10. 想うということ
「ねえ、今日デートしよっか」
「……は?」
「……駄目?」
「いや、だって学校が……」
「一回くらい大丈夫だよ、そんなの」
「……いいよ」
数学の授業受けたくないから。
「わぁい。やったー」
欠席連絡をするために、若干の緊張を抱えながら、桜さんに尋ねる。
「……桜さん」
「ん、何?」
「……えっと、あのー、今日学校休みたいんですけど……」
「なんで?熱でもあるの?」
「……いや、そうじゃないんだけど……」
「やっぱり学校に慣れてない?」
「いや、そんなことは。……でも、まだちょっぴり」
やっぱり、駄目そう。
「いいよ。おっけー」
「………えっ、いいんですか?」
「行き詰まったなら、少し休んだ方が身のためだよ。その代わり、明日はちゃんと来るように」
「……はい」
「あとさ、ちょっとリラ呼んできて」
❀
あたしには、誰かのこころを救ってあげることはできない。
それは、一人の教師として、いけないのかもしれない。
だけど――ずっと傍で見ていることはできる。
あたしは誰かを救うための全てを、たった一人では背負いきれない。無責任だと言われるかもしれない。だけど、何かが変わり切る前に、ほんの少しの手助けが出来れば、それで充分だ。
「ありがとね、リラ」
「……これで満足?」
「まーね」
「言うことに従ったから、今日は私の好きなようにさせて。今日、学校行かない」
「知ってる」
「……いいの?」
「……別にどうでもいいんだよ。今日は、二人で好きなことしなよ。あなたの好きなこと、何でも」
「何でもって」
「全てはあなたの思い通りってこと」
いつもみたいに。いや、それ以上に。
「ふーん」
立ち去ろうと背を向けた、その瞬間。
「変わったね、色々」
「何が?」
「いや、何となく。でも、誰かが来る前は、こんな感じじゃなかった」
そうだ。きっとエリカは、大切なものを変えてしまうくらいの、特別な何かを持ってるんだよ。
「青春、やってるねー」
「……ばーか」
「今後も期待してるよ、妹さん」
❀
「……どこに行くの?」
「どこだろ?まあ、適当に……手、誰かと繋いだことって、ある?」
「……なっ……いや、ある」
「フフっ。じゃ、繋ごっか」
そうして、リラは私の手を掴んだ。
いつぶりだろう。誰かと手を繋いだのは。思い出せない。覚えていない。もしかしたら、そんなことしてないのかもしれない。
何でだろう。
こんなに――夜明け前の空気みたいに、救われた気になるのは。
こんなに、胸が高鳴るのは。
隣り合って海岸線を歩いている私たちを包んでいるのは、明るくて、だけど穏やかな水色。その色が、光のせいで白く飛んでいる。
波の音も。潮風の匂いも。防波堤の落書きも。薄汚れた鉄塔も。流木が漂流した砂浜も。交差点についた茶色い錆も。
全てが青春映画のワンシーンのようで。
そんなのは共感できないような程遠い理想だったのに――それでも今、こうして現実になっている。
なぜか私は、それがすごく特別に見えた。
私と彼女の、二人だけの時間――限りなく遥かな、そして今だけの一秒を、丁寧に砕いていく。
「よし、着いた」
リラは立ち止まると、一件の建物を指さす。
それはマシュマロ色をした、小さくてかわいらしいログハウスだった。
外壁に吊り上げられたサインポールは赤、白、青の三色をクルクルと回している。
「理髪店カメリア」
そう書かれた黒色の看板は、二つのポーチライトで照らされていた。
玄関フードを開け、さらにゴールドの真鍮でできた丸型のドアノブを開ける。パイン材がふんだんに使われた室内。髪の一本すら落ちていない白色のフローリングはどこか落ち着いていて、嫌らしさのない明るさがある。
レジ前では、一人の女性が、右手に頬を乗っけながら、暇そうに美容雑誌を立てて読んでいる。
「らっしゃーせー」
派手なローズゴールドのポニーテール。その端には、クルクルとロールがかかっている。
子猫のような、でも、子犬のような。だけど、ちょっぴり厳ついギャルみたい。
趣味悪い格好――ワインレッドのオフショルニットに長めのつけまつげ。
