第一章 亡国の妖精

第1話 堕ちた騎士

 闇夜に染められた木々の葉に覆い隠された月が、妖しく揺らめいた。落ち葉に覆われた獣道に力無く仰向けになりながら、爬虫類人は月の光に照らされている葉をぼんやりと眺めていた。その瞳には疲労の色がありありと浮かんでいる。


 爬虫類人は己の鼻孔に、腐った落ち葉と己の脇腹のあたりからどくどくと流れ出ている血の臭いの入り混じった空気を取り込んだ。何度もその動作を行い、自分がまだ生きている証を認識し、生にしがみつこうと必死になって深呼吸を繰り返した。その度に傷口が開き、そこから激痛が奔ったが、身体の要求する呼吸を止める理由にはならない。


(ダイク、あなたは本当は死にたくないのね)


 爬虫類人の脳裡で、今となっては聞きなれた声が響いた。女性を思わせる柔らかい声。爬虫類人は鱗に覆われた腕を腹部に廻し、掌を傷口にあてがった。かぎ爪を備えた指の間から、血液は流れ出た。


(いつ死んでも悔いはない、死に場所を追い求めている、とあなたは言っていたわね。でも、あなたは今生きたがっている)


「……そうだ。おれは死にあらがっている。だが、もうじき追手もやって来るだろう……諦めるのにちょうど良いかもな」


 そう言うと、ダイクは咳き込んだ。口からごぼりと血を吐き出す。内臓が傷ついているのだろう。


 かつての地位を失い、傭兵に身をやつしてからのダイクの日々は、戦に次ぐ戦であった。忌み嫌われている爬虫類人であるが、発達した筋肉と下手な鎧よりも頑丈な鱗と生命力を持つこの種族は、他方では兵力として重宝されている。特にトカゲ型の爬虫類人は機動力に優れ、ダイク自身、剣の心得も十分にあり、傭兵になるのは容易いことだった。無論、金さえ貰えば死をも恐れない戦士として前線に赴き、敵兵を殺すことが前提であるが。


 信念も何もない世捨て人である自分が、国のため、家族のために戦っている者を大勢犠牲にして生き延びてきた。これまで、ダイクは冷めた眼差しで己が斬り捨てた者たちの死に様を見てきた。こうして自分が死の淵へ追い込まれて初めて、彼らも生きるために戦っていたのだということが理解できる。誰も死ぬために戦場へ赴くわけではないのだ。


(そうよ、ダイク。何故、あなたはそんな当り前のことに気づかないで……いえ、気づかないふりをしてきたの。あなたは自分に嘘をついて生きてきたからよ)


 ダイクはそれに答える気はなかった。黙って眼を閉じ、苦痛に堪えながら追手が来るのを待った。ここまで己に残された脚力を振り絞って逃げてきた。やがて力尽き、その場に倒れ込んだ。万全は尽くしたのだ。ならば、もう諦めるしか道はないではないか。


 草を踏む音がした。誰かが慎重な足取りでこちらに近づいている。ダイクは観念せねばな、と怯えの色が顕わになっていた自分に言い聞かせた。こちらに抵抗する力が残っていないと知れば、相手はすぐに止めを刺すだろう。


(諦めるの、ダイク。あなたは生きたい筈)


「生きたいさ。……でも、もう無理だ」


一瞬間があった。やがて、声はダイクの脳裡で語りかける。


(あなたは助かるわ、ダイク)


 ダイクは思わず聞き返したが、返答はない。何かが身体の中から抜け出すような感覚がおこり、冷たい空気の流れがダイクの足元の方へ向かって流れていった。それと同時にダイクは唐突な虚脱感に襲われた。


 不意に何者かの息を呑む気配があった。その者は足を速め、ダイクの傍らに近づいた。視界がかすみ、ダイクはその者の容姿をはっきりとは視覚できなかった。ただ、敵国の兵士にしては、鎧も身につけておらず、華奢な身体を質素な薄い布地の服に身を包んだ小柄な人物の影が、視界の隅に映った。


 身体の支えになっていた声の主がダイクの身体を抜け出たためであろう、重傷を負ったダイクの意識は急速に失われていき、相手の姿をそれ以上知覚することもかなわなかった。足を止め、ダイクの全身を見下ろしている人物が何事かを叫び、それに応えたもう一人の人物が駆け寄ってきた。


