小説家を殺したい

新代 ゆう(にいしろ ゆう)

小説家を殺したい

「先輩、俺、小説家を殺したいです」


 放課後の人付き合いに疲れてくる時間帯、窓から橙色の光が差し込んでいる教室で、パソコンのキーボードが鳴らす無機質なカタカタ音、それから僕の低くも高くもない声が木製の床に重く滴っていた。教室の床はビスケットのような、甘い匂いがする。


「へえ。今まさに小説を書いている私の前でそれを口にするなんて、いい度胸じゃないか」


 先輩はこちらを振り返ると、橙色に照らされたまま、いつものように得意げな顔で笑った。僕は彼女と合ってしまった目を逸らしたあと、その視線のやり場がわからず、汗をかいてテーブルを水浸しにした一〇〇円のコーラから、こつこつと一秒を刻み続けるアナログ時計を経由し、結局、先輩の得意げな表情に焦点を着地させる。


「でも俺は先輩のことは好きです。先輩はバッドエンドの小説しか書かないんで」


 吹奏楽部の奏でるサックスやフルート、あとは名前の知らない楽器たちの音色が学校全体を震わせているようで、僕はなんだか気持ちが悪くなって夕焼けの空を見上げてみた。さきほどまで空を覆っていたのは羊をぎゅっと集めたような白い雲だったのに、綿あめを作るようにもくもくと成長していたそれは、いつの間にか無様に途切れ途切れの足跡を残すのみとなってしまっていた。


「それはどうも。でも言っておくと、君が好きなのは私ではなく、私の書く小説だと思うよ」


 果たして本当にそうだろうか。じっと固まって思考を巡らせている間に、視界の端にいた先輩がカタカタとパソコンを使った演奏を再開していた。吹奏楽部が奏でる音色なんかより、僕は先輩のタイピング音のほうが好きだった。


 カーテンが風を含み、ふわり、波を打ったようになる。その拍子に、窓際を陣取っていた本棚の、一番薄い数学の参考書がぱさりと地面を這った。蝉の鳴くような暑さではないものの、六月とは居心地のいい季節ではない。先輩は汗の滴るコーラを煽るように飲んだあと、ふうっと息を吐きだし、細くしなやかな指をまたパソコンに着地させた。


「俺はやっぱり、先輩が好きだと思います。だから小説家を殺したいです」


 先輩の置いたコーラ缶がちょうどよく僕のほうへ夕日を反射している。目を細めて光を遮りながら、それでも、輪郭だけになった先輩へ視線を送った。


「話が飛躍しすぎているよ。じゃあ、どうして小説家を殺したいの?」


 先輩はハッピーエンドを書くことができない。理由はわからないが、とにかく彼女から生まれる主人公は必ず不幸な結末を迎える。彼女の世界で、誰かが救われることはなかった。


「世の小説はハッピーエンドばかりです。だから俺にもハッピーエンドが訪れるんじゃないかって思っていました」


 窓の外に見える床屋で、赤、青、白が回転する名前のわからない機械が堂々と店番を務めていた。ぐるぐる、ぐるぐる。同じことを繰り返してばかりで飽きないのだろうかと思う。


「うん」


 飛行機の腹の底を響かせるような騒音と、トラックの地面を押し上げるようなエンジン音が同時に聞こえてくる。両方同じような音なら、波の山と谷がちょうど重なって打ち消し合ったりしないだろうか。そういったどうでもいい妄想が捗るくらい、僕は退屈に押しつぶされそうになっていた。


「いくら待ってみても俺にあるのは、ハッピーともバッドとも似つかないどうでもいいエンドな気がして。俺はそういうエンドでいいんです。幸せでも不幸でも」


 唐突に、この橙色の景色を赤シート越しに眺めてみたらどう見えるのだろうと思った。案外、いま見えている景色と大した違いはなくて、その結果に僕は、つまらないと絶望するのかもしれない。


「へえ」


 考えてみれば、任意の属性を同じ属性越しに眺めてみても違いが生まれるはずがなかった。ゴミ箱の底をくりぬいて覗いてもこの世界がゴミ箱のようであることは変わらないだろうし、「つまらない世界」という色眼鏡を取って眺めてみても、この世界がつまらないことには変わりないはずだ。


「でも、世間には『ハッピーエンドを迎えなければならない』っていう風潮があるじゃないですか。そういう風潮を作ってるのは世間だし、でもそういう物語を作っているのは小説家なわけで」


