虹色の瞳

七乃はふと

第1話

 全ての生き物が寝静まった夜。

 私は幸せだった頃を思い出す。


 夫とは働いていたエステで知り合い、

 赤色好きの一人息子を授かりました。

 夫が大学病院の院長だったこともあり、金銭的に不自由することもなく息子を育てながら、夢だった絵本作家の道を歩んでいました。

 その日は特に綺麗な虹が出ていた事を覚えています。

 夕飯の材料を買いに買い物に出ると、いつも歩き慣れているはずの道なのに、どこか雰囲気が違って見えました。

 遠くから消防車や救急車のサイレンが聞こえるから?

 それとも、複数のサイレンで騒々しいのに、自分の歩く道に誰一人いないから?

 早く買い物を済ませようと歩き出すと、目の前から息子と同じ歳くらいの女の子が手首を抑えて飛び出してました。

 その場でしゃがみ込む女の子を無視することもできず、

 声をかけると、「いたい、いたい」とか細い声で訴えます。

 抑えている手首をよく見ると、指の隙間から止めどなく血が垂れて、道路に染みを作ります。

 私は買い物を中断し、すぐに夫のいる大学病院へ駆け込みました。

 ずっと顔を伏せていた女の子の肌が、時間が経つにつれて青白くなっていました。

 病院に着くと義姉である看護部長に出迎えられ、夫が女の子の傷口を診てくれました。

 付き添った私は異様な傷口を目にしてしまいました。

 傷を抑えていた手を退けると、皮膚のみならず肉が無惨に引きちぎられています。

 まるで上顎と下顎で挟まれ、歯で食いちぎられたような醜い傷。

 沢山の患者を見てきたはずの夫の表情が困惑の色に染まったのが分かりました。

 突然、院内がにわかに慌ただしくなりました。

 ロビーのテレビに皆釘付けになっています。

 ニュースキャスターが落ち着かない口調で同じ報道を繰り返しています。

 白昼堂々人が人に襲いかかっている、と

 襲われた人はまるでハイエナに囚われた獲物のように至る所を噛みつかれていました。

 私は居ても立っても居られなくて、夫の制止を無視して家にいる息子のところへ向かいました。

 幸い息子は無事で、お気に入りのヒーローの人形で遊んでいました。

 慌ただしく入ってきた私に驚いたようですが、事情を説明することよりも、夫の所に行く事を優先しました。

 病院に着くと爆竹が鳴り響くようなパニックに陥っていました。

 入院患者は外にいる家族が気がかりで外に出ようとし、噛まれたと言って首や手首を抑えた人達、そして両方の対応に追われる看護師達でロビーはすし詰め状態になっていました。

