チョコレートより甘く
しらす
side 玲一
いつの頃からか、氷室玲一は甘いものが苦手になった。
切っ掛けは覚えていない。ただ気が付いたら苦手になっていた。幼少期は何とも思っていなかったはずだが、今は甘いもの全般が不味いと感じてしまう。食べられないわけではないが率先して口に入れたくはない。
菓子類やジュースなどに限った話ではない、甘い味付けの料理も遠慮したいほどとにかく甘いものが苦手だ。
「コーヒー飲みますか?」と訊かれて、うっかり「お願いします」と返事したあと、差し出されたそれを飲んで後悔した回数は数えきれない。砂糖は何杯ですかと一言訊いてくれれば「なしで」と答えるものを、無言で砂糖を入れるのはコーヒーに期待した自分への裏切りだと玲一は思う。
そんな話を時子にしたら、彼女は同情の眼差しで玲一を見たあと、なぜかプリッツの袋を差し出してきた。
「ポッキーはダメだけどこれなら食べられるってことでしょ?」
といささか投げやりに差し出されたそれに、しかし文句はなかったので1本いただく。
表面に塩味のついたそれは確かに菓子としては好みだ。勢いよくぽきぽきと歯で折りながら嚙み砕いていく。
「げはっ!!」
「どう、裏切られた気分は?」
「最悪だなおい」
見た目は普通のプリッツだったそれは、中が空洞になっていて甘いクリームが入っているという、この上なく卑劣な菓子だった。しかし吐き出すのもどうかという気がして、玲一は舌を侵食する甘みをぐっと我慢して飲み込んでいく。
そんな彼の顔を見て何を思ったか、時子は再びプリッツを差し出した。
「まだ食べろって言うのか?」
「もちろん断ってくれていいよ」
じろりと睨む玲一に、にこっと笑顔で時子は答えた。今苦手だと言ったはずの物を更に食えと言うのはどういうわけだ、と首を捻ってから、玲一はああと頷く。
「食べられないなら食べてやるが」
「うん、実は不味いの、このプリッツ。濃厚キャラメルクリームって書いてあるから買ったのに、最近流行りの人工甘味料が入っててね。捨てるのも勿体ないし協力してくれない?」
「2重の裏切りだな。仕方ない、手伝ってやる」
玲一が諦めて残りの3本のうち2本を引き抜くと、時子はふふっと笑った。
「玲一ってそういう人だよね」
「どういう意味だ、それは?」
「ううん、特に深い意味はないよ」
袋に残った最後の1本を口に入れると、時子は外箱を丁寧に開いて雑紙置き場に持って行った。
東雲時子は玲一の高校時代からの恋人だ。
高校時代から、と言うと少し語弊がある気もするが、とにかく知り合ったのは高2の時である。その翌年の夏、「高校は別の学校だったから大学は一緒に通いたい」などと時子が可愛らしい事を言い出して、本当に同じ大学にやって来たのである。
そう、高校は違ったのだ。学年は同じだが廊下ですれ違うこともないし、当然同じクラスになどなったこともない。
ぼさぼさで伸び放題の脂っぽい髪に、常にやつれ顔に見える垂れ目の玲一は、身長はあるものの不健康に瘦せていて、大抵の女子には不潔だオヤジ臭いだのと言われて避けられる。モテるという単語は彼の辞書には登録されたことがないし、今後も半永久的にないと思っている。
一方時子の方は、小柄で小さな頭に色素の薄いサラサラの髪と色白の肌で、ぱっちりと大きな瞳が印象的な美人だ。
実際校内でも人気者だった彼女が、他校生の玲一と出会って普通に会話をしたことがすでに異常事態だ。残念ながら奇跡と呼べるほどありがたいかどうかは分からないが。
玲一からすればうっかりミスで、時子からすれば運命的に出会って以降、悩みは尽きねどまだしも平和だった玲一の生活は一変してしまった。
登校中に泣いていた時子を、玲一が自転車の脇見運転で轢いてしまったのが2人の馴れ初めである。
怪我をさせて泣かせてしまった罪悪感と、面倒臭いという気持ちが半々だった玲一は、轢かれる前から時子が泣いていたと聞いてあっさり見捨てて登校した。