 ダイクは薄れゆく意識の片隅で、傍らの人物が呼んだ、一つの名前を聞きとった。


 ヘリオン、と。




 朦朧とした意識は、それまで忘却の彼方に押しやっていた光景を探るように蠢きながら、過去へと逆行していく。故郷を捨て、遠い異国で傭兵として自分を売り込む決心を固めた時。親しげな眼差しでこちらを見ながら会釈する、自分が生まれ育った故郷の農民の姿。ダイクを尊敬する若輩の者たち……。


 ダイクの意識はそれらの記憶を掻き分け、ある目的地を目指して過去を遡っていった。


 やがて、名門の出に相応しい者になるよう教育を受ける幼い日の記憶が浮かび上がった。並べられた卓の前の椅子に、同輩の者たちが腰をかけている。忘却していた理由を無意識ながらに感じ取り、ダイクはそれ以上遡ることを逡巡した。急かすように人間の教師がダイクに向かって、言葉を送った。不明瞭なものであり、言葉の内容は聞き取れなかったが、ダイクは自分の迷いを咎められている気がした。


「誰かが呼んでいる……。ぼくは呼ばれている」


 ダイクはそう自分に言い聞かせると、その場をあとにし、混在する幼少時の記憶を押し分け、名門の屋敷の庭園を訪れた。


 小鳥の囀りが聞こえ、よく手入れされている規則正しく並んだ庭木に囲まれた東屋に、白色の日が差している光景が目に入った。大理石で造られた東屋は日の光を反射し、昼間の情景の中で一際白く輝いている。角の柱が視界の正面に映り、恐る恐るそれをずらしていくと、台の上に腰を駆け、遠くの方へ向けて首を傾けている爬虫類人の貴婦人の姿が目に焼きついた。


「母さん……」


 少年となったダイクは呟くと、小走りに母のもとへ駆けた。それを制止する成人であるダイクの声が脳裏に響いたが、先走る少年の意志の前には無力であった。


 ダイクが母の側に駆け寄ると、母は小さく喉を鳴らし、ゆっくりと首を曲げてそちらを向いた。母の瞳は歳を感じさせる微かな白色が混じっていたが、それでもなお美しい藍色の瞳は、爬虫類人たちの羨望の的となるには十分なものであった。その瞳が我が子を純粋に慈しむ想いでダイクに向けられ、ダイクは内心得意になっている自分を認識していた。


 母の口が開き、言葉を紡いだ。ダイクの意識は先ほどの人間の教師と同様に、その内容を認識することはかなわなかったが、少年のダイクは嬉しそうに飛び跳ね、はしゃいだ。母が腕を伸ばし、少年の身体を抱き上げようとした。それと同時に、成人のダイクの意志がその場を逃れようと少年を引き留めた。だが、間に合わなかった。


 一瞬、少年は何が起こったのか分からなかった。ひゅんと何かが空を切る音が聴覚に伝わり、鈍い音がした。見ると、母の絹の服に覆われた胸に細長い鋼の棒が突きたっていた。母は声も上げずにその場へ倒れ込んだ。冷たい石の床に倒れているぐったりとした母の姿を前にして、少年は呆然と立ち尽くしていた。周囲で喧騒が起こり、次いで怒号と共に武装した爬虫類人の兵士たちが庭園を駆けまわった。その騒ぎで少年は我を取り戻した。


「母さん」


 ダイクが母親の身体を揺すり、何度も叫んだ。母は口の牙の間から血を流し、眼を閉じていた。成人したダイクの意識が少年のダイクのものとダブる。母を救いたい。そのためならば、己の命を捨てても構わない。ダイクの複数の意志が同時に強く願った。


 ダイクの意志が届いたのか、母の眼がゆっくりと開かれ、綺麗な瞳が顕わになった。母の口が言葉を紡ごうと動き出した瞬間、急速に周囲の景色が逆行していき、幼い頃の記憶の世界が崩れ出した。少年のダイクは懸命になって踏みとどまろうとし、先ほどまでここにくることを躊躇っていた成人のダイクの意志もまた、少年の意識と共に眼前の母親を脳裡に焼きつけようとした。それでも、この崩壊を止めることはかなわない。


 やがて、母の口がはっきりとした言葉を紡いだ。


「戻ってきなさい、ダイク」




 ダイクは脳裡で響いた声によって意識を取り戻した。声の主は一度ダイクの身体を抜け出し、今また身体の中に戻ってきたらしい。ダイクは微かに呻くと、上体を起こして周囲を見回した。


