第25話 そんな思いを込めて



 無理矢理に表情を作り、悲しそうに笑う野上。


 彼女が姿を消した時。

 あの日の、親父がいなくなった日の記憶がフラッシュバックする――。



「親父! 親父っっ!!」


 リング上の勝者が咆哮ほうこうを上げるそのかたわらで、俺は歓声に掻き消されながらも担架で運ばれる親父へ必死で声を掛けていた。


 親父は腕をだらりとさせたまま、焦点の定まらぬ虚ろな目で俺に何かを言おうとしているようだった。

 言葉にならぬその声は、俺には「ご、め、ん……」と、そう言っている様に聞こえた。


 プロのボクサーだった親父。

 当時三十半ばを過ぎ、ちょうど引退を決断したというところで、突然母さんの病気が見つかることになる。

 

 ステージ4の乳癌だった。

 先生曰く、入院による過酷な闘病生活を経たとしても状況改善に至る可能性は非常に低いとのこと。

 そんななか、親父は突然引退を撤回し試合を決めてきた。


 相手はまだ八回戦で、プロとしてはド新人の部類にも関わらず、試合が有料放送されるほどの注目株で。

 将来世界チャンピオンを目指すとまで言わしめるそいつと期限切れのロートルとのマッチメイクは、ただの噛ませ犬だとか、金目当ての興行だとか世間では噂されてた。


 だけど、親父がただ母さんを元気づけたい一心だったのは明白で。

 だからこそ敢えて勝つ望みの低い相手との試合を受けたのだろう。


 試合を決めた後、親父は病室で横たわる母さんに言ってた。

 絶対勝つからって。お前に勝利をプレゼントしてやるって。馬鹿みたいな笑顔で。

 

 今でもあの笑顔が焼き付いて離れない……。


 まあ結果は世間の予想通り散々なもんだ。

 一ラウンド目こそ相手が様子見したこともありなんとか凌いだものの、二ラウンド目に攻勢に出た敵の強烈な右ストレートで親父は一度目のダウンを奪われ、その後はもう見てらんないくらいだった。

 

 でも噛ませ犬なら、金目当てだったならとっとと倒れてるところを、ぼろ雑巾みたいになりながらも、親父は最後の最後まで闘志を消さなかった。


 そんななか、会場ではさっさと倒れろとかだっせーとか心無い野次も飛び交っていて。


 だけど俺は格好悪いなんて一つも思わなかった。

 それどころか、すげぇなって、こんな人みたいになりたいって真剣に思ってた。


 だから。凄かったって、格好良かったぜって、直接そう言ってやりたかったのに……。


 手術を終えた翌日、見舞いに行くと親父は病院から既に姿を消した後だった——。




 

 腕を掴み抱き締めた時、野上はぼろぼろと涙を流していた。

 やっぱ……全部嘘じゃねぇかよっ。


「なんで行っちまうんだよ。俺はまだ、何も答えてないだろ? もうなんだよ……大事な人が、何も言えねぇままどっかに行っちまうのは……」


 腕の中の野上に俺は訴えかける。


「なにがチャラだよ。全然チャラなんかじゃねぇよっ。こんなに好きにさせといて勝手なこと言うなよ!」


 俺の言葉に、野上はひくひくと必死で涙をこらえながらもなんとか声を絞り出そうとする。


「でも……いつ戻って来れるか分からないんだよ?」


「んなこと分かってるよ」


「分かってないよっ。名古屋は、そんな簡単に会えるような距離じゃないの!」


「だから分かってるって! 全部分かってて言ってんだよ。お前、この前言ったよな? 生田君はいつもわたしの期待を裏切るって。だからもう疑うのに疲れたって」


 野上は何も答えない。


「俺はお前のことが好きなんだ。お前なんかが思ってる以上に、何倍も、何十倍も好きなんだ!」


 俺は心のまま、必死で彼女に伝えようとする。


「会えない間に俺にいい人が現れたら自分が邪魔になるだとか、多分そんなつまんねぇ想像してんだろうけど……もうそんなレベルじゃねぇんだよ。だから分かってないのはお前のほうだ。今度もまた絶対に裏切るからっ。とことんまで裏切るから。お前のことが好きで仕方ない俺を信じてくれよ。な?」


「うぅ、うっ」


 涙を必死に堪えようとしていた野上だったが、またボロボロと泣き始めてしまう。


 そんな彼女を俺はぎゅっと強く抱き締めた。


 もう離したくないと、そんな思いを込めて。


 未来のことなんてどうだっていい。そんなこと考えてたらキリがない。


 俺はもう大事な人を失わない。


 絶対に。





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