大坂の陣

第43話『大坂の陣』

方広寺鐘銘事件……三河狸が銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康および徳川家を冒瀆するものとみし、イチャモンをつけて豊臣宗家を滅亡においやった事件である。


三河狸と相まみえる覚悟を決めていた俺は、方広寺鐘銘事件を回避することなく、正史通りに起こした。


この頃、豊臣宗家は二条城の会見後の1611年浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正が、1613年に池田輝政、浅野幸長、1614年に傅役の前田利長といった豊臣恩顧の諸大名が死んだことにより、孤立が強まっていた。


更に徳川により、多くの関ヶ原・大井川の戦いで西軍方の大名が改易又は減封処分にされるなど、大幅に国力を落としており、筆頭には信州の真田昌幸信繁父子の九度山追放であった。


これは親徳川の真田信幸を真田家当主の座に据える為に仕掛けられた罠のためであった。昌幸は高齢で病気を患っていた為に、信州にて療養中に死亡した。それに依り実際には信繁のみが追放された。


また豊臣一門の宇喜多秀家がこれまでの行動も相まって改易の上八丈島へ追放。他にも美濃八幡城城主の毛利勝永や土佐浦戸城主長宗我部盛親、若狭敦賀城主大谷吉継、吉治父子などがお家騒動等で改易とされていた。


このような現状を打破する為には、一戦相まみえる他なかった。俺は兼ねてから兵糧や浪人を集めていたのだが、更に多くを集め、守りの手薄な豊楽第から強固な大坂城に移るなど、徳川家康との対決姿勢を前面に押し出した。


徳川家もまた決して黙って静かにしている訳ではなかった。国友鍛冶に大鉄砲、大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、英蘭に対し大砲、硝石、鉛の注文を行っており、最早戦の回避というものは完全に不可能であった。


1614年遂に旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし、俺は本格的に戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂の諸大名蔵屋敷より蔵米を接収した。


更に父秀吉公の遺した莫大な金銀を用い、浪人衆を全国より招集し召抱えた。しかしながら、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、毛利家家臣や福島正則の親類をはじめとした一部の大名家臣が参陣するに止まった。


また籠城する場合に備えた武器の買い入れ、二重総構えの修理・櫓の建築なども同時に行った。


大坂城には全国より徳川に復讐を誓う者、豊臣の再起を願う者、武功を挙げることを考える者、十人十色様々な考えをもつ者が集った。


後に有名になるのが、真田信繁(幸村)後藤又兵衛基次、明石全登、長宗我部盛親、毛利勝永ら大坂五人衆である。他にも大谷吉継、吉治父子や塙団右衛門、公家ながら参陣した持明院基久など武士に問わず多くが馳せ参じたのである。

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豊国のプリンス〜豊臣秀頼に生まれ変わったので、滅亡エンドを回避しようと思います〜 橘 有栖 @Ailice_dhole

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