 私は息子の手を引いて人を掻き分け、夫と合流します。

 安心するのも束の間、ロビーで黒板を引っ掻くような悲鳴が起きました。

 全員の視線がそこに集中します。

 首を噛まれたと訴えていた患者が義姉の首筋に噛みついたのです。

 それが合図だったかのように、噛まれた人達が次々に豹変し、顎が外れんばかりに大きな口を開けて義姉に殺到します。

 私は夫に手を引かれ、息子と一緒に病院の上階にある部屋に逃げ込みました。

 部屋の扉を塞いだときには、一緒にいたのは私と夫と息子、そして患者と看護師が数人。

 避難した部屋は二階で、廊下には豹変した人達が私達を探すかのように廊下を彷徨っています。

 窓から下に降りようとしても、外も人である事をやめた人達が獲物を求めるように左右に首を巡らせています。

 私は思わず息を呑むような光景を見てしまいました。

 噛まれた看護部長が何かを求めるように手を伸ばして徘徊していたのです。

 窓を見ていなかった夫に、この事は言えませんでした。

 一緒に避難した人達はここに閉じこもるか、脱出するか議論していましたが、私には口論しているようにしか聞こえませんでした。

 部屋の人達の恐怖が伝染しないように、私は息子の不安を少しでも紛らわせようと話をしていました。

「見て空に虹が出てるわ。虹色の覚え方知ってる?」

「知らない」

「おばあちゃんから教わった簡単な方法を教えてあげる。あかとうおうりょくせいらんって言ってみて」

「あか、とう、おう……えっと」

「あか、とう、おう、りょく、せい、らん、し」

 大人達のパニックが息子に感染らないように、二人で虹の色を何度も何度も口に出し続けました。

「あか、とう、おう、りょく、せい、らん、し……言えた! 全部言えたよお母さん!」

「うん。よくできたわね」

 息子が虹の七色を覚えたとき、廊下の方が騒がしくなります。

 複数の足音と人の口から発せられたとは思えない唸り声。そして鼓膜が破れてしまいそうな銃声。

 現れたのは迷彩服を着て銃を持った自衛隊員。

 私はこれで助かったと安堵したのも束の間、ベッドの下から出てきたその子と目があってしまいました。

 私が病院に連れてきた女の子は虹のような瞳で私の首筋あたりに視線を注いできます。

 こちらが動く前に女の子が猟犬のように飛びかかってきて、首に噛み付いてきました。

 歯が皮膚を食い破ったのを感じたのに、不思議と痛みはありませんでした。

 でも、何かが体内に入り込んできたのだけははっきりと分かりました。

 息子が女の子を突き飛ばし、自衛隊員の一人が変わり果てた女の子に向けて引き金を引きます。

 次に私に銃口を向けたところで夫が間に入り込み、私は九死に一生を得ました。

「父さんやめて、お母さんを連れて行っちゃ嫌だ! お母さん、僕が助けるから、絶対助けるからね!」

 私は噛まれたのに症状が出ない特異な症例として、夫と二人きりで絶海の孤島にある研究所に隔離されました。


 夜明けと同時に夫が部屋に入ってきた。それは生き地獄の始まりを意味する。 

「検査を始める」

 長い間洗っていないせいで変色した白衣を着た夫は、私を検査室と呼ばれる四方と床天井をコンクリートに囲まれた窓のない部屋に連れていく。

 中央には手術台、側の器械台には、赤黒く汚れたペンチに小指ほどの太さの針や、頭が入りそうな大きさのガラス瓶が雑多に置かれている。

 夫は太く硬いバンドで私を拘束すると、

「今日は内臓の検査を行う」

 手に持ったメスでおもむろに私の胸からお腹にかけて線を引く。

 私の身体に赤いクレバスが出来上がった。

 夫は素手のままクレバスの縁を両手で掴み力任せに広げる。

 腹圧で内臓がはみ出し、一層亀裂が拡がった。

 私が見ている中、夫は左手で臓器を持ち上げ、右手のメスで器用に切り取っていく。

 カブトムシの幼虫のような大腸、

 繋がったソーセージのような小腸、

 胃が切り離されたときに胃液が漏れたのか、内側に焼けたような痛みが走る。

 子供用の枕ほどの大きさの肝臓が取り出され、次に出てきた膵臓は何回見てものよう。

 残りの臓器も取り出され、液体入りの瓶の中に入れられる。

 夫は瓶詰め作業を終えると、開きっぱなしの身体の内側を顔がくっつくほど覗き込む。

 見つめられている私の身体では、今切り取られた臓器達が再生している。

 その様子を最後まで飽きずに見つめていた。


 隔離された直後の夫はまだ人の心を持っていた。

 黒い髪と顎髭を綺麗に整えて身だしなみにも気を使い、感染した私の事も気遣ってくれた。

 しかし一ヶ月何の成果もあげられず、更に外界との連絡も取れなくなったことがきっかけとなり、夫は夫の皮を被った何かになってしまった。

 最初に異変を感じたのは、検査室でいきなり私の足の爪を剥がした事だ。

 私が何を言っても聞かず、遂には両手両足の爪を剥がされてしまった。

 その傷口がものの数秒で塞がり、新しい爪が生えてくるところを目視した夫の残虐性は、日に日にエスカレートしていく。

 次の日は両手両足の指をペンチでちぎり落とされ、

 その次の日は両腕と両足をノコギリで切断されて芋虫のような姿にされてしまう。

 切断された断面から数時間で新しい手足が生えてくる様に、夫の狂気は加速していく。

 ある日は全身の皮膚を剥がされ、

 ある日は両方の乳房を切り落とされて子宮を摘出され、

 ある日は頭を二つに割られ、脳を取り出されてしまった。

 それでも私は生きていたので、自分の頭から出てきた脳幹と繋がった脳はまるで映画に出てくる宇宙人みたいだった。

 脳が摘出されても私はすぐに再生し、更に記憶も欠落することはなかった。

 夫は検査するというよりも、幾ら乱暴に扱っても壊れないおもちゃを手に入れた子供のような顔をして検査を続ける。

 仕留められた鹿のように皮を剥がされた。

 硫酸をかけられ、全身が骨まで溶けた。

 ガソリンをかけられて火をつけられた事もあった。

 炭化した皮膚を押し破るように現れた綺麗な皮膚を見て夫は狂ったように笑う。

 その様子を見ていた私と目が合うと、

 瞳の検査もしなければ、と言って片目を躊躇することなく引き抜く。

 無事な方の瞳と引き抜かれた瞳が見つめ合う。

 その目は虹のような光彩を放っていた。


 そんな日々がどれくらい続いたのか分からない。

 また今日も朝を迎えた。

 空には綺麗な虹が橋をかけている。

 あの橋を使ってここから逃げられたらいいのに。

あかとうおうりょくせいらん

 あの子に虹の色の覚え方を教えた時を思い出す事が唯一の癒しだった。

 あの子に会いたい。

 そんな考えは扉が開いた音で中断させられる。

 白髪に蓬髪の夫が、入り口に立ったまま動かない。

 よく見ると小刻みに震えていた。

「たひゅ――」

 何かを言い合える前に顔が内側から膨れるように破裂する。

 血と頭蓋骨の欠片と脳漿を撒き散らしながら夫がうつ伏せに倒れる。

 夫の後ろに人が立っていたのだ。

 頭から爪先までカラスのように真っ暗な人間が右手に煙が昇る銃を持って立っていた。

 カラス人間が私に近づいてくる。

 何をされるのかと見ていると、銃をしまい被っていたマスクを外しながらこんなことを言った。

「母さん。長い間苦しい思いさせてごめん。約束通り助けに来たよ」

 マスクの下から現れた顔は見知らぬ壮年の男性。

「母さんより歳とっちゃったから誰か分からないよね。でもこれを言ったら信じてくれると思う。あか、とう、おう……」

「りょく、せい、らん、し」

「りょく、せい、らん、し」

 私より歳上になった息子の瞳は虹色に輝いていました。


 ――虹色の瞳 完――

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虹色の瞳 七乃はふと @hahuto

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