だけど、見つめ合ってしまうなら、三秒あれば見惚れてしまう。それくらいには、全てが似合っていた。
「……って、なんだ、リラか。学校までサボってまで、何の用?」
「椿さん。この子の髪、お願いしていいかな?」
「……あ、誰?」
「……わっ。……えっと、小牧エリカと言います。東京から来ました。今はリラさんの家に、住み込みで……」
「ふーん」
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「……長いわ」
「……あっ、すいません」
「……椿さん、せっかち」
「……うるさい、桜の妹のくせに」
「……あっ、その……」
「……ウチは
二つあるうちの左側のバーバー椅子に座る。楕円形の大きな鏡と棚に置かれた大小様々な大きさの整髪料。バーバー椅子の端は、黒のフェイクレザーがポロポロと剥がれていて、中のスポンジが見え始めている。
椿さんは黒色のエプロンを着けながら、こちらにやってきた。
「んーっと、エリエリー。どんなのがいいの?」
エリエリ。
やめてくださいなんて言ったらハサミで攻撃してきそうなので、何も言えなかった。
「……よく分からないので、おすすめ的な感じでいいですよ」
「……あのさ。言いたいことあるんだけど」
「……はい」
「あんた、ほんとに女子?」
「ほんとに女子ってほんとにどういうことですか?」
「ほんとに女子ってことはほんとに女子か聞いてるんだよ。なんでほんとにそんなに容姿に無頓智なんだよ、ってことだよ」
「……そもそもそんなに散髪しないので……髪型とかもそこまで詳しくないですし……」
「……あーもうじゃあいっそのこと、ボブにしよう。バッサリ切っちゃおうぜ」
「えっ?」
「だって、今の髪、ロングともショートとも言いづらいし。心機一転、髪型も新しくしようよ」
「それはちょっと勇気が……」
「……口答えすると、やっちゃうからね」
「あっ、はい、すいません……」
「だいじょぶ、似合えばいいんだよ似合えば、アタシを信じろ。……あと、目は瞑っときんしゃい。よく言うじゃん、パンドラの箱は、開けてからのお楽しみ、ってね」
足についているローラーをコロコロと動かし、移動式のシャンプー台がゆっくりのわたしの真後ろに来る。適切な温度と水量で、ぶっきらぼうに伸びた髪を濡らしてくれた。
シャンプーからは、色んなものが混じりあった、複合的な甘い香りがする。その中に何が含まれているのか分からないし、はっきりとは伝えられない。だけど、どこか心が安らぐ香り。
スチームタオルからは、ハーブのいい香りがする。程よい温もりと潤いが、毛穴の一つ一つに染み入る。どこか懐かしくて、でも自分の知らない世界の香りだった。
チョキチョキ、パツパツ。
シャカシャカ、ザーザー。
ゴーゴー、サッサッ。
目を瞑ることしかできなかったので、音しか分からない。
――それでも、目を瞑っても。
暗闇で見る、いつもの「私」は、どこにもいなかった。
「ホイ、出来たよ。……どう?」
まるで、自分じゃないみたいだった。信じられなかった。
「私」じゃない私。
だけど鏡には、しっかりと映っている。
その時初めて、自分をかわいいと思った。
「……すごく、いい感じです」
「でしょー。我ながらすごくよく出来てると思う。この毛先のつやつや具合とか、ここのふんわり具合とかー。結構、ボリューム落としたんだよねー」
椿さんは顎に手を当て、自信に満ちあふれた微笑みを見せびらかす。
照れ笑いっていうのかな?何だか、つられて笑っちゃう。
「……はい、お会計4500円」
「……お姉ちゃん……ごめん」
「……何?」
「……財布、忘れてきた」
「……お姉ちゃんが払うよ。椿さん、領収書切っといてください。宛名は汐見桜で」
「……『お姉ちゃん』って……アンタ、やりたい放題してるね」
「……えへへ」
「あとこれ、よかったらもらってといて」
「……えーかわいー。ほんとにいいんですか?」
「夏物だから、今は着れないし。それに、流石に大人にもなると、これ着るのシンドイと思ってねー」
「その髪型でそんなこと言うの、面白いですね」
「あ?なんか言ったか?」
