第2話 帰郷

 樹々の細い葉が薄暮によって染め上げられ、薄暗い中で若干紅く色づいていた。暖かな陽気が遠ざかるにつれ、未だ冬の寒さを残した夜の風が戻ってくる。徐々に陽の光が薄れていくにつれ、赤い色彩は青色へと変化していき、夜の空気と共に昏い世界へと没していく。


 夕闇の中、立ち並ぶ針葉樹に挟まれた峠の登り坂。車輪の軋む音を響かせながら走る、幌馬車の姿があった。


 御者席には一人の年老いた、黒く日焼けした肌の男が腰を掛けていた。男は時折、先頭を行く二頭の馬の動きを見定めては手にした鞭を振るい、その尻を打ちつけた。その度に、馬は非難めいた嘶きを発した。

 

 幌の内側には夜気がそのまま入り込んできており、内部にいるダイクとヘリオンの全身をさするようにして、前方から後方へと緩やかに流れていく。

 

 ダイクの身に着けている簡素な布の服は鱗に覆われた腕や足を覆うほどのものではなく、冷たい空気によって幾分冷やされたが、ダイクは微動だにすることなく、暗闇の中の虚空を見つめていた。

 

 外からはフクロウの鳴き声が聴こえてくる。空は雲に覆われていき、星明りは見えない。御者が先ほど点灯したランタンの明かりだけが、幌馬車が進む先を照らしていた。


 車輪が道の凸凹の上を滑り、ガタン、と車体が揺れた。翻ったランタンの光がダイクの相貌を照らす。急な眩しさに、目を細めるダイク。ダイクの横でじっと静かにしていたヘリオンの息遣いが、ダイクの耳に響いてきた。


 ダイクは、傍らにいるヘリオンの方を横目で見やった。ヘリオンは生気のない瞳で、ランタンに照らされている木目をぼんやりと眺めていた。


 あの村を出発してからというもの、ヘリオンはダイクとはほとんど口をきいておらず、ほぼ必要最小限の会話しか為されていなかった。ダイクとしてはその方が気が楽ではあったが、年頃の娘がこうも押し黙っているのは、正常ではないということくらいは察せられた。


 このままヘリオンが心を開かずにいては、今後の動向に差し支えるだろう。今のダイクにとって、死んだリシエへの恩義を果たすことだけが明確な目的であり、それには頼るべきかつての仲間が、ヘリオンを受け入れてくれなければならなかった。


 ヘリオンがダイクの視線に気づいた。自分を見つめるダイクの方へ目を向け、暗闇の中でおぼろげに浮かぶ爬虫類人の相貌を眺める。夜目の利くダイクは、ヘリオンの瞳に宿る畏怖の念を見逃さなかった。


 無理もないな――ダイクは思う。


 ヘリオンは姉のリシエの庇護下で生きてきた。本人は姉を助けようとして、日々その手伝いをしながら暮らしてきたらしいが、自立した女性であるリシエに対してどれほど功を奏していたかは定かでなく、あくまでヘリオン自身の心の居場所を保持することが、実質的な目的にすり替わっていたのかもしれない。

 

 あるいは、リシエもまたヘリオンという護るべき妹を心の拠り所にして生きてきたのだろう。そうなれば、猶更ヘリオンの立場も確固としたものとなっていたのかもしれない。


 そのヘリオンの縋ることのできる相手が、得体の知れない粗暴な爬虫類人しかいなくなったのだ。ダイクには到底リシエの代わりは務まらないし、ダイク自信、そう理解していた。


「すまないな。不器用な奴で」


 ダイクが呟いた。ヘリオンは自分に対して告げた言葉であると思ったが、亡き姉に対する詫びのようにも感じられた。


「…………」


 ヘリオンの口が何かを紡ごうとしたが、上手く言葉にならない。


 見るに堪えなくなったダイクはヘリオンから視線を逸らし、老いた御者の背中越しに見える夜景へと向けた。


 丁度、峠を登りきったところであり、幌馬車は緩やかな斜面へと差し掛かかっていた。空の一角ではまばらな星が瞬いており、覆っていた雲は薄れ、幾分晴れてきていた。


 少し風が強くなった。幌馬車全体が、風に運ばれてきた温暖な空気の層に浸かっていき、内部の気温も上昇していた。先ほどまではもうじき雨が降るのかと思っていたが、この風は夜空に僅かな光明ももたらしていた。


「ダルクァサの龍の風か……懐かしいな」

 

