エピローグ2
秋鷹からギターを託されて、一週間が経ったある日の放課後。
「悪いな。穂村さんにもついて来てもらっちまって」
部室の扉の前に立つ光磨の隣には、菜帆の姿がある。
光磨と菜帆は今、一つの区切りを迎えようとしていた。
「今更だよ、枇々木くん。二人で同じ道を進むんだから、当然の行為でしょ?」
「……そうだな」
積極的な菜帆の態度にも少しは慣れてきた。むしろ隣にいる安心感が大きくて、光磨は背筋を伸ばす。そんな光磨の髪型は、すでに見慣れた前髪を上げたスタイルだ。ついにはこのスタイルで教室に入ることに成功し、何人かのクラスメイトから「そっちの方が良いよ」と声をかけられたりもした。確かに最初は注目を浴びたが、悪い意味での注目ではない。相変わらず人と接するのは苦手だが、少しずつ改善できるのかも知れないと思った。ちなみに、前髪を切ろうという考えはまったくない。特に理由はない……と言い切りたいところだが、「前髪を上げた方が良いよ」と最初に言ってくれたのは菜帆だ。だから切りたくないのだろう。
(って、何考えてんだよ俺……)
じわじわと自分の頬が赤くなるのを感じて、光磨は渋い顔をする。
すると、
「お二人さん、そろそろ入ったらどうかな?」
という聞き慣れた明るい声が、背後から聞こえてきた。
「え、あ……すいません、萌先輩。柚宮も」
反射的に頭を下げると、夏奈子は腕組みをしてニヤリと笑う。隣にいる紫樹も、まるで微笑ましいものでも見るかのように温かい視線を送っていた。
夏奈子と紫樹に背中を押されるようにして部室の中に入る。部員はまだちらほらいるくらいで全員は集まっていないようだ。
「何、やっぱり緊張するの?」
席に着くなり、夏奈子に訊ねられる。
夏奈子のまっすぐな視線が突き刺さった。光磨は一瞬だけ目を逸らしてしまったが、すぐに視線を返す。
「そりゃあ緊張しますよ。でも、自分達で決めたことですから」
光磨にとって、文芸部は決して居心地が悪い場所ではなかった。むしろ落ち着くと言っても過言ではないだろう。だから、別にやめる必要はないのかも知れない。
でも、光磨は菜帆とともに歩んでいくのだと決めた。その第一歩として夏奈子に退部届を渡しに来たのだが、今日の目的はそれだけではない。紫樹との一件があってから、文芸部のメンバーとは少しずつ話せるようになった。何の説明もなしやめたくないし、どうせなら円満に退部したい。だから今、光磨の隣には菜帆がいて、一緒に事情を説明しようと決めたのだ。
「光磨、本当にやめちゃうんだね」
すると、紫樹がぼそりと呟いた。何を今更、と思いながら光磨は首を傾げてみせる。
「何だよ、不満か? 文章を書くこと自体は嫌いじゃなかったし、別に良いだろ。でもまぁ、今は作詞に興味があるって感じだな。問題は作曲の方だが……。今はまだ、親父の用意した練習メニューをこなすので精一杯なんだよな」
ついつい渋い顔で呟くと、菜帆は握りこぶしを作って「大丈夫!」と言いたいようなポーズをした。しかし、逆に紫樹の眉間にはしわが寄る。
「光磨は順調そうで良いよね」
「……行き詰ってるのか? アドバイスくらいならするぞ」
「こっちの話だけど、本当に良いの?」
どこか遠い目をしながら、紫樹は夏奈子を指差す。夏奈子は「うっ」と呻き、あからさまに顔を引きつらせた。
「あー…………って、いや待て。俺が順調そうってどういうことだよ?」
「そのままの意味だよ。何かもう夫婦みたいな勢いじゃん」
「な……っ」
何言ってんだよ! と言いそうになり、光磨はなんとか堪える。付き合ってもいない二人が夫婦なんて意味がわからないが、勢いで否定するのも菜帆に悪い気がしてしまったのだ。
「あ、あの柚宮さんっ! これから皆の前で話をするから、私も緊張している訳で……!」
「穂村さんも光磨も、面白いくらいに顔が真っ赤だね」