「いえ何も……っていうか、こういうのって、エリカが似合うんじゃないの?」
「えっ?」
「あー、確かに。着てみれば?」
「……えっ、いや、その」
「わー、かわいいー!」
「おー、髪型と相まって、すっごい似合ってるじゃん。やっぱ、若いっていいなー」
「でも、お姉ちゃんの方がきっと、絶対、似合うと思うけど」
「でも、サイズ合わないと思うよ」
あっけなく、会話が途切れてしまう。
心の隅で落胆の音がする。その後、漠然とした空虚感がどことなくやってきた。
「……いや。まあ、これは。あれだな、あれ」
椿さんはリラの方を向いて言った。
「あんたら、仲良いのな」
❀
穏やかな小春日和。白銅色の空は曇っていて、その向こうに青が透けている。午後の雲は綿あめのようにモコモコしていて、手に取ってみたいけど、やっぱり掴めない。
オレンジ色の帯に鳥が描かれた看板が目印の、近所のコンビニへ入る。
私たちは、二百円くらいのメロン味とバニラ味のソフトクリームを一つずつ買い、海辺のベンチで食べることにした。
「エリカ、どっち食べる?」
「メロン」
「うん、分かった」
潮の匂いと草花の匂いが混じった、眠たげでぼんやりとした甘さ。
ソフトクリームを覆っている透明なプラスチックカバーを外した。
「いただきまーす」
最初は、爽やかな甘みが広がって、その後、濃厚なコクが広がる。いたってシンプルで、だからこそ美味しいソフトクリームだった。
「……なんか、すごい、いい人なんだね」
「……誰のこと?」
「ここにいる全ての人たち、みたいな」
「……そう思っちゃってるエリカは、やっぱり優しいね」
「自分が優しいかどうか、なんて分からない。だけど、それと同じように、悪い人も、この世に存在するのかなー、なんて思ってたりもする」
そう思うのは、私が「良い人」はないことを薄々と知っているから。
私の欠陥を、誰かに見透かされたくないから。それ隠すみたいに、誰かに優しくする。
――そんなものは、きっと、優しさでは無いのかもしれない。
「うーん、そんな難しいこと、考えたことないかも」
けれど、それを優しさだと信じる人が傍にいるなら、私はその思いを壊さずにいたい。
「ねえ、エリカ。ベロ、見せて」
「何、いきなり。んっ」
「うわー。オレンジ色……なんか――」
「エロい」
「なっ、何言ってるの、もう……」
よからぬ事を発したリラは、ゆっくりと舌を出した。
「……お姉ちゃんのは、真っ白でしょ」
ちょっぴり長くて、なんか――
「舌長いね。……なんか、ヘビみたい」
私だって、そういうことは、ちょっとだけ、一瞬だけ、そう思った。
だけど、言えるわけなかった。なんか、恥ずかしいから。言ったら恥ずかしくなって顔赤くなってそれを彼女に弄られて、猛烈に死にたくなるから。
「……ヘビって。こういう感じ?」
そうして、リラはわたしのソフトクリームを舐める。
「……わっ、お姉ちゃん、やめてよ」
「……エリカもする?」
「……えっ」
「……いいよ、ほら、お返し」
仕返しに、私もリラのソフトクリームを舐める。
「必死で舐めてる、ぺろぺろしてて、ワンちゃんみたいだね」
「……またからかってるでしょ」
「……ふふっ」
「……もう」
お互いの舐めた部分がほんの少し溶けだしている。
何だか可笑しくて、その可笑しさがちょっぴり恥ずかしくて、私たちはお互いに笑いあった。
「……寒いね」
「あのソフトクリーム、量多いからね。……じゃあ、こうしてあげる。こうすると、少しあったかくなるかな?」
リラは私の手を握る。
握るよりも、絡めているみたいに見えて、それが余計に違和感しかない。
「雲もソフトクリームの冷たさも掴めない。だけどあなたの手なら、こうやって、いつでも取ってあげるよ」
「ねえ、なんでお姉ちゃんはそんなに優しいの?」
「だって、私はあなたの姉だから」
「ふふっ」
こんなこと、姉妹がしていいものじゃないと思いながら、私は笑う。
まあ、それが――独りじゃない、二人きりでいるときの――私たちなんだろう。
私は彼女の肩に頭をのっける。
「お姉ちゃん、少し寝るね」
❀
もう、気づいてるでしょ?