 ダイクが呟いた。ヘリオンがまたダイクの顔を覗き込む。懐古する心情は、ダイクの表情をほころばせていた。


「ダイキドゥ山から海岸沿いにドゥサーへかけて吹く、春の訪れと一年の実りを約束してくれるこの風は、古来より、龍神が施してくれる恵みとして伝えられている。長い冬の終わりを祝い、龍神への感謝の念を込めて、龍神祭と呼ばれる祭事が執り行われていた。……おれたち爬虫類人の位が地に落ちるまでは、な」


 近年までは、爬虫類人が政治の実権を握っていたダルクァサ。野蛮な亜人類による支配の駆逐を謳う他国からの侵略に乗じ、虎視眈々とダルクァサの王の座を狙っていた人間の宰相が侵略者と手を組み、古き王権を陥落させた。その際の内乱によって爬虫類人の名門の家は次々に取り壊され、ダイクもまた騎士の位を剝奪されたのであった。


 そういった事情を、ダイクはヘリオンに対して伝えてあったが、あくまでこれから向かう国の内情を知ってもらうためであり、ダイク自身の過去の話については至って簡潔な内容しか話してはいなかった。


 今では、国に残った爬虫類人は最下層の卑しい身分とされ、蔑まれているというのが隣国からの見解である。だが、爬虫類人が敷いていた善政に感謝し、未だに彼らを慕っている人間も少なくなく、そういった者たちは憲兵の監視から隠れて、落ちぶれた爬虫類人たちを助けていた。


 ダイクとヘリオンを快く乗車させてくれた人間の御者もまたその一人であり、ダイクとは古くからの顔なじみでもあった。御者は、ダイクが連れてきたヘリオンに関して一切質問することもなく、ダイクの帰郷を喜んで出迎えてくれた。ダイクは御者の気遣いに深く感謝していた。


「ダイク様……」


 ヘリオンが改まった口調で言った。


「ダイク様は、もう一度、騎士へとお戻りになりたいと、思っていらっしゃるのでしょうか」


 ヘリオンの言葉を聞いていたのか、御者が一瞬だけ、視線を内部に向けた。御者の横顔がランタンに照らされ、しわの一つ一つがダイクの目に触れる。御者は気まずくなったのか、すぐに目をそらしてしまった。


「……いや、思っていない。騎士の位を失ったおれは自らの意思で国を捨て、薄汚い傭兵として生きる道を選んだ。今更、高潔な騎士として生きていく資格など、おれにはない」


 ヘリオンは自分を助けてくれたダイクに対して、包み隠さずに心を開いていきたいと思っていたが、ダイクが内に閉ざしている過去の暗黒に気圧され、それも叶わずにいた。


「ダルクァサを攻めていた側の立場にもなった。人類に劣る粗暴な亜人類……おれ自身、戦場の中で生きて、今では奴らの言っていたこともあながち間違いじゃない気がしている」


 知能において人間と亜人の間に大した差はないが、爬虫類人の発達した身体と冷徹とされる思考は、専ら兵隊向きと見なされていた。爬虫類人や、より獣性の強い獣人の類は人間に使役される戦争の道具として生きている者も多く、また、大抵はそういった生き方に甘んじていた。ダイクが傭兵として生活できたのも、亜人類の社会的地位に倣った結果とも言えた。


「そんなこと……」


 ヘリオンは言いかけて、思わず口をつぐんでしまった。


「悪いな……こんな話を聞かせてしまって」


 ダイクは詫びると、また視線を外の風景に移して、黙した。その様子を見ていたヘリオンは、暫しの間、逡巡していたが、やがて意を決した様子でダイクに面と向かって語り始めた。


「わたしたちの村を襲った人たちも、酷く乱暴で……欲望に忠実な人たちでした。ただ、獣欲を満たすためにわたしたちを襲った。人間と、それ以外の亜人と言って皆は区別しているけど……わたしは、それぞれにそんな差があるとは思えません」


 何時になく、語調を強めるヘリオン。


「結局……戦争が、人間か、亜人かなどは関係なく、人格も何もかもを変えてしまう。周りにいる皆を、無差別に巻き込んで」


「そうだろうな……」


 ため息混じりの、ダイクの返答。


「おれも同じさ。昔は戦を嫌っていたのに、内乱で国が変わり果ててからは、手っ取り早く生きる手段と死ぬ理由を得るためだけに傭兵になったんだ。おれの手で死ぬ者の運命など、考えることすら止めてしまっていた」


「いえ、あなたは……ダイク様は、わたしたちを助けてくださった。あの時のダイク様は、紛れもない騎士様でした」


「……助けられなかったじゃないか。きみの、姉を」


「ダイク様が救ってくださらなければ、姉の魂は今も地に縛られ、彷徨っていたはず。姉は、解放されたのです」


 ダイクは訝し気にヘリオンを見た。ヘリオンの言っている意味がよく理解できなかったというのもあるが、ダイクの予想以上に、ヘリオンがリシエの死を素直に受け入れているらしい気がしたからである。


