第2話 『邂逅』

 血迷った、としか言いようがない。

 あるいは運が悪かった。


 いや、そんな言い方をしたら運に対して失礼だろう。勝手に悪者扱いされて、迷惑なことこの上ない。


 そう、悪かったのは運などではない。

 悪かったのは——すべてアイツなのだ。


 アイツこそがすべての元凶——諸悪の根源なのだ。だから、責任はすべてアイツにある。


 すまん、運。


 その日、僕はとある場所を目指して、広い校舎内をあちこち徘徊していた。


 時は昼休みである。高校生活の昼休み、その過ごし方は大きく三パターンに分かれる、というのが僕の持論だ。極論とも言う。


 その一。教室で弁当を広げながら、学友たちと談笑に勤しむ者。


 そのニ。薔薇色の青春の象徴、すなわち部活動に励む者。


 その三。音楽、読書、勉学——なんでもいい、とにかく独りの世界に浸る者。


 常の僕ならば、五分で弁当を平らげた後、早々に『その三』へと移行するところだ。しかしながら、今日の僕は少々勝手が違った。


「まさか、弁当を忘れるとは……」


 思わずぼやいた瞬間、キューっと切なげな鳴き声を上げる腹の虫。


 そもそも胃袋に収めるべきブツがなければ、平穏な独り時間など望むべくもあるまい。腹が減っては戦ができぬ、されば行くさ、購買部。


 まったく、入学してこの方、こんな初歩的な失敗などしたことがないのに、よりによって何故今日この日に——それもこれも、すべてはアイツが悪いのだ。


 断じて寝坊した僕ではない。


 責任、もとい購買部の所在を求めて、心持ち歩くペースを上げる。


 本校舎一階、昇降口から少しばかり離れた場所に我が校の購買部は存在している。普段であればまず立ち寄らない場所なのでうっかり迷ってしまい、辿り着くのに思いの外時間がかかってしまった。


 購買部の前には、既にかなりの人だかりができていた。いやはや、今時の高校生は寝坊助ばかりで困ってしまうな。なんて茶化している場合ではない。


 このままでは間違いなく売り切れ御免——昼食抜きで午後の授業を乗り切ってやろうと思えるほど僕の胃袋は小さくないし、器の方は大きくない。


「……よし」


 気合いを入れ直し、いざ戦場へ。


 そして始まる、血で血を洗う購買パン争奪戦。


 膝を擦りむき(体感)、肩は外れ(体感)、無我の境地に達しながらも(大観)何とか勝利。


 潰れた焼きそばパンひとつを何とか確保することに成功する僕だった。


 さてさて、それではお待ちかねのランチタイムのため、教室へと帰還するとしよう。


 ランチと言えば、中学生の頃、クラスメイト全員を相手に、ランチョンマットはランチ用マットが訛った言葉だという誤った蘊蓄をドヤ顔で披露したことがあった。


 数分後、クラスの誰かがスマートフォンの検索結果を示してこれを否定し、結局その子のスマホ保持の方が問題となり僕の痴態は有耶無耶になったけれど、今思い出してもあの頃の僕といったら恥ずかしいことこの上ない。


 とんだ生き恥晒しだ。まったく、不用意に風呂敷を広げるもんじゃない。今日のところは潔くランチョンマットを広げよう。別に持っていないけれど。


 などと益体もないことをつらつら考えながら、意気揚々と教室に戻ろうとして——、


「——ぁ」


 僕は、見た。見てしまった。


 校舎二階。教室へと戻る中途、常よりも人気のない廊下の窓。本当に、なんの気なしに視線を向けた、ただそれだけだった。


 ガラス越しの視界に映ったのは、校舎の西側から突き出た非常用の外階段。そこまでならいつも通り、ただの学校風景の一部に過ぎない。


 ——最上四階へと続く扉付近の踊り場、その手摺から身を乗り出しているワイシャツの後ろ姿さえなければ。


「——ッ」


 ——血迷った、としか言いようがない。


 気がついた時には足が動いていた。そのまま他クラスの教室を通り過ぎ、目的地だった自分の教室も素通りする。


 そうして長い廊下をひたすらに駆けながら、僕の頭はかつてないほどにフル回転していた。


 ああ、いったい、どうしてこんなことに。


 当惑、混乱、疑問——半自動的に脳内を駆け巡る様々な思考。あのワイシャツ姿に背格好、この学校の生徒と見てまず間違いない。それが何故あんな高いところから、何故あんなに身を乗り出して、何故今にも落ち——、


 ——何故、僕は走っている?


