第六章 Golden dawnー東雲ー

……これは、アレだな……

 ジンネマンは、目の前の二人の魔女のやりとりを自分なりに理解して、ある結論に至った。

 ……若い頃、似たような事、やったっけな……

 クルトも、自分の経験に照らし合わせ、知らず、ジンネマンと似たり寄ったりの結論に至る。

 二人の兵士の共通した結論。それは、交渉は決裂し、再度和解に至るまでには相当な年月を必要とするだろう、という事だった。


「フェルディナンド、一旦ここを離れなさい」

 月の魔女リュールカが、視線をリュールカ・ツマンスカヤに置いたまま、寝台の影の使い魔フェアトラートに言った。

「リュールカ……」

 黒い仔猫は、哀しげな目で主人を見上げる。

「兵隊さん、ヴィルベルヴィントでここを離れてください。申し訳ありませんが、ブリュンヒルトをお願いします」

 リュールカ・ツマンスカヤも、視線を月の魔女リュールカから逸らさぬまま、言った。

御主人様マイスター……」

 人の姿のブリュンヒルトが、心配げであり、寂しげでもある声を出す。

「ブリュンヒルト、元の姿に戻って兵隊さんに連れて行ってもらいなさい。ヴィルベルヴィント、兵隊さんを乗せて差し上げなさい。それから」

 リュールカ・ツマンスカヤが、目を開けてから初めて、クルト達の方を見た。見てから、視線を足下を歩き出した黒い仔猫に視線を落として、

「フェルディナンド、あなたも、一緒に連れて行ってもらいなさい。兵隊さん、お願いします」

 言って、月の魔女に視線を戻した。

「……リュールカ……」

 仔猫は、リュールカ・ツマンスカヤを見上げた。その視線は、もう自分には向いていない。硬い表情で、月の魔女を見つめている。

 黒い仔猫は、小さなの魔女のその表情、その声色から、怒りの匂いを嗅ぎ取った。それなりの時間一緒にいて、初めて知る、激しい怒り。それが自分にも向かっていると感じた黒い仔猫は、固くつむった目を床に落とすと、そのまま泣き笑いの様な表情でクルトとジンネマンの方に歩き出す、とぼとぼと。

