リトル

深見萩緒

リトル


 リトル・ロスコー・アンダーソンの屋敷には、もうこの世のどこを探しても存在しない、あの愛すべき生きものがいる。


 重々しい鉄の門に刻まれた金文字は、ほとんど剥がれかけながらも、屋敷の持ち主が「ロスコー・アンダーソン」という人物であると主張している。そのやつれた刻み文字の下に猛犬注意のステッカーが、主人に寄り添うようにしてうらぶれていた。

 それは注意しなければステッカーだと分からないほどに朽ち果てていて、かさかさに干からびて剥がれかけていた。本来は「猛犬注意」の文字の周りを、赤と黄色の棘々が取り巻いていたのだが、それらは日光に漂白され、今や黒い文字の芯だけが、猛犬の存在を弱々しく主張していた。


 そうして来訪者を威嚇しながらも、門はいつだって開け放たれている。リトル・ロスコー・アンダーソンは、門の奥の暗がりから外界に視線を走らせ、危険がないかどうかを確認した。昼も薄暗い山道に人影はなく、ほかの生き物の気配もない。安全なようだ。

 ほんの十年前は、この門をくぐるのにそんな警戒は必要なかった。門の内にも外にも、あるのは秩序と平和ばかりだった。


 十年前、致死性の奇病が世界中に蔓延し、それに伴って発生した戦争や内紛によって多くのものが喪失した。

 真っ先に失われたものは秩序だった。弱者にも平等に与えられていた――少なくともと思われていた――救いの手は、不要のものとして切り捨てられた。地上は弱肉強食の世界へと逆戻りし、子どもや女性、年老いたものたちは搾取の対象となった。

 追って文明的な生活が失われた。煌々と夜を照らす明かり、蛇口を捻れば供給される清潔な水、充分に生産される食料――あらゆる文明的なものはことごとく廃れ、古典的な狩猟採集生活が一般的となった。

 暴力的なまでの変化の潮流は、リトル・ロスコー・アンダーソンのささやかな生活をも呑み込み、混沌の下流へと押し流していった。


「町へ行ってくるよ」

 大きな声で門の奥へ呼びかける。返事はなかった。リトル・ロスコー・アンダーソンは、リトルおちびちゃんの名に似つかわしくない大きな体躯を門の隙間に滑り込ませ、山道を下って行った。



 彼が本当にリトルだったのは、もう随分昔のことだ。彼がまだよちよち歩きだった時に、家族が彼をそう呼んだ。

 今となっては、彼には到底不似合いな名前と言わざるを得ない。しかし彼は、自らリトル・ロスコー・アンダーソンと名乗っていた。頭にくっつくリトルささいなものは、文明崩壊以前の世界が彼に残してくれた、輝かしい愛おしいものの欠片なのだった。

「やあ、リトル・ロスコー!」

 丘を下りて市街へ出ると、必ず誰かしらがリトル・ロスコーの名前を呼ぶ。

 性格は穏やかながら腕っぷしの強いリトル・ロスコーは、町の住民たちに歓迎されたが、彼自身は馴れ合いを好まなかった。普段は丘の上の屋敷でひっそりと暮らし、時々食料やら衣服やらを調達するために町へ出る。そのついでに町を見回るのが、リトル・ロスコーの仕事だった。


「リトル・ロスコー!」

 幼い声に呼び止められ、リトル・ロスコーは振り返った。

「やあ、ホワイト。最近、何か良いことはあったかね?」

 リトル・ロスコーの口ぶりは決して柔らかくはなく、むしろ僅かに威圧的な物言いだった。しかし、それが彼の愛すべき個性であることを知っているホワイトは、至って懐こい様子のまま「ええ、もちろん」と答えた。

「雉を何羽か捕まえました。ぼく、随分上手になったんです」

 まだ幼年に片足を突っ込んだままのその華奢な子どもは、何年か前にリトル・ロスコーが助けたみなしごだった。彼は廃ホテルのリネン置き場で、丸くなっているところを発見された。くすんだシーツの中に溶けこむように潜んでいたので、ホワイトと名付けられた。


 文明の崩壊後に産まれた彼は、リトル・ロスコーに付いて回っては、崩壊前の社会の様子を聞きたがった。不足と理不尽の中で生き抜いてきたホワイトにとって、食べ物や寝床の心配もなく、明日死ぬことに恐怖しなくても良い暮らしというのは、胸躍るおとぎ話のようなものだった。

