終 章
(1)
根の国の宮に、1人の少年が訪ねて来た。
応対に出た宮びとたちは、見たことのない少年であるという。建御名方(タケミナカタ)と名乗った少年は、礼儀正しく挨拶をし、どうかオオクニヌシノオオキミに会わせて欲しいと頼んだ。
オオクニヌシは最初はそんな氏素性のわからない子供に会っている暇はないと断っていたが、ふと何かの拍子に、気まぐれで会ってみようと思い立ち、少年の待つ客間に足を向けた。
御簾を跳ね上げて、客間に足を踏み入れたとき、オオクニヌシは思わず声を上げていた。
そこには懐かしい顔が……会いたくて仕方なかったが、想いを断ち切った美しい顔に生き写しの顔が、オオクニヌシを見つめていたのだった。
「タケミナカタ、というたな」
オオクニヌシは、努めて静かな声で言った。
「母は、息災か?」
少年は嬉しそうににっこりと笑った。
「はい。これをオオクニヌシさまにお渡しするようにと言いつかりました」
少年は大切そうに懐から祭祀用の麻布を取り出して、差し出した。オオクニヌシはそっと手を差し出して、布を受け取った。見覚えのある古びた布を開くと、勾玉が現れた。
「……!」
勾玉は3つあった。3つの勾玉は、紅白の麻紐で繋がれている。大きな勾玉には見覚えがあった。
(ヌナカワが私にくれたものだ。私が越を去る時に返したものだ…)
あとの2つは少し小さいが、同じぐらい美しい、見事に細工された翡翠の勾玉であった。少し小さい勾玉が、大きな勾玉を挟んでいる。オオクニヌシには瞬時にヌナカワヒメの気持ちがわかった。
「美しい、玉(ぎょく)だな」
タケミナカタははい、と澄んだ声で返事した。
「母上がご自分で姫川に入り探されたものです。どうしても自分で探すと言って、数ヶ月かけて探されました」
「なんと…自ら」
オオクニヌシはタケミナカタにつかつかと歩み寄ると、がばっとかき抱いた。
「我が息子よ、よう来た。ヌナカワに感謝する」
タケミナカタはびっくりして身体を硬くしていたが、オオクニヌシの温かい抱擁に気持ちが溶かされるようになり、背中に腕を回して抱き締めた。
「父上と、お呼びしてもよろしいのですか?」
「そうだ。タケミナカタ、お前は私と越の女王、ヌナカワヒメの子だ」
(2)
それから20年ほどが経って、オオクニヌシの治める地域は広がり、根の国から遠く離れた越の国も、根の国に協力する国として発展を続けていた。
一方、ヤマトの国も同じように発展を遂げており、武力ではいくぶんヤマトに分があった。
そんな折、ヤマトから使者が根の国を訪れ、国を譲れと迫って来た。
見せしめのように行軍してくる道々で、民びとを痛めつけ、掠奪を繰り返すヤマトに、オオクニヌシは愛してやまない根の国を明け渡そうと半ば決意した。
だが、断固反対する者があった。ヌナカワの息子、タケミナカタであった。タケミナカタはあっという間に軍をまとめ上げ、ヤマトを迎え撃った。
数年にわたる戦が続き、戦場になった根の国は疲弊した。嘲笑うかのようにヤマトから和平の使者がやって来て、オオクニヌシは全面降伏を強いられた。
ヤマトに一矢を報いようと、残った兵をまとめて、タケミナカタは最後の戦いに挑んだ。力を失った根の国ではあったが、最後の力を振り絞っての奮戦に、さすがのヤマトも押され、とうとう総大将の建御雷(タケミカヅチ)が指揮を取ることになった。
全軍は激しい攻防を繰り返し、戦いは数ヶ月にも及んだ。互いに多くの兵を失い、特に戦場になった根の国の傷は深く、ついにタケミナカタも敗北を認めた。
オオクニヌシは出雲の地に宮殿を新しく建てること、根の国の半独立を認めることを条件に、ヤマトに全権を委ねることを承諾した。オオクニヌシは人の世界での権利を全て手放したのだった。
タケミナカタの戦いぶりは凄まじく、実際に刃を交えたタケミカヅチの強い嘆願により、その命は救われた。ヤマトは強い武人を欲しており、タケミナカタを自国に招き入れたかった。だが、少しの手勢を引き連れ、タケミナカタは姿を眩ましてしまっていた。
(3)
傷付いたタケミナカタとその部下たちは、故郷に戻っていた。
ボロボロになって敗走して来た息子を、ヌナカワはひしと抱き締めた。
「よう頑張った…。お前のおかげで、根の国は救われたのですよ。さもなくば皆殺しにされるところでした」
タケミナカタは涙をこぼしながら、母の抱擁を受けた。
「私が戦ったタケミカヅチは素晴らしい武人でした。彼ならば、父上や父上の国びとを悪いようにはしないでしょう」
血の混じった涙で顔を汚しながら、タケミナカタは
「母上、20年も音沙汰無しでこんなふうに訪れた私を許してください…」
と謝った。ヌナカワはまだ少年のうちに根の国に送り出した息子が成長してまた自分を頼ってくれたことを喜んでいた。
「良いのです。あなたは父上を守った。慕う人を守れたのです。立派なことですよ。それに…」
ヌナカワは息子の顔を自分の手のひらで優しく拭ってやりながら、
「今こうして会えて、本当に嬉しいのですよ」
(4)
あのとき。
私が生涯でただひとり、この人だけと決めた方は、ひとつの季節が移ろう間だけ私の夫だった。
眩い太陽の季節に現れて、その季節が移ろい、収穫の頃には故郷に向けて旅立ったのだった。
「夢のような方でしたなあ」
腹心のサガワヒコがよく言っていた。
「本当にいたのかもわからなくなるくらい、夢のような…」
言いながら、サガワヒコにも私にも、あの麗しい方が実在していたことがわかっていた。
寒い寒い季節を通り越し、雪が溶け、たくさんの花々が咲き誇る頃には、私は母になっていた。
面差しは私によく似ていたが、目だけはあの方のものだった。大きな二重の黒眼勝ちな目。
この子の中には、あの方がいる。
私はそれだけで強くなれる。
(完)
妻問い〜永遠の愛を誓えずとも〜 高田実生 @Sinozo
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