第7話:私はお父さんじゃないし、美月は私じゃない。


デニムのジーンズを、意外にもかっこよく履きこなす、その中年男性の眼は、ややウェーブがかった前髪の下で、控えめな笑みに細められていた。そう、自分を振り返る少女、——美月みずきのことが可愛くてたまらない、といったふうに。


胸に、

鋭利な刃物でぐっと力を込めて、

深く、細く切り裂かれたような痛みが走った。


お父さん、美月みずきの、お父さんだ、——


すぐに分かった。


君のことが愛しい、……

歳よりも若く見える父親の、そのまぶしげな笑顔に、美月も目を細め、その小さく柔らかそうなほほを少しだけたわませて、柔らかく微笑ほほえみを返す。


可愛い、そう思った。

私には見せない、歳相応の、子どもらしい可愛さ。


一瞬、——


目が眩むほどの、

激しい怒りを私は覚えた。

その父親に対してだ。


そこにいていいのは、

あなたじゃない!

そこは、美月の隣は、私の場所だ!


でもすぐに思い返す。

そんな訳ない。

少女の隣にいるべきなのは、レズの三十女の私じゃなくて、家族であるべきだ。娘のことが愛しくてたまらない、家族であるべきなのだ。


分かってる、でも、許せなかった。

私の場所、私の美月、なんでそこに私以外の人がいるの?

父親なんて、父親なんて、許せない!

だって、私が、私が美月の、……


彼女の名を呼ぼうと、

私は口を開く。


——美月っ!


そう言おうとした。

確かに、

そう言ったハズだった。


「お父さん、……」


でも、

私は、そう言っていた。

美月のお父さんじゃなくて、

私の、お父さん、——


私は、息が出来なくなって、瞬き出来なくなって、驚きに全身から力が抜けて、何だかぼんやりしてしまって、視界が白く、圧倒的な輝度で光って、何にも見えなくなってしまって、空から、重くて低い、鐘が、鐘が鳴る音が降ってくるのを聞いたような気がした。


或いは冷凍庫に入れられた凍りかけの飲み物が、指で軽く叩くショックで、瞬時に、真っ白に、冷たく凍り付くように、ペットボトルの底をひとさし指で一回だけ、とんっ、と叩く、その音を、眼をつむったまま、そのペットボトルの水中で、聞いたような気がした。


世界が、その組成を変える音。見た目は何ひとつ変わらない、しかしその空気は、光の質感や、吹き過ぎる風の温度は、一瞬前までのそれとは完全に違っていた。凍り付いた世界は、逆にその瞬間、生命が活動を始める温度を取り戻し、空に風が唸り、鮮やかな色彩が息づいて、世界が、よみがえった。


風が吹いた。

止まっていた、風が、吹いた。


お父さん、


眼を見開いたまま、涙が次々に湧いて、溢れて、頬を転がって行く。


私は、走った。

美月から逃れるように。

息が切れても走り続けた。

その場から、逃がれてしまいたかった。


海のすぐ近くの公園の、コンビニエンスストアの入った建物までくると、私はコンクリートの壁に背中を預けてもたれかかった。身体を自力で支えるのが難しかった。激しく胸を喘がせて呼吸しながら、私は左手で胸を押さえて、ぎゅっと、強く胸を押さえて泣いた。


息が苦しくて胸を押さえていた訳じゃない。しっかり押さえておかないと、心が、壊れてしまいそうだった。


ううーっ、うぐっ、うーっ、うううーっ


私は声を上げて泣く。やっぱり最近、私はどうかしてる、なんて思わない。今は分かる。私は一体どうしちゃったのか。美月を初めて見た時、私の中で、何が起こったのか。


美月は、かつての私。少女の頃の、私の面影。花開く、ほんの少し前の蕾のような、その頼りなげに揺れる頭と、その頭を支え切れるのか心配になるほどにか細くて華奢な首筋と、あと、抱きしめたくなるくらいに小さな、まるで子どもみたいな肩、……


その少女の頃の自分を愛することで、私は、お父さんを取り戻そうとしたのだ。お父さんに私が愛される、その代わりに、私は美月を愛したのだ。


そう、私は同性愛者じゃない。私が愛したのは、自分。立場をちょっと逆転させて私がお父さんになってしまえば、そして少女の頃の自分の面影——美月を愛撫すれば、永遠に叶うことの無いはずの私の願望は、現象としては成立するのだ。


私は美月のことを、夢中で愛した。だってそのくしけずる指の間をさらさらと滑ってこぼれる細い髪も、頼りなく揺れる子どもみたいな小さな頭も、華奢で白い首筋も、その幼いまでの小さな肩も、——


私のものだからだ。


あの、風にはためく文字を、今の私は見ることができる。そこに書かれていた答えは、——


「おとうさん、ここだよ、わたしここにいるよ」


でも、

私はお父さんじゃないし、

美月は、私じゃない。


そんなの分かってた。


でも、


わーっ、わああああーっ、あーっ、あーっ、


その子どものような泣き声は、私の、過剰な自意識と言い知れぬ劣等感に苛まれ続けた中高生時代の自分を、その惨めな心を、真っ白な光芒となって照らし出した。一切の呵責なく、景色を、いや陰影さえも溶かしてしまうような、そんな圧倒的な光芒となって。


私は美月を愛してる。そしてそれは、自分を愛するということだ。子どもの頃の満たされなかった思いを、こんな大人になってから、私は代償しているに過ぎない。涙にぼやける視界の中、激しく泣き続けて頭の芯が白く霞むように痺れて、でもその涙の温度は、温かくて、それから、——


甘い味がした。


不思議な気持ちだった。こんなに泣いているのに、こんなに惨めな気持ちなのに、私は自分のために泣くことができる自分を発見し、何故だか、愛しくてたまらないのだ。


お父さんは、

もう戻っては来ない。

美月は、

私じゃないし、

私は、

お父さんじゃない。

でも、

私は出逢えた。

闇に浮かぶ林檎の向こう側にある、

怯えやすい、少女の頃の私に。


「愛してる」


私は、

その言葉をようやく吐き出す。

そのナルティシズムと性愛とに濡れて光る、その生々しい言葉を。


泣きながら、でもおでこと頬が、赤く火照ってしまう。


「愛してる」


吐息とともに、私はその言葉を繰り返す。


くちびるが、震えてしまう。


そして、何かを護るように胸を押さえるその両方の手に、


私は、ぎゅっと力を込めた。








——「百合仮説」 了























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百合仮説 刈田狼藉 @kattarouzeki

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