「ぐ……っ」
不満たっぷりな紫樹の視線から逃げつつ、光磨は菜帆を見つめる。確かに頬は朱色に染まっている気がするし、琥珀色の瞳もゆらゆらと不安定だ。
「だ、だいたいお二人はどうなんですか! 手くらい繋いだんじゃないですか……っ?」
声を荒げながら、菜帆は二人を指差す。そんな菜帆を見て、光磨は内心「ナイス」と思った。話題を逸らすのはもちろんだが、光磨自身も気になっていたのだ。紫樹が夏奈子に告白をしてから二ヶ月程経っている。いくら夏奈子が恋愛に不慣れだとしても、少しくらい進展があってもおかしくないはずだ。
「……菜帆ちゃん。あ、あのね」
と、思っていたのだが。夏奈子は明らかに動揺しているし、紫樹に至っては無言を貫いている。まるで「悟ってよ」と言わんばかりに表情は暗かった。
「お、おう……何か、悪かったな」
「良いよ、気にしないで。萌先輩は何も悪くないんだよ。ただちょっと、恋愛のれの字が入った途端にポンコツになっちゃうってだけで……。僕も僕でヘタレなんだと思う……うん」
紫樹は落ち込み、夏奈子も図星なのか笑顔を引きつらせる。光磨は紫樹の肩を叩き、菜帆はそっと夏奈子の手を握った。
「光磨くんも菜帆ちゃんも、立派になっちゃって……」
「萌先輩は俺達の親か何かなんですか」
「ずっと見守ってたんだから、親みたいなものだよ。……でも、あたしもいつまでも逃げてられないから、また二人に頼っちゃうと思う。その時はよろしくね」
照れ笑いを浮かべながら夏奈子が呟くと、紫樹の顔色が一気に明るくなる。まったくもってわかりやすい男だ、と光磨はほくそ笑むのであった。
そうこうしているうちに、部室の中には見慣れた顔が揃っていた。そんな中、一人だけ文芸部的には見慣れない菜帆が混ざっている。部室内はいつもよりざわざわと騒がしく、菜帆のことを新入部員だと勘違いする声も聞こえてきた。
「光磨くん。菜帆ちゃん」
夏奈子に名前を呼ばれ、光磨ははっとする。夏奈子と紫樹と目を合わせてから、菜帆と頷き合う。これは自分達で決めたことだ。躊躇っていたらいつまで経っても前には進めないだろう。だから光磨は覚悟を決め、部室を見回す。
「……あー、ええっと……」
しかしながら、現実は厳しいものだった。顔は強張ってしまうし、頭を掻く仕草をして思わず困ったアピールをしてしまうし、「えっと」以上の言葉がなかなか出てこない。最近は菜帆達とコミュニケーションを取れているから忘れていたが、光磨は極度のコミュ障だ。思えば、小学生の頃から人前で話すのは大の苦手だった覚えがある。
「お二人さん、ほいほい」
すると、夏奈子が小声で話しかけてきた。手のひらを見せて、ウインクをしてくる夏奈子。意図がわからず戸惑うと、夏奈子のウインクにますます戸惑っている紫樹(察するに、ウインクは可愛いが放たれた相手が自分ではないことがショックなのだろう)が目に入る。いつも通りの光景に、光磨は少しだけ冷静になれた気がした。
「今、渡して良いんですか?」
「良いの良いの」
囁き合ってから、光磨は夏奈子に退部届を手渡す。
しばらく退部届を見つめてから、夏奈子は「確かに受け取ったよ」と小さく呟いた。いつも通り明るい様子の夏奈子だが、寂しいという気持ちも実はあったりするのだろうか。切ない空気を感じ取って、光磨は眉根を寄せる。
しかし、
「皆、注目~! たった今、枇々木光磨くんから退部届を受け取ったよ!」
夏奈子はわざとらしいくらいに元気な声を出し、受け取ったばかりの退部届をひらひらとなびかせてきた。あまりにも予想外すぎる夏奈子の行動に、光磨の眉間のしわは別の意味で深まってしまう。
(……な、何だこれは。萌先輩、最近はまともな人だと思っていたんだが。何か、キスミレの電波成分だけ受け継いだみたいになってないか……?)