どう見ても厄介だから関わりたくなかった、ただそれだけだったのだが、その反応が時子には新鮮だったらしい。それ以降彼の登校時間とルートを覚えた時子は、「いつかあなたを泣かすから」と宣言して玲一を待ち伏せるようになってしまった。
その宣言はわりと早い段階で達成されたのだが、時子はしつこく玲一の前に現れ続け、玲一の方でもいつの間にか彼女の存在に安堵するようになってしまった。
時子の思うつぼだった、ということは分かっている。分かっているが、今更距離を置かれると正直困る。
だが勝手に腕の中に飛び込んできたわけだから、いずれ勝手に出て行こうとする可能性も高い。もしそうなったら、これまで集めた彼女の弱みをフル活用して捕獲しようと密かに玲一は待ち構えている。
そんな彼に足りないものは、泣かされるのはいつも自分の方だという自覚だけだった。
「はいっ、これあげる」
「何だこれ?」
「見ての通り、バレンタインチョコだよ」
「はぁ?」
あれから一週間後の昼食時である。
玲一と時子はいつものように学食のテーブルに着いていた。
進学してからこっち、2人は毎日のように一緒に学食に通っている。とにかく安く済んで量もあるので、平日も休日もお構いなしに昼と夜はここだ。
最初は周囲の視線が痛くて玲一は逃げ出したいような思いをしたが、時子はそんなのどこ吹く風で、じきに春休みに入る今となっては学食に通うメンツも顔馴染みばかりになっている。
そんないつも通りの空気の中、時子が差し出したのはパステルブルーの手のひらサイズの箱だった。
「この前話さなかったか?俺は甘いものが苦手なんだよ」
「そりゃ覚えてるけどさ、せっかくのバレンタインだもん。やっぱり好きな人にチョコくらい作ってあげたいじゃない」
「よりによって手作りかよ」
「そう!頑張って食べてね」
誇らしげに胸を張る時子も大概だが、玲一の反応は塩対応にも程がある。バレンタインに彼女から手作りチョコを貰った男のそれとはとても思えないものだ。
近くのテーブルに座っていた何人かにも聞こえていたようで、周囲が若干色めき立っている。
「はぁ、まあせっかく作ったんだもんな。ありがとう」
かなり投げやりだが多少は空気を読んで玲一がチョコを受け取ると、時子は嬉しそうに微笑んだ。
時子は過去の諸事情により、友チョコも義理チョコも渡さないし受け取らない主義だ。となると作ったのも渡すのもこれ1つで、わざわざ自分のために手間を掛けてくれたことは分かっていた。
「あ、あとごめんね」
「何がだ?」
不意に両手を顔の前で合わせた時子は、上目遣いに玲一を見上げると、ごめんと言いながらもテンション上がり気味の顔になった。
「今日はこの後ね、友達と集まってチョコフォンデュパーティーするの。午後から買い出しして夕方から集まるし、夕食もどこかで済ませて帰るから」
「は、…ああ。そうなのか」
一体どこのどいつだ、そんな時子が大喜びしそうな催しに誘った奴は。
玲一は内心で思い切り毒づきながらも平静を装った。しかし咄嗟に何を言えばよいのか分からず、視線が彷徨い胡乱な返事をしてしまう。
バレンタインであり休日でもある今日は、時子が高確率でどこかへ出かけたがると思って予定を空けていたのだ。普段着では出歩きたくないと言う彼女のために、そのままどこへでも行けるような服装もして来ている。
こんなに全力で空振りするとは予想外だ。
「ごめんね、今度埋め合わせするから!」
微妙な顔をした玲一に気付いたのか、時子は再度両手を合わせて拝んだ。
「いや、気にするな。楽しんで来いよ」
マジかよ、そんなのありかよ、という内心の声を振り払い、玲一は引きつり笑いを浮かべて答えた。
夜には行くから、と手を振る時子と別れた後で、玲一はしばらく地面を見つめてぼーっとした。気晴らしにどこかへ出かけようかとも思ったが、いつも時子に引っ張られているばかりで、自分から行きたい場所を探したことすらない。
用もなく大学周辺をぶらつき、結局どこへ行こうとも思いつけずコンビニへ寄って、何となく肉まんだけ買ってトボトボとアパートへ帰宅する。
「はぁ…、暇だな」
今日は丸一日空けておいたので、急いで片づけるような用事は何もない。天気はいいし出かけるにも家事をするにも好都合だというのに、ぽっかり時間だけが空いている。
