第25話 全ての始まり(最終話)
野上が名古屋に立ってから数ヶ月が過ぎた。
早いものでもう三学期も終わろうとしており、時の流れは本当に早いものだと、そうしみじみ感じざるを得ない今日この頃だ。
「野上さん、元気にしてるの? 相変わらず毎日のように電話してるんでしょ」
「ああ、変わらず元気にやってるみたいだぜ。……っつうか、お前最近うちに来過ぎじゃねぇか?」
居間で当然のようにくつろぐ莉緒に首を傾げる。
マジで来過ぎだと思う。下手すりゃ二日連続なんてこともあるし。
「べ、別にいいでしょっ。家だと勉強しろしろって親がうるさいんだもの。それに野上さんにだってちゃんと連絡してるし、いいよって言ってくれてるからいいのっ」
「俺がいいよって言ってねぇだろうが。ったく、そもそもお前のことだからあいつに無理やり言わせてるだけだろ……」
苦い顔で愛想笑いしてる野上の姿が目に浮かぶようだ。
そんなぼやきなど気にする様子も見せず、莉緒はケロッと表情を変える。
「ねぇ、野上さん高校卒業まであっちにいるって? 大学はもちろん
頷いた俺に、莉緒が窺うような目で見つめてくる。
「じゃあそれまで、本気で会わないつもり?」
「まあな。遠いし」
「さらっと恰好つけちゃって。ほんとは死ぬほど会いたいくせに」
「野上が我慢してんだ。だから俺も我慢する。帰ってくるまで会わない、元々そういう約束だからな」
「ほんっと。アンタたちって信じられないくらい頑固っていうか、もはやそれ、ただの
取り付く島もないとばかりに莉緒は盛大に溜息を吐いた。
それからまた数日が経った昼休み。
相変わらず天使のように愛らしい九条から
やっぱここから見上げる空は最高だ。
何度見てもそう思うのは、きっと同じ景色のようで同じじゃないからなのかもしれない。
ただ、どこまでも続く真っ青な空に吸い込まれそうな気がして、自分の存在がちっぽけなものに感じるのはいつだって変わらない。
この空の下で野上と俺は繋がっている。
まるであいつと何か太い糸で結ばれているような、そんな感覚すら覚えるのだから不思議だ。
って、詩人でもあるまいし。
自分で思っておきながら少しだけ恥ずかしくなった。
野上と出会ってからあと一ヶ月足らずで一年か……。
俺は上体を持ち上げ、ぐいと膝を伸ばし立ち上がると、塔屋からよっと飛び降りてフェンスの方へ向かった。
あの日、野上が跨いで越えたフェンスをトンと
すると、
さっきまでとはまるで違う景色が眼前に広がった。
ぶわぁっと風が一段強く吹き、髪や制服が大きくたなびく。
俺は目を細めた。
これは……。
野上がここに立った時、俺はまさか飛び降りるんじゃねぇかと思い恐くなった。
彼女がそんな憂いを帯びたような、儚げな目をしているように映ったからだ。
だけど、この場所に自分が立ってみて初めて異なる感覚を覚える。
なるほどと思った。
ここで空を眺めると、まるで世界に自分一人しかいないような、宙に浮いているような……それに、どこへでも飛んでいけそうな気がしたからだ。
あの時、野上は空を見てた。
だから、もしかしたらあいつは飛び降りようと思ってたんじゃなくて……。
ただ、自由に、飛びたかっただけなのかもしれない。
「危ないよ」
背後から掛けられた声に肩が跳ねる。
風が強かったからだろうか、屋上扉の開く音が聞こえなかった。
人が近づいてくる気配に気づかなかった。
ただ、振り向かなくても分かる。自然と口元が緩んでしまう。
それは聞いたことのある声で。
誰よりも安心させてくれる声で、俺の大好きな声で。
そして何より今一番聞きたかった声だったからだ。
俺がちらと顔を向けると彼女は声を掛けてきた。
「飛び降りるくらいならわたしと付き合ってみない。わたし、あなたのいいところをいっぱい知ってるから。ねっ。だから、ゆっくり……こっちにおいでよ」
聞いたことのある言葉だと思ったら、いつぞや俺が言った言葉をモジっているのだろう。