光磨の動揺とともに、部室内のざわざわは増していく。
円満退部を希望していた光磨にとっては、まさしく最悪の状況だった。
「光磨くん、目つきが出会った頃に戻ってないかな?」
「誰のせいですか。それに目つきは生まれつきですよ」
「まあまあ光磨くん、時には強引に行くべきだよ。キスミレちゃんからも教わったでしょ?」
「…………」
――やっぱり受け継いでやがる……!
心の中で叫びながらも、光磨はため息を吐きたい気持ちでいっぱいになる。でも、実際には吐けなかった。光磨は部室を見回してから、菜帆を見る。菜帆は緊張した面持ちで背筋をピンと伸ばしていた。でも、それは仕方のない話だろう。
光磨が退部届を手渡したと知った瞬間、確かに部室内は騒がしくなった。「え、急に?」だったり、「どういうこと?」だったり、最初は疑問符に溢れていたのだろう。でも、光磨は思い出す。キスミレに背中を押されてスライディング土下座をした時、情けなく吐露してしまった時のことを。つまり、光磨が自分探しのために文芸部にいることを、皆はちゃんと理解してくれているのだ。
いつの間にか、部室内は静まり返っていた。まるで光磨の言葉を待つように、じーっとこちらを見つめている。同時に、隣に立つ菜帆に対しても関心の目を向けられていた。
皆が皆、視線に刺々しさはなく、むしろ優しさを感じる。何か察するところがあるのだろうかと思うと逆に緊張するが、もう逃げられないと光磨は覚悟を決めた。
「……急に驚かせて悪かった。でも、退部したいっていうのは事実なんだ」
一人一人と視線を交わしながら、光磨は口を開く。「退部したい」だなんて改めて言葉にしてしまうと、やはりネガティブな意味に捉えられてしまうだろう。決して居心地が悪いとかそういう訳ではないのだと、一刻も早く弁解したい気持ちになった。だからこんなにも、すんなりと言葉を紡げているのかも知れない。
自分は元々趣味と呼べるものがなくて、強いて挙げるのならば読書だった。あとは動物と戯れるのも好きだと最近は感じているが――それは今、関係ない話だ。確かに好きだが、きっと趣味ではなく癒しなのだろう。……とまぁ、そんなことはともかく。
読書くらいしか自分にはないから、きっと自分が目指すべきものは小説家なのだと思い込んでいた。もちろん、ちゃんと楽しいと思って小説を書いていた時期もあったと思う。でも、高校生になって文芸部に入った頃には「何かから逃げるために書いている」という気持ちが心のどこかにはあったのかも知れない。「光磨は本当に、楽しいと思って小説を書いているの?」と紫樹に問われた時、はっとしたのだ。
だから光磨は、自分が進みたい道を模索していた。
やがて辿り着いたのは、隣にいる穂村菜帆とともにアニソン歌手を目指すことだ。アニソン歌手という道に気付けたきっかけは、光磨の母親である奥野原浩美の「キスミレの光」を聴いたことだった。母親はもういない。だから、知りたいと思っても一番訊きたい人から話を訊くことはできない。心の奥底ではずっとそう思っていて、アニソンを避けてしまうのは仕方のないことだった。
でも、キスミレの光を聴いて気付くことができたのだ。光磨は光磨の道を進めば良い。聴けば聴く程にそんな母親のメッセージが聞こえてきて、アニソンに対して前向きな気持ちも芽生えて――そして、菜帆の歌声と出会った。
「俺は、穂村さんと一緒にアニソン歌手を目指したいんだ」
今でははっきりと宣言できる。
小っ恥ずかしいことを言っているなぁという自覚はあった。でも、部員の皆も、紫樹も、夏奈子も、そして隣の菜帆も、真剣に聞いてくれている。もちろん、キスミレ――電波ちゃんの話はできないが、それ以外のことはだいたい伝えられたと思う。
話しながら、光磨は気付いた。
最初は電波ちゃんと呼んでいた、キスミレの光が擬人化した存在。リアリストじゃなくても、電波恐怖症じゃなくても、振り返るとやっぱり不思議でしかない出来事だった。出会った当初は困り果てて、最終的には助けられた、自分にとっては大きすぎる経験。どこからが夢でどこまでが夢じゃないのか、まったくもってわからない。
でも、今はそんなのどうでも良いと思った。例え夢でも夢じゃなくても、関係ない。
