side 時子


 その晩時子が玲一の部屋を訪ねると、彼はろくに挨拶もせず時子を抱き寄せて、いきなりベッドに押し倒した。

 戸惑う時子の胸元に顔をうずめ、強引に抱こうと体重を乗せてくる玲一に、あまり抵抗はせず身を預けると、強張っていた彼の腕からふっと力が抜けた。

「どうしたの、玲一?」

「チョコ食ったぞ」

「全部?」

「ああ、全部」

 言うなり唇で口を塞がれた。ついさっきまで食べていたのか、玲一の口にはチョコの甘い香りが残っている。虫歯になりそうなキスを受け入れると、玲一は服を脱ぎ始め、常にない勢いで時子を抱いた。



 それから3時間ほどたって、疲れて眠り込んでいた時子はぱちりと目を覚ました。

 ぐったり布団の上に伸びたところまでは覚えているけれど、その後の記憶はほぼない。けれどちゃんと灯りは消えていて、時子は玲一の腕の中で布団を被って眠っていた。

 長くて細い腕は、それでも高校時代より少し筋肉がついてきて、体の上にだらりと脱力して乗せられていると重くて熱っぽい。

 そうっとその下から腕を抜いて、玲一の頬を手のひらで撫でてみる。かつては頬骨が見えそうなほどこけていた頬も、ずぶん柔らかくなっていた。顔を触られても目を覚ます様子もなく、すうすうと静かな寝息を立てる彼の寝顔を間近に見ながら、時子はふっと笑みをこぼした。


 首を動かして周囲を見回すと、カーテンが数センチ開いたままだった。昼間の空に見えていた月はもう沈んでしまったようで、外は真っ暗になっている。

 月の見えない夜の空はなんとなく寂しいし不安を呼ぶものだ。

 腕を伸ばすとギリギリ手が届いたのでカーテンの隙間を閉じた。それから常夜灯に照らされた部屋の中を見回すと、テーブルの下に転がる物に目が留まった。

 この反応を見る限り、少しは玲一の役に立てたようだ。そう思うと時子は少しほっとした。

 甘いものが苦手だと言ったはずなのに、キャラメルトリュフの箱は本当に空っぽになって落ちていた。


 実のところ、分量外の砂糖を入れて作ったそれは、時子の舌でもおそろしく甘かった。10個くらいは渡してやろうと作ったのに、その強烈な甘さに「これはないな」とさすがに考え直し、6個に減らしたくらいだ。

 それでもこの甘さでは1日1個くらいが限度だと思っていたのに、玲一は昼から夜までの間に全部食べてしまったらしい。

 口寂しかったのかも知れないが、それでもここまでとは時子も思っていなかった。


 たぶん玲一は甘いものが苦手なわけじゃなく、苦手だと思う原因がどこかにあったのだろう。

 なぜかと言えば、時子が頻繁に玲一に食べさせている料理の中には、そこそこ甘いものが結構あるからだ。肉じゃが、ブリ大根、酢の物、胡麻和え。豚肉の生姜焼きにはハチミツを入れ、コールスローサラダにはよく果物を入れる。

 なのに玲一がそれらに文句をつけたことはただの1度もない。怒ってなくても仏頂面に見える顔だが、無理してクリーム入りのプリッツを食べた時のように顔を顰めていたことはない。

 時子が作ったものなら無意識にスルーしているのか、甘いものに関して嫌な思い出でもあるのか、どちらにしろ玲一自身は気付いていなかったようだ。


 それでなくとも玲一は、自分のやっていることにはとんと自覚がないらしい。

 初めて会った時からそうだった。

 自転車で轢かれたとはいえ怪我はほとんどなく、別に痛くもないし泣いていたのは元からだと言うと、彼はそれ以上何も訊かずに立ち去った。もしその時に理由を訊かれても、初対面の男子相手に話せるような事情ではなかったし、話したところでさほど理解してもらえるとも思っていなかった。

 でも時子の経験上、大抵の人は余計に心配して食い下がってくるのが常だ。玲一のようにあっさり引き下がった人は初めてで、時子は本当に驚いた。

 それで何となく分かったのだ。この人は話しても理解されない苦しみを知っているのだと。知っているから自分には分かるはず、などと安易に考えることさえせず、面倒事だと察して立ち去ってくれたのだと。


 先週もそうだ。玲一は甘いものは苦手だと言いながら、不味いお菓子だとも分かっているのに、時子が困っていることをすぐに察して手伝ってくれた。

 しかも残り3本のうちの2本を当然のように手に取った。嫌いなものをわざわざ多く取って、顔を顰めながら食べる逆光の中の玲一の横顔は、どきっとするほど綺麗だった。

 今夜のように感情に任せて求めてくることは時々あるものの、乱暴するわけでもなくひらすら同化しようとするように肌を寄せ、そのくせ律儀に避妊は忘れない。

 そもそも出かけて欲しくなかったなら、意地でも引き止めればよかったのだ。それをしなかったのは、友達との約束を時子が楽しみにしていたからだろう。


 これほど無節操に甘やかしているのに、当の本人は時子がそのうちいなくなるかも知れないと恐れている。


「おかしな人よね」

 玲一が惜しげもなく与えてくれるもののせいで、時子の手の中は常にいっぱいいっぱいだ。

 これ以上他の誰から何を貰っても、受け取れる手も入れておくスペースもない。

 そんな状態で彼の隣以外のどこへ行くと言うのだろう。

 貰い放題貰って、出涸らしになった玲一を放り捨ててまで行きたいほど価値のある場所なんて、きっと世界がひっくり返ってもあるはずがないのに。


 温かな腕の中で、時子は玲一の胸元に顔を引っ付けて深く息を吸った。

 彼が気付かないなら当分はそのままでいい。とっくの昔からあなたを手放せないのは自分の方だと、時子が言ったところで玲一は素直に信じやしないだろう。

 そんな彼が滑稽で、憎らしくて、いじらしくて、愛おしい。彼に与えられるものがあるなら、体中の穴という穴から流し込んでやりたいと思う。でもそんな気持ちを素直に話してしまったら、鈍感な玲一は怖くなって逃げ出そうとするかも知れない。

 だから今は言わない。いつかは伝わる日が来るとしても、それまでこの想いは時子だけの大切な秘密なのだ。

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チョコレートより甘く しらす @toki_t

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