部屋の電気を点けるのすら勿体無い気がしてカーテンを全開にすると、ベランダ越しに見えた青空には白い月がうっすらと浮かんでいた。
自力では光ることができず、太陽の光を反射して申し訳程度に夜を照らす月は、太陽が出張っている昼間は在るか無きかのオマケのような存在感だ。
などとつい感傷に浸ってしまって、玲一は頭を振ってその先の考えを振り払った。
「ないな、あいつが太陽とかないぞ。どう考えても北風だ」
時子は旅人の服を脱がせろと言われたら力技で脱がせに来る奴だ。自ら脱ぐのを待ってくれるような悠長な性格ではない。
そこまで考えたところで、玲一は食堂で渡された箱のことを思い出し、鞄から取り出してみた。
パステルブルーの箱にチョコレートのような色のリボンがかかった、見た目はちょっと洒落た小さな箱だ。だが中に詰まっているのが苦手な甘いもの、それもうっかり突き返せない手作りチョコときては、もはや玲一にとっては小型爆弾と大差ない。
何でこんな物を寄越すんだろうかと若干恨めしく思いながらもリボンを解き、蓋を開ける。
中に入っていたのはココアパウダーをまぶされたトリュフが6つだ。丁寧に紙のカップに収められたその1つを摘まんで、恐る恐る口に入れる。
さらっとしたココアパウダーを慎重に舐めたが、薄く被せられてるだけのそれはすぐになくなり、舌先に痺れるような甘さが伝わってきた。
これはヤバい。死ぬほど甘い。早く噛んで飲み込みたいのに、手で塞いでいないと口からチョコソースに似た何かが飛び出しそうな甘さだ。目尻に涙がにじんでくる。
―ええい、チョコトリュフの1個くらいがなんだ。こんなもので泣かされるほど暇ではない。暇だから食っているという事実にはこの際目を背けよう。
玲一は目を閉じて深呼吸すると、ガリッ、と思い切り歯を立てて邪悪な茶色い塊を噛み砕いた。途端に口の中にとろりした何か濃厚な液状のものが広がり、激しく後悔しながら床に転がることになった。
中から出てきたのはほんのり塩気を感じる、だが舌を圧するような甘さの上に、液体のくせして口の中に引っ付いてくるようなソースだ。
「くそっ、そういう事かよ…!」
この味と香りにはまだ覚えがある。
先週時子に食べさせられたあのプリッツだ。濃厚キャラメルクリームと銘打って人工甘味料入りだったあの不味い菓子。
あれに比べればすっきりしているくらいだが、それでも凶悪な甘さは変わらない。
あの時もうっかり軽快に噛んでしまってから、中身の甘さに咳き込んだのだ。さっぱり学習していない自分を嘲笑う時子の顔が見えるようで、玲一はこぶしを握って胸を叩いて耐えた。
一体何の恨みがあってここまでするのか分からない。少なくともあの日は時子が怒っていた様子はないし、この1週間で何か怒らせることをした覚えもない。
いつも通りの日常だったはずだ。そもそもこんな手の込んだものを作って嫌がらせするほど怒っているなら、その場でぶん殴られている気がする。
そう言えば、と気が付いた。このチョコは妙に手が込んでいるのだ。
噛むとさっくり歯が通る柔らかめのチョコの中に、とろとろの甘じょっぱいキャラメルソースが封じ込められているのだが、よく考えれば固体の中に液体が入っているのだ。
既製品を買って来て入れ替えた、というズルをしたわけでもなさそうな不揃いな形なのだから、これは時子が言った通り手作りなんだろう。
だがどうやってこれを作ったのかが分からない。
固いものの上に液状のものを塗るなら分かるが、その逆をやってこんな綺麗な丸い形に作れるものなのか。
検索すれば出てくるだろうか、とスマホを取り出したところで、玲一の頭に子供の頃の記憶が浮かんできた。
小学校の高学年の頃だった。姉が友チョコを作るのを手伝ってくれとやって来た事がある。
菓子を手作りするのが好きだったらしい姉は、頻繁に友達に渡すための菓子を作ると言っては玲一に手伝いを頼んできた。だがお世辞にも姉の作る菓子は美味くなかった。大抵どこかが焦げていたり、生焼けだったり、粉っぽかったりする。砂糖の量を気にして減らしすぎ、まともな味がしない時もあった。
