この物語はフィクションを含んでいます(後)

私が隣室で死体を見た日の翌日、

休日ではあったが、外出しようという気にはならなかった。

死体がそのまま置かれているのではないかと思ってしまったからである。

道端にポイ捨てされたゴミはそのまま残る。

誰かが片付けて初めて、道路は綺麗になる、

路上で寝ている人間だって目を覚ませば、どこかへ行ってしまう。

隣室の死体はどうだろう。

勝手に起きてどこかへ行ってしまうということはありえない、

だが、救急隊員の反応からして、

それこそ数日経過してようやく処理されるような案件なのではないかと思う。

まだ死体は残っているのではないか、それがどうしても外出を躊躇わさせる。

死体を見なければいいという問題ではない、

見ようとしないように思うほどに、心は強く死体を意識してしまう。

なにより、もしも203号の隣人に会ったら……そう思うと恐ろしくてたまらない。


ぴぃんぽぉん。

そう思っていたら、インターホンが鳴った。

今の所、私の住所を知っている友達はいない。

何か荷物を注文しているということもない。

私は、物音を立てないように静かに動いて、

インターホンのカメラに映る人間を確認する。


「すいません、坂上……あ、大家ですけどぉ」

穏やかな微笑みを浮かべた、少し小太りの中年の女性。

そんなに会ったことはないが、アパートの大家に間違いない。

「はい、今行きます」

私は通話ボタンを押し、玄関へと向かう。

何の用件で訪ねてきたのかはわからないが、

むしろこちらから尋ねたかったぐらいだ。


「おはようございます、大家さん」

「朝からすいませんねぇ、いやあね、

 バタバタしてて書いてもらうの忘れてた書類があってねぇ」

「あぁ……」


隣室の死体についての説明であることを期待したわけではない、

というよりは、むしろほっとした心持ちである。

もしも笑顔のまま、死体について切り出されていたのならば、

私は悲鳴を上げていたかもしれない。


私は受け取った書類の説明を受けながら、タイミングを見計らっていた。

「一人暮らしは気楽だけど大変だからねぇ。

 困ったことがあるなら、言ってくださいねぇ」

ここだ、と明確に思ったわけではない。

ただ、説明が途切れ、会話の雰囲気が切り替わろうというのを見て、

咄嗟に言葉を出しただけだ。


「あの、203号室なんですけど」

「ああ、203号室のこと?」

幸運なことが2つある。

大家さんは特に203号室を話題にすることをタブー視するわけではないこと、

そして、私が悲鳴を上げなかったことだ。

大家さんは特に表情を変えるでもなく、

今日の天気の話でもするかのような笑顔のまま、言葉を続けた。


「あそこね、自殺の名所なの」

「じ、自殺の名所……?」

「そうそう、週に一回ぐらい203号室の前で死んじゃうのよね、厭あねぇ」

「あ、あの……」

絶対におかしい、それだけはわかる。

だが、なんと尋ねれば良いのかがわからない。

人喰い鬼の群れの中に、ただ一人で混ざった人間の気分だ。

迂闊に騒ぎ立てれば、食べられてしまうかもしれないかのような。


「なんで自殺の名所になってしまったんですか?」

私は慎重に言葉を選んだ。

自殺の名所になってしまったことよりも、救急隊員といい目の前の大家さんといい、

それを取り巻く態度のほうがおかしいことはわかっている。

だが、それを指摘しようとは思わない。いや、刺激する勇気はない。

だから、おそらく問題ないと思われるものを私は選んだ。


「203号室の住人さんねぇ、とっても嫌われてた……いや、憎まれてたのねぇ。

 誰が一番最初だったか忘れたけど、当てつけのために203号室で自殺したのね。

 不思議よね、それからどんどん203号室の前で人が死ぬようになっていったの。

 誰も傷つけようとか、殺そうとか考えずに、ただただ自殺するのよねぇ」

「えっ……」

「昔は、それこそ命を大事みたいな看板立てたり、

 警察官の人が見回ったりしてたけど、まぁ、駄目なのよねぇ」

「あの……203号室の人って、まだ暮らしているんですか?」

「厭あねぇ……流石にもう引っ越しちゃったわよ、

 それで……自殺だけが残されちゃったわけ、

 まぁどっからか来て死ぬだけだから害は無いわよ」


原因となるその住人は引っ越したのに、自殺だけは未だに残っている。

春の温かい風が私の身体を撫ぜる、だが、どこか寒々しく感じる。

「まぁ、あんまり気にする必要はないわよ……じゃあね」

「あっ……はい……」


やたらと重々しい音を立てて、玄関のドアが閉まる。

引っ越そう、心の底から私はそう思ったが、先立つものはない。

私の本能は逃走を訴えているが、私の理性は借金の危険性を訴える。

部屋の中にいると、隣室の死臭がこちらにまで流れてくるような気がして、

私は玄関の扉を開けて、もう一度外に出た。


「あっ、君新しく引っ越してきた人?」

左手から聞き慣れぬ声がした。

203号室の方向、見たくはないと理性が思うよりも、

私の人生経験が私の顔を声をかけられた方向に向けさせていた。


人好きのする笑顔、よく日に焼けた褐色の肌と染めた金髪。

陽気な雰囲気にアロハシャツがよく似合っていた。


「どうも、203号室の樋口です」

「あっ、どうも202号室の者です」

「死体の件で迷惑掛けちゃうかもしれないけど、まぁごめんね」


大家さんは203号室の住人が引っ越したとは言った、

だが、新しい住人が来ていないとは言っていなかった。

目の前の樋口という男は、自殺だけが残された203号室に暮らしているのだ。

それを何故、呑気に笑って過ごすことが出来るのだろうか。


「あの……何で」

芸術家が何度も作品を作り直すように、

私は頭の中で作った言葉を叩き壊しては作り直すことを繰り返した。

どうしても気になることがある。


「何で、203号室で暮らしているんですか?」

「何でって……?」

樋口はこともなげに言葉を続けた。


「家賃安いからだよ、202号室も結構安かったでしょ?事故物件でもないのに」

「……玄関に死体があるのに?」

「まぁ、そりゃ友達とか親父とかおふくろとかの死体なら嫌だけどさぁ……

 他人の死体だからね、慣れだよ慣れ」

まぁ、夏場は勘弁してほしいけどね。と樋口は笑う。


目の前の男を見て、私は理解した。

人間は慣れてしまうのだ。

大家も、救急隊員も、会ったことのない他の住人も。

結局は自分に害するわけではない、ただの死体なのだから。


それから少しの間、樋口と言葉を交わして、私はアパートを出る。

徒歩5分圏内に駅もコンビニもスーパーもあって、大学も近い。

極端に広いというわけではないが、一人暮らしには十分な広さだ。

なにより、家賃が安い。

デメリットといえば、隣で私に無関係の人間が死んでいるぐらいだ。

それだって、私の部屋の前で死んでいるわけじゃない。


私は、不動産屋に向かいながら、メリットとデメリットを考え、

不動産屋に向かうのを止め、コンビニに向かった。

今日は新しいスイーツが発売される。


家賃が安い分、こういうものを買う余裕はかなりある。

私は202号室のテーブルに新発売のスイーツをありったけ並べた。

遠い街の連続自殺事件のニュースを聞きながら、

私は引っ越すべきかをもう一度考えてみることにした。

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自殺の名所が隣にある 春海水亭 @teasugar3g

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