 青いゴミ箱に橙の光が当たれば、色相環の向かい同士、互いの性質を打ち消し合うのではないだろうか。そう思って部室の入口付近へ視線を滑らせてみたが、そこにあったのは橙色の光を受けただけの、青いポリプロピレン製ゴミ箱だった。僕はこの橙色の光に当てられすぎてしまっていた。


「ふーん。じゃあ」


 彼女はおもむろに立ち上がると、ぱたり、それまで演奏していたパソコンを閉じてしまった。上書き保存はされているのだろうか、そういう僕の心配をよそに、ぱこり、ぱこり、かかとの潰れた上履きで地面を打ちながら、先輩はゆっくりとこちらへ近づいてきた。


「なんですか」


「ハッピーエンドを書くようになったらさ、私を殺してよ、後輩くん」


 視界のまんなか、ちょうど青いポリプロピレン製ゴミ箱を覆うように先輩が僕の顔を覗き込んでいる。長い睫毛に白っぽい光が乗り、底の見えない真っ黒な瞳と相まって、彼女のいつもの得意げな表情がとても妖艶なもののように思えて仕方がなかった。僕が耐えきれずに目を逸らすと、先輩は「わはは」と馬鹿みたいな笑い声を上げ、「意気地なし」、もう一段階明るい声でそう言った。


 * * * * *


 窓にできた若干の結露を眺めているとき、ふと、半透明だと思った。水滴とか雪とかそういうかたちのあるものではなく、かといって自分がそうなっているわけでもなくて、ただ漠然と、もっと抽象的な何かが半透明になっていた。


 日没が早くなったおかげで吹奏楽部の演奏はすでに帰宅を始めていて、このやけに静まりかえった部室で聞こえるのは、先輩の奏でるタイピング音、それから電子ケトルの体内で水を沸騰させる音だけだった。しかしそのうち前者は、先輩がぱたりとパソコンを閉じたことによって幕を下ろしてしまったようだった。


「書けなくなった」


 椅子を引き、立ち上がる。先輩が経由したその動作そのものが半透明になっていた。ぱこり、ぱこり。かかとを踏み潰された上履きが地面を打ち、籠もったような水の沸騰音のほうへ近づいていく。小説のページをめくるとき、先輩の上履きが明らかに過剰な数地面を打ったことに気づいた。


「どうしたんですか」


 紙面から音を追って視線を滑らせた先、先輩はケトルの元を通り過ぎ、この部屋唯一の窓の前でようやく歩みを止めた。僕は彼女と合ってしまった目を逸らしたあと、その視線のやり場がわからず、縁に外の街灯を這わせている一〇〇円のコーラから、電池が切れたまま放置されたアナログ時計を経由し、そして再び先輩の得意げな表情を捉えることになった。


 いつの間にか部室は暗くなっていた。外の白に引きずられたせいか、まだ明るい時間帯だと思い込んでいた。いつの間にか、ケトルのスイッチは保温に切り替わっていた。教室は何かが音を吸い取っているみたいに静まりかえっていて、耳鳴りのような高い振動が僕の鼓膜を弄び始めたころ、先輩は立て付けの悪そうな窓を勢いよく開放した。


「ねえ」


 部室と外界を遮るものがなくなり、結露に当てられて輪郭を失っていた景色たちが一気に現実みたいなものを纏っていった。埃と砂で汚れた窓枠に、先輩の軽そうな身体が乗っかる。


「ここ、四階なんで。落ちたら死にますよ」


 吹雪と言うには弱く、しんしんと降っていると表現するには風が強い。そんな中途半端な雪景色の前に、完璧な笑顔を浮かべる先輩の姿があった。


「私はバッドエンドの小説が書けなくなった。だから殺してよ」


 外部を発生源とする空気の擦れる音が、二人だけの部室で膨張するみたいに反響している。輪郭を帯びた、夜、みたいなものが窓の外で順番待ちをしていた。僕は椅子から立ち上がり、先輩の元へ足を進めると、ゆっくりとスライド式の窓を引いた。それに伴い、窓枠に座っていた先輩が押しだされるようにして地面に足を着く。


 この部室から僕が追いだしてきた人々の悪意みたいなものたちが、その窓を通して何度目かもわからない侵入をまた画策しているような気がした。鍵を掛けたあと、僕は、何も言わずに先輩の頭を撫でてみた。


