第39話 シンデモイイ

 それはとてもとても甘美な誘惑だった。


 私の中にある本心ですら、受け入れたいと叫んでいる。


 でも、ダメだ。


 私は水内を助けると誓った。


 私は彼に助けてもらった。


 その恩を返さず、自分の感情に流され欲望に負けてしまっては、私が嫌っていた連中と同じになってしまう。


 私が死にたいと思うきっかけになった、その理由を他人に押し付けてしまう。


 それだけはダメだ。


 今まで私という存在を形作って来たものが、それを決して認めない。


「わたしは……」


 臓物の大地からいく本もの手が突き出てきて、私の腕を、首を、体を掴む。


 未練がましく一緒になろうと誘いながら、私を沈めようとしてくる。


「邪魔するなっ」


 それを振り払い、薙ぎ払って、私は腕を伸ばす。


 前に。


 ただ前に。


 がむしゃらに前へと進むために。


 はらわたの海をかき分け、誰かの骨を掴んでてがかりにし、這いつくばってでも前へと進む。


 そうしてようやく、左手がなにかに触れた。


 柔らかくけれど中になにか硬い物が入っていて、かつ小さくて熱い。


 真っ赤に染まった世界の中、感触だけを頼りにそれを握りしめる。


 間違いなく私が目指していたミリ・ニグリ――翔の体の一部だと悟った私は、それを力づくで引き寄せた。


 途端、あれほど続いていた呪文のごとき礼賛が止み、嘘のように体が軽くなる。


「翔くん――」


 私の腕が振り回され、シィィッという蛇の威嚇音にも似た音がすぐそばで響く。


 もはや痛まないところが存在しなかったけれど、さらなる痛みが二の腕や胸元に生まれた。


 しかしそれを無視し、ずっと右手で握りしめていた猟銃を逆手に握り変える。


「――ごめんね」


 感触からだいたい胴体と思しき位置に検討をつけ、思いきり銃の先を突き立てる。


 狙いは予想通りに当たり、なにかが折れて陥没するような感触と共に、ぼぎっという、布に包まれた割りばしが折れたような物音が聞こえてきた。


「あなたの存在は悪くないから」


 望まれて生まれたとは言い難い。


 豊田の態度や蔵に閉じ込められていた扱いから察するに、生きていることすら嫌悪されていた可能性すらある。


 それでも奈緒だけは大切に想っていたはずだ。


 愛していたはずだ。


「さよなら」


 私は銃にすがって立ち上がると、暴れまわる銃身を左手でしっかりと保持し、銃把を脇に抱え込んで――、


「カァァァッ!!」


 弾丸を叩きこんだ。


「――――っ」


 びちゃりと水しぶきが顔面にかかり、ツンとした火薬のにおいが鼻をつく。


 もう、銃が暴れることも、激しい呼気で威嚇されることも、思念によって苛まれることもない。


 見えてはいないが、確信を覚える。


 私はたった今、翔を、奈緒の息子を、憐れな化け物を一匹殺したのだ。


「あとで、お母さんと一緒にしてあげる」


 せめてとばかりに慰めの約束を口にして、猟銃から手を離す。


 服の袖で、猫のように顔をゴシゴシこすって血を拭い取ってから目を開く。


 死にまみれた、見たくもない地下室であることは変わっていなかったが――


「水内さんっ!」


 石像の姿はまるで煙のように失せ、代わりに水内が魔法陣の中心で横たわっていた。


「水内さんっ。水内さんっ」


 私は何度も大事な人の名前を繰り返し呟きつつ、傍へと駆け寄った。


 首筋に手を当てて脈を探り、口元に頬を近づけて呼吸を確認する。


「はぁっ……よかった……」


 思わず安堵の吐息と共に胸を撫でおろす。


 どちらも弱々しかったものの、確かに存在している。


 水内はまだここに、私の傍に居てくれた。


「本当に、よかった……」


 水内の大きくて厚い胸板に耳を押し付け、鼓動の音を再度確認する。


 ドクン、ドクンと確かに生きている証拠を耳にして、無性に嬉しかった。


 そのまましばらく聞いていたかったけれど、こんな陰気で冒涜的かつ臭くて不衛生な場所に水内を寝かせておくのも忍びない。


 私は胸元に顔をこすりつけ、お前のせいだなんて思いながらにじみ出てしまった涙を拭った。


 水内の体に命に関わるほどの傷が無いことを確認してから一旦体を離す。


 石像が啜っていた血の出どころは、肩口から胸にかけて大きく引っ掻かれた傷から滴ったもので、今はもう傷口が固まって出血は止まっていた。