「……フェルディナンド」

 その仔猫の後ろ姿に、月の魔女リュールカが言葉を投げた。

「もしかしたら、あなたを置き去りにしてしまうかも知れません」

 足を停め、振り向いた仔猫に、月の魔女は言葉を重ねる。

「でも、必ず迎えに戻ります。待っていてくれますか?」

「……うん、うん!ボク、いつまででも待ってるから!」

 駆け出した仔猫の背中越しに、リュールカ・ツマンスカヤの声が飛ぶ。

「ヴィルベルヴィント!兵隊さんとフェルディナンドを連れて魔女の家ヘキセン・ハウゼンに帰りなさい!ブリュンヒルト!帰ったらお茶の用意を!」

「はい!御主人様マイスター

 二人分の、力強い返事が返ってきた。


「私の可愛い教え子レアリン、あなたは本当に良い子ね……」

 箒に乗った兵隊二人と仔猫一匹が広間から去ってからしばらくしてから、月の魔女は低い声で、静かに、言った。

「……でも、言いつけを守れないなんて、勝手は許しませんよ」

 その声は、あくまで、優しい。

「あなたは、私と一緒に還るのです」

先生レーレリン、私の記憶を返してください。そうしてもらえたら、喜んで私はご一緒します」

 よく似た声が、しかし、強い意志のこもった声が、言葉を返した。

「返してもらえないなら、力尽くちからずくでも……」

「しかたのない子ね」

 ひたすらに優しい声が、否定の答えを返す。

「力尽くなんて。駄目ですよ……私こそ、力尽くでも、あなたを連れて還ります」

 対峙し、言葉を交わしながら呼吸を整えていた二人の魔女は、同時に、呪文の詠唱を始めた。


「ほっといて帰っちまって、大丈夫だったんでしょうか?」

 空飛ぶ箒に二人乗りしながら、後ろに居るクルトが前にいるジンネマンに大声で聞いた。

「ああ?ったってお前、あそこに居て俺たちに何が出来る?」

 クルトの前に、箒にしつらえられたサドルに座るジンネマンは、風の音に負けないように大声を張り上げてクルトに答える。

「いいか新米!長生きしたかったらな!女のケンカに首突っ込むな!どっちの味方してもな、ろくな事になりゃしないんだ!覚えとけ!」

「そんな……そういうもんですか?」

 ジンネマンの後ろ、箒の穂先を束ねる編みの部分に腰掛けている若いクルトが、ジンネマンの人生哲学に即座に納得出来ず聞き返す。

「ろくな事にならないってのは、間違いじゃないね」

 少しでも箒が飛びやすいよう、重心のバランスをとるために箒の柄の先端に立つフェルディナンドが、前を向いたまま、言った。

「二人の技量はまったくの互角だよ。それは、二人の使い魔フェアトラートであるボクが保証するよ。違いがあるとすれば……」

 言いにくそうに一度言い淀んでから、フェルディナンドは言葉を続けた。

「あのペンダント、源始力マナの核を持っているリュールカの方が、より強い力を長く使える、って事かな……」


 リュールカ・ツマンスカヤは、すぐに理解した。

 先生レーレリンが唱えているのは、思った通り、空間を渡る呪いまじないの呪文だ、と。

 ヒントはあった。先生リーレリンは言った、自分を力尽くで連れて還ると。そして、フェルディナンドを置いてきぼりにするかもしれない、と。

 つまりそれは、今この場で空間を渡る呪いまじないを発動させる、それ以外には考えられない。

 だから。リュールカ・ツマンスカヤは、月の魔女リュールカが唱えているのとよく似た呪文を、空間に干渉する別の呪文を、ほぼ同時に唱え始めていた。

 二人の魔女の唱える、今はこの地上から失われた国の言葉で綴られた呪文は、ほぼ同じ声質同士で共鳴し合い、倍音のうなりを生じていた。


「……偉大なる魔法使いマーリーンの孫にして、大魔女エイボンの子たる我、この魔女リュールカの名において。精霊よ、遅れることなく速やかに現れ出でて、我の求めるところを成し遂げよ!」

 月の魔女リュールカの声が響く。

「……偉大なる魔法使いマーリーンの孫にして、大魔女エイボンの子たる魔女リュールカ・ツマンスカヤの名において!精霊よ、遅れることなく速やかに現れ出でて、我の求めに答えよ!」

 リュールカ・ツマンスカヤも、ほぼ同時に、ほぼ同一の呪文を唱え、周囲のエーテルを振動させる。

 二人の声は殷々いんいんと共鳴し、エーテルの振動はそれだけで地下室の構造を揺るがせる。

「精霊よ!我が求めに応じて禁断の門を開き、我の求めに従ってこの地と彼の地の間に通廊を拓け!」

 細々とではあるが、しかし五十年間自分の体に貯め続けた源始力マナを用いて、月の魔女リュールカは月への扉を、月の向こう側にある自分の故郷に繋がる、かつて何者かがこじ開け、自分が閉じた通廊を今再び開けようとしていた。

 ……アレを、ひらかせては駄目!……

 リュールカ・ツマンスカヤは、自分の予想が外れていなかったことを残念に思いつつ、自分の知る限りでそれに唯一対抗出来る呪文を完成させた。

「精霊よ!我が声を聞き届け、我に力を貸し与えよ!」

 呪文の最後の部分を詠唱しながら、リュールカ・ツマンスカヤは気付いた。先生レーレリンが、月の魔女リュールカが、首から提げたペンダントに込めた膨大な源始力マナを、一滴たりとも使っていないことを。