 艶のある黒い髪に、天使の輪みたいな光沢が載せられていた。手を動かすたび、川が流れるみたいに髪が流動する。いくらかの沈黙が続き、静寂の音がし始めたころ、先輩はおもむろに僕の手を振り払った。


「意気地なし」


 汗をかいたコーラとか、壊れてたまにしか付かないエアコンとか、先輩の前でしか使えない「俺」という一人称とか、そういうどうでもいいものが僕の青春を形成していた。そしてそれを形成するかけがえのないものたちには、他でもないバッドエンドしか書かない先輩と、そしてその人の書く小説だって含まれている。


 僕がもう一度頭に手を置くと、先輩は笑顔と悲しみがちょうど半分ずつの表情で、「私も小説家を殺したい」と言った。やっぱり半透明だった。


 * * * * *


 どこかでページのめくれる音がする。前方へ視線を送ると、風に当てられた教卓の参考書がまるで意思を持っているかのようにページを進めていった。数学の教師はそれを大して気に留めていないようで、一文を書き終わったあと、今度は別の文章を黒板に綴っていった。そのまま浮き上がってしまいそうな意識を、かろうじて繋ぎ止めている。


 黒板を埋め尽くすよくわからない数式や文章をなんとなくノートに書き写していると、唐突に、手を動かしていることが億劫になってしまった。じっと固まっている間に、容赦なく黒板の文字が消されていく。煙みたいな線を残して黒板が初期化されたとき、誰かがちいさくくしゃみをした。


 窓から入ってくる風に目の痒みが誘発され、すこし痛むようになってきた目をそれでもこすっている。春らしい心地よい風だけを感じていたいのに、そこだけを上手く切り取ることはできない。必要な部分と触れたくない部分は、決して切り離せないようになっているようだった。アナログ時計の秒針音が聞こえてきた。


 アナログ時計なんて、それが好きか嫌いかを考えたことはなかったし、利便性を追求するはずのものを別の価値で測るのはいかがなものだろうか。


「私はアナログ時計が好きなんだ。だからこの部室にはあの時計がある」声、しっとりとした音の振動が高い解像度で脳内に再生される。年度が替わると、先輩はあっさり卒業してしまった。幾晩考え抜いたような感傷的な言葉も、アルバイトの給料を貯めて買ったような贈り物も、僕と先輩の間にはひとつもなかった。


 授業が終わると未知の内臓が消失したようになって、僕はひとり、誰もいない部室で小説の文字を目で追うことにした。先輩との時間を象徴していたものたちは、少しずつ、意識しなければ気づかないスピードでその形を変化させていった。いつの間にか一〇円値上がりしたコーラも、修理されて従順になったエアコンも、木製に取り替えられた入口付近のゴミ箱も、そのどれもが先輩との思い出を語るには不十分だった。


 そのなかで唯一変わらないのは、A4の紙に出力された救われることのない物語だけだった。文字、可視化された黒い言葉たちが記号の連なりよりもっと強い役割を帯びて脳に届けられている。バッドエンドで終わる小説はやはり、僕の性に合っている気がした。


 吹奏楽部の演奏と運動部の掛け声がちょうどいい入射角で侵入してきて、あちこちの壁でバウンドを繰り返しながら、永遠に部室を彷徨っているようだった。窓を閉めようとしたとき、部室の端に立てられた古い棚で唯一埃を被っていない紙の束を見つけた。


 棚に手を伸ばし、その体勢のまま文章に目を滑らせる。どうやら先輩が書き残したらしいその小説は、これまで僕が読んだことのない作品だった。脚が棒のようになってきても、用紙の紙面が橙色に染まってきても僕は小説の文字たちから目を離すことができなかった。唐突に、意識の輪郭が広がったみたいになって、そこでようやく僕は、自分が小説を読んでいるということを思いだした。


 僕は小説を読み終わったあと、その視線のやり場がわからず、一一〇円に値上がりしたコーラから、丁寧に一秒を刻み続けるアナログ時計を経由し、そして再び先輩が残したハッピーエンドの小説に目を戻してしまった。


 * * * * *


 大学に通いながらでも、それなりに小説を書くことが可能なようだった。サイト上で「一次選考通過」の欄に自分の名前を見つけたものの、それより上、同じペンネームを確認することはできなかった。題材のせいなのか文章力によるものなのか、正確な判断を下すことはできそうになかった。


