少女と海

新宮寺りら

少女と海

 海辺に一人の少女が立っていた。


 雪のような白い肌をした細身の少女は、無骨な黒いサングラスをかけていた。


 彼女はじっと波の音を聴いていた。大海のささやきに耳を傾けていた。

 波は大方の人にとって単調な反復であるが、少女の耳は波の単調な律動の中に、微細な揺らぎを敏感に感じ取っていた。


 その揺らぎが聴く人に語りかけていることを、少女以外は誰も知らなかった。


 少女は生来盲目であった。

 彼女の耳は目の役割を果たすべく、敏感に研ぎ澄まされてきた。

 都会の喧騒は少女の精巧な耳には耐え難く、彼女を想った両親は一家総出で海辺の小さな家に引っ越すことを決めた。

 どこへ行くにも車を一時間以上走らせるような不便な場所にありながらも、少女はこの場所をたいそう気に入っていた。


 少女は海と話すのが好きだった。海は彼女にいろんなお話をしてくれた。

 砂辺で遊ぶ子供達のお話。生きるために懸命に泳ぎ続けるお魚の話。自然と格闘する漁師さんのお話。

 生に貪欲な生き物のお話は、いつも少女に興奮と感動を与えた。


 彼女も生に真摯に向き合いたかった。生命の昂りを自身の身と心で味わって見たかった。


 この日、少女は胸の内に秘められた生への強い願望を打ち明けていた。

 海は応えた。

 花のように可憐で儚い少女よ。ならば私の中へお連れしよう。

 少女は小さく頷いた。


 暗雲が立ち込め、雨がざあざあと降り出した。

 少女を濡らす雨粒は、しずくとなって雪のように白い肌を伝った。

 穏やかだった海は、雨雲から生気を受け取って荒々しく猛り始めた。

 少女の耳には、もはや大海のささやきは聞こえなくなっていた。

 それでも少女はその場に立ち続けた。


 雨の中家に帰らない少女を心配して、母親が駆けて来た。

 母親は見た、一際大きな波が少女を飲み込むのを。

 波が引いた後に少女の姿はなかった。

 母親は娘の名前を呼びながら泣き叫んだ。


 少女は海の中にいた。

 荒れ果てた表層に似合わず、中は明るく平穏だった。

 眼を開けてご覧。海は静かに語りかけた。

 ううん、私は目が見えないのよ。少女は首をふった。

 大丈夫。まぶたをあげて見てご覧。

 眼を開けた少女は驚いた。澄み渡った青の世界がそこにはあった。

 私、目が見えるようになったの。

 そうじゃない。私が君の目になっているんだよ。

 ああ海さん。偉大なる海さん。私に美しい世界を見せてくれてありがとう。


 少女は初めて自分の雪のように白い肌を見た。

 ねえ海さん、私の肌はこんなにも美しいのね。


 ねえ海さん、聞こえているのかしら。


 明るかった海は幾分か薄暗くなっていた。

 少女は息苦しさを感じ始めた。

 ねえ海さん、酸素がないと私は死んでしまうの。


 ねえ海さん、聞こえているのかしら。


 少女の肺が空っぽになった。

 少女は懸命にもがく。

 少女の小さな身体が水の中で暴れ、少女のか細い手が水を掴もうとする。


 ねえ、海さん。私を、殺す気、かしら。


 少女の脳裏に両親の姿が浮かんだ。

 しかし次の瞬間、少女の意識は闇へと吸い込まれていった。



 少女の耳にふとすすり泣く声が聞こえた。

 少女は眼を開けた。

 この女の人は誰かしら。


 女は目を見開いた。

 良かった。無事っだったのね。

 女は少女を抱きしめてわんわん泣いた。

 その声は少女の耳に馴染んだ母親の声だった。


 ママ、私、眼が見えるようになったんだよ。

 何言ってるの、あなたの目は元々見えていたでしょう。

 えっ。じゃあ私たちはなんでここに引っ越して来たの。

 可哀想に、記憶が飛んでいるのね。それはあなたが虐められていたからでしょう。

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少女と海 新宮寺りら @schreibe

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