実家の花瓶
棚霧書生
実家の花瓶
先日、久方ぶりに帰省したところ、実家の玄関に見覚えのない花瓶があった。白とピンク色の可愛らしい花々が生けられており、生命力に満ちた瑞々しさを放っていた。
花を買うなんて洒落た趣味を持ち合わせる者はこの家には誰もいないはず。これはいったいどうしたことかと母に理由を聞いたところ退職祝いに職場の人から貰ったとのこと。折角、綺麗な花を贈ってもらったのに、使い終わりの牛乳パックでは味気ないからと花瓶は新しく購入したらしい。なるほど、それならば納得だ。
しかし、そうすると、花を生ける習慣のない我が家では今挿している花が枯れたら、あの花瓶は当分使われる機会がないのではないか。それは少々もったいない気もしたが、それもまた我が家に来た花瓶の運命。余生はインテリアとして過ごしてもらい、たまに花が贈られるのを待ってもらうしかあるまい。
花というのは意外と長持ちするものなのだと初めて知った。一ヶ月、二ヶ月と経っても実家の花瓶に生けられた花の精彩は失われることがない。花は儚いものの喩えにされることがあるが、そこまで儚いわけでもないのか。それとも、花の種類によって枯れにくいものもあるということか。などと思っていた最初の頃が懐かしい。花が全く枯れない。いや、それはいいことなのかもしれないが、かなり変だ。花は枯れるものだろう。一年が過ぎても枯れる気配のない花に、いくらなんでも長生きすぎやしないかと考え出した。
もしかして、気づいていないうちに母が新しい花に変えているのか。そうだ、そうに違いない。早速、母を捕まえて花について聞いてみた。結果、えっ、知らない、アンタが新しいのにしてたんじゃないの、と返された。いや、知らないのはこっちも一緒だから、不審な顔をしないでくれと思った。
枯れない花のことが段々と頭から離れなくなってきて、この頃、帰省の回数が増えた。失礼にも母からは仕事が上手くいっていないと思われているようだが、母さんの顔が見たいからと言って誤魔化している。帰らない時期には、顔を見せろ見せろと言い、しょっちゅう帰れば帰るで、ここはホテルじゃないぞと言う。全く、帰ってきてほしいのか、ほしくないのか、どっちなんだ。
悶々とした気持ちのまま眠ったからか、夜中に目が覚めてしまった。台所で水を一杯飲む。まだ暗いし、もうひと眠りしようかしらというところで、ふと思い立って、玄関に足を向けた。
真夜中なら花の調子も昼間とは違うのかもしれない、と何の気なしに様子を見ようと思ったのだ。そこで、まあ驚いたこと。花瓶と例の枯れない花々が青白く光っていた。フラフラした足取りで花に近づく。寝起きのぼんやりした頭ではあったが、これはもっとちゃんと見て、花がどうかしてるのかを確かめなければ、と強く思ったのだ。片手で茎をまとめて掴み、花瓶から花を全部引き抜く。その途端に、キャアッと短く、幼い女の子の悲鳴が耳に響き、ハッとした。外で何かあったのだろうか。慌てて、玄関のドアを開こうとしたら、また女の子の声で、返して返して、花、返して、と言うのが聞こえた。
女の子の声が近い。まるですぐ隣にいるかのような声の近さだ。カタカタカタカタ……、光ったままの花瓶が揺れている。地震か、と自分がまだ理解できる現象を思い浮かべるが、再び聞こえてきた、返してぇ返してよぉ、という涙声にその考えを打ち消した。花瓶だ。花瓶が喋っている。
ハハハ……と乾いた笑いがこぼれ落ちた。人間、本当に不可解な状況に陥ると笑うしかないのだなと一生知らないままで良かったであろう体験を得た。
そこからの記憶は曖昧だ。ただ、ゴメンねぇ、お花は返すから許してねぇ、と猫なで声を出しながら、急いで花を元に戻し、オヤスミと挨拶をしたか、しなかったかまではよく覚えていないが、とにかく花瓶から逃げるように布団に飛び込んだ。
翌朝、頭もいくらか冷えてきて、あれは夢だったのではないかと思った。そうだ。きっと花がいつまでも枯れないのは、花瓶に不思議な力があるのかもしれないと無意識に考えていたからだろう。昨夜は脳味噌に妙な夢を見させられただけなのだ。あれは夢だった、と思い込もうとした矢先、花瓶から玄関床まで一直線にできた水の跡を見つけてしまった。
先々週、フリーマーケットに参加した。どこの地域かは伏せておくが、あの花瓶は売れて、もう手元にはない。買っていったのは上品な感じの奥さんだったので、きっと今度は色々な花を生けてもらえるだろう。一応、言っておくと厄介払いではない。我が家のような風流からは程遠いところにいるよりは、花瓶として活かしてくれる人のもとに行った方があの花瓶も嬉しいだろうと思ったのだ。末永く、風流人に愛されることを願っている。本当にこんな無粋な輩のもとには戻ってこなくていいので、花瓶としての生を大いに楽しんでほしい。
実家の花瓶 棚霧書生 @katagiri_8
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