 たしかにこれまでその新人賞を受賞した作品たちはみな、希望に満ちた終わり方をしていた。なぜ、人々はハッピーエンドを望んでしまうのだろうか。小説に正解はない。その言葉が正しいのであれば、主人公が死んで終わってもいいし、絶望しながら幕を閉じても問題ないはずだった。後味が悪くてもいいはずだった。


 現実を過ごすほとんどの人間は劇的な死を迎えるわけではないし、後世に語り継がれる偉人のような肩書きを手にできるわけでもない。いままで死んだ人間のうち、希望に包まれて死んだ者などそう多くは存在しないのではないだろうか。世の中には不幸なニュースが溢れているはずだった。


 先月よりも低い角度を位置取っている太陽は、僕の影を長く間抜けな形に変換し、色褪せたアスファルトの地面に映しだしている。肌寒い風が、僕の露出された首元から熱を奪っていった。


 前からやってきた自転車と左右の譲り合いをして、違法駐車の車を膨らむように歩いて追い越し、ビルの陰に身を隠す夕日に別れを告げ、光に集まる虫を払いながら一六〇円のコーラを購入し、自宅の扉を開ける。家賃六万円の1Kはいやに冷たい空気をしていた。


 そろそろ、クローゼットの奥から上着を引っ張りだす必要があった。コーラの蓋を開ける。窓が風で揺れている。台所のゴミ袋は、冷凍食品の包装でぱんぱんに膨らんでいた。


「……あ」


 新人賞の結果が載せられたサイトの、いまにも古紙の甘い匂いが漂ってきそうな生成り色を背景とした歴代受賞者のページに、見覚えのあるペンネームと題名を見つけた。来月、書籍を出版するようだった。


 かち、かち。秒針の音がする。正面の壁で固まったまま動かない自分の影を見たとき、唐突に意識が本来あるべき場所へ戻ってきたような気がした。その瞬間僕は立ち上がり、買ってきたコーラと冷蔵庫のハイボールを混ぜ合わせる。ハイボールは冷蔵庫で留守番させた甲斐があり、あの日の部室のような冷たさをしていた。僕は携帯を取りだし、チャットアプリを起動させると、友達のリストから先輩の名前を探した。


 * * * * *


「じゃあ、乾杯」


「はい」


 居酒屋は、煙草の乾いた匂いがした。僕と先輩のちょうどまんなか、ふたりぶんのジョッキが勢いよく衝突する。誰と誰が付き合ったとか言葉にできない下品なこととか、人々はそういう無駄なことを壁で口にする。


「書籍化、おめでとうございます」


 店員のやけに間延びした「いらっしゃいませ」が、耳をつんざくような笑い声にたたき落とされている。行き場を失い、地面を転がっている。どうでもいいことに心を躍らせるためには、人生における軸みたいなものを自覚する必要があると思う。


「うん、ありがとう。で、恥ずかしい話なんだけど、後輩くん。読んでくれた?」


 近くに座っていた集団のひとりが、口を抑えながら、慌てたようにトイレへ走っていった。手に取ったジョッキを、再びコースターに着地させる。直径五センチメートルの水たまりが勢力を広げる。


「読みました。いい作品だったと思います」


 僕の言葉を聞いた先輩は、それが本心ではないことに気づいたのか、一度目を伏せたあと、「そう」、呟くように言った。お世辞をお世辞として受け取られるのは流石に居心地が悪くて、「でも」、正直な気持ちを伝えるべく言葉を追加する。「うん」、先輩が顔を上げる。


「でも、なに?」


 机に並ぶのは先輩の注文した唐揚げやポテトのような脂っこいものばかりで、僕が注文した野菜スティックや漬け物はなかなか運ばれてこなかった。ジョッキが作る水たまりはさらに範囲を広げていた。


「でも、俺は前の作品のほうが好きでした。どうしてハッピーエンドの小説ばかり書くんですか」


 僕を避けて上空を向いていた黒目がゆっくりとこちらへ移動する。先輩は一度困ったように笑ったあと、いつもの得意げな笑顔を浮かべ、それから、「うん、うん」、自分に何かを言い聞かせるみたいに頷いた。僕は彼女と合ってしまった目を逸らしたあと、その視線のやり場がわからず、コースターの上でじっと佇む生ビールのジョッキから、ちょっと高そうな先輩の腕時計を経由し、そして再び先輩の得意げな笑顔を捉えた。