 ホワイトが特によくねだったのは、の話だった。リトル・ロスコーも、あの生き物の話をするのが好きだった。

「彼らは我々の相棒であり、良き友だったのだ。互いを慈しみ、寄り添い合って生きていた。もちろん私も……」

「争ったりはしなかったのですか?」

「しなかったよ。充分な食べ物があったから、争う必要などなかったのだ。懐かしいなあ。あの公園へ一緒に遊びに行ったんだ。鳩がたくさんいた。今みたいに、取って食いやしないよ。むしろ、こちらの食べ物を分けてやっていた。パンを小さく千切って投げて寄越すと、鳩がわあっと寄ってきて……」

「パン?」

 そうだ。ホワイトはパンを知らないのだった。リトル・ロスコーは酷く悲しい気分になって、深く首をうなだれた。柔らかく、ほんのり甘いパンの味を、この子どもは知らない。惨めだ、と思った。しかし、パンの味を知らないホワイトと、パンの味を忘れられない自分とでは、一体どちらが惨めだろう? いくら考えても分からなかった。


「リトル・ロスコー?」

 ホワイトが心配そうに、高い声でリトル・ロスコーの名前を呼ぶ。リトル・ロスコーは彼を心配させないように、ゆっくりとまばたきをした。

「大丈夫だよ。ただ、悲しくなったのだ。愛おしいものは何もかも、失われていくばかりだからね」

「元気を出して。そうだ、ぼく、食料集めを手伝いますよ!」

 ホワイトは珍しくはしゃいで飛び跳ねた。敬愛するリトル・ロスコーのために働けることが、嬉しくて仕方がないといった様子だ。

 彼の善意に甘えることにしたリトル・ロスコーは、ホワイトと共に大型スーパーへ赴き、布製のバッグを広げた。

 瓶詰めのピクルス、肉や魚の缶詰。そういったものを集めて袋に入れる。紙やビニールに入った食料は、とっくに誰かが持ち去っていた。残っているのは、開けるのに手間取るものばかりだ。案の定、ホワイトは缶詰の開け方を知らないようだった。

「こんな硬いものが、本当に食べられるんですか?」

「そのまま食べるんじゃないよ。この中に、食べ物が入っているんだ」

 ホワイトに缶詰を食べさせたい。リトル・ロスコーはそう思った。缶詰を食べさせて、温かい布団で眠らせてやりたい。そして……に会わせてやりたい。


 リトル・ロスコーは、記憶の共有者に飢えていた。もはや町のどこを探しても、あの優しい日々を知るものは生き残っていない。僅かに生き残っていても、リトル・ロスコーのように望郷の念を抱いているものは皆無といえよう。それが、たまらなく寂しかった。

 つまるところリトル・ロスコーは、友を欲していたのだ。懐かしいあの日々――ホワイトにとっては未知の、素晴らしい失われた日々に、共に思いを馳せて欲しい……。

「ホワイト」

 名前を呼ぶと、子どもはすぐに振り返った。黒水晶のような目玉に、リトル・ロスコーの憂いた顔が映っている。

「私の屋敷には、あの生き物がいるんだよ。会ってみたいかい?」

 低く囁くと、黒水晶はたちまち期待の色を帯び、きらきらと煌めいた。



 自分以外の誰かを屋敷へ入れるのは、初めてのことだった。

 屋敷の門は開け放たれている。黒い鉄に金の刻み文字。その下には、猛犬注意の剥がれかけたステッカー。リトル・ロスコーにとっては馴染み深い風景だが、ホワイトには何もかもが新鮮だった。


 この子があの生き物を見たら、どんな反応をするだろう。リトル・ロスコーは期待してもいたが、同時に恐怖もしていた。

 あの生き物たちは、今や絶滅の危機に瀕している。少なくともこの辺りでは、もう丘の上の屋敷にしか生息していない。もしかしたら世界でただ一人、この屋敷にしか生き残っていないかも知れない。だからこそ永遠に失われてしまう前に、ホワイトに会わせておきたかった。