 ダイクが居る場所は外からの日の光がそのまま入ってくるほど浅い、内部を岩肌で覆われた洞穴であった。外の木々が視界に映り、どうやら山の岩肌が抉られてできている空洞であるらしい。奥には何を祭っているのかは判別できないが、小さな祭壇があり、その祭壇と多少傷ついてはいるものの滑らかな岩肌は、人為的に手を加えられていることを物語っていた。


 ダイクが横たわっているところには藁を編んで作った筵が敷かれており、薄い布がダイクの身体に被せられていた。ダイクの薄い布製の衣服は上半身だけ脱がされており、傷口には包帯が巻かれている。包帯には血が滲んでいたが、出血は治まっており、僅かに痛むだけで大分楽になっていた。


(敵の兵士はあなたのことをここまで追っては来なかったみたい。あなたは助かったのよ)


「……そうらしいな」


 ダイクはふうと溜息をつくと、自分の腹部を覆っている包帯を黙って見つめた。記憶を辿ってみると、重傷を負いながらも残された力で脚力を酷使し、戦場を抜け出して見知らぬ山奥に入り込み、力尽きて樹海の中で倒れ込んだことを思い出した。そのあとで、倒れているダイクの側に、ダイクが追手と思い込んでいた人物がそっと近づいてくる気配……。


「あの人がおれを介抱してくれたのか」


(そうよ)


 ふと、誰かが草をかき分ける物音がした。ダイクが見やると、洞穴の外には今しがた周囲の森林の中から出てきたらしい人物が立っていた。


 薄く青みがかった黒い髪が首筋の辺りまで短く切りそろえられ、その黒髪の左右から小さく尖った耳が突きだしている。滑らかな肌は瑞々しい幼さを残していたが、端正な顔立ちとまっすぐダイクを見つめる澄んだ瞳には確固とした強い意思が感じられ、成人らしい気品があった。


 質素な衣服の胸の辺りには仄かな膨らみがあり、その人物が女性であることを物語っていた。そうでなくとも、ダイクの研ぎ澄まされた嗅覚は、人間の女の匂いを感じ取っていた。


(人間……か)


 容姿や匂いは生身の人間とほとんど変わらない。尖った耳はかつて書物で読んだことのある神話時代の種族のものと似ていたが、それにしては幾分小さい気がした。独特の身体的特徴を備えた人間の部族というのは珍しくなく、ダイクはそれ以上憶測を廻らせるのを打ち切った。


 女は周囲を警戒するように見回したあと、ダイクに向かって軽く一礼し、洞穴の中に入ってきた。身体にぴったりと合っているズボンに覆われた細い足が慎重な足取りで進む。両手には種々の草花が抱えられており、それをダイクの傍らに敷いてあった薄い布の上にそっと置いた。


 改めて女はダイクの方へ顔を向け、視線を合わせた。内にある、眼前の爬虫類人に対する警戒を察せられないようにするためか、女は自分を見つめるダイクに向かって笑みを浮かべた。


「お目が覚めましたね。良かった」


 鈴を転がすような声。ダイクの脳裡にそれは心地よく響いた。血と硝煙の臭いに満ちている戦場では聞けないものだ。


「……何故、おれを助けた」


 言ってから、ダイクは心の中で自分を咎めた。助けてもらった恩義を感じていたのだが、傭兵である自分を助けたこの見知らぬ人物の真意には解せないところがあり、聞かずにはいられなかったのだ。


「あなたが怪我をして倒れていたから。他に理由が要りますか」


 女は平然としてそう言った。言葉を交わせただけで安心したのか、先ほどまで残っていた警戒心は微塵もなくなっている。ダイクは何か自分が忘れていた感情をつつかれたような気がしたが、すぐには分からなかった。


「しばらくは安静にしていてくださいね。これから薬と食事の用意をしますので」


 女はそう言うと、取ってきた草花を選別し始めた。おそらく薬草の類なのだろう。植物の濃厚な香りが漂ってきてダイクの鼻孔を刺激した。


「命を救ってくれたことには感謝しているよ。だが見知らぬ者を助けるなど、不用心だ。それにここにいては危険だ。この近くで戦争が起こっているのだから。きみも早く逃げた方が良い」