「精霊よ!神の喉を、魔人の胸を我に与えよ!我が望むは神鳴るかみなるこえ!山をも動かす神鳴る聲!」

 呪文の長さと難易度のせいで一瞬早く詠唱を終えた月の魔女リュールカの呪いまじないが、効力を発揮し始める。

 分かってはいたが、やはり間に合わなかった。リュールカ・ツマンスカヤは臍を噛む。だが、それは予想していたことだ。

 最後の一節を唱えつつ、リュールカ・ツマンスカヤは見た。月の魔女リュールカが、呪文を唱え終えたはずの先生レーレリンがまだ何かの呪文を唱え続けているのを。

 だが、だとしても。それが何かはわからなくても。リュールカ・ツマンスカヤは信じる。この呪いまじないを成し遂げれば、全てを無効に出来る、と。

「我が歌声は神のいかづち怨敵おんてき滅ぼす神鳴かみなるる歌声!神鳴るごっど絶唱ら・むう!」


「あなたに聞くのもどうかとは思うんですが」

 ポンコツ軍用トラックオペル・ブリッツのハンドルと格闘しながら、クルト・タンク二等兵は、ベンチシートの中央にクルトとジンネマンに挟まれて座るブリュンヒルトに尋ねた。

「リュールカさん、相当怒ってましたけど、やっぱり俺たち、逃げろって言われたのに逃げてなかったの、まずかったんですかね?」

御主人様マイスターが、ですか?」

 文字通り風を切って飛ばすヴィルベルヴィントの上ならばともかく、比べものにならないくらいゆっくり走る――荷台に載せた重傷者三名のことを考えると、田舎道をアクセル全開で走るなんてとんでもない――トラックの運転席で、いつまでも殿方の胸元に居るのもどうかと思って自力で抜けだして、人型に変じてベンチシートの真ん中におさまった――収まってみればこれはこれでキツキツで、どうだろう、失敗したかもとも思っている――ブリュンヒルトは、クルトの質問にちょっと考え込む。

「確かに怒ってらっしゃいましたけど、別にあなた方に向けてでは……何故、そう思われました?」

 肩で切りそろえた赤みの強い栗毛――テーブルブラシの穂先の色そのもの――の載ったこうべを軽く傾げて、ブリュンヒルトは聞き返す。

「いや……俺たちの名前覚えてるはずなのに、兵隊さんって言われたから……機嫌悪いんだなって」

「そう言えばそうですね……御主人様マイスター、顔と名前間違えたこと無いんですけど……」

「女の子の気持ちは俺たちにゃ分からんよ。それよりクルト、慌てず急いで正確に、な」

はいヤボール

 何か思うところありげに、呟くように言ったジンネマンに急かされ、少しでも早く距離をとろうとクルトも運転に集中し直すことにした。


 体内の源始力マナの全てを胸の奥に集中させながら、リュールカ・ツマンスカヤは呪文の最後の一節を唱え、周囲のエーテルを振動させた。集中し、圧縮された源始力マナは臨界を迎え、怒濤の奔流となって出口を目指す。使役した精霊の力で自分の喉を守りながら、リュールカ・ツマンスカヤはそのエナルギーの奔流にリズムを、メロディを載せ、いくつもの倍音を含む歌の形で解き放った。

 一人の人間の喉から出たとは到底思えない程の豊かにハーモナイズされたそのこえは、指向性を与えたならば、集中させたならば、はるかに離れた城郭さえも一瞬で灰燼かいじんするほどのそれだが、リュールカ・ツマンスカヤはあえてそれに方向性を与えず、集中させずに全周囲に向けて解き放つ。

 月の魔女リュールカの呪いまじないが完成した事で歪み始めていた空間が、軋む。

 ……先生レーレリン……

 リュールカ・ツマンスカヤは、少しでも気を抜けば引き裂かれ、破裂しそうな喉に、胸に意識と源始力マナを集中させ続けつつ、思う。

 ……私の記憶を、私の思い出を返してください。私を、私のままで居させて下さい……

 思い出そうとしてもぼやけてしまう記憶、それは、記憶の雄型を奪われ、雌型だけが残されているからだとリュールカ・ツマンスカヤは理解していた。雄型と雌型がぴったり噛み合うことで、記憶は成立し、正しく思い出せる。事実で構成される雄型は揺るがないが、思い出で構成される雌型は脆く、儚い。雄型を外してしまえば、いつ崩れてしまってもおかしくない、違う雄型を押しつければ、簡単に違う形に置き換わってしまう、それくらい、頼りない、儚い思い出。でも、だからこそ、リュールカ・ツマンスカヤにとっては大事な、自分だけの、この五十年あまりの記憶。そして、今またぼやけてしまっている、さっき一度は再構成され鮮明になった、先生レーレリンと過ごした日々の記憶。思い出そうとすればするほど薄れてしまう、大事な思い出。