(思えば、この姉妹にはまだ不可解な点が多いな。おれが口を出す領分ではないだろうが)


 ふと、春を告げる風とは異なる空気の流れが幌馬車の内部に入り込んできた。ダイクはすぐにそれの正体に気づき、相手を受け入れるつもりで姿勢を崩した。ヘリオンも気配を感じ取ったらしく、固唾をのんで見守っていた。


(ダイク)


 ダイクの脳裡で響く、女性のものと思われる優しい声。


(あんたか。しばらくだったな)


(龍の風に乗って、この国を見て廻っていたの。あなたが居ない間に、ダルクァサはすっかり変わってしまったわ)


(昔のダルクァサを知っているのか)

 

 ダイクの問いに相手が答えるまで、僅かな間があった。相手は何かを逡巡しているのか、あるいは思い出しているのかもしれなかった。


(……ええ、とっても。あなたよりもずっと詳しく、ね)


 今まで戦いの中で生きていたダイクは、この声の正体について深く考えたことはなかった。何時しか、己の心の中で芽生えた奇妙な幻聴、という認識はあったが、他に推測する術も何もなかったのである。


 しかし、今になって相手の正体が何者であるのか、興味を覚えるようになっていた。相手はダイクにのみ知覚できる幻覚の類ではなく、リシエやヘリオンとも意思の疎通を行っていたことがはっきりしている。更には、ダイクよりも遥かに長い時を過ごしてきたと思われるこの存在は、明確な目的を持ち、ダイクを導いていた。


(あなたの帰りを待っている人はこの国に大勢いる。あなたは必要とされているのよ)


(あんたにとっても、か)


(ええ、そうよ)


 悪びれる様子もなし、か。


 ダイクは、この存在が意図的に自分を故郷へと導いていると感づいていた。何らかの目的のために自分を利用しようとしているであろうことも。


 だが、この声の主がいなければ、ダイクは当の昔に異国の地で果てていただろう。それに、リシエの命は救えなかったが、その妹のヘリオンを助けることができたのもこの存在のお陰と言っても過言ではない。


(結果として、あの正規軍の連中には、代わりに死んでもらうことになったがな)


 傍らにいるヘリオンの息遣いを感じていると、彼女を助ける道を選んだことに対する悔いは微塵も芽生えなかった。ダイク自身も人殺しを生業にしていた以上、あの村を滅ぼした兵士たちを蔑む立場ではないと認識してはいたが、あの連中が全員死に、一人の少女の命が助かったという結果に関して、今更頭を迷わせる理由などなかった。


 風向きが変わった。揺れていたランタンの動きも緩慢なものとなる。幌馬車は峠を下りきったらしく、加速していた車輪の速度は徐々に安定していき、多少凸凹しているが、整備された緩やかな道なりが広い平原を横切っていた。


 外の光景には、見渡す限りの田園が広がっており、人の手が加わった土と草の匂いが空気中を漂っていた。ダルクァサの風土の中にいるのを改めて実感したダイクは、

懐かしい匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。


 既に日は完全に沈んでおり、農業に従事する人々の姿は見えない。よどんだ暗闇の中、車輪が濁った水たまりの中を走り、ばしゃばしゃという、泥と水の跳ねる音が響いていた。


 青白い半月の下を、幌馬車が進んでいく。田園の周囲に潜む獣たちの眼が、その行く末を観察しているようであった。


 御者が後ろのダイクの方へと振り向き、声をかけた。


「ダイク様、そろそろです」


 老いた御者の声はしわがれており、疲労感が露わになっていたが、ダイクの帰還を待ちわびていた者の喜びの感情もにじみ出ていた。


「まだ、れいの場所までは距離がありますが、なにぶん、とても馬車の入り込めない山道を通りますので。ダイク様とそちらのヘリオン様には申し訳ございませんが、途中で降りていただきます」


「ああ、わかった」


 程なくして、幌馬車の目指していた場所に到着した。御者の合図で、二頭の馬が揃って歩みを止める。


「着きましたよ。この山道を真っ直ぐ登っていけば、クンドク様の住まわれる、小屋に辿り着きます」


 するりと馬車から降りるダイク。その後、ダイクは続けて降りるヘリオンに手を貸した。ヘリオンは慣れない足取りで地に足をつける。


「改めまして、ダイク様、お帰りなさいませ」


 御者が深々と辞儀をする。ダイクは半場呆れたような表情になりながらも、相手を労わるような口調で言う。


「よしてくれ、チャゴ。おれはもうそういう身分ではないんだ」


 チャゴと呼ばれた御者は頭を上げたが、ダイクに対する敬意の情は、尚も薄れることはなかった。


「ダイク様。あたしは、あなた様のご帰還を信じて、ずっと、ずーっと待ち続けていたのですよ。……そして、あなた様は帰ってこられた。やはり、ダイク様は我々を救ってくださるのですね」