「知っています」


 女ははっきりとそう言い、祭壇の側に置いてあった土鍋と火打ち石を持ち上げると、入口の方へ持っていった。


 洞穴の入口の辺りには土で造った竈に囲まれた薪が重ねられており、女はその上に土鍋を置くと、懐から鉄片を取り出し、手際良く火をつけた。しばらく火が燃え上がるのを待ってから、再びダイクの側に戻って来ると、ダイクの傍らにしゃがみ込んで言った。


「ちょっと傷口を見せてください」


 ダイクが黙って包帯に覆われた腹部をさらけ出すと、女はするすると包帯を取り除き、患部をじっと見つめた。少し化膿していたが、思っていたよりも症状は軽い。女はほっとした様子で予め煎じていたらしい薬液の入った瓶を取り出すと、患部に塗り込んだ。やがて別の包帯を取り出すと、患部を覆っていった。


「医術の心得があるのか」


 ダイクが呟くと、女は「ええ」と言って頷いた。


「医者を志しているんです。街に下りて、名のある医師に弟子入りしたいと思っております」


 それでも、この女性の腕なら村医者としてなら通用するだろうな、とダイクは思い、感心していた。そのダイクの様子を見つめていた女が遠慮がちに言った。


「あなたの怪我を見た時、わたしでは助けられないかもしれないと思ったものです。でもあなたはとても強い生命力をもっておいでですね。もう傷口は大分塞がっていますよ」


 そこまで言ってから、女は急に慌てた様子でつけ足した。


「あ、あの、さっきはわたしのことを気遣ってくれてありがとうございます」


 暫しの間、ダイクには何のことだか分からなかったが、自分が彼女に早く逃げるよう進めたことを思い出した。


「いや、それよりこちらこそ礼がまだだった。ありがとう、あなたはおれの命の恩人だ」


 女が嬉しそうにほほ笑み、その顔を見ていたダイクも安堵を覚えていた。


「あなたの名前は何と言うんだい。知っておきたい。出来ることなら恩人には報いなければならないからな」


「あ、すみません。申し遅れました、わたしはリシエと申します。……あなたのお名前も伺いたいのですけど」


「おれはダイク……しがない傭兵さ」


「傭兵……」


 リシエと名乗った女は少し訝しげな様子でそう言った。戦場で戦っていた者であることは容易に想像がつくであろうに、ダイクは何が彼女に不審がられているのか分からなかった。


 リシエはすぐに気を取り直すと、言った。


「もうすぐ粥が炊けますから。あなたのお口に合うのか分かりませんけど」


 ダイクに向かって笑顔を向け、祭壇の側へ歩いて行った。その前で立ち止まると、恭しく礼をし、祭壇の前に腰を掛けた。


 リシエが祭壇の前で祈る様子を、ダイクはぼんやりと眺めていた。




 ダイクはリシエから差し出された薬草を添えた粥を食べている。外はダイクが倒れた時と同様に闇夜となっていた。


 ダイクはリシエの指示に素直に従い、横になって身体を休めた。リシエが何やらそわそわした様子で度々周囲を見回すのが気にかかったが、いつしかダイクは、心地好いリシエの若い女性の匂いと、薬草の香りを嗅いでいるうちに深い眠りに落ちていた。


 そんなダイクの様子をリシエは暖かく見守っていたが、ダイクが熟睡していることを確認すると、そっと立ち上がり、洞穴の隅に置いてある擂鉢を取り出すと、選別した薬草の幾つかを擂粉木で擂り潰し始めた。


 ふと、外から声がしたのに気がつく。リシエがはっとなり、入口の方を見ると、そこには焚火の明りに照らされている一人の少女が立っていた。


「ヘリオン。まだこんなところにいたの」


 リシエは驚いた顔で暗い面持ちの少女を見つめ、問い詰める様子で少女に近づいた。


 ヘリオンと呼ばれた少女は、リシエとよく似た容姿をしている。ただ、リシエが薄い青色が溶け込んだような黒髪を首筋の辺りで短く切りそろえているのに対して、少女のそれは背中の中ほどまで伸ばされており、洞穴の内部で焚かれている焚火の明りを受け、薄らと輝いていた。リシエのものと同じ尖った耳を有し、整った顔もリシエとよく似た面影をしていたが、リシエよりもずっと幼い印象があった。


「わたしのことはいいから、早く逃げなさい。急がないと手遅れになる」

 