「ハッピーエンドのほうが好きなんだよ、みんな」


 先輩がちいさく笑う。生ビールはもうジョッキの半分を切っていた。彼女に気づかれないよう、肺に溜まった空気たちを、ゆっくり、ゆっくりと吐きだす。次に見た彼女の笑顔には、情けなさというよりもっと肯定的な、人間らしさのようなものがたしかに貼り付いていた。


 どうでもいい話題をいくらか消費したころ、「ねえ」、先輩が、思いだした、みたいに言った。隣の馬鹿騒ぎしていた大学生らしき集団はいつの間にかいなくなっていた。喧騒の少なくなった店内に、そして換気扇のファンと、流行の曲のオルゴールリミックスが充満している。電車の音が空気を震わせている。僕の注文した三〇〇円のコーラが、水面に波を立てている。


「なんですか」


 離れた席の、どこにでもあるような黄色い蛍光灯の電球が切れかかっていた。周りを見回してみても、それに気づいているのは自分だけだったようで、なんとなく、損をした気分になった。先輩はバッグのなかから、橙色のパッケージをした煙草を取りだした。


「私を殺さなくていいの?」


 箱のなかで、白い煙草が規則正しい列を作っている。彼女が取りだした煙草は、ほのかに紅茶のような匂いがした。細くてしなやかな二本の指が、真っ白い煙草を挟み込む。先輩が火をつけると、それまで茶色をしていた煙草葉たちが一瞬で灰色に変化した。


「いや……」


 先輩と僕と繋ぎ止めているのは、あの日値上がりする前のコーラであって、壊れてたまにしか起動しないエアコンでもあって、電池切れのアナログ時計、妙なテンポ感の会話であり、それから、バッドエンドが保証された小説でもあった。


「意気地なし」


 先輩が灰皿に煙草を押し付ける。煙草が潰れて死んでいる。「トイレ」、彼女はそれだけ言うと、おもむろに立ち上がり、それから僕に背を向けた。煙草からはまだうっすらと煙が立ち昇っていた。


 ああ、そうか、僕が好きだったのは先輩ではなく、かといって、彼女の書く小説でもなかった。僕が好きだったのは、バッドエンドの小説しか書けない先輩だったのだろう。左手の薬指で輝く指輪を見てそう思った。


 先輩は、世間の望むハッピーエンドを手に入れてしまったようだった。僕は灰皿で潰れている煙草だった。自分から出た灰に溺れていた。だらだらと引きずってきた恋心ともわからない感情に溺死させられそうになっていた。


「お会計、しようか」


 上空から降ってきた声はやっぱり以前の好きだった声とは違っていて、変わったんだなと、別に悪いことではないのだろうけど、魂というよりもっと抽象的な、輪郭の部分が少しずつほどけていくようだった。


「苦しいときは煙草でも吸うといいよ」


 別れ際、先輩は僕に一本の煙草を差しだした。ふわり、彼女の煙草からはやはり紅茶の匂いがした。


「先輩、紅茶なんて好きでしたっけ」


「コーラの方が好き」


 しかし得意げに笑う先輩の手に握られているのは帰り道の自販機で購入したミルクティーで、僕はなんだかやりきれなくなり、「では、また」、逃げるように、いや実際逃げているのだろうけど、とにかく急いで彼女に背を向けた。感傷的な別れの語彙も贈り物もないまま、これ以上僕が先輩と言葉を交すことはなかった。


 先輩は何の変哲もないハッピーエンドを選んだようだった。僕と同様に迎えるはずだったハッピーでもバッドでもないエンドが、街灯の光も届かない寂れた路地裏に落っこちていた。室外機の風に当てられて、地面を転がることしかできなかった。


 コンビニで購入した一〇〇円ライターで煙草に火を灯し、一気に吸い上げる。ちっぽけなライターをいくら眺めてみても、あのときのコーラと同じ価値を見いだすことができなかった。


「げほっ……」


 煙草は紅茶の匂いがした。煙草葉は灰色になっていた。ビニール袋からライターと一緒に購入した携帯灰皿を取りだし、ぎゅっと押し込む。ふと視界に映った煙草のフィルターは、その部分だけが茶色く染まっていた。風が乾いていた。


 先輩がいつからハッピーエンドだけを書くようになったのか、わからなかった。本当は最初からバッドエンドなんて書きたくなかったのかもしれない。


 僕は、先輩をそうさせた世間が憎かった。そういう風潮を作った小説家が嫌いだった。だから僕は、小説家を殺したい。

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