 ……お願い、先生レーレリン、私を、返して。私を……私を、奪わないで!……


「何だ?ありゃ……」

 助手席の窓から身を乗り出して後ろを見たジンネマンが、誰ともなく、聞いた。

御主人様マイスター呪いまじないです」

 荷台で重傷者三人の様子を見ていたおかげで後方の異変にいち早く気付いた、人型のヴィルベルヴィントが、答えた。

「……あれは、禁呪、です……」

 ブリュンヒルトも、運転台のベンチシートに片膝をついて後ろを振り向いて、言葉を詰まらせる。目を見開き、口を両手で覆って。

 クルトも、見た。運転しながらで流石に振り向けないので、バックミラー越しに。初め、廃墟のあった辺りの森の上の方が、ゆらり、そこだけ蜃気楼のように揺らめいて見えた。

 一瞬置いて、そこがドーム状に白くなった。ほんの一瞬でそのドーム状の霧は消え、代わりに明らかに空気の密度が違う、半球形のそのドームがものすごい勢いで広がった。

 広がるにつれて空気の密度の違いは薄れ、すぐに目では見えなくなったが、その拡大に合わせて森の木々が大きく揺れているのが分かる。その様子を見ていたジンネマンは、

「まずい、来るぞ、掴まれ!」

 言うなり運転台に戻り、有無を言わさずブリュンヒルトを抱え込むと庇うようにベンチシートに臥せる。クルトは皆がひっくり返らない程度に急ブレーキを踏んで車を停めると、首をすくめてハンドルにしがみついた。

 それは、工兵の訓練で体験した、至近距離でのダイナマイトによる建物破砕訓練の時の衝撃波による爆風の、軽く見ても数倍は強い勢いでクルトの背中をどやしつけた。


 それは、かつては栄華を誇った海洋国家の、今は完全に失われてしまった言語と文明の遺産であった。

 ある時、空から降って現れた、異形の偶像を頂くでよこしまな海洋都市国家からの侵攻と拡大を防ぐため、その国家は国家レベルでその呪いまじないを行い、その邪な教団国家を退ける事には成功したものの、差し違え、大陸ごと痕跡も残さず消滅してしまった。今となってはその文化は、栄華の絶頂期に月の向こうに移住を計画した魔女魔法使い達と、さらなる遠い星の海の果てを目指した冒険者達に受け継がれるのみであった。

 術者も含め、空間そのものを破砕する呪いまじない。『神鳴るごっど絶唱ら・むう

 それが、リュールカ・ツマンスカヤが、空間を歪めて通廊を拓く呪いまじないを自分より間違いなく先に唱え終え、唱える事自体によって発生する詠唱の波動によって外部からの同格の干渉すら寄せ付けない最高の月の魔女リュールカに対抗する唯一の呪いまじないとして選んだ、差し違えを覚悟した一手だった。


 ……先生レーレリンなら、一人だけなら、私のことを諦めさえすれば……

 リュールカ・ツマンスカヤは、砕け散りそうな体を必死に源始力マナで支えながら、願う。

 ……空間が砕ける前に、回廊の向こうに跳べるはず……

 薄目を開けたリュールカ・ツマンスカヤは、しかし、そこにあり得ないものを見る。

 ……何故……そこに居るのですか……先生レーレリン……

 何事かを自分に語りかけながら、月の魔女リュールカは、リュールカ・ツマンスカヤのすぐ前に居た。耳を聾するというのも生やさしい豪爆音に曝されながら。

 ……行って下さい!先生レーレリン!でないと、いくらあなたでも……

 音圧に曝され、吹き飛ばされかけつつも、月の魔女リュールカはリュールカ・ツマンスカヤに向けて、小さな魔女に向けて両手を伸ばしていた。何かを語るその声は、聞こえない。だた、唇の動きだけが、見える。