 人生で初めての全力疾走。足が痛い。肺が痛い。心臓が痛い。身体中のありとあらゆる臓器が、今にも口から飛び出しそうだ。


 どうしてこんなに必死になっているのだ、僕は。


 そもそも誰なんだアイツは? 知らない。

 知らない奴のために、何故こんなことを。


 昔からそうだ。一度思ってしまうと、もう考えるのを止められない。


 ほら、何をやっている。何を血迷って——、


「……いや、どう考えても血迷ってるのはアイツだろ!」


 一瞬止まりそうになる足、躊躇われた一歩を無理矢理繰り出し、階段を駆け上がって上へ、上へ。


 最上階に到達した刹那、視界に捉えた誘導灯の光。勢いを殺すことなく、光をめがけてひたすらに駆け、駆け、駆け——、


「——ッ!」


 非常口の扉を開け放つ。


 ところどころ錆びついた扉は奇妙な音を立てながら、しかし意外なほどすんなり開いてくれた。


 果たしてそこには、脳裏に焼きついたあの後ろ姿が——、


「——ぁ」


 ——いなかった。


 確かにこの目で見たはずの人影が、どこにも。


 左を見る。いない。右を見る。いない。上を見る。雲ひとつない青空がすぐ近くに広がっている。


 僕が必死に追いかけてきた人間は、忽然と姿を消していた。


「……」


 呆気に取られて、しばしその場に立ち尽くす。


 既に校舎に戻ったのだろうか。いや、それはない。人影に気づいてから僕がここに来るまで、二十秒も経っていない。


 手摺から乗り出していた身を戻し、校舎に引き返したのだとしたらあまりにも早過ぎる。それに、最上階へと引き返したのだとしたら僕と鉢合わせているはずだ。だけれど、僕はここに来るまでにそれらしき人影を見ていない。


「いや……違う、そうじゃない」


 何が脳味噌フル回転だ、危うくショート寸前じゃないか。駄目だ、脳に上手く酸素が回っていない。


 一度深く息を吸い、ゆっくりと吐く。

 半ば強制的に身体を落ち着けると、次第に思考もクリアになっていく。


 そうだ、校舎に戻るというのなら、非常階段を降り、別の階へと戻っていった可能性が残されているだろうに。非常口の役割を考えれば、扉は各階に備え付けられているとみて間違いない。


 流石に最下まで降りて外に出て行ったとは考えられないけれど、一個下の階くらいであれば短時間で引き返すことは可能だろう。


 それならば、この摩訶不思議な現象に一応の説明はつけられる。特に矛盾している点はないし……うん、そうだ。きっとそうに違いない。


 ——否、本当はわかっていた。何度も自分で言っていたではないか。


 奴は——


 その場に立つではなく。身体を預けるでもなく。


 身体をまるごと——浮かせていたのだ。


「……クソっ!」


 そんなはずがない。あってはならない。何かの間違いだ。


 僕の人生に、こんな非日常が起こるわけがない。


 そうだ、そうに決まっている。そうに違いない。ほら、確かめてみればいい。その目で、その頭で。簡単だろう?


「……そうだ、確かめればいい」


 口に出した言葉は震えていた。いや、震えているのは僕自身か? わからない。わからないけれど、今自分がやらなければいけないことはわかる。


 現実的に考えて、妥当な仮説が二つある。一方が偽であると証明されれば、少なくとももう一方が真である可能性が高くなる。単純明快な話。


 ここは四階だ。屋上よりは数メートル高度が落ちるとはいえ、こんなところから落ちればまず助からない。


 落ちれば。そう、落ちれば、だ。そして、そのタラレバを確かめる方法はただひとつ。


「——」


 ゆっくりと、歩みを進める。顔のすぐ横を生温い風が吹く。変な臭いがしたのはきっと気のせいだ。


 手摺。奴がいた手摺。今はいない手摺。


 扉と同じく錆が目立つそれをしっかりと掴み、深く息を吐く。


 そして、ぐいと下を覗き込んで——、


「……あれ? 理一りいちクンじゃーん。そんなところで何やってんのー?」


「……文科ふみしな


 それが、すべての元凶にして諸悪の根源——文科とのファーストコンタクトであった。

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きみが自殺するまでの話 楽観的な落花生 @katari-ya08

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