「あれは酷かったな…」
訳あって姉とは同居しておらず、祖父の家に身を寄せていた玲一のところへ様子を見に来る、姉なりの口実だったのかも知れない。
しかし玲一に残りをあげると言って、綺麗にできたところは友達に持って行く用に包んでしまい、失敗したものばかり置いていくのだ。
目の前で作るのを見ていたから、不味くて仕方ないのにどうしても捨てられない。洋菓子の苦手な祖父は食べたがらないので、必然的に玲一が全部食べることになる。
そんな関係に文句を言えなかった自分のせいもあるのかも知れない。
クラス全員に友チョコを作ると言って大量の材料を抱えてやってきた姉を、玲一は断れなかった。
作ったのはよせばいいのに焼きチョコだった。それまでにも散々焼き菓子を焦がしていた姉が、上手に焼けるとはとても思えない代物だ。
溶かしたチョコに少量の小麦粉を混ぜて焼くだけでいい、簡単だからと姉は強行したが、案の定その大半が炭のようになった。
そしてこれもいつも通り、姉は炭のようになったものを「食べきれないなら捨てていいから」と全て置いて行ってしまった。綺麗に焼けたところは1つも残さずに。
あの時から自分は甘いものが苦手になったのだ。
殆ど炭のようになった固い焼きチョコは、とても食べられたものではなかった。だが作った量が多かった分、焦げた量も半端ではない。
これを全部食べるのは無理だ、と分かっていたが捨てることはどうしてもできず、玲一は必死に食べた。甘いのか苦いのかも分からない、焦げてボロボロの固いだけの塊を、無理やり噛んで飲み下していったのだ。
泣きながら食べる玲一に気付いて祖父が止めてくれた時には、玲一は2度と甘いものを口にしたくないと思っていた。
あの時の苦しさはこれだったのか、と時子のチョコを口にしながら鼻がつんとしてくる。
姉はいつでも菓子作りの手伝いを頼んでくるのに、玲一のために作ってくれたことは1度もなかった。上手にできたところをくれたことはなく、置いていくのは失敗した不味いところばかりだ。
それでも姉が作ったものなら食べたかった。食べれば食べるほど、お前の事はどうでもいいんだと言われている気がするのに、姉が自分にくれるものはそれだけなのだ。
それさえ捨ててしまったら、自分に与えられるものは何もなくなってしまうような、そんな強迫観念に駆られていたのかも知れない。
時子のくれたチョコは、嫌がらせとしか思えない非常識な甘さだが、決して不味くはなかった。手の込んだ作りなのは分かるし、焦げていたり妙な味がすることもない。一個ずつ丁寧に紙カップに収め、綺麗に箱に並べて包装した、明らかに玲一のために作られたものだ。
「やっぱり食えなかった」と返す気にはなれないし、捨てるなど以ての外だと思える。苦手なはずの甘いものなのに、口にする度にどこかでほっとする。
そんな風に思えるだけのものを、時子は当然のように用意してくれたのだ。
我慢しようと歯を食いしばったのに、涙が両目の縁を超えて流れ出してしまった。
こんな時に限って時子はいない。今なら力いっぱい抱きしめて「お前が好きだ」と言えるのに。普段なら恥ずかしくて絶対口にできない感謝も、今ならいくらでも口に出せる気がするのに。
泣かせておいて側にいないのはどういう了見なんだ、と言いたくなる。
時子がいないとどこへも行けないのは玲一だけだ。彼女は玲一がいなくなっても自由に生きて行けるだろう。
だからなおの事、時子から手を離すことはできないのだ。
自由になったら時子はどこでも好きなところへ行ってしまう。その方が彼女は幸せだろうと思うのに、それだけは望んでやれない。玲一自身の幸せのために。
―ここまでしておいて俺から逃げられると思うなよ。
「どこにも行かないでくれ、時子」
胸の中で猛る想いに反して、玲一の口からこぼれ出たのは懇願にも等しい言葉だった。
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