 ……駄目!先生レーレリン!行って!……

 思わず、リュールカ・ツマンスカヤも手を伸ばす。突き飛ばすためか、引き寄せるためか、それは自分にも分からなかった。

 その伸ばした手の向こうで、月の魔女リュールカの姿が、ふっと、かき消えた。

 リュールカ・ツマンスカヤは、それを、通廊の向こうに渡ったのだと理解した。間違っても、先生レーレリンが私のこの呪いまじないで崩壊するなんてあり得ない、そう信じて。

 ……さようなら……先生レーレリン……

 リュールカ・ツマンスカヤは、月の魔女リュールカの姿が消えたのを確信して、自分の体が崩壊しないよう耐える為に使っていた源始力マナを開放した。リュールカ・ツマンスカヤの知る限り、この術を止める、終わらせる方法はただ一つ、術者が崩壊すること、それだけだったから。

 ……私が、私で居られないなら……奪われたままなら……私は……

 目を閉じたリュールカ・ツマンスカヤは、全身の力が、源始力マナが消失して行くのを感じる。きっと、あと数瞬で私の体も崩壊する、跡形も無く。それでいい。そう思い、覚悟を決めたつもりのリュールカ・ツマンスカヤは、消えてゆく意識の片隅で、誰かが自分の手を引いたような気がしたが、もう、リュールカ・ツマンスカヤの体には、その手をほどく力も、瞼を開ける力すら、残っていなかった。


「先行調査中に落盤事故、兵士三名が重傷、現場は崩落し調査の続行は不可能、か……」

 クルト・タンク二等兵は、軍用トラックオペル・ブリッツに機材を積み込みながら、独りごちた。

「そんなんで、上の方は納得してもらえるんでしょうか?」

 上官から告げられた調査中止の理由いいわけについてずっと感じている疑問を、振り向いたクルトは後ろで小物の整理をしていたスヴェン・ジンネマン曹長に投げかける。

「……さあなあ」

 腰をさすりながらジンネマンは立ち上がり、腰を伸ばす。

「そこんところは、少尉殿が何とかすることだろうさ。俺たちは命令通り動くだけ、それだけさ」

 クルトに振り返り、ジンネマンは苦笑する。

「ま、俺たちは親衛隊に借り出された上に『先祖遺産・古代知識の歴史と研究協会アーネンエルベ』の指示で動いてる。多少のことなら昇進に影響ないだろう、心配すんな」

「いえ、そういう事では無く……」

 手を振って、クルトは否定する。徴兵された身であって職業軍人ではないし、昇進にはあまり興味は無い。

「……リヒャルト達も、そのうち迎えに来てやらんといかんしな。何にしても、ベー班とクランプ分隊と合流して、編成考え直さないとな」

 分隊長であるジンネマンとしては、このまま調査小隊の任務そのものが続行されるとしたら、ジンネマン分隊の残り半分であるB班及びB班を指揮する分隊長補佐アレクサンダー・リピッシュ軍曹、及び調査小隊の残り半分であるクランプ分隊の分隊長アーノルド・クランプカレンバウアー曹長と連絡を取って合流し、ジンネマン分隊アー班に人員を回してもらう算段をつけなければいけない。

 重傷のため、ある程度回復するまではこの村から動かせないと村の医者に診断された――文字通り瀕死の重傷だが、『魔女の秘薬』を持つ村の医者のおかげで一命は取り留めている――部下三人についても、動かせるようになり次第、軍の病院に入れるべきだろう。

「少尉殿、実務はこっちに丸投げだからな。正直、頭が痛いぜ」

「ですが、とにかく少尉殿もご無事で何よりでした」

 昨日の夕方、命からがら村に戻り、重傷者三人を医者に預けた後に一息ついて放心してしまっていたクルトとジンネマンの元に、グドルーン・ブルヴィッツ特務少尉はどこからともなく――ジンネマンもクルトも、影になる部分の多かった地下室の片隅に倒れ伏していたグドルーンには気付いていなかった――いつの間にか