 けれど……もしホワイトが怯えて近寄らなかったり、あまつさえ嫌悪感を示したりしたら、どうすればいいだろう。

 どうか、ホワイトがあの生き物を受け入れますように。

「ただいま」

 心から願いながら、リトル・ロスコーは門をくぐった。


「やあ、おかえり」

 門の向こうに立っていた男は、リトル・ロスコーの姿を見付け片手を上げた。もう片方の手には、ブリキのジョウロを握っている。菜園に水をやっていたのだろう。彼はリトル・ロスコーの連れている真っ白な子犬を見て、少し驚いた後で、喜びの声を上げた。

「リトル・ロスコー! 随分と可愛らしいものを連れて来たね!」

 二足歩行の生き物は子犬を抱き上げ、いつものように、リトル・ロスコーの首に下がった布袋を手に取った。教えもしないのに、リトル・ロスコーは町から物資を持って来る。男は、それに随分助けられていた。

 彼の名はロスコー・アンダーソン。この屋敷の持ち主である、人間のロスコー・アンダーソンだ。



 ロスコー・アンダーソンは丘の上の屋敷で、家族と共に暮らしていた。年老いた母親、愛情豊かな妻、二人の息子。そして下の息子の誕生日に、新たな家族として迎えた小さな子犬。

 子犬はあんまり小さく可愛らしかったので、家族の誰からもリトルおちびちゃんと呼ばれた。そして、それがそのまま彼の名前となった。

 どこへ遊びに行く時も、必ずリトルが一緒だった。町を散歩し、河川敷でボール遊びをして、公園でピクニックをする。息子たちが鳩にパンを与えると、リトルが寄って行き、自分にもくれと要求する。

 パンをもらってご機嫌なリトル。笑う子供たち。ロスコーは妻に寄り添い、母親に紅茶をついでやりながら、欠けのない幸福を神に感謝した。美しい、夢のような幸福……。


 リトルがリトルおちびちゃんでなくなったころ、アンダーソン一家を災厄が襲った。一家だけでなく、世界中のあらゆる家族の元を、災厄は嵐のように駆け巡っていった。それは抗いようのない、病の災禍だった。 

 人間のみに感染し、人間のみを死に追いやる疫病は、瞬く間に世界を崩壊へと導いた。幸か不幸か、ロスコーは死を免れた。しかし病は、体力と寿命と家族とを、彼の元からごっそり奪っていった。

 幸福に霞んでいた目を見開いた時にはもう、ロスコーの両手からは何もかもがこぼれ落ちていた。残ったものは、家族なくしては広すぎる屋敷と、病の爪痕を深く残した肉体と、リトルだけだった。

 菜園と鶏舎の世話をするだけで息切れをする身体を引きずって、ロスコーは義務として生き続けた。この世に遺された僅かな――或いは最後の――人間として、彼は生きなければならなかった。


 リトルもまた、もはやただの愛玩動物としては生きられぬことを悟ったように、実によく働いた。野うさぎを追い、小鳥を捕まえ、野犬にも果敢に牙を剥いた。

 その頃からロスコーは、その犬をリトルではなく、自分と同じ名で呼ぶようになった。犬は逞しい四本の脚で、絶望の世界を縦横無尽に駆け回る。目の前にどんな障害があろうとも――瓦礫や倒木、目を背けられない死の光景すら大したことないと言わんばかりに、全てを飛び越えていく。それが羨ましかった。

 ロスコーの肉体は、何を乗り越えていくにも弱りすぎていた。あれが自分であればと、叶わぬ夢想をした。だから彼は、その背に自分を乗せることにしたのだ。


 犬の名は、リトル・ロスコー・アンダーソン。輝かしき日々の名残を頭に留め、滅びゆく生き物の名を背負う。

 彼は犬となり、犬は彼となった。リトル・ロスコー・アンダーソンが屋敷の外へ出かけ、何かを打ち負かしたり、何かを守ったりするたびに、人間のロスコー・アンダーソンの心は救われていった。



 泡とお湯とでしっかり洗われ、くすんだ白だったホワイトは正真正銘のホワイトとなった。温かい水、嗅ぎ慣れないシャンプーの芳香。ホワイトは最初こそ酷く怯えたが、リトル・ロスコーが平然としているのを見て気を持ち直し、無事に全身のダニとノミを洗い流すことに成功した。