「チャゴ。悪いが、おれはもうこの国のまつりごとに顔を出すつもりは全くないんだ。それに、おれはもう騎士ではない……」


 ダイクの声には幾分の諦念の感情が含まれていた。ヘリオンがこれまでの旅の道中で幾度も感じていた、ダイクの心境が露わになっていた。


「それでも、あたしらは信じているのですよ。ダイク様が、崇高な騎士としてこの国の未来を担ってくれる、その時がくるのを」


「チャゴ……」


 かつてダイクが騎士であった頃、チャゴは当時の貴族から施しを受ける農民として、彼らを深く慕っていた。ダイクの家柄はそういった農民たちと接する機会も多く、国民が亜人による統治を快く受け入れていた土壌を形作る役目も担っていたのである。


 ダイクにとって、このチャゴという人物は些か頑固者と言えた。自分たちを護ってくれる騎士に対する尊敬の念は極めて深く、崇拝していると言っても過言ではない。名門の騎士の生まれであるダイクのことも、国民の指導者として慕っていた。


 ダイクとチャゴは、ダイクの幼少期の頃からの顔なじみであり、チャゴは民衆から慕われていたダイクの両親と同様に、ダイクに対しても常に敬意を払っていた。ダイクは、それが煙たいものであると感じることこそあったが、善良な市民に慕われるのは、悪い気はしなかったものである。


 それが、騎士の位を失った今となっては余計な重荷である気がしてならない。ダイクとしても、自分を変わらずに慕ってくれるチャゴをあしらうこともできず、親しかった者が自分に寄せる期待というしがらみを解く術を知らなかった。


「そうそう、道中は暗いですから、これを受け取ってください」

 

 そう言いつつ、チャゴは幌馬車に吊り下げている物とは別の、手提げ式のランタンを取り出すと、用意してあった火口箱の中身を利用して、中の油に火を灯す。そのランタンを、ダイクの手に渡した。


「では、あたしはこれで。道中お気をつけてください、ダイク様。ヘリオン様も」


 去り際に、御者席に腰を下ろしたチャゴはまた深々と一礼をすると、鞭を振るい、馬の尻を打った。馬は嘶きで痛みを訴えたが、すぐに、渋々といった様子でチャゴの握っている手綱に引っ張られ、田園に挟まれた暗い道を歩んでいった。


 ヘリオンはぼんやりと車輪の音と馬の鳴き声を聞きながら、ダイクの手元で光るランタンの明かり越しに、暗闇の中へと消えていく幌馬車の方を眺めていた。幌馬車の姿が見えなくなっても、暫しの間、星明りに照らされた田園へ視線を泳がせていた。


 ふと、傍らで自分を見守るダイクに気づき、ヘリオンははっとなる。小さな炎の光明に照らされた爬虫類人の相貌が、ヘリオンの目に映った。


「……そろそろ、行くか」


 暗闇に響く、ダイクの穏やかな声。

 

「はい」


 ヘリオンは短く会釈すると、歩き出したダイクの背中を追う形で、足を進めた。


「懐かしい風景だな」


 ダイクの率直な感想であった。


 子供の頃、喉かな山の中を駆け回った記憶。山奥の光景など、傭兵となった後も見慣れたもので、故郷であろうとそんな変わる程のものでもないだろうと思っていた。

だが、実際に目で見て、身体全体で感じると、やはり大きく違う。


 ダイクは立ち止まり、大きく深呼吸をした。自分の身体に最も馴染んでいる故郷の空気を、肺いっぱいに吸い込む。ダイクの心中に、生きているという実感が湧いてくる。


(そうだ。おれは生かされたんだ、リシエという人に)


 傭兵だった頃、自分は戦場の中で死んでいるも同然だった。死ぬために生きているようなものであった。だから、この世で生きている者に対して、ただ冷酷になれた。


 立ち止まっているダイクの後ろ姿を、黙って見つめるヘリオン。ヘリオンは、村を襲った兵隊たちを無情に殺した爬虫類人の姿が恐ろしくもあったが、旅路を続け、内に秘められているものを垣間見ているうちに、何か親近感のようなものを抱くようになっていた。