 しかしヘリオンは首を横に振った。


「……一緒に逃げよう、お姉ちゃん。まだあの人たちは来ていないよ、今ならまだ間に合う」


「わたしはこの御方を助けるって約束したのよ。あなたには騎士様の剣の加護もついているでしょう。わたしがいなくても大丈夫」


「やだよ、やっぱり一人で逃げるなんてできない」


「ヘリオン」


 リシエが厳しい眼で妹を見たが、ヘリオンは泣きそうな顔でいて一歩も引こうとはしない。


 ダイクの身体から何か冷たい霊気が立ち上り、気配を感じたリシエは思わず緊張する。その霊気がリシエに体内に入り込むと、リシエの脳裡で声が響いた。


(危険よ、リシエ。すぐ側まで迫っているわ)


「そんな……まさかあの人たちが」


 リシエは意を決すると、ヘリオンの腕を掴み、顔から眼を逸らさずに言った。


「逃げるのよ、ヘリオン。追手がすぐそこまで近づいている」


「でも……」


 尻込みするヘリオンを叱咤しようとリシエが口を開くより前に、リシエの中に入り込んだ者の声が、リシエの脳裡で響いた。


(リシエ、あなたはヘリオンを連れて逃げなさい)


「え、そんな」


(この人はあなたが思っているよりも回復しているわ……それに私が護っているから大丈夫。あなたに助けて頂いてとても感謝しているわ。もうこの人のことは良いから、妹と一緒に逃げなさい)


「……ありがとうございます」


 リシエが見えない相手に一礼すると、それはリシエの身体から抜け出し、またダイクの身体へと戻っていった。


 リシエはヘリオンと共に洞穴をそっと抜け出た。ヘリオンは姉と一緒に逃げられると知り、嬉しさを抑えきれずに思わずはしゃいでいたが、ダイクを起こさないようにとリシエに注意され、黙り込んだ。それでも少女の顔には満面の笑みが浮かんでいた。




(ダイク、起きなさい)


 響いた声に眠りを妨げられ、ダイクは目を覚ますと、朦朧とした頭を振り、周囲を眺め廻した。洞穴の内部が外から入ってきている陽光に照らされており、どうやら一晩中眠っていたらしい。意識がはっきりしてくると、リシエの姿が無いことに気がついた。


(ヘリオンが戻って来る……何かがあったのよ)


「ヘリオンだって。誰だ、それは」


 声はそれには答えず、ダイクに警戒するよう促した。


(ここは彼女たちの集落の隠れ家の一つだったのよ。でも、その集落は焼かれ、彼女たちを追う者は間近に迫って来ていた)


 ダイクが耳を澄ますと、確かに洞穴の外から何者かが近づいてくる気配がした。ダイクは警戒しながら、ゆっくりと立ち上がる。まだ腹部に違和感を感じるが、リシエの治療が効いており、痛みは大分和らいでいた。


 程なくして、一人の少女が洞穴の中へ駈け込んできた。少女の容姿はリシエとよく似ているが、綺麗な長髪と幼い顔持ちが特徴的であった。


 ダイクは、その少女が握りしめている、銀色の鞘に入った剣に目を止めた。


「……おれの剣か」


 爬虫類人特有の冷たく鋭い声を聞いた少女は怯えの色を露わにした。


「あの……ごめんなさい、これ、お姉ちゃんから持っているように言われて」


 少女の姉……一瞬、ダイクは戸惑ったが、それがリシエのことを言っているということに気づくのに、時間は要さなかった。


「……なら、持っていくがいい。おれには過ぎた代物だ」


 しかし、少女は持っていた剣をダイクに向かって差し出した。


「お姉ちゃんを……あの、姉を助けてください」


 少女の様子には切迫したものがあった。ダイクは己の持ち物だった剣を取り戻すと、手の込んだ紋様を眺めながら呟いた。


「話を聞こう」


 怯えていた少女の表情に、僅かではあるが期待の色が浮かんだ。


「急いで、わたしと一緒に来てください。このままじゃ、お姉ちゃん、あいつらに殺される……」


 ダイクははっとなって少女の顔をまじまじと見つめた。


 自分の命を救ってくれたリシエの命が危険にさらされている――ダイクは、自分の心の中に、久しく忘れていた感情が沸き上がってくるのを感じた。


「わかった。すぐに、案内してくれ」


 少女の顔が明るくなった。少女はついて来るように言うと、急いで洞穴の外へ抜け出した。ダイクもその後を追う。


 外は既に昼間となっていた。梢に遮られた明るい日差しが周囲の景色に色を与えている。遠くからは小鳥のさえずりも聞こえ、近隣が未だ戦時下であるとは思えないほど、のどかな空間であった。


