第5話:想像するだけ、それが魔術を習得するための最初のステップなの。
玄関で靴を履いてたら、お母さんが来た。
「
「うん」
「ねえ凜」
「なあに?」
「あなた、今、……付き合ってる男の人いるの?」
「何で?」
唐突な言葉に驚いてしまう。
「最近帰り遅いし、それに、毎日何だか楽しそうだから、……」
「そうかな、……」
付き合ってる女の子ならいるけど、——
そんなこと言えるわけない。
いつも買ってるケーキ屋さんにいる娘だよ、——
なんて。
「ちょっと買い物に行ってくる」
「どこまで行くの?」
「みなとみらい、せっかくの休みだし」
「彼氏さんと一緒なの?」
ため息が漏れてしまう。そんなわけない。
「彼なんていないよ、ひとりで気晴らし」
「ほんとにー?」
楽しそうな声。
照れ隠しのウソを、揶揄うような。
「うるさいなあっ!」
ハッとする、思わず口を押さえる。
意外なほど強い語気に、
自分でも驚いてしまう。
「……」
凍り付いたような沈黙。
でも私は、お母さんの方は見ずに、立ち上がり、玄関の扉を押す。
「行ってくる、晩ごはん、要らないから、……」
いら立っていた。
美月の、十七歳の誕生日。
そしてそんないら立ちを母親にぶつけてしまう二十七歳の自分が、
すごく、すごくみじめだった。
*******
中学生の頃、オカルト好きの友達がいた。
ある日、その友達がこんなことを私に教えた。
魔術についてだ。
それは小説とかでよく見る、決まった言葉の羅列を詠唱すると金色に光る魔法陣が虚空に生成されて、火焔が走ったり、水が噴き出たり、大地が裂け、空が割れて、……といった荒唐無稽なシロモノではなく、ある種の密教的な色彩を帯びた、リアルで難解な「魔術」だった。
「魔術というのは、ほんとは心を自在に操るためのものなの」
と友達は言った。
物理的な世界に、眼に見えない力学で干渉して、何か、非現実的な事象を引き起こす、そういう子どもっぽい技術体系ではなく、精神の在り様を自在に変える、その境地に至るための学習体系なのだと。
「どうするのか、教えてあげよっか?」
そのオカルト好きの友達は言った。
「ただしその前に、一つだけ注意点があるの」
中学生の私は、息を詰めて言葉の続きを待つ。
「途中でやめたらダメ」
始めたら途中でやめず、一定の境地に達するまで必ず続けること。——でないと、
「よくないことが起こる」
という。私は怖くなった。
「途中でやめると開発されて敏感になった精神が無防備な状態で様々なものに剥き身で晒されて、干渉されてしまう、変質してしまう、壊れてしまう」
彼女は私の眼を見たまま、続けた。
「取り憑かれてしまう、呪われてしまう、不幸になってしまう」
*******
「暗闇の中に林檎が浮かんでるのを想像してみて、それだけ、林檎が浮かんでいるのを想像するだけ、それが魔術を習得するための最初のステップなの」
お父さんとお母さんの離婚があって、心が何だか不安定で、何か、しっかりとした、摑まれるものが欲しかった。
「想像して、正確に、詳細に、鮮やかに」
「想像し続けて、その色合いと、手触り、その温度と、匂い、その瑞々しさと、食感と、酸味と、手のひらに感じる、その冷たい重さを」
結果だけ言うと、夜、一人の部屋で、何回か試して、それで止めてしまった。ただ、林檎を、想像するだけ。だけど、想像すればするほど、そのイメージの中の林檎に意思めいた何かを感じ、それは感情と精神性とを帯びて、今にして思うとそれは、鏡のように私自身の心が、その想像上の林檎に映っていただけなんだけど、それは当時の私にはあまりに生々しくて、禍々しくて、何だか怖くなってしまって、止めてしまったのだ。続けられなくなった。耐えられなかった。
そして、悪いことは起こった。不思議なものだ。それは本当に、人生を支配する、強力な呪いのようだった。
精神を、失調した。
いろいろなことが、本当にいろいろなことがあった。
自分に自信が持てなくなり、というかセルフ・イメージそのものが崩れ去り、人の眼が、怖ろしくてたまらなくなった。セルフ・イメージが全否定されたことにより、しゃべり方も、顔の表情の作り方も分からなくなった。手はどこに置けばいいのか? 相手のどこを見ればいいのか? どういうつもりでその人の前に立てばいいのか? 完全に分からなくなった。
この精神の不調は、対人恐怖は、十九歳の頃まで続き、おかげで私は、高校時代での楽しかった思い出は、皆無だ。
今も、この呪いから完全に脱却したとは言い難い。今も、人の眼が怖ろしくないと言えば嘘になる。以前は、人に見られると全身から汗が噴き出した。今も、息が止まるくらいには緊張する。
あの暗闇に浮かぶ林檎は、それまでとは違う世界へと、私を連れ去った。
*******
お父さんがいなくなって、
可愛いと言われていたはずの私も、
一緒にいなくなった。
お父さんは、わたしのことが大好きで、
私の容姿も、性格も、声や髪の色も、
すごくほめてくれてたけれど、
そのことをお母さんに言うと、
「そんなこと人前で絶対に言っちゃダメっ!!!」
と、ひどい剣幕で怒られた。
あの時のお母さんの顔を、私は忘れることが出来ない。
お父さんがいなくなってみると、
私はただの地味で根暗な女の子だった。
おまけに対人恐怖もひどくて、
地味、というよりは「
私は、自分のことが大嫌いになった。
そしてそんな私を慰めて、救ってくれる人なんていなかった。
当たり前だと思う。
*******
あの日、
夕方の雑踏の気配のケーキ屋さんで
何かが弾けた。
私は美月のことが、大切で、たまらなくなった。
だから、——
十七歳の誕生日に、
その大切な日に美月に逢えないなんて、
そばにいてあげられないなんて、
耐えられないのだ。
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