だって光磨は、キスミレの光に――たった一曲のアニメソングに、救われたのだから。
――というセリフは、流石に恥ずかしすぎて皆の前で言うことはできなかった。
でも、結局はそういうことなのだと光磨は強く思う。電波ちゃんのことを隠しても、この話は成立してしまう。やっぱりどう考えても、光磨の心が大きく動いたのはキスミレの光を聴いた時だったのだから。
そんな本音だけ隠しつつも、光磨はすべてを打ち明けた。菜帆も緊張した面持ちで軽く挨拶をして、最後の最後に、
「枇々木くんのパートナーに相応しい女性になれるように頑張ります!」
という爆弾発言を放って二人の挨拶は終わった。元々、文芸部の女子達は夏奈子と紫樹のラブコメ的展開をわいわいきゃっきゃと見守るタイプの人達だ。もちろん菜帆の発言に騒がないはずもなく、「二人は付き合ってるんですかっ?」などという話題で持ち切りになってしまった。最後くらいは短編の小説を一つくらい書いておこうと決めていた光磨は、女子達の質問攻撃に耐えながらも必死に執筆をするのであった。
***
「光磨くん、菜帆ちゃん。今日はお疲れ様」
光磨がなんとか作品を仕上げた時には、すでに部活動は終わってしまっていた。部室には夏奈子と紫樹、菜帆だけが残っている。どうやら、光磨の作業が終わるのを待ってくれていたらしい。
「あぁ、すいません。待たせてしまったみたいで……」
「大丈夫大丈夫。ところで随分集中してたみたいだけど、もしかしてキスミレちゃんをモデルにした作品だったりして?」
ニヤリ、と口角をつり上げながらドヤ顔を決める夏奈子。まさか、覗かれていたのか……? と思ってしまうくらい、夏奈子の言葉は的確だった。
「…………あの、一応フィクションってことでお願いします」
「ん。りょーかい。奏風文芸誌に載せちゃっても良いんだよね?」
「お願いします。……あいつのこと、振り返るとやっぱり現実の出来事だと思えなくて。せめて形には残したかったんです」
書き上げてしまったものを今更誤魔化しても仕方がない。光磨が開き直って素直な本音を零すと、夏奈子は満足そうに頷いた。
「光磨。やっぱり小説自体は嫌いって訳じゃなさそうだね」
「当たり前だろ。俺は……何かを作るのが好きみたいだ。今までは小説で、これからは音楽。ただそれだけのことだよ」
「そっか」
紫樹も心なしか、嬉しそうに顔を綻ばせている。
菜帆と一緒にいる時ももちろん安心するが、やっぱり紫樹や夏奈子と接していても心が安らぐ。紫樹とはもやもやしていた時期もあったし、夏奈子は元々苦手なタイプだった。不思議なこともあるものだなぁ、と光磨はしみじみ思う。
「やめるのにおかしいが、これからもよろしく頼む」
気が付くと、光磨は紫樹と夏奈子に向かってお辞儀をしていた。唐突に改まったことを言う光磨に対しても、二人はすぐさま「もちろん」と返事をしてくれる。
よろしくと言える友達がいて、これから一緒に歩んでいける音楽のパートナーがいて、父親とも向き合えて、自分の夢にも気付けた。
光磨は思う。これは自分の夢を叶えるだけの道ではない。
キスミレの光という楽曲に恩返しをするための道なのだ、と。
もう会えない母親の想いに相応しい道を進みたい。菜帆とともに。時には紫樹や夏奈子、秋鷹の力を借りながら。
そして。
大好きだよ だから君は
進む道へ 進めば良い
何度だって背中押す 私がいるから
いつも キスミレの光 君を 包んでいるから
キスミレの光。
『メグと太陽』のオープニングテーマで、光磨が一歳の頃に生まれた奥野原浩美のラストシングル。
アニメに寄り添うとともに、幼い光磨への想いも込められた――光磨にとって、大切すぎる曲。
――辛くなった時は私を聴いて。私が何度でも、光磨の背中を押すから。
これから先、光磨は何度だってキスミレの光を聴くだろう。
だって、光磨にとってキスミレの光は、世界で一番好きなアニメソングなのだから。
了
電波ちゃんはアニソンになりたい 傘木咲華 @kasakki_
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