 少女は振り返り、ダイクがすぐ後ろについて来ていることを確かめると、藪の中をかき分けながら駆けていく。ダイクは少女の薄い肌が草木で傷つけられることを気にしたが、それだけ少女を突き動かしているものに対する危機感が増していった。


 ふいに生臭いものがダイクの鼻孔をついた。その臭いが充満した戦場で生きてきたダイクは、それが真新しい血の臭いであることを確信した。


 ダイクが強靭な脚力を発揮し、疾走する。驚いた様子のヘリオンを追い抜き、ダイクは己の嗅覚にを頼りに目的の場所へ急いだ。


 臭いがより明瞭になるにつれ、ダイクの心中では憤りと困惑が入り混じった感情が渦巻いていった。この先で明らかになるであろう光景が既に察せられたからである。


「リシエ……」


 その光景を目にしたことで、ダイクの瞳孔が大きく開かれた。想像していたとはいえ、実際に目の当たりにしたダイクの感情は絶望の色に染まっていた。


 うつ伏せになっている、血まみれのリシエの姿。そして、その周辺には薄汚れた鎧を身に着けた十人足らずの男たちがいる。大分落ちぶれてはいたが、その者たちはダイクが雇われていた正規軍の残党であった。男たちは、藪の中に隠れているダイクにはまだ気づいていない。


 リシエはおそらく絶命している。刃物で背中から斬りつけられ、そのうえで突き刺したのだろう。その出血の量からして、念入りに止めを刺されたことは想像に難くない。


「クソ、余計な手間を取らせやがって」


 男の一人が悪態をついた。


「先に逃げた方はまだ遠くには行っていないだろう。まだ子供だ、姉のことを気にして戻ってくるかもしれない。もう死んでいるとも知らずにな」


 年長の男が言った。その者の顔に微かな笑みが浮かんだのを、ダイクは見逃さなかった。


 徐々にではあるが、絶望に染まっていたダイクの心中に、激しい感情が沸き起こっていた。それは、最初に悪態をついた男が忌々し気に、死んだリシエの頭部を踏みつけた瞬間、強烈な激怒と憎悪の念として猛り、ダイクの心を支配した。


 ダイクは剣の柄を握りしめると、一気に鞘から引き抜いた。そのまま鬼のような形相で男たちの屯している獣道へと踏み入った。男たちは唐突に現れた闖入者である爬虫類人を目にして、口々に何事かを叫んだ。


 ダイクは男たちの言葉には耳を貸さず、怒り狂った感情に支配されているとは思えないほどの正確かつ俊敏な動きで、近くにいた男の一人に接近すると、手にした剣でその首を刎ね飛ばした。


 男たちがどよめく。男たちは、全く意に関した様子もなく次の標的を定めるダイクを見て、それが前線で最も恐れられている亜人類の姿であることを直感した。


 男たちは各々が手に剣をとり、ダイクに斬り掛かった。ダイクは持ち前の機敏な動きで迫る刃をかわし、また一人、敵対する男の胴を切り裂いた。男は激痛のあまり声を出すことも出来ずに後ろへ倒れた。


 ダイクの実力に圧倒される男たちであったが、やはり訓練された正規軍であり、隊長格と思しき男が上げた怒声で我に返ると、素早い動作でダイクを取り囲み始めた。


「敵は一人だ。殺れ、殺るんだ」


 多勢に無勢であったが、ダイクは怒りに突き動かされながらも本能で冷静に戦況を見据えると、取るべき行動に移った。

 

 男たちの凶刃を避け、あるいは腕力で相手の腕を叩き折り、ダイクは一直線に隊長格の男の首級を狙って駆けた。それを食い止めようと左右から二人の男が斬りかかってきたが、右から迫ってきた男の剣はかわし、左の男の剣は固い鱗で覆われた腕で弾いた。


 自分を目掛けて迫ってくる冷徹な爬虫類人の眼光に釘付けになった隊長格の男は、己の恐怖心を振り払おうと怒鳴り散らしながら、真正面から相手を斬り倒そうと剣を振り上げた。しかし、刹那の差でダイクの方が早かった。