「よしっ」


 軽く肩を回して筋肉をほぐし、気合を入れなおしてから水内の両脇に腕を回す。


「……大きい、重い」


 なにを食べたらこんなに育つんだってくらい、水内の体は重くてゴツゴツしていた。


 ただ、やるべきことは決まっているため、私は「んんっ」と声をあげてふんばり、水内の体を引きずっていく。


 途中の階段では何度も諦めたくなったが、持ち前の意地でもって何とか外にまで運ぶことが出来た。


「っっぷぅっ」


 完全に光の中へと水内の体を引きずり出した時には、私はもう息も絶え絶えといった感じだった。


 というか、もういい加減体力の限界に近づいていた。


 指一本動かしたくない。


 このままあったかいお布団に入って眠ってしまいたかった。


 ……まあ、そんな訳にもいかないのだけど。


 でも……。


「終わったぁ!!」


 もう終わりだ。


 終わってもいいと、私の勘が告げている。


 あの石像が消えた――いや、去ったこともそう判断した理由のひとつだった。


 これは私の想像だが、おそらく儀式とやらは終わってしまったのだろう。


 本当はもっと準備をして、大人数でもっともっとおぞましい儀式をすることになっていたはずだ。


 しかし、私たちが逃げ出して事態をひっかき回した上、儀式を主導するべき立場の人間が死んでしまった。


 更にはミリ・ニグリの子どもが不用意に蔵へと立ち入った水内を生け贄にして、勝手に儀式を始めてしまった。


 結果、うまく行くはずもなく、私は無事……とは言い難いが、水内と共に生還できたというわけだ。


「……ありがとね」


 私はお腹の上に乗っている水内の顔を、首を曲げて無理やり覗き込む。


 ……なんだか平和な顔ですやすや寝こけているのがムカついてきたので、頬を軽くつまんでみる。


 多分、今の水内は体力の消耗から眠っているだけのはずだ。なんて考えていると、


「……んぁっ」


 なんて、寝ていたところを見つかって先生に叱られた学生みたいな吐息を漏らしながら、水内が目を覚ます。


 きょろきょろと左右を見回し、私と目が合った後、そのまましばらく見つめ合う。


「す、すまないっ」


 ようやく水内が私によりかかって変な体勢になっている現状を理解したのだろう。


 素早く身を翻して立ち上がると、勢いよく頭を下げる。


 これだけ元気ならば、恐らく水内が死んでしまう様なことにはならないだろう。


「いーよ……はぁ~」


 私は疲労感に身を委ね、そのまま地面に寝転がって青空に目を向ける。


 空には雲一つなく晴れ渡っており、憎たらしいくらいにいい天気だ。


 こんな状況でなければ昼寝をしたいくらいだった。


「ねえ、水内さん」


「な、なんだ? というか何か具合が悪いのか? 大丈夫か?」


「いくつも聞きすぎ」


「す、すまない」


 別に怒ったわけではないのに、水内はおろおろと私の様子をうかがい始める。


 それが何となく可愛らしく見えて、私はちょっとだけ笑ってしまった。


「ん~ん。それで話の続きなんだけどね」


「あ、あぁ」


「あなたと一緒になら死んでもいいわ、って言ったらどうする?」


 これは別に私が自殺をしたいとかそういう意味では無い。


 その昔、私はあなたのものよ、という小説の一節を、ちょっとばかり重すぎる感じに翻訳したものだ。


 つまるところ私は、水内が私をどう思っているのか少し探ってみたかっただけだった。


 なのに水内は大真面目な顔をして、


「絶対に止める。どんなことがあっても俺が守るよ」


 なんて言ってくれるものだから、思わず吹き出してしまった。


 そんな私を水内は罰が悪そうに見ているのがまた笑いを誘う。


 私はお腹を抱えて笑い、目じりに浮かんだ涙を指先で拭うしかなかった。


「ねえ、水内さん。さっきの言葉の意味はね……」


 さて、言葉に込められた意味を知った彼は、いったいどんな反応をみせてくれるだろう。

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廃村に拉致され、殺人鬼から求婚されたので盛大に振ってやろうと思います。絶対にお断り、クソ野郎 駆威命『かけい みこと』(元・駆逐ライフ @helpme

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