――「普通でいよう」とか、「普通がいい」とか、その思考そのものがもう「普通」じゃないって。
まどろみの間、一つの夢を見た。
ずっと暗い部屋でひとりきりになる夢。
あの日の日常にそのまま戻ってきたような夢。叶えるべき夢のその代わりにある、夢のない夢。輝いているみんなを見ていると、心の中に閉ざした真っ黒な思いが、日々が、蘇ってくる。
その中に、もう一人の私がいた。
髪を切っていない、弄れたままの、暗いままの――「変われなかった」自分。
その時、もう一人の私は、今の私を見て、こう言っていた。
「あなたは、どう足掻いたって、あなたなんだよ。だから、あなたは、『私』じゃない」
そうだ。嫌いな自分は、嫌いなまま。嫌いなままだと、どうしても、好きになれない。
だけどその代わりとして、他人は嫌えないんだよ。人を嫌う前に、いつも自分を嫌ってしまうから。
その時、私は思う。
人を嫌うことができなくても、人を好きになったことなんて、今まであったっけ?
私は、誰かを愛することが、出来るのかな?
こんな意味不明なことを考えてる自分も、嫌いなままで。
だけど、今は、何かが違う。
「……あなたの気持ち、本当は、ずっと分かってたんだよ」
「違う。あなたには、私の気持ちなんて、分からない」
「……なんでいつも、そうやって私を否定するの?」
「……あなたは『私』じゃないから。『私』のことなんて、絶対に分からないから」
「じゃあ、本当のこと、教えてあげる」
今なら、その感情を、すっと言える気がした。
「今、あなたは、変わることの出来ない殻に閉じこもっている。だけどそれを変えたいって、そう思ってる」
「……どうして、そう思うの?」
「私」じゃない私は、問いかける。
その表情は笑顔でも泣き顔でもない。ただなにかを、信じているみたいだった。
そして私は、答えを言う。
私自身の言葉を、そっと裏返すみたいに。
「――だって、私は『私』だから」
私は伝える。
想いを、言葉を、記憶を。
何かを壊すために。
変わらなかった何かを、変えるために。
ずっと嫌味しか積もらなかった心を、ただ抱き締めてあげるために。
「――なんか、ごめんね。今まで何も言えなくて。だけど、これで最後だよ」
すっと息を吸って、言葉と共に吐き出す。
「――ひたむきに下を向くのは、もうやめにしよう」
その言葉は、私を救った誰かの言葉に似ていた。
❀
「エリカ、起きて」
その時。
声が聞こえた。繊細で、不安定で、不器用で、それでも優しくて、綺麗な声だと思った。
ああ、そうか。
誰か――いつも私のことを気にかけてくれる、私の好きな人の声だ。
けれど、それだけじゃなかった。
その時、その少女の唇が、私の唇に乗っかっている。上目遣いの彼女の、長いまつ毛が鮮明に見える。手を繋いで、指同士が絡んで、衣服の胸元あたりがほんの少し擦れ合っていで、くすぐったい。
手を繋いだことすらないのに――キス、なんてされたら、何を思えばいいのか分からない。
ひんやりとした唇には、まだほんのりとバニラの味が残ってて。
何、これ。こんなの、初めて。
本当に言葉にできないことって、あるんだ。
ブルーバック――ベンチの周辺が、私たちを取り巻くその全てが、淡く青く染まって見える。
瞼の少し下、瞳の真ん中の少し上らへんがスースーする。乾いた花に、枯れた心に、水しぶきがかかったように。
色が、視界が、思考が、滲む。
光が、夢が、その未来が、その未来にある苦しさが沈む。
息、声、心、唇。全てが混ざる。
全てが、彼女に身を委ねられている。支配されている。
だけど身体は、離れたくないと言っている。
これは幻想で。でも、どうしようもなく、現実になっている。
それはさっきの眠りで見た夢よりも夢みたいで。私の目が開いたと同時に、彼女の唇が遠ざかっていく。
「お目覚めのキス、どうだった?」
「……お姉ちゃん、何、してるの?」
「ごめん。私、悪い人だったみたい」
リラは笑う。その笑みは微塵も悪気を感じさせない。完璧に明るいものでも、楽しいものでも、直に幸せを伝えているものでもない。
だけど、すっと胸に入っては、冷たい感傷を残してそのまま溶けていく。その青と残像は深く私のこころの奥底に入ってきて、どこまでも心地いい。
この気持ちはなんて言うんだろう?