 閃く剣戟。切り離された男の両腕が宙を舞う。断面からは血が噴き出し、正面にいる爬虫類人を真っ赤に染め上げた。ダイクは顔面に当たる血風を瞼で防ぎながら、相手を頭から断ち割った。


 どさり、と男は地に伏した。男の血と脳髄が地面を汚す。騒然となる周囲の者たち。男たちの眼に、次なる獲物を探す血に飢えた爬虫類人の姿が焼き付けられた。


 ひとたび戦闘が始まれば、ダイクは常に非情であった。半ば逃げ腰になっていた傍らの男を間髪入れずに斬って捨てると、断末魔を上げながら倒れる男には目もくれずに、応戦しようと剣を構えた男の首を一文字に刎ねた。


 地に倒れた男の数は五人。残る男は三人いたが、一瞬の間に仲間の半数以上が斬殺され、隊長すらも失った彼らに、もはや戦意などは残っていなかった。


 男たちは我先にと逃げ出した。ダイクは蛇の様な唸り声を発すると、逃げる敵を追い、一人の背中を斬り裂いた。


 背後で木霊した断末魔を聞き、男の一人が悲鳴を上げる。その者は追い迫ってきた爬虫類人の姿の方へ振り返ると、手にした剣をがむしゃらに振り回した。


 ダイクは強靭な腕力で以て剣を振るい、相手の剣をへし折り、左腕を突き出し、相手の喉元を鋭い爪で突き刺した。男は口から血反吐を吐き散らしながら倒れた。


 剣を携え、近づいてくるトカゲの亜人を前にして、最後に残った一人は尻もちをつき、片手を前に突き出しながら、叫んだ。


「待て、待ってくれ」


 ダイクはこの男も即座に切り捨てようとしていたが、ふと思うところがあって、切っ先を男の喉元に突き付けたままの姿勢で静止した。相手は怯えながらも、僅かな希望を見出したかの如く、喋りだした。


「おれはあんたのことを知っている。見たことがあるんだ、あんた、おれたちに雇われた傭兵だろ」


 相手はこちらのことを知っているらしい。ダイクは剣先を一寸もそらさずに、その者の話を聞くことにした。


「なあ、お前の斬った連中は敵国の兵士に殺られたって友軍に話しておく。それでいいだろ、な。だから、見逃してくれ……」


「何故、あの女を殺した」


 ダイクのドスのきいた声が響いた。相手の男は観念した様子で語りだした。


「おれたちは前の負け戦で撤退していた途中で孤立し、山中に逃げ込んだ。隠れながら友軍の到着を待つことにしたんだ。だが、食料はやがて底を尽き、友軍の戦況も全く聞こえてこない、周辺の地域には敵兵が大勢屯しているだろうから迂闊に引き上げることもままならなかった。そんな中、あの集落を見つけたんだ。ここは敵国の領土内だ……だから」


「略奪か」


「……そうだよ。あんただってわかるだろ、生き延びる為にそれが必要だってことが。軍の偉い奴らだって、多少の略奪は大目に見ている」


「そんなことより、おれはお前たちが女を殺した理由が知りたい」


 喉元に突きつけられたダイクの剣先に力が加えられ、傷つけられた男の喉から少量の血が流れる。男は若干躊躇したが、震える口で言葉を紡いだ。


「……集落の連中は何れ皆殺しにする予定だった。敵国におれたちの存在を告げられたら、全員の命が危ないからな。それに、もうあの女とは十分楽しんだあとで……」


 ダイクは己の剣を男の喉元に突き立てた。男は潰れたカエルの様な声を漏らし、絶望と怒りの入り混じった眼でダイクを凝視した。


 「十分楽しんだ」という男の言葉を聞いた時点で、リシエという女性がどういう扱いを彼らから受けていたのかが分かった。ダイクにとって、これ以上この男を生かしておく理由はない。


 背後から少女の慟哭が響く。ダイクが振り返り、そちらを見ると、姉の亡骸に縋りつき、打ちひしがれているヘリオンの姿があった。ダイクは血まみれの剣を携えたまま、泣き叫んでいるヘリオンの方へと近づいた。


 ヘリオンは返り血を浴びた爬虫類人を見上げると、思わずその声を止めた。少女は目を見開き、ぶるぶると震えている。ダイクは黙ってその様子を眺めていた。


(あなたに怯えているのよ、ダイク)


