第38話 メノマエニ
――いあーいあー、ちゃうぐなる、ふぁうぐん。
――いあーいあー、ちゃうぐなる、ふぁうぐん。
音にしたらそんな感じだろうか。
人間には恐らく発声しきれない。
いや、そもそも何を意味するのかすら理解できない。
せいぜい、歓喜に満ちていることが察せられるくらいか。
そんな謎めいた
音ではない。
文字でもない。
思念の波とでも形容するべきものが、私の頭の中に無理やり侵入し、踏み荒らし、汚染していった。
「う……ぐ、うぇぇぇっ」
許容限界を越えて流れ込んでくる言葉の洪水を前にして、私はされるがままに
もはや我慢することすら叶わず、私は思わずその場にうずくまって
ただ、幸いなことにというべきだろうか、胃の中にはなにも無かったため、せりあがって来たわずかばかりの胃液が喉を焼くにとどまった。
「こ、このっ」
私は怒りを燃料にして、その
口元を拭い、猟銃を握りしめ、片手をで体を支え、まっすぐ正面を向く。
正視に堪えない光景だったとしても瞳に入れ、耐えがたい悪臭にまみれた大気だったとしても肺腑の奥にまで吸い込み、正気を削る礼賛の波を受けても歯を食いしばる。
そう、私は
「水内さん、絶対助けるから」
私の決意が地下に作られた、一辺が10メートルほどの儀式場の中を
「絶対に!」
儀式場の中心には、直径3メートルほどの魔法陣としか見えない代物が、血と思しきもので描かれている。
魔法陣の周りには、石造りの土台が8つ、等間隔に置かれ、そのうちのいくつかには生け贄と思しき動物の生首や臓物が置かれていた。
そしてそれらの中心には、私が山小屋で一瞬だけ目撃したあの冒涜的な石像が奉じられていた。
いや、同じとは言い難い。
体が太った人間の形をしているのも、頭部が象の形をしているのも、鼻の先がヒルの口のような形をしているのも変わらない。
しかし、体勢が変わっていたのだ。
動くことのない石像であるはずなのに。
石像は諸手を天に向けて水内の胴体を掴み、ろうと状の鼻先を水内の頭部の下で受け皿にして、
「水内さんを放せぇっ!」
私は激情のままに石像へと向かって走り出し――
――ふんむぐるい、むぐるぅなふ、ちゃうぐなる、ふぁうぐん…………
「ぐうぅぅっ!!」
更に大きくなった礼賛の思念に、頭を押さえてうずくまる。
頭蓋骨の中、脳そのものに空気を無理やり流し込まれ、破裂しそうになっている感覚だ。
これ以上続けられたら、間違いなく私は死ぬ。
確信を得た私は、霞む視界の中、その根源を探し――。
「おま、えかっ」
私の視線の先には、両手を上げては額を地面にこすりつけて平伏するという、宗教家がするような動作で
間違いない、本能で分かる。
この化け物がこの異常な状況を作り上げているのだ。
「ごめん――」
私は片膝を立て、猟銃しっかりと構えて射撃体勢に入る。
片目を閉じて、照門の凹んだ部分と照星の凸部分を重ね合わせ、ミリ・ニグリの背中へしっかりと狙いを定めた。
「――奈緒さんっ」
私は懺悔の言葉を口にしつつ、引き金を絞る。
火薬の乾いた音が響き、そんな気の抜けた音から生じているとは思えないほどの衝撃がわきの上あたりを蹴り飛ばす。
「つぅっ」
思わず苦悶の声が漏れ、閉じていない方の瞳から涙がにじむ。
それを袖でしっかり拭うと、ミリ・ニグリの姿を確認する。
弾は化け物の右肩辺りを貫通したようで、その辺りに黒々とした影のようなものが見えた。
しかし――。
――ふんむぐるい、むぐるぅなふ、ちゃうぐなる、ふぁうぐん、うがふなぐる、ふたぐん。ふんむぐるい、むぐるぅなふ、ちゃうぐなる……。
死を前にしてもその狂信は止まないらしい。
それどころか更に礼賛が強くなる。
もはやその思念は、脳に直接手を突っ込まれ、ぐちゃぐちゃとかき混ぜられているのかと思うほどにまで強まっていた。
口の中に、なにか塩辛い味が広がる。
魔圧によって鼻の毛細血管が破裂して、血が噴出したのだ。
それだけではない。
眼球の血管も損傷したのか、視界の一部が赤く染まっていった。
「この……ぉっ」
もう、自分のことなど知ったことではない。
化け物の信仰心と私の意地とのチキンレースだ。
ミリ・ニグリを殺せれば私の勝ち。
私が倒れてしまえばミリ・ニグリの勝ち。
たったそれだけ。
大丈夫。
ヤツはたった3メートルほど前方にいるだけだ。
たった4歩進んで引き金を引けば終わり。
たったの4歩!
「はぁっ……はぁっ」
口を大きくあけて喘ぎ、酸素を体の隅々にまで行き渡らせると、まず右足をあげて一歩目を踏み出した。
なんでもない、いつも通りの所作。
二歩目。
足を地面についた瞬間、ぐらりと天地が傾く。
違う。
私が揺らいだのだ。
苦しい。
あれほど呼吸をしたはずなのに、体が酸素を欲している。
でも、出来ない。
まるで陸に上げられた魚のように、深海に突き落とされたかのように息ができなかった。
三歩目にして膝がカクリと抜け落ちる。
力がどこからも湧いてこない。
気づけば気管に私の流した血液が充満し、自分自身の血で溺れてしまっていた。
後から後からあふれ出る血を吐き捨てながら、猟銃の銃口を地面に突き刺し、抱き着いて必死に体を支える。
しかし、一度崩れ落ちた体は私の命令に従わなかった。
全身から力が抜け、ズルズルと崩れ落ちていく。
もう、立っていることも叶わない。
私の顔面を、腐ってぐずぐずになった腐肉の塊が受け止める。
左手には干からびたクソの塊が、腹部辺りには朽ちた臓物の一部か。
今更ながらに気付いたが、どうやらこの部屋の地面は、今まで儀式で捧げられた供物の残骸で塗り固められていた。
頭の中に直接声が聞こえてくる。
もう諦めろと。
十分に頑張ったと。
私たちと同じ姿になってしまえ。
この部屋の一部になってしまえ。
そうすれば楽になれる。
苦しまなくていい。
正気を失って、どんな物事に対しても痛みすら感じない、何もかもがあやふやな世界になってしまえば、それこそ至上の幸福なのだ、と。
「ああ、それは、楽だよ、ねぇ……」
それはなんて甘い誘惑なのだろう。
もう上司から嫌味を言われることもない。
同僚から陰口を叩かれることもない。
人の汚い所を見る必要もない。
悪意のナイフで心を切り刻まれながら、人生といういばらの道をはだしで歩き、死に向かって進まなくてもいいのだ。
同じ不幸にあった、同じ境遇の人と共にまどろみの中で揺蕩い、傷口をなめ合って朽ちていく。
楽だ。
私もそれを望んでいたはずだ。
願いが叶った。
これで死ねる。
辛くない。
これこそ本当の意味で私にとって救いだ。
私は救われる!
「よう、やく……終われる……」
私は目の前にまで迫った死を……。
「わけないっ!」
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