第6話:でないとすれば、きっとこれは何かの試練だ。

いい天気だ。

真っ青に、圧倒的な高度に晴れ上がる空。

ほんとうに抜けるような青空。

青すぎて、なんだか暗い、なんだか深い、

そして、なんだか怖い。

吸い込まれるような、気が遠くなるような、そんな。


私は、

この青空に嫌われている。

でないとすれば、きっとこれは何かの試練だ。


近未来的なウォーターフロントの、

巨大な商業施設と高層建築物のはざまを、

私は歩いている。

緻密に設計され、計画され、区画された広い歩道を行き交う、

大勢の人。

男女のカップルが多い。

若い人がやはり多いが、

年配の、夫婦と思しき男女も結構歩いている。

しかしそれよりも多く眼につくのは、やっぱり家族連れだ。

若いお父さん。

同じく、若くてきれいなお母さん。

小さな子どもたち。

それはキラキラと白く光って、

網膜を焼く、その痛いほどのまばゆさに、

私は眼を背けてしまう。


私は、

やっぱり、

この青空に嫌われている。

でなければ、これはきっと、何かの試練に違いない。


私は、その光が溢れる人々の流れから離れ、

降り注ぐ青空の照度をさえぎる、

建物のひさしの下へと逃れる。


は、


一息いて、

伏せていたまぶたを開ける。


そこは大規模な建築物のエントランスで、

広く、一面ガラスとなっている壁面に、周囲の景色がクリアに映り込む。


非現実的なほどに鮮やかで光に満ちた街並みを背景に、

私の周囲だけが建物の陰に暗く沈み、

灰色に、褪せて見える。


私は、陽光と色彩の、眼に刺さるほどの刺激におののく、物陰に生きる怯えやすい生き物だった。


洞窟で暮らす蝙蝠こうもりのように、

明るさに怯えて眼を丸くみはる自身と、

ガラス越しに眼が合う。


本来の私の姿。

美月と出逢ってから、

しばらく忘れていた私の姿。

惨めな気分だった。


こんなに心が乱れるのは久し振りだ。

どうかしてる。

街中を、ただ歩くだけで、もうギリギリの精神状態だ。

私は後悔する。

どうしてこんな日に出掛けようなんて思ったんだろう?

どうしてこんな絶望的なくらいに晴れ上がった青空の下、無様にも、のこのこと、出掛けてきてしまったんだろう?


ばかだ。

わたしばかだ。

何を期待していたんだろう?


もう、うちに帰ろう。


そう思って視線を上げる。

すると、

日向ひなたまぶしく鮮やかな景色の中を、

まだ汚れなき、迷いなき頃の自分の幻影が、歩いているのを見た。


儚げな、背の小さな女の子の幻影。


幾つくらいだろう、ずいぶん若い。薄暗い日陰で怯えながら、大きな眼を白くギョロつかせている今の私とは、だいぶ印象が違う。


驚きは無かった。

もちろんまぼろしなんだと思っていた。

心が、追い詰められていて、そしてその無意識が私に、何か別のものをそんなふうに見せているんだと思っていた。よく見てみれば、似ても似つかない赤の他人、そんな感じの、そこそこありがちな。


しかし次の瞬間、私はハッとする。


——美月みずき


すぐにそれに気付く。


——美月、美月、美月!!!


なんていう偶然だろう、私は嬉しくなった。ううん、でも思う。偶然じゃない、偶然なんかじゃない、この街に来れば、或いは、……そう思わなかったと言えば、嘘になる。もちろん、美月の今日の予定については一切聞いてはいなかったし、出会う確率は、あったとしてもきっと、天文学的な低さだったろう。


でも、

でも逢えるかも。


たとえそれが百万分の一くらいの、ごくささやかな可能性であったとしても、家で一人で過ごすより、それはずっと、ずっとずっと甘美で、きらきらした予感を胸いっぱいに吸い込むような、そんな、とても素敵な試みなのに違いないのだ。


でも嬉しさはすぐに、困惑に変わる。だって、周囲の健全な強さと明るさに気後れして、すっかり弱ってしまっている自分を、乱れてしまっている自分を、美月に見られたくなかった。


しかし、それは杞憂だったろう。


片側三車線の大きな道路を挟んだ海側の歩道に、美月はいた。距離がかなりあったし、しかも陽光遮る建物の庇の陰で、しかもガラス張りの壁面に向かって立って美月に背を向ける私のことなんかに、彼女が気付く可能性は低いに決まっていた。


私は薄暗いところから、きらめく美月の姿を眺める。

茫然と、憧れの眼差しで。


陽の光を受けて光沢を浮かべる、「とぅるん」と弾む滑らかな黒髪。その髪に護られるように白く咲く小さな横顔。そして、子どもみたいに小さな肩……。オフホワイトの、そのオーバーサイズのシャツが、美月の、か弱くて華奢な印象にさらに拍車をかけて、強く抱きしめたら腕の中で折れてしまいそうで、その大きくて長いシャツの裾から白っぽい洗い晒しのデニムの、可愛いミニのキュロットが見えたり隠れたりして、一瞬シャツの下に何も着けていないように見えて、それが白く輝いて見える大腿部のつるっとした肌と相まって、


ドキドキしちゃうくらいにセクシーだ。


未完成な、

でも大人の女性に負けないくらいの色っぽさ。


美月は時々、

後ろを振り返りながら歩いていた。


そしてその物憂げに後ろを振り返る、怜悧に半分だけ開いたまぶたの、その下で輝く大きな眼は、美月の後ろを少し離れて歩く、Tシャツの上にジャケットを身に着けいる四十代前半の、中年男性に向けられていた。


あ、


私は息を吸い込む。


胸に、

鋭利な刃物でぐっと力を込めて、

深く、細く切り裂かれたような痛みが走った。


すぐに分かった。


お父さん。


美月の、お父さんだ、——




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