第37話 イセカイ
銃の反動で肩が痛い。
私はだらんと腕を垂らし、そのせいで落ちかかった猟銃に指先だけを引っかけて保持する。
「…………」
人を殺した感覚は、あまりにも薄かった。
罪悪感だとか、後悔の類はまったく湧いてこない。
豊田がそれだけ最低な存在だったからというのもあるが、既に半死半生だったのも大きいだろう。
殺したというよりは引導を渡したという感覚だった。
「水内さん……」
豊田のことを頭から追い出し、気持ちを切り替える。
私にはまだ、やらなきゃいけないことがあるのだ。
「助けに、行かなきゃ」
そうやって呟くことで私は私の目的を自分に教え込む。
余分なことは、考えたくなかった。
人を襲って食らう化け物を助けに行って、帰ってこない理由なんて絶対に思いつきもしなかった。
「…………」
私は猟銃を持ち直すと、熱の残る銃身に手を添えて目をつぶる。
これを使ってどうするべきか。
――いや、迷うことなど無い。
どんなものでも指一本で蹂躙してしまう暴力装置が出来ることはひとつだけ。
なにかの命を奪うこと、だ。
奈緒の息子である翔――ミリ・ニグリ、つまりは化け物の命と水内の命。
天秤にかければどちらが大切かは比べるまでもなかった。
「ごめんなさい、奈緒さん。約束はちょっと守れそうにないよ」
もし私に子どもが居たとして、その子が化け物の姿を取り、習性として人間を殺して食うなんてことをやっていたとしたら、私は必ずその子を殺すだろう。
不幸になると分かっている命に、責任を持つのも親の務めなはずだ。
だから、私は水内を守るために、
……なんて、ただの自分勝手な言い訳でしかないのだけれど。
「よし、行こう」
そうして私は決意を胸に歩き出した。
家の傍に建てられた蔵は、一階建てで一辺が5メートルくらいの大きさで、壁面には漆喰が塗られ、屋根はえんじ色をしたプラスチック製の瓦が敷き詰められている。
扉は白く染め上げられているが、分厚い鋼鉄で出来ており、牢屋につけてあったのと同じような南京錠が取り付けられていた。
ただ、錠前は水内が開けたのか、扉の片方に軽く引っかけられていた。
「……」
猟銃を握る手が汗ばんでいて気持ちが悪い。
緊張からぐびりと喉が鳴る。
目の前の扉を開けた瞬間から、私の命の補償は無くなってしまう。
ここで180度反転して、たったひとりで車に乗って逃げるなんて選択肢もあるにはあるが、私はそれを選ぶつもりは無い。
私は意を決して扉に手をかけ……力を入れて開いた。
ギィィッという、鉄と鉄が嚙み合って軋む音が不気味に響く。
まるで扉そのものが意思を持ち、私を捕食する歓喜の雄たけびでもあげたかのような気がしてしまい、背筋に冷たいものが走る。
更にはなにやら異臭が漂ってきて、鼻が曲がりそうだった。
「……水内さん」
扉から土足で侵入した日の光が、入り口からわずか1メートルくらいのところで力尽きる。
その先にある全てを黒色で塗りつぶしたかのような暗闇は、私の声すらをも飲み込む怪物の口のようであった。
銃身を左手でしっかりと握り、ストックを腕の付け根に当てて、暗闇へと銃口を向ける。
「水内さん、居るんでしょ?」
しかし何の物音も返っては来ない。
本当に水内がここに居るのか、豊田に騙されたのかと懐疑的に思えて来た。
私は一旦後ろに下がって扉の両方を開き、それぞれを閉じない様に石で押さえる。
入り口の壁に電灯のスイッチでもないかと探したのだが見つからなかったため、スマートフォンのライトを点灯させて胸のポケットに刺した。
頼りない光が剥き出しの地面を少しだけ照らす。
十分とは言い難い光量だったが、無いよりはマシだった。
「……よし」