 ダイクの脳裏で、あの声が響いた。ダイクは己の内に諦念に似た感情が宿るのを感じた。やがて、ダイクはため息を漏らすと、ヘリオンに向かって言った。


「見ての通りだ。おれもこいつらと同じ、下賤な人殺しを生業としている」


 ヘリオンは怯えの色を隠せなかったが、ダイクに向かって、震える口で言葉を紡いだ。


「で、でも……あなたは名のある高潔な騎士様だって、お姉ちゃんが」


「騎士、か」


 ダイクは己の手にした剣を見やる。煌びやかな龍の装飾の施された銀色の剣。戦においては使い捨てのなまくらを行く先々で手にして振るってきたが、常に身に着けているこの剣で人を斬ることは無かった。しかし、今日この場で一つの誓いが破られたのだ。


「……これは聖剣だ。だが、それも過去の話。今はただの人殺しの道具に過ぎない、騎士の地位を捨てたこのおれと同じで、な」


 そう言うダイクは、自分が騎士としての地位を失った日のことを思い出していた。



 ヘリオンとリシエが暮らしていた集落では、ここを襲撃したあの軍人たちによって殺された住民の骨が、一か所に集められ、山積みとなっていた。住居や食糧庫も荒らされ、そこにあった食料は根こそぎ奪い尽くされていた。

 

 あるいは人の肉も連中が食い尽くしたのかもしれないな――ダイクはそう思った。ヘリオンは既に集落の現状を熟知しているらしかったが、何も語らなかった。


 ダイクとヘリオンは今日殺害されたリシエや、集落の住民たちの遺骨を村はずれの墓所に埋め、新しい墓を作った。


 ダイクは乗り気ではなかったが、ヘリオンがダイクに殺された軍人たちの墓も作ろうとしたので、ダイクはこれを手伝ってやった。ただ、村まで運び出す手間は省き、密林の中の獣道の外れに穴を掘り、そのまま埋めた。ヘリオンは仕方が無く、ダイクの行動に妥協した様子であった。


 リシエの墓の前で跪き、祈りを捧げるヘリオンの背中をぼんやりと眺めながら、ダイクは今後のことを考えていた。


 今更戦地に戻ったところで自分の居場所は無いだろう。隣国へ渡り、また傭兵として雇ってくれるところを探すのも考えたが、この場にいるヘリオンのことが気がかりであった。


 思案するダイクは、ふと、ヘリオンがこちらを振り返り、何かを言いたそうにしているのに気がついた。ダイクが身振りで促すと、ヘリオンは束の間躊躇っていたが、意を決した様子で言った。


「お姉ちゃん……姉のリシエが言っていました。あなたは一人では生きていけない、わたしに何かあったら、わたしの助けた騎士様に縋りなさい、と。だから、あの、わたし……」


 それを聞いたダイクは、改めてまだ幼さの残っている少女を見つめた。ヘリオンという少女は姉のリシエからとても大事にされて育ってきたのだろう。これくらいの歳で自立している女性は珍しくもないが、ヘリオンにそれを求めるのは酷な話なのかもしれなった。


(そう、ダイク。今のあなたのするべきことは……)


「みなまで言うな、わかっている」


 ダイクは己の脳裡で響いた声の主に言ったのであるが、ヘリオンはそれが自分に向けられた言葉だと思ったのであろう。戸惑った様子で口を閉じた。


 ダイクは小さくため息をついた。


「ヘリオン、と言ったな。おれはきみの姉のリシエに命を救われた。だからその恩を返さなければならない。これから一生をかけてでも、な」


 ヘリオンは目の前の爬虫類人が自分をそこまで助けてくれるとは思っていなかったのだろう。彼女は驚きの色を隠せなかった。


「今後、きみを護り抜くことがリシエの望みであるなら、おれはそれに従おう」


「あ、あの……ありがとうございます」


ヘリオンは、深々と頭を垂れた。




 ダイクには行く当てがあった。傭兵として生きる道を選んでから避け続けてきた地へ帰る。己の故郷の友人を頼る――ダイクにはそれが、ヘリオンを護り通す為に必要なことであると自覚していた。

 

 斯くして、ダイクとヘリオンは集落を後にし、新たな旅路に出発した。温かな空気を運ぶ春を告げる風が、二人の背中を後押しするかのように吹きすさんでいた。

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