そのシャツが赤く染まるまで
ニャルさま
そのシャツが赤く染まるまで
家の前の坂を下りると、小さな公園がある。その角に、いつも松葉杖がある。
日よけの屋根がついたベンチの脇にはライン引きが立てかけられている。学校の用務室にある白い粉――石灰の入った赤いカートだ。
それはどちらも俺と彼女に関係のあるものだった。
彼女が公園に来る。
そのことを考えると俺の心は動揺した。恐怖と不安で苦しくなるが、同時に期待や高揚も感じている。胸が高鳴っていた。
――落ち着いて準備をしなくてはいけない。もうすぐ彼女が来るのだから。
ライン引きのカートを持ち出すと、広場に正方形を描く。長さは10メートル足らず。狭い公園とはいえ、そのくらいのスペースはあるのだ。
――準備はできた。それともう一つ。
試しておきたいことがある。
ベンチに置いてあるカバンから三脚を取り出し、スマホをセットしようとした時だった。かがみこんだ俺に大きな影がかぶさった。
高鳴っていた胸の鼓動がさらに速く脈打ち始める。冷や汗がポタポタと流れ落ちる。高揚が混ざっていた俺の心は恐怖であふれんばかりになった。
顔を上げる。
そこにいたのは身長190センチメートルに届こうかという巨体。割れたアゴ。短く刈りあげられたおかっぱ。歯茎を出した豪快な笑み。そして、見る者を威圧する鋭い眼光と妙に整ったまつ毛。
白い道着と黒帯を身にまとった彼女――
「逃げずにやって来るとは感心じゃねぇか!」
見た目通りの粗暴な口調だったが、声質は甲高い女の子らしいものだった。外見からかけ離れていて、どうにも違和感がある。
「白線で試合場を描いておくとは気が利くねぇ。だが、それは何だ?」
撮影用にセットされたスマホに目をやると、彼女の目が俺を睨んだ。
威圧的な風貌と女性らしい声が波状攻撃のようになり、俺は一瞬わけがわからなくなった。
だが、質問は予想していたものだ。
「権田原さんとの試合を撮って、あとで研究しようと思ってさ。君はパワーがあるだけじゃなく、動きに小回りが効いて、格闘ゲームのハメ技みたいだから……」
後半の例えがグダグダだが、おおむね想定通りに答えることができた。
「ふん、ハメ撮りってわけかい」
そう言ってガハハと笑う。
この返しは予想外だった。声が可愛らしいだけに、ついどぎまぎしてしまう。
彼女には恥じらう様子が微塵もない。見た目通りに豪放で男らしい性格なのか、ただ知らずに口走っただけなのか。
俺と彼女は試合場に立ち、互いに向かい合った。こうしていると彼女が放つ強圧的なオーラを一身に浴びているようだ。
「あんた、そんな制服姿でいいのかい?」
道着姿の彼女に対して、俺はジャケットを脱いだだけのYシャツ姿だった。自分なりに考えた上での格好だ。気にする必要はないが、彼女の気遣いが感じられて緊張がほぐれた。
「これが俺の戦闘スタイルだ。構わずかかってこい!」
なんとか軽口で返すことができた。それに対し、彼女は呆れたようにため息をつく。
「そうかい。ま、心意気だけは買ってやるよ」
そして、今までに増して顔つきが鋭くなる。
「せいや!」
気合とともに彼女の左腕が突き出される。空気を切るような音が鳴り、巻き起こった風が髪を逆立たせる。
しかし、これはジャブだ。あくまでスピードを優先した牽制のためのパンチ。俺の姿勢を崩し、次の一撃につなげるのが目的のはずだ。
突きはすぐに引き戻り、今度は右腕の正拳が俺の顔面に迫った。
――予想通りだ。
腕のガードに正拳を擦らせて避けると、間合いの内側に一気に入り込む。
と思ったのだが、右腕も素早く引き戻り、俺はガードを解けないまま前のめりになった。彼女の姿勢が低くなり、その左足が旋回する。
綺麗な弧を描いた回転。左足は俺の頭めがけて飛んでくる。その軌跡が見えなくなると、俺の後頭部に衝撃が走る。
俺は気を失った。
目が覚めると公園のベンチで横になっていた。どれだけの時間が経っていたのだろう。彼女の姿はすでにない。
手にメモ用紙を握らされていたことに気がついた。そこには素っ気なく、こう書かれていた。
「またくる」
彼女の外見には似合わない、けれど声にはよく似合う、可愛い丸文字だった。
彼女の回し蹴りで受けた衝撃を思い出す。痛みとともに快感があった。
頭部を揺らされてKOしたボクサーは失神する時に天国のような悦楽を味わうという。
それが彼女によってもたらされたのだ。
――またくる。……いい言葉だ。
彼女とまた戦える。彼女の全力をまた受けられる。
それは幸せなことだった。
ふと自分の着ているYシャツを見る。白いままだ。
――今日は簡単にやられた。だけど、もっと強くなれば……。
彼女との力の差が少なくなれば、ここまで一方的な戦いでなくなり、流血は避けられなくなるだろう。このシャツも赤く染まる。
そう考えると、試合前に感じていた高揚が甦ってきた。
ふらふらと立ち上がる。どうやら足に来ているらしい。坂を登って家に帰るのもつらい。
ふと、公園の角を見る。松葉杖が置いてあった。
――彼女が持ってきてくれたのか?
俺は松葉杖を頼りによろよろと立ち上がった。
ライン引きのカートはとても持ち帰れない。ベンチの脇に立てかけておくことにした。そして、頼りない足つきで家路につく。
それが、彼女が初めて公園に来た日のことだった。
それからだ。俺が目をさますと、公園の角にいつも松葉杖がある。
そのシャツが赤く染まるまで ニャルさま @nyar-sama
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