 ダイクは、自らを不器用であると言った。それはヘリオンとて大差ない。両者は、己の感情を他者に伝えることに不慣れな者同士であった。


 ダイクは、自分を見つめるヘリオンの顔を覗き込む。未だ、幼さの色濃く残っている、穢れを知るべきではなかった少女の面持ち。


(おれは、あんたに感謝している。リシエの命を助けられなかったのは残念だが、この娘の未来を護る役目を与えてくれたからな)


(…………)


 あの声――彼女の気配を脳裏で感じたが、返事はない。彼女はダイクとヘリオンを導いているが、彼女自身の目的に利用するためであろうことは想像に難くない。彼女は気まずいのかもしれなかった。


(あんたの目論見は知らない。ただ、おれたちにとって悪いものではないような気がする。あんたはおれに、新しい、生きる理由を担わせた。おれは忠実に全うしてやるよ。それが、あんたのためにもなるんだろう)


 今度も返事は帰ってこなかったが、彼女の息遣いはダイクの脳裏で響いた。ダイクにとって、それで十分だった。


 ダイクはヘリオンに目くばせをすると、再び歩き出した。ヘリオンも追従する形で、山道の奥へと進んでいく。


 やがて、開けた原っぱの風景が二人の目に飛び込んできた。手元のランタン以外には、夜空の星と月だけが頼りであったが、広い緑の光景は、昼間の燦爛とした彩を連想させた。


(ここよ、ここにいる)


 ぽっぽっぽっ。


 ほのかな虹色の色彩を伴った白色の綿のような光の玉が、幾つも浮かび上がる。玉は連なることで道なりを形作り、原っぱの向こうに見える建物へと繋がっていた。


(何だ、あんたこんなこともできるんだな。てっきり、声を伝えるしかできないものと思っていたよ)


(…………)


 何を焦っているのだろう。ダイクは不審に思ったが、元々謎の多い存在であるのに変わりはないので、それ以上考えても無駄であろうと思い直した。


「ダイク様、あの……」


 ヘリオンが不安げな声をこぼした。


「あの、声。ダイク様には聞こえていたのでしょう」


「ああ」

 

 ヘリオンは「やっぱり」と小声で呟き、納得した様子であった。


「あれは、一体、何者なのですか。わたしの姉は、あの声の指示に従って、あの兵隊たちから逃げようとしていたのです。結局、追いつかれてしまいましたが……わたし

たちがあなた様の素性を知ったのも、もとはと言えば、あの声に教えられたから」


 ダイクは、ヘリオンの欲する情報を持ち合わせてはいなかった。


「わからない、おれにも。おれが傭兵に身をやつしていた頃、気づいたら、あいつがいつも傍にいた。あいつはおれのことを昔から知っているらしいがな」


「そう……ですか」


 ヘリオンの肩が力なく落とされた。


 原っぱには、普段から人が行き来しているであろう道が続いていた。踏みしめられた草の上を、れいの光り輝く透き通った球状の物体が浮いているという様相である。今まで直接干渉してこなかった声の存在が、妙な過保護ぶりを表していた。


 夜景の中に映る小屋は、周囲に浮遊する光の玉も相まって、幻想的な雰囲気を醸し出していた。程なくして、道案内の役目を終えた物体は次々と形を失い、崩れるようにして、闇の中に溶け込んでいった。


 一転して、些か年季の入った山小屋といった外観。老朽化が進んでいたが、手入れはよく行き届いている。ヘリオンは、先ほどの奇妙な現象を改めて思い返してみると、まるでダイクの帰還を歓迎していたようにも感じていた。


 小屋の内部には明かりが灯っており、濁った灰色の混ざった窓からは、ぼんやりと光がこぼれていた。


 ダイクは手にしていたランタンの火を消すと、小屋の戸の前に立った。ヘリオンも、すぐ後ろにいる。


 ダイクは、戸の取手に手を添えるのを躊躇っていた。チャゴの話していた内容が確かならば、この内部にクンドクがいる筈であった。


 ギギーっと音を立て、戸が内側に開かれた。まだ戸に触れていなかったダイクが驚き、ヘリオンもまた、目を見開いて動向を見守る。


 小屋の中から現れた、一人の獣人の姿。その人物は犬のような頭部を持ち、身のこなしの軽さを重視した麻の服で毛深い身体を覆っている。黒い鼻から生えた小さな白いひげが、小屋の内部の明かりを受け、橙色に光って見えた。