 水気がすっかり乾いてしまえば、ホワイトはもうほとんど、洗いたてのタオルと見分けがつかないほどだった。


「ほら、これをお食べ」

 人間のロスコーが差し出した器には、鳥の肉らしきものが乗っていた。しかしホワイトの知る鳥肉ではない。妙に白っぽくて、ところどころ茶色になっていて、何とも食欲をそそる香ばしい匂いがする。

「リトル・ロスコー。これは何ですか? とても美味しそう!」

「これは鳥を焼いたものだ。肉を火にかけると、こういう風になるのだ」

「火って、熱くて煙たい、あの恐ろしいものですか?」

「そうだよ。我々にとって火は脅威だが、人間は火を使い、我々では考えもしないことをやってのけるのだ」

 話が終わらないうちに、ホワイトは我慢できなくなって、鳥の丸焼きにかぶりついた。肉とは思えないほど柔らかく、脂が口の隅々まで広がって、今までに食べたどんな肉よりも美味しかった。

 それからホワイトは、硬くて冷たい、あの缶詰の中身にもありついた。リトル・ロスコー曰く魚の肉らしいが、焼いた鳥よりも美味いものではなかった。


 食事の後は、屋敷を隅々まで見て回った。玄関、リビングルーム、風呂場、台所、バルコニー。どこに行っても染み付いているリトル・ロスコーの濃い匂いは、ここが彼の縄張りであることを強固に主張している。ホワイトは歓喜と緊張の狭間にいた。

(これは、リトル・ロスコーがぼくを家族だとみなしたと、そう受け止めても良いものかしら。だとしたら、なんて光栄なことだろう)


 最後に行き着いたのは、二本足のロスコーの寝室だった。そこはリトル・ロスコーの寝室でもある。ホワイトは、明らかなプライベートの匂いに尻込みしたが、リトル・ロスコーに促され、その部屋に一歩踏み込んだ。初めて嗅ぐ匂い。しかしどこか懐かしい、人間の生活の匂いがした。

「おいで、リトル・ロスコー」

 人間のロスコーはベッドに横になり、リトル・ロスコーを呼ぶ。そしてホワイトにも手招きをした。ホワイトは恐る恐るベッドの上に上がった。そこは信じられないほど柔らかくて、温かかった。

 ようやくリラックスしてきたホワイトは、人間のロスコーの匂いを嗅いだ。手の甲、胸、それから耳元。ぺろりと舐めてみる。

(ああ、あなたが人間ですね。リトル・ロスコーが話してくれた、ぼくたち犬のふるい友)

 くすぐったがって肩をすくめる人間の顔を、夢中になって舐める。

(これが人間なんですね。少ししょっぱい、寂しい味のする生き物ですね。ぼくは、あなたの寂しさを癒せるでしょうか? どうしてだか分からないけれど、ぼくはあなたに喜んで欲しいと思います。どうしてでしょう。あなたがリトル・ロスコーの家族だからでしょうか? それとも、あなたが人間だからでしょうか……)


 リトル・ロスコーに首元を甘噛みされて、ホワイトは落ち着きを取り戻した。そして興奮し過ぎた自分を恥じ、リトル・ロスコーにならってベッドの端で丸くなり、目を閉じた。

 微睡まどろみながらホワイトは、人間のロスコーが、不思議な唸り声を上げるのを聞いていた。遠吠えのようでもあるが、ずっと慎ましく優しげな声。低く、高く、また低く……。

 それを聞いていると、悲しいような、どこかへ帰りたいような気分になって、ホワイトは夢うつつのまま甘えた声で鳴いた。



 その夜、人間のロスコーは夢を見た。それは人間という生き物の、魂に刻まれた記憶が見せたものだった。

 夢の中で、彼は原始の人間だった。何世代か前にようやく火の扱いを覚え、地上の覇者としての頭角を現し始めた、未熟で未完成な人類だった。彼の傍には常に、四足の生き物が寄り添っていた。

 狩りと食事、そして移動。単調だが困難な繰り返しの中、ふたつの生き物はいつも身を寄せ、互いを温め合っていた。原始のロスコーも同様に、狩りに疲れた身体を洞窟の隅に横たえ、隣に眠る獣の呼吸を聞いていた。

 毛皮に覆われた彼らの身体の、なんと温かいことか!

