この夜が明けたら

鹿島 茜

この夜が明けたら

 暗い闇の中をうごめく動物として生をうけた。夜は僕の友だちで、夜だけが僕の友だちだった。日中も起きてまぶたを開いているのに、夜の闇の中でも目をらんらんと輝かせている僕は、人間なのか夜行性の野獣なのか自分でもわからなかった。

 医師から処方される粉末の強い睡眠薬と水を口に含むと、独特の苦みが顔中に広がって嫌な気持ちになる。通常の睡眠薬ではとても効かなくて、主治医が特別に配合した睡眠薬を飲まされていた。勝手に薬を作っていいのか知らないが、世の中が闇に包まれる時間帯はまぶたを閉じねばならないのだと言い聞かせられ、僕は致し方なくその薬を飲み続ける。

 薬が効くことはなく、少しだけ眠って目が覚める。白くてそっけないベッドから抜け出し、まだ深夜には遠い黒い空を見上げてみる。都会の暗く明るい空にはほんの少しだけの星が輝いていた。僕にわかる星座はオリオンくらいのものだった。鉄格子をはめられた窓は冷たく、夜空は遠い。


 消灯時刻を過ぎてしばらくの間、病棟は静まり返る。だが一時間もしないうちに、非常口付近の階段に僕らは集まる。ひんやりとしたコンクリートの階段に座り込み、皆が煙草に火をつける。眠れない野獣が集まる病棟に、オレンジ色の目がいくつも光り、呼吸に合わせて光が強く弱くなる。

 僕は睡眠薬で朦朧とした頭のまま、仲間とともに煙草に火をともした。寝ぼけていたからか、吸い口を逆にくわえていた。煙草の先から小さな火が燃え上がり、周囲はちょっとした騒ぎになっている。何やってんだよ、火事起こしたらシャレにならないぞと、周囲の人間たちが慌てて消してくれる。ぼんやりとしながら僕は、少しだけ前髪を焦がしていた。

 それほどまでに朦朧としているのならば、純白のベッドへ戻れば眠れるのかもしれない。けれども闇の野獣たちは決してベッドへ戻ることはない。眠くても眠くても、「眠れない」と訴えて夜の闇の中を徘徊する。徘徊しながら自分自身のやっていることには無頓着だ。寝ぼけたままで友だちに意味不明のメールを送ったり、妙な歌をうたったり、壁に寄りかかって居眠りしたり。素直に眠ればいいのに、「眠れない」と訴える。ベッドへ戻れば眠れるはずなのに、なぜ眠れないと言い張るのだろうか。


 闇を愛する僕でさえ、ぐっすりと眠った体験はないわけではない。それはたったの一度、興奮が過ぎて主治医から安定剤の注射をされたときのこと。最初は何も感じなかったが、いつの間にかベッドに横になり熟睡していた。強制的な熟睡だった。何を注射されたのか、薬品名はわからない。とにかく興奮を鎮める薬だろう。熟睡したのに、気持ちはよくなかった。僕の人格の一部が損壊されたような気がしたことを覚えている。

 きっと僕らは眠りたくないのだろう。薬を山ほど飲まされて「眠れ、眠れ」と諭されて、そんな医師や看護師たちの説教など聞きたくはなくて、いい年して思春期の少年少女のごとく反抗している。何に反抗しているのか。僕らをこのような病に陥れた社会か、周囲の人間たちか、それとも神か仏か。きっとすべてが憎い。自分を責め、周りを責め、あいつを殺して俺も死ぬとうそぶく。


 鉄格子の窓をぼんやりと見上げると、遠い夜空が僕に話しかける。いつまでそんなところにいるのかと。自宅に帰りたくはないのかと。僕は帰りたくはなかった。家に帰っても、僕に無関心な父と、何をどうすればいいのかわからないで泣くばかりの母と、僕を厄介者扱いする妹がいるだけ。僕は帰宅せずに一生この白い壁の中にいることが幸せなのかもしれないと思ったりする。なのに夜空は語りかける。夜が明けたら、外へ出てこないかと。


 外出許可は出されたことがない。重症患者なので、出ることは禁じられている。僕自身、外出することは不安だった。薬漬けで足元がふらつくので、事故に遭ったらいけないとも言われている。

 夜空は僕に語りかける。外へ出てみないかと。外界の冷たい空気の中でオリオンを眺めてみないかと。オリオンの三つのベルトが僕を誘う。星に興味などないけれど、冬の空に輝くものは美しいと感じた。


 非常口の重い扉に手をかけると、不用心にも鍵が開いていた。そっとドアを開いた僕は、素足にサンダルのままで外へ出た。冷蔵庫の中みたいにひやりとした空気が頬を刺す。鉄の階段を少しずつ降りてみる。オリオンを探しながら、夜空を見上げながら、ふらつく足で。朦朧とした頭で。何も考えられない状態で。どこへ行こうとしたのだろうか。

 ろれつの回らない口と同じで、千鳥足でふらふらとした僕は階段を踏み外して、落ちた。大きな音が周囲に響き、誰かの声がして、たくさんの足音が近づく気配がした。僕のつまらない脱走は、一瞬で終わった。オリオンの夜空は、遠かった。


 望んでいたのか、望んでいなかったのかはわからない。僕は再びあの注射を打たれて、深く眠った。ほんの短い時間だったような気がする。目が覚めたら、今までとは違う部屋のベッドで横たわっていた。腕には点滴が刺されていて、針の部分がひどく痛かった。点滴漏れをしていたのかもしれない。ナースコールを押したら、にこやかないつもの看護師がやってくる。「あら、点滴漏れね。痛かったでしょ、ごめんなさいね」と笑って、適当に直してくれる。痛みはなくなったが、眠いような興奮しているような、不思議な感覚だった。

 部屋を変わったのかとたずねたら、閉鎖病棟へ移されたと看護師は答えた。もう今までのように簡単に脱走することはできなくなったということだ。ほんの少しの出来心でオリオンを追いかけたばかりに、白い個室に閉じ込められてしまった。壁はどこまでも白く、夜中だというのに眩しかった。


 薄い黄色のカーテンをひかれた窓の向こうには、オリオンは見えない。夜空は遠く、暗かった。太陽とは無縁の僕は、せめて夜空へと飛び立ちたかったのかもしれない。

 落ち着くまではしばらく閉鎖よと、看護師は囁いて去っていった。どうせ外出禁止だった僕には、開放も閉鎖もあまり変わらない。ただ一切の外界との接触を断たれることだけはわかった。冷たい空気が頬に触れることもなくなった。鉄格子に阻まれたオリオンは、もう僕とは関係ない。


 この夜が明けたら、僕はどこへ行こうか。帰る家などない。行きたい場所などない。生きる意欲もない。眠りたくても眠りたくない。毎日何錠もの薬を飲まされ、点滴され、注射され、死んだように過ごすのだろう。

 この夜が明けたら、僕はどこへ行こうか。ロープも刃物も遠ざけられ、好きな煙草も取り上げられ、身体は拘束されて動くことができない。闇の中に生を受けた僕は、夜が明けたらどこへ行こうか。


 何のために、人は生きるのか。今の僕に生きる価値はあるのか。カーテンの向こうの見えないオリオンにたずねてみる。生きるって、なんなんだ。縛られて眠らされて、それだけで生きていると言えるのか。


  この夜が明けたら、僕はどこへ行こうか。生きようか、死のうか。死ぬことすら許されない僕は、いったいどこへ行けばいいのだろうか。




【完】



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この夜が明けたら 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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