「ダイクじゃないか。へへっ、待っていたぜ」


「待っていた、だって」


 その獣人――クンドクは、ダイクの来訪を前以って知っていたらしい。だが、ダイクとヘリオンがダルクァサに入って間もなくチャゴと会ったのは偶然であり、クンドクが事前に知り得たというのは奇妙な話であった。


「そうさ。……久しぶりだな、ダイク。元気にしていたか」


「……ああ、クンドク。しばらくぶり、だな」


 クンドクは視線の先をダイクの傍らにいるヘリオンの方へと移し、くぐもった声をもらす。


「そっちの女は」


 クンドクの問いに、ヘリオンは怯えの色を表した。ダイクは軽いため息をつき、答える。


「彼女の名前はヘリオン、故あって連れてきた」


「ふーむ。なるほどなぁ」


 クンドクは妙に納得した様子で言い、二人に向かって手招きをしながら、話を続けた。


「ま、こんな場所で立ち話もなんだ、上がってくれ。歓迎するぜ、ダイク。それに、ヘリオン」


 そのまま二人を中へと案内するクンドク。ダイクも後に続き、ヘリオンはおどおどとした様子でダイクに付き従った。


 小屋の中では大の大人が四人で向かい合えるほどの卓が置かれており、卓の中央では灯の炎が揺らめき、一室を明るく照らしていた。窓際を除く三方向に一つずつの荒い木目の椅子が置かれており、窓から向かって左側の椅子には、一人の爬虫類人が腰を下ろしていた。


 その爬虫類人は、ダイクの姿を見るなり立ち上がった。


「ダイク……懐かしいな、よく帰って来てくれた」


 相手の爬虫類人は、ダイクのよく見知った人物であった。


「ゴドウじゃないか。お前もここにいたのか」


 ゴドウと呼ばれた爬虫類人は黙って頷き、ダイクの後ろにいるヘリオンをちらりと見やったが、すぐにダイクへと視線を戻した。


「ダイク、お前が帰って来てくれて嬉しいぞ。……さあ、積もる話もあるが、長旅で疲れたろう。まずはゆっくりしてくれ。歓迎する」


「ああ、すまんな」


 ゴドウは、先ほどまで自分が座っていた椅子の向かい側の席にダイクを誘導し、それからヘリオンに向かって小さく会釈をした。


「嬢ちゃんも、座りな。大事な客人だ、遠慮はいらん」


 ヘリオンは二人の亜人たちの粗野な風貌に困惑しているらしく、迷っていたが、ダイクが宥めてやると、恐る恐るといった様子で与えられた席に腰を下ろした。ヘリオンに続き、ダイクもまた、椅子の上に腰を落とした。


「腹も減っているんじゃないか。悪いが、今日の食い物はそのパンくらいしか残っていないが、まあ、足しにでもしてくれ」

 

 卓の上には一斤程度の大きさのパンが四枚と、ダイクとヘリオンが来ることを予期していたらしく、水の入った二つのコップが置かれていた。


 ダイクは傍らのヘリオンに向かって、先に食べるように言った。ヘリオンは迷っていたが、ダイクに再度勧められ、諦めた様子で一切れのパンを手に取り、口に運んだ。

 

 ゴドウは立ったまま小屋の隅の柱で己の背中を支え、クンドクは相変わらずに立ち尽くしたまま、二人の様子を観察していた。


「ダイク、お前が国を出て行ってから、それはもう、色々なことがあったんだぜ……」


 クンドクが話し始めたが、ゴドウが片手で制した。


「よせ、面倒な話は明日で良いだろう。お連れの嬢ちゃんも休ませてやらないと、な」


 クンドクは名残惜しそうにしていたが、やがて諦めた様子で了承した。


「……酒なら幾つかあったな。クンドク、お前のため込んでいるやつが。ダイクに一つ出してやったらどうだ」


 ゴドウの話を聞いて、ダイクは思わず止めようとしたが、ゴドウは「遠慮するな」と言いながら、遮った。ダイクは諦め、相手の成り行きに任せることにした。


「酒だって……」


 クンドクが思案しながら目を伏せた。


「ドゥサー産の葡萄酒なら、まだあったが」


「一番上等のものを選んでやってくれ」


 有無を言わさないゴドウに、クンドクは従わざるを得なかった。


「……はあ、わかったよ」


 クンドクは奥の部屋へと姿を消した。


「そんなに気を使って貰わなくても良かったのだが」


 二人の旧友のやり取りを眺めていたダイクが、ゴドウに向かって言った。


「まずはな、お前には気を楽にして欲しい。それはクンドクにとっても同じだろう。久々の再会だ、お互いにとって、気持ちの良いものにしたい。お前も好きだったろう、あの酒は」