 呼吸に合わせて上下する腹に頬を寄せれば、ぼうぼうと柔らかな音が鼓膜をくすぐる。小さな声で呼びかければ、すすきの房にも似た尾がひとふりされる。

 言語化されていない思考回路の中、原始のロスコー・アンダーソンは、その四足の生き物と、目の前の焚き火と、かつて己を抱いていた父母の腕とを結びつけた。それはつまり安心であり、回帰であり、愛だった。


 同じ夜、ホワイトもまた太古の夢を見た。

 人間たちは焚き火を囲み、時おりホワイトを見て、目を細め口角を上げた。それを見るとホワイトの白い尾は、ふさふさと左右に揺れるのだった。

 牙も爪も持たない、硬い鱗も暖かな毛皮も持たない、獣のなり損ないのような生き物。犬と、その貧弱な毛のない猿たちは、互いの欠点を補い合いながら、永い時を旅した。何世代もかけて大陸を横断し、海を渡って……。



 そして、ホワイトは目を覚ました。深夜の空気を突き抜けて、明るい月の光が彼を照らす。その時、ホワイトは全てを理解した。

(ぼくたちは、ずっと一緒に旅をしてきた。その旅の終着点が、この柔らかなベッドの上なのだ。ぼくはさっき、この人間から寂しい味がするように思ったけれど、それは間違っていた。寂しいのは、ぼくたちの方だ。ぼくたち犬と人間は、永い時を共に旅してきたけれど、人間はもう、この先へは行けないのだ。ぼくたち犬は、ひとりぼっちで、これから先を旅していかなければならない……)


 たまらなくなって、ホワイトは鼻先をシーツの間へ潜り込ませた。視線だけを上げると、真円よりも少し欠けた月が、窓の真ん中に居座っていた。

 太古より変わらないように思えるあの月ですら、僅かずつ変わり続け、失われ続けている。そうであるならば、月よりもずっと小さく柔らかな存在が、永遠でいられるわけがない。

(失われることこそが世界の有りようなのだとしたら、それって、なんて悲しいんだろう……)

 とうとうホワイトの喉から、引きつるような鳴き声が絞り出された。リトル・ロスコーの耳がぴくりと動いた。

「眠れないのかい」

 ホワイトに声をかけたのは、人間のロスコーの方だった。骨ばった大きな手が、ホワイトの背中をゆっくりと撫でる。

「歌を歌ってあげようか」

 人間のロスコーは、ホワイトの背を撫でながら、あの奇妙な唸り声を上げた。

(そういえば、これはウタというものだった)

 ホワイトはその声を、ずっと昔から知っているような気がした。愛しいものを包み込むための声だ。

 人間のロスコーに体重を預けて、ホワイトは歌に耳を傾けた。リトル・ロスコーも、目を閉じたまま聞いているようだった。


 二匹の犬は、遠くない未来に聞くことの出来なくなるこの声を、魂の中に丁寧にしまい込んだ。

 いつか彼らの子孫が、日向のぬくもりに微睡まどろんだ時――或いは、冬の厳しさに身体をこごめた時、彼らの魂が見せる夢の中に、奇妙な生き物が現れるだろう。

 毛皮を持たず、どんな犬とも似ても似つかず、二足で歩くその珍妙な生き物は、彼らに親しげに笑いかける。笑顔――そう、目を細め、口角を吊り上げるあの仕草。彼らはそれを知らないにもかかわらず、きっとそれを嬉しく感じるだろう。

 そして、二足歩行の生き物たちはウタを歌う。歌い、眠り、狩りをして、歩き、時には疲れて倒れ込み、やがてまた歌いながら歩き始める。旅をする。どこまでも……。

(いつかぼくたち犬にも、旅を終えるべき時が来るだろう。その時、ぼくたちは一体、どこに辿り着いているだろうか……)



 人間のロスコーは、いつの間にか穏やかな寝息を立て始めていた。その隣で、リトル・ロスコーが頭をもたげ、低い小さな声で言った。

「もうお休みよ、リトル・ホワイト」


 月の光が窓を切り取り、一人の人間と二匹の犬にスポットライトを当てている。

 リトル・ロスコーの温かい舌が、ホワイトの目元を優しく撫でた。ホワイトはそれで安心して、丸めた身体を一層丸めて、今度こそ深い眠りについた。生まれて始めての、危険のない、穏やかな眠りだった。



<終>

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リトル 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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