘やかすのって……女の子って感じで、夢があって尊いし。それにすごく、可愛いと思う……」


「恥ずかしがり屋だなぁ、もう」


「……だって、恥ずかしいこと言うからじゃん。こんなの、絶対ハニートラップじゃん」


 むず痒い。お姉ちゃんにされた全てのことを思い出してしまう。


「甘やかすのって、結構癖になるんだよ。試しに、エリカも私の眼鏡、掛けてみて」


「……い、や」


「まあまあ。そんなこと言わずに」


「……うん」


 紗幕を通したように視界がぼやける。私だけじゃなくて、すみれがどんな表情をしているのかすら分からない。その


「……どう、かな」


「……すごい可愛い」


「……冗談でしょ?」


「ほんとだよ」


「……ちょっと、やる気入ってきたかも」


「……えっ?」


「……よーし、やるぞー」


 すみれは腕まくりをして、頬を擦った。


「……何」


「ほーら、いい子いい子」


「……えっ?なんで頭撫でるの?」


「……ほら、じっとしてて。そうやってモゾモゾしないの」


「……うっ、あざとい」


「……じゃーん、母性本能」


「……いきなりそんなことして、いきなりひまわりが来たらどうするの?」


「……ひまわりは甘えんぼだから、『私も!なでなでして!』って飛びついてくるよ」


「……なんか、想像つかない。あの身長で、あのトーンで、甘える姿」


 頭を撫でられながら、私は言う。


「……なんで私って、色んな人に頭撫でられるんだろ」


「……エリカ、そういうの好きそうな顔してるし」


「……そういうの、私、して欲しそうな表情してる? それとも、そういう……甘やかし、的なものが似合ってるの?」


「……うん。結構似合ってる。か弱い感じとか、恥ずかしがり屋なところとか、正に、ね」


「……私は、そういうの好きじゃないけど、嫌いでもない」


「……それは、人間関係だったり、恋愛とかでもでも一緒?」


「……多分」


「つまり、憎んでしまうくらいに誰かを好きにもなれないってことだ。だからエリカは、どっちつかずだ」


 すみれにしては珍しく、強引に話を繋げてきた。つまり、これは彼女にとって、言いたくても言えない、隠し事みたいな言葉なのだな、と思う。


「すみれにとって、『好き』は『嫌い』なの?」


「恋はツンデレだよ。誰かを嫌いって言う人ほど、そのどこかで、好きになりたい部分があるってことだよ」


「……天邪鬼だ」


「……だって、『好き』の気持ちを、『好き』の言葉で飾ってしまったら。何だかそれは、想いごと消えてなくなりそうだから」


 すみれは小さくあくびをした。

 いくら感情を隠そうとしても、思いが消えてしまっても、ふとしたときに眠気はやってくる。

 彼女の表情が、労り疲れた母親みたいで、どうしようもなく可愛く見える。

 少しだけ、そのあくびの秘密を知りたくなった。


「……あくび、かわいい。なんか、ふわふわしてる」


「……最近は、なんだか眠くなっちゃって。ほんとはひまに膝枕でもさせてあげたいんだけど」


 膝枕させてあげたい、なんて。初めて聞いた。

 そんなメルヘンチックな。


「……ああ、もう。あなた達二人は、私には届かない、遠い世界の中にいるのね」


「……何その童話の台詞みたいな」


「……だって、私も、誰かを妬んでいたいんだよ」


 妬んでいたい。嫉妬していたい。羨ましがっていたい。不思議かもしれないけれど、もちろんいい意味で。


「……フフっ、人にこういうことするの、楽しい」


 すみれは、私の頭から手を離した。


「ひまに眼鏡かけさせるとね、子猫みたいで可愛くなるの。エリカがそうだったように。私にはそれが、すごく憎たらしいの」


 微かな音を奏でながら。春の風が、若葉の香りを運ぶ。


「あなたにも、誰か、見つかるといいね」


 誰か、はもう見つかっている。

 だけど、何かが、足りない。

 私はその何かを、ただ探していくだけだ。


 ❀


「――白菊、早くこっちに来て」


 私にとって彼女は、ただどうしようもなく、青い。

 その青さ以外、何も見えないくらい。


 私は、人を色で識別することが多い。

 桜さんは、感情的な言動が多くて、その全てが優しいから、色の濃いピンク。美雪さんは、何も考えてなさそうで、いつもみんなを見つめているから、ぼやけた陽だまりみたいなアイボリー。

 そのうちの一つ――私にとって、リラは、真っ直ぐな青色だ。

 白は純粋すぎて、黒は完全体すぎて、赤は人工的すぎて、緑は生命的すぎる。だけど、青色は、どこまでも自然体だ。心にスッと入ってきては溶けていくから、何よりも脆くて、その弱さが綺麗なのだ。


 二人で飲み物を買いに、自販機へと行った、その帰り道。

 リラは歩きながら、ペットボトルのキャップを開ける。そして、気味が悪いほどのオレンジ色をした炭酸飲料をごくごくと飲み出した。


「……すっきり」


 水滴をとるように、丁寧にフィルムに描かれたイラストに触れる。


「明日は何を飲もうかな」


「……そう言っときながら、いつもカツゲン飲んでない?」


「じゃあ、白菊が決めて」


「……リラにはブラックコーヒーがお似合いだよ」


「……あなた、ねえ」


「君を弄るほど、快感を感じることはないからね」


「白菊って、すごい恐ろしいこと、すごいあっさり言うよね」


 なんで、彼女はこんなにも分かりやすくて、分からないんだろう。

 すぐに紐解けるパズルのピースを埋められないように、終わってしまうことは、何かが消えることを意味する。そんなのは悲しいから、私は前に進めず、留まってしまう。

 くだらないけど、それがいいんだ。それでいいんだ、今は。

 でも、一つだけ、聞き出さなきゃいけないことがある。これは真面目なことかもしれないし、そうではないのかもしれない。


「……前から気になってたんだけど、君とエリカちゃんって、どういう関係なの?」


「……普通。普通の姉妹って、思ってもらって構わないよ」


 私は、「普通」という言葉が嫌いだ。

 あまりにも抽象的すぎて、よく理解できない言葉だから。

 簡単な単語であるがゆえに、それを理解するのは難しい。

 今だってそうだ。リラは自分を「普通」だって言い表す。

 やっぱり、分からない。

 でも、私は知っている。

 かといって、全ては分からないけど。

 それでも、彼女の思考における根本的なもの、あるいは最後に現れるものを、私は知っている。

 だから誤魔化しても、私の前では無駄になる。大袈裟だけど、ずっといるから。

 目の前に見えるもの全てが青色のレンズで透き通るみたいに、分かってしまう。

 本当に大切なものを、リラは隠しておく。

 本当に、大切なもの。

 

 ――だとしたら、あの子は一体?

 分かっていた。想定内の想定外。何かを隠していることは分かっていても、その中に隠されているものは分からない。だから私は、彼女を追いかける。

 単なる好奇心だろうか?求知心だろうか?それとも、猜疑心。多分それはない、はず。

 そうやって浮かない顔をしていると、春風がふいに現れて、私の頬を優しく包んだ。その優しさに何を思えばいいのか分からなくて、視界不良の疑問符だけが、穏やかな春の空に溶けていった。



 

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