 ゴドウはダイクと同じ爬虫類人ではあったが、ダルクァサの出身ではなかった。ダイクが持つダルクァサではお馴染みの緑色の鱗とは異なる、赤色の鱗に覆われたゴドウの肌を見ても明らかであり、ゴドウは流れ者であったのだ。


 ヘリオンは、未だに落ち着かない。当初はダイクに対しても恐れを露わにしていたのだから、新たに現れた二人の亜人に対する動揺を隠しきれないのも、仕方がないのかもしれない。


 それに、ゴドウはともかく、クンドクは大分馴れ馴れしい性格をしているからな――二人をよく知っているダイクはそう思った。ヘリオンとは馬の骨が合わないのかもしれなかったし、この先、やっていけるのかどうか些か不安である。


 隣の部屋から、クンドクの声が響いた。怒声という程のものではないが、あからさまな悪態。ヘリオンがびくっと肩を震わす。ダイクもまた、咄嗟にヘリオンを庇うようにして、椅子から腰を浮かしたままの姿勢で身構えた。


 どかどかと物を倒す音が聞こえ、床の木ががたがたと震える。黒いだぼだぼのローブのかたまりを引きずり、奇妙な人影が部屋に入り込んできた。顔はぼろぼろの布のに覆われて、判別できない。背丈からして、十歳にも満たない人間の子供程度の大きさだ。


 部屋の中にずかずかと入り込んで来たその人物は、長すぎる布で覆われた腕で、一本の酒ビンを抱えていた。それを両手で持ち上げると、小さな腕をいっぱいに伸ばし、卓の上に置いた。


 ゴトン、という音を響かせ、ダイクの目の前に置かれた酒ビン。中には三分の二ほどの量の赤い葡萄酒が入っており、振り下ろされた振動で、水面が横に大きく揺れていた。


「へへ。クンドクの目を盗んで、一番上等のやつを選んでやったぞ」


 高い声色。大人しいヘリオンと比較したら、乱暴で棘のある口調ではあったが、それが幼い少女のものであるとダイクが理解するのに、時間はかからなかった。

 