微妙に違う気もするが、とはいえこいつよく覚えてたな……。
フェンス越しに立つ野上は他校のブレザーに身を包んでいた。
この数ヶ月間、ただただ電話やチャットだけを交わしてきた俺たち。
彼女の髪はまた少し伸びていて、でもサイドには俺のプレゼントしたヘアゴムが相変わらず意気揚々と居座っているようだ。
横から吹く風に彼女の長く綺麗な髪と短めのスカートがなびくなか、
「おいでよ」
そう言って差し出された白く綺麗な手。
俺はその手にそっと自分の指先を絡め、フェンスを挟む形で野上に一歩近づく。
信じられないが。
今俺の目の前には確実に野上がいて、もう一、二歩近づけば顔がひっつくくらいの距離だ。
「どうしてお前がいるんだって顔してる」
「そりゃ……そうだろ」
それ以外の顔をしてるならびっくりだ。
野上はふふと柔らかく頬を緩めた。
「会いたかった?」
風になびく髪をそっと耳に掛け、野上は悪戯っぽい目で俺を見つめてくる。
それに頬はほんのり赤く染まっているような気がした。
まあ、それはきっと俺も同じなんだろうが。
「ああ……。会いたかった」
「どれくらい?」
「どれくらいって……。うーん……すっげぇかな」
「ふふ、そっか。わたしもっ。すっげぇ会いたかった」
琥珀色の大きな瞳が嬉しそうに揺れる。
数秒間視線が交わり、その後彼女はゆっくりと目を瞑った。
今回ばかりは勘違いしようが無い。
俺は顔を近づけると、彼女の唇に自分の唇をそっと重ねる。
その柔らかな感触に触れ、俺はどんな表情をするのか見たくて一度唇を離した。
すると野上もうっすらと目を開く。
だけど、もう一度キスをせがむかのように、まだ足りないとそう言いたげにほんのり桜色の潤った唇をすぼめ、またゆっくりと目を閉じた。
その瞬間胸の奥が急激に熱くなり、何かが吹き出すような感覚を覚える。
どこにも行かせたくなくて、もう離したくなくて……。
俺は野上の肩をぐっと引き寄せ、そして、またキスをする。
止まらなかった。
幸せな感情と焼けるような思いがごちゃまぜに胸を埋め尽くした。
長い長いキスのあとまたそっと唇を離すと、とろけたような野上の表情に心臓が飛び跳ねそうになる。
俺はこいつが好きだ……。
フェンス越しに俺は野上をぐっと抱きしめた。
すると、今度は野上が胸の方から俺の両頬に手を添えゆっくりと顔を近づけてくる。
長い睫毛が揺れているのが分かる。
「
「な、急にんなこと……恥ずかし過ぎんだろ」
ぼそっと口をすぼめて零すと、野上は真剣な眼差しでもう一度「言って欲しい」とせがんだ。
視線を合わせるのすら恥ずかしくなった俺は、真っ青な空に視線を投げ「葵、好きだ」とぼそりとつぶやく。
直後、頬に添えられた彼女の手をほどき、俺は視線を合わせないままフェンスに指を掛けた。
このフェンス越しの出会いが全ての始まりだ。
俺はフェンスのバーをぐっと握り野上の側へひょいと飛び越えると、屋上扉に向かって歩き始める。
その時、屋上扉の隙間から小さく顔を覗かせている須藤と目が合った。
彼女は嬉しそうに親指をぐいぐいと突き立て顔をにやつかせている。
マジか、見られてたのかよ……。
またまた視線の行き場所を失った俺は恥ずかしさを散らすため、もう一度空を見上げた。
背後から待ってよと追いかけて来る野上。
その時、予鈴がなった。
須藤を追い払うように屋上を出た俺に続き、野上も屋上を後にする。
俺はきゃっきゃと嬉しそうに再会を果たした女子二人を先に行かせ、ガチャと閉じた扉にコトと壊れた錠前を引っ掛けた。
もうここに来ることはないかもな。
なんとなく、そんな気がした。
(5章了 1部了)
屋上で飛び降りようとする美人なクラスメイトを助けたら 若菜未来 @wakanamirai
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