頷き、己を叱咤すると、私は一歩、闇に向かって踏み出した。
襲われる方向を少しでも減らすため、なるべく壁を背にして左回りで水内の姿を探し求める。
地面は凹凸が激しく、ちょっと見た限りでは何も見当たらない。
「み、水内さん……!」
恐る恐る声を出してみるが、やはり返答はない。
そのまま一歩一歩進んでいくと、やがて壁に沿うようにして横たわっている、黒い影が光の輪の中に入った。
間違いなく、人間だ。
だが水内ではない。
女性、しかも見覚えのあるスーツを着ており、同じく見覚えのあるメガネをかけていた。
「黒瀬……さん……」
黒瀬は牢の中でミリ・ニグリに襲われて息絶えた。
だというのに黒瀬の遺体がここに在るということは、誰かが持ち込んだということだ。
それが誰かは分からないが、なぜ持ってこられたのかは分かる。
「……酷い……」
翔の、ミリ・ニグリの好物は肝であったか。
黒瀬の腹部は無惨にも喰い破られ、はらわたを引きずり出されている。
生物として獲物の捕食は自然の摂理ではあるが、それでも嫌悪感を抱かずにはおれなかった。
ただ、私は水内でなかったことを安堵していた。
黒瀬が食われていたということは、それだけミリ・ニグリの腹は膨れているはず。
となれば、水内が食われていない可能性は高い。
生きている公算は大きいはずだ。
この場に水内の遺体がないことからもそれは言えるはずだ。
「全部終わったら、蔵ごと燃やしてあげるから」
虚空を見つめる黒瀬の濁った瞳を前にそう誓うと、光の輪を黒瀬から外した。
黒瀬の遺体はちょうど蔵の角に安置されていたため、右に折れて捜索を再開する。
そして、反対側の角に、地下への階段を発見した。
扉を開けた瞬間に感じた異臭を、更に濃密にした臭気が吹き上がってくる。
もはや、物理的な圧力すら錯覚しそうなほど酷い悪臭を前に、目に涙すら滲んでしまう。
「はぁっ……はぁっ」
息を吸うことが辛い。
喉が腐り落ち、肺腑の奥底に汚泥が溜まっていくような感覚すらある。
この奥へと進むことは、思わず二の足を踏んでしまうほどのものであったが、選択の余地はない。
私は水内のことを見捨てるつもりはこれっぽっちもなかった。
意を決して地下への階段に足をかける。
その瞬間、私の体を電気のようなものが走り抜けた。
「あ……」
本能的に理解する。
ここから先は、絶対に入ってはいけない場所だと。
今までの常識が通じない、正しく人間の住むべき世界ではないのだと。
間違いなく、この先にある場所が、豊田の言っていた儀式の行われる場所なのだと。
怖い。
そう心が泣き叫ぶ。
逃げよう。
そう本能が囁く。
逃げたい。
そう理性が呟く。
感情でも、体でも、頭でも。
私を構成する因子の全てがこの先に在るものを拒絶する。
死すらぬるい地獄がこの先に在ると、私は確信していた。
――それでも私は、また一段、階段を降りる。
コンクリートの階段を踏みしめ、ゆっくりと、確実に、一歩一歩、異世界へと向かっていく。
だって決めたから。
もう失いたくないと、誓ったから。
そうして私は全部で13段存在した階段を降りきり、地下の世界へと辿り着いたのだった。
「なに、これ……」
私はこの時ほど後悔を覚えたことはなかった。
気が狂いそうになるほどの恐怖が頭の中をぐるぐると渦巻いていく。
冒涜的で、退廃的。
この世全ての悪逆を集め、この空間に凝縮させたらこうなるだろうか。
もはや視覚情報だけで脳が汚染される気がして胃の中のものを全てぶちまけたい気分になった。
そのぐらいここは――。
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