自殺の名所が隣にある
春海水亭
この物語はフィクションを含んでいます(前)
祖父や祖母の死体は安らかで、まるで眠っているようだったことを覚えている。
もちろん、実際の死に様がどうだったかはわからない。
今まで私が葬式に参列してきた死体達だって、実際は怨念と苦痛に満ちていたのを、
死化粧で美しい死に顔に整えてやっただけであるのかもしれない。
だから、取り繕ったわけではない生の死体を初めて見たのは、
10年前のあの日が初めてだったのかもしれない。
10年前、私は長年住んでいた妛手県を離れ袮都へと引っ越してきた。
大学に合格し、念願の一人暮らしをすることとなったのである。
2階建てアパートの202号室、つまりは2階の真ん中が私の城だ。
築20年、広くはないが、一人暮らしには十分な大きさのアパートである。
隣人の顔は知らない、引っ越しの挨拶をしろと親には言われていたし、
引っ越し用の手土産なども持たされていたが、
知らない人間に挨拶をするというのが(それも仲良くする必要はないであろう相手に)妙に気恥ずかしくて、結局挨拶はしないままだった。
初めての一人暮らしということで、不安はあったが、
家族が恋しくて精神的に不安定になるということはなく、
家事を自分一人でやらなければならないということが面倒くさいくらいで、
ご飯の代わりに買ってきた2Lアイスを食べても良いような
胡乱で気楽な生活にただただ心地よさを感じていた。
一泊二日の宿泊オリエンテーション帰りのことである。
人と話すことは得意ではなかったが、まぁ自分的にはマシだっただろう。
コンパに誘われたのだから、次で挽回しようなどと、
自分を慰めていたことをよく覚えている。
その時の衝撃が前後の物事まで巻き込んで、記憶に刻み込まれたのだろう。
赤く不気味に燃える空、やたらうるさいカラスの鳴き声、
踏切警報機が鳴らすカンカンという音に、
私が階段を上がる硬質なカンカンという音が重なったことなど、
やけに些細なことまで覚えている。
階段を上がった時、
私の部屋の隣、つまり203号室の前で、誰かが倒れているのがわかった。
正直なことを言えば、面倒くさいことになりそうだぞ、と思った。
隣人かその知り合いが、酔って部屋の前で眠っているのだろうと判断したからだ。
今にも起き出して絡まれるのではないか、と思った。
そうなる前に、そそくさと家に入ってしまおう、私はそう判断したが、
うつ伏せに倒れたその人は、ぴくりとも動かない。
自分の中の楽観的な部分が、
自分の人生でそのような厭なことが起こるわけがないと謳うのを、
自分の中の理性的な部分が、
誰にでも平等に起こることなのだ、と諭す。
私は少しだけ悩んで、倒れた人に近づいて声をかけた。
「あの……」
返事はない。声が小さかっただけなのかもしれない、私はそう祈った。
「すみません!」
少し息を大きく吸い込んで、声を出した。
高校の時に授業で出したよりも、よっぽど大きい声を。
それでも返事はなく、私はその倒れた人の肩を掴み、揺すった。
自分の中の能天気な部分は、怒られたら厭だなと思っていたが、
だが、その心配は無さそうだった。
奇妙に固く、冷たい感触。
声の一つも漏れることはなく、その人は私に揺すられるままだった。
私は折りたたみ式の携帯電話を取り出して、119を押した。
火事ですか、救急ですか、と尋ねる声に私は救急です。と返す。
妙に落ち着いて言葉を返すことが出来たのは、私が凄かったのではなく、
救急隊員の人が、私のような人間の電話を受け取ることに慣れていたからだろう。
現在地、その人の状況、尋ねられるままに私は答えていく。
そして、奇妙に安堵したような声が電話口からした。
「ああ、大丈夫ですよ」
「大丈夫なんですか」
私が見る限り、その倒れた人は死んでいるようにしか思えなかったが、
少なくともプロがそう言うのならば、大丈夫なのだろう。
「コーポ・****の203号室前ですよね」
「はい」
「その人、もう死んでますよ。間違いなく、ね。
だから、まぁ、特に何もしなくても大丈夫なんです」
「は?」
「そりゃ死体は腐ったり、虫や動物がたかったりしますけど、
今すぐにっていうわけじゃありません。
どうせ助からないなら、急ぐ必要も無いんですよ」
「えっ、あの……」
「特に死体には触らないでください、後は適当にやっておきますんで」
先程までの切迫感が嘘のように、通話が切れた。
釈然としないものを感じたし、このままでいいわけがないとも思ったが、
だからといって、119にかけ直すという気にもならなかった。
私が初めて死体を見た日のことである。
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