第5話

 ノゾミはライターのスイッチから指を離した。

「え? 見えないんじゃなかったのか」

 女の子のいる方へ顔をやるが、やはり見えない。

「今、目が開くようになりました。夜で、手も顔も、見えます」

「あたしには、何も見えないんだけど」

「あの……目が、見えないです」

 すぐには女の子の言っていることがわからなかった。しかしノゾミはその意味に気づいて、ライターごとしまった左手で顔の、自分の目の辺りを触った。

 そこには――目があるはずの場所には、何もなかった。

「これは、……なんなんだ。いったいどういう……」

 手をぶらりとさせて、ノゾミは茫然とした。あるはずの目がない。どうしてこんなことになってしまったのか。これじゃあ帰れない。もし帰れてもまず何からどうしていけばいいのか――

 右手がなんだか温かかった。その感覚がノゾミを現実に引き戻した。現実――ただの暗闇が広がるこの世界に。

 ノゾミはため息交じりに言う。

「歩こうか。なるべく真ん中を歩けるとうれしいな」

「あ、はい」

 女の子は少しハッとして歩きだす。手を引かれたことで、ノゾミたちが今まで道の真ん中にいなかったことがわかる。

 やがて二人は並んで歩いた。


「あたしって今、目がないんだよね」

 ノゾミは前を向きながら言った。

「はい」

「こわくないか?」

 腕の微細な揺れで女の子が頷いたのがわかる。

「心配だと思いました。痛いところはないですか」

「うん。暗いだけ。さっきまでは見えてたから目があったんだと思うけど、というかあったはずなんだけど、どうしてこうなったのかわからない」

「こわくないですか?」

「こわくないかな。こわいくらいに」

 本当のことだった。これからどうしたらいいのかわからないのに、ノゾミは自分でも不思議なくらいに落ち着いていられた。状況がよく呑み込めていないようでいて、それでいて、そんな自分をわかっていながら焦りや恐怖も湧いてこない。

「うんと、はい」

 女の子はわかったような、わからなかったような返事をした。

「もしかして、さっきそっちの目が見えるようになったのと関係あるのかな」

「んー……」

 自分で考えるように口から出た独り言を、女の子が一緒に考えてくれているのがわかってノゾミは口元を緩めた。

「それより、この辺りに見覚えはないの? 迷ってたんだよね」

「はい。わからないです」

「こわくないの?」

「はい。先にお家に帰してあげるのが大事だと思います」

「まあ優しいっ」

 柄にもない口調で言ってノゾミは笑った。女の子も小さく笑う。ノゾミは暗闇に漏れる小さな笑い声が少しくすぐったく感じた。


「いつもはどんなことをしていますか?」

 そう尋ねたのは女の子だった。

「うーん、仕事」

「どんなお仕事ですか」

「コンビニ。最近入ったんだけど、思ったより覚えることが多くて大変なんだ」

「いらっしゃいませ、と言うんですよね」

 女の子は自分が知っていることを絞り出した。

「ありがとうございましたも言う」

「そうなんですね」

「うん。じゃあはい、いらっしゃいませー」

 ノゾミはつないだ手を揺らして促した。

「えっと、いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませー」

「いらっしゃいませ」

「ありがとうございましたー」

「ありがとうございました」

「よし合格!」

「やった」

 女の子が少し弾んで、ノゾミには暗闇がほんのりと色づいたように感じた。ノゾミは歩きながら、あの頃の感覚――三か月前まで勤めていた会社に入社した頃の気持ちに似ているな、と思った。


 ノゾミは高校を出て一人暮らしをすると同時に小さな会社に入った。両親とも昔からノゾミにあまり関心がなかったので、予備知識もほとんどわからないまま社会に出たノゾミは多少心配だったが、それでも――何かがやっと始まる、という期待が胸の奥に色づくのを感じていた。ノゾミは人づきあいを面倒がったせいで昔から友達はいなかったので、会社と家の生活がノゾミのすべてだった。残業があって帰るのが夜遅くになった帰り路でさえ、心が明日へ明日へと向かおうとしているのを感じた。だが三年もしないうちに会社の業績は悪化し、ついには三か月に倒産してしまった。心が向かおうとした先にはただ暗闇が広がり、やがて心は歩くのをやめた。再就職はせずに始めたアルバイトもやりがいはあるが、心はただ闇を目の前にして佇んでいた。


 歩くのを止めた。だからこの先のことはもういい。ノゾミが目が見えなくなってもほとんど動揺しなかったのは、既に希望がどこにも見えなかったからだった。

「あたしに目は必要なかったんだな」

 ノゾミは歩きながら、また独り言のように言った。

「そんなことないと思います」

 ぽつりと出た言葉に、ぽつりと言葉が返って来る。

「そうかな」

「はい。だって見つけてくれたし、そう思います」

 ノゾミが沈黙を返すと、女の子は続ける。

「見えなくなってこわかったし、話すの、苦手で、だから最初はこわかったですけど、でも今はよかったなって思うから、だから……」

 ――ノゾミはあの日の、残業で遅くなった帰路を思い出す。

 街灯に照らされた道を一人。あの頃は会社での話し方から仕事の些細なことでも失敗は多かった。心配事も多かった。それでも灯りの先に見えたのは明日だった。やっと自分で決めた道を歩み始めているという確かな実感と、先に広がる未知が例え暗闇のようでも、踏み出しさえすれば何かが見えてくる期待と予感。その時そう思っていたように、またきっと歩いてきてよかったと思える日が来るんじゃないか。

「そうだな。そう言われればそんな気がするな」

 女の子のまとまらない言葉は、ノゾミの中でまとまった。

「はい。そうなんです」

 ノゾミの中でまとまったことが、女の子にはわかった。

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