彼女に、何を思えばいいんだろう?
その答えは、何千何万と考えてなくとも、すっと分かるような気がした。
「……蕾、そろそろ開いちゃいそう」
❀
「エリカちゃん、今日は何頼む?」
「……うーん。じゃあ、ウィンナ・コーヒーで。」
「珍しい。ブラックじゃないのね」
「たまには、って感じで」
「『たまには』ねぇ。、私は、ずっと見てるのに」
「何をですか?」
「鈍感だね。でも、それもかわいいと思うよ」
「……教えてくださいよ」
「じゃあ一つだけ。邪魔はしないよ。それだけは伝えておく」
いや、やっぱり分からない。
「ほら、出来たよ」
そう言われて出てきたそれは、ミルクコーヒーの上にたっぷりのホイップクリームが渦巻き状にのっかっていた。おまけに色とりどりのカラフルスプレーまでトッピングされている。
どう飲んでいいのか分からなかったから、とりあえずクリームだけをすくって口に入れてみる。
――甘い。甘い。甘い。無駄に甘すぎて、変な笑いがでそう。これは私には、合わない。
でも、こういうのも、案外悪くないかも。
ポツポツと意味の無いような言葉を発する。まるで意味があるかのように。意味を、込めるかのように。
「いいなぁ。エリカちゃんは。何者でもないってことは、これから何にでもなれるってことだよ」
私は、私だ。
だけど、私は、以前の私とは違う。
あれ?
私は、何者?
単純な言葉だ。だけど、それは同時にすごく難しい言葉でもある。何回も噛み砕くように考えても、その言葉の意味が、込められた意味が、渦巻くクリームの甘さで打ち消されていく。
それは私には分からない。
昔も、今も、そしてこれからも。
ゆっくり歩いては止まるを繰り返すように、この先ずっと、私は考えては分からないを繰り返して――だけどその度に、何かを知っていくのだろう。
美雪さんはゆっくり、卓上のブラックコーヒーに、砂糖を入れて、手を伸ばす。長時間放置されていたのか、湯気はもうたっていない。
「苦くて、ぬるい」
その後、ゆっくりと言った。
「ふふっ。エリカちゃん、変わっちゃったね」
「かもしれませんね」
❀
機嫌の良い空は、それから一週間ほど続いた。
眠い目を擦りながら、外へ出る。
冷たくて、あたたかい。そんな不思議な空気が私を包む。
「お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう」
リラが微笑む。
「ねえ、咲いたよ」
そこには、薄紫色と白色のリラが芽吹いていた。小さな花――何十、何百と、穂のように咲かせている。風がなびいて、花びらが光を取り入れる。そして、その一つ一つが、淡く透けていた。
「綺麗だね」
「うん、すごく綺麗。花びらだって、ハート型だよ」
「ほんとだ、かわいい」
「ねえ、エリカ。今更だけど、リラの花言葉って、知ってる?」
「知らない」
「――白い方が『青春』で、紫の方が『恋愛』なんだよ」
「お姉ちゃん、花言葉とか、信じちゃうの?」
「――信じるか信じないかはその人次第。だけど、『青春』も『愛』も、『二人きり』の今だから言える」
リラの花。
それは、涙が出るほどの悲しさと、それでも前を向く美しさを兼ね備えた、私達の花。
リラの蕾を芽吹かせて。薄汚れた硝子みたいな心の奥底に、冷たくて暖かな風が通り過ぎていく。
それはきっと、恋の始まりを告げているのだろうと、「あなた」という名の花は伝えている。
傍にいること。
それはただ、想うということ。
誰かの嬉しさが、誰かの悲しさになるように。その悲しさは、また誰かの嬉しさを連れてくる。
言葉の全てが違っていても、それはたったひとつの感情の裏返しに過ぎないから――
それを分かち合うまでは、「何者」にもなれない自分を、花を開けない蕾みたいに、じっと受け止めていたい。
「――私は、あなたの傍にいるよ」
今日はただ、そんな風に思っていた。
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