 それから、少女は羽織っているローブを下ろし、その顔面を露わにした。


 年の頃は、八、九歳程度であろうか。痩せて角ばった顔は少年のような印象も持ち合わせていたが、ダイクの嗅覚は、はっきりと人間の女性の匂いを嗅いでいた。


 少女の短い赤毛の髪には、土埃が付着しており、下ろされたローブと一緒に、それらが宙を舞った。


「あんたがダイクかぁ。いつもクンドクとゴドウが話していたから、どんな奴かと思っていたけど、他のトカゲ野郎どもと変わんねえなぁ」


 少女が素っ頓狂な声を上げ、けらけらと笑って見せた。ゴドウがちらりと少女を見やったが、咎めたりはしなかった。


「あんたは……」


 唐突に登場した少女の正体が掴めずにいたダイクが、尋ねた。


「んー。あたしか。あたしはねぇ……」


「おいこら、ヒナク。よくも勝手なことを」


 わざとらしく勿体ぶる少女の声を、少女の背後から叫ぶ、クンドクの怒鳴り声が遮った。


「んあ。あ、あのやろ……」


 話の腰を折られたその少女――ヒナクが機嫌を酷く損ね、部屋に入ってきたクンドクに向かって悪態をついた。


 クンドクもまた、ヒナクに食って掛かりそうな勢いであったが、ゴドウにじろりと睨まれ、「ふん」と鼻を鳴らし、押し止まった。


「ねえ、ダイク。あんたが連れてきたこの女、あんたの何なんだい」


 初対面の相手に対して、馴れ馴れしく接してくれるヒナク。ヒナクに真っ直ぐと指さされ、ヘリオンはまた震えてしまった。


 これはクンドク以上だな――そう思い、ダイクは苦笑した。


「ん。なんだよ、何が可笑しいんだよ」


 ヒナクはむっとした様子で、頬を膨らませた。


「いや、すまない。ヒナクといったか、わざわざ選んでくれて、ありがとうな」


 ダイクはそう言いながら、自分の前に置かれている酒ビンを指で鳴らした。


「……あんた、悪い奴じゃあなさそうだけど、何か頼りないなあ」


 ヒナクがじろじろと、ダイクとヘリオンを見比べる。


「ダイクはクンドクとゴドウの古い友だちだって言うから、このままここに居ても良いけどさ。こいつのことは、全然聞いてないよ。余所者の食い扶持が一人増えるなんて……」


 ヒナクの言葉を聞き、ゴドウが割って入る。


「……彼女はダイクと一緒に、仲間として受け入れる。それがおれとクンドクの総意だ」


「ん。ああ、まあ」


 ゴドウと同じ意見を持っていたわけではないが、クンドクは敢えて反論しなかった。


「ふーん。それだけ、このダイクって奴に入れ込んでるんだ、二人とも」


「余所者って言ったら、ヒナク。お前だってそうだろうが」


 クンドクにそう言われ、ヒナクがその顔を睨み返した。


「何だよ、あたしに何度も助けられたお前の言うことじゃないだろ」


 クンドクは呆れ顔で両手のひらを振りながら答える。


「これだから、ガキは。すぐ調子に乗りやがる」


 クンドクはそのまま背を向け、奥の部屋の暗がりの中へと歩いていった。


「おれは先に寝るぜ。さっき一仕事終えてきたばかりで、疲れているんだ。ダイク、明日になったら、色々聞きたいこともあるが、今日はゆっくり休みな」


 隣りの部屋から聞こえてくる、クンドクの声。それっきり、クンドクの気配は途絶えた。


「へん、やっと静かになったな」


 ヒナクはそう嘯いたが、ヒナクの甲高い声が、ダイクの聴覚には一番キンキンと響いていた。


 ヒナクは懐から大きめのグラスを取り出すと、卓の上に置いた。それから横に置いてある酒ビンにか細い手を伸ばしたが、横からゴドウの屈強な腕が割り込み、酒ビンを取り上げられた。


「おれが注いでやる」


 ゴドウは、小さな身体で卓の上に手を遊ばせていたヒナクを見かねた様子であった。ヒナクは「ふん」と不満げに呟いたが、それ以上ゴドウを咎めるような真似はしなかった。


 ゴドウが酒ビンを片手で持ち上げ、ダイクの眼前に置かれたグラスにコポコポと葡萄酒を注いでいく。


「そっちのお嬢さんも一杯飲むかい」


 ゴドウの問いに対して、ヘリオンはかぶりを振った。


「すみません、わたし、お酒は……」


 力のない、ヘリオンの声。


「そうか」


 ゴドウはヘリオンの身体の疲れと心労を察したらしい。ダイクにそれを告げようとしたが、既に了解していたダイクは片手でゴドウを制し、ヘリオンに向かって優しく語り掛けた。


「ヘリオン、今日は疲れただろう。先に休むと良い」

 

「はい、ダイク様」


 ヘリオンは席を立つと、深々と礼をした。いつも以上のヘリオンの余所余所しさに、ダイクは違和感を覚えた。


「ゴドウ……」


「ああ。……ヘリオンと言ったね。案内してやるから、こっちに来たまえ」


 それから、ゴドウはヒナクを見やりながら言う。


「子供は寝る時間だ。……あまりダイクの邪魔をしてくれるなよ」


 ヒナクは、部屋を出ていくゴドウとヘリオンの背中をじっと睨んでいた。


「あの女の寝る場所、あたしの部屋から取っているんだよ。感謝して欲しいよ、まったく」


 言うなり、空いている席にどっかと座り込むヒナク。


「ねえ、ダイク。あんたの話でも聞いてみたいよ。傭兵だったんだよな」


「止してくれ。酒がまずくなる」


 ダイクは手にしたグラスを傾け、葡萄酒を口にしたが、尚も不満げにしているヒナクを見かね、グラスをそっと卓の上に置いた。


「きみに話すようなこともない。おれは人殺しを商売にして生き永らえていたんだ」


「いーや、あるだろ。例えばさ……心の中に入り込んでくる風の話、とかさ」


 ダイクの心中に強い衝撃が走った。眼を見開き、傍にいるヒナクをまじまじと見つめる。このぼろぼろのローブをまとった幼い少女が、あの声のことを知っているのがあまりにも意外であった。


 ふと、ダイクは自分の脳裡から、何かが抜け出すような感覚を味わった。あの存在が一時的に抜け出す度に感じる感覚。


 部屋の中を霊的な風が渦を巻く。風に煽られていることははっきりと認識できるのに、卓の上の灯はその影響を受けずに燃えていた。


「知っているのか……あれを」


 ようやく出た、ダイクの言葉。それを聞いたヒナクは得意げに頷いて見せた。


「……お帰り、またあたしの中に戻って来たね」


 ヒナクの言葉で、あの存在が今度はヒナクの心の中で会話をしているらしいことが、ダイクには察せられた。


 思えば、クンドクとゴドウがダイクの来訪を前もって知っていたことも、あの声の存在が関与していたためであるのかもしれなかった。


 ダイクは、得体の知れない声の彼女と、それを内に宿した少女ヒナクの両方が、何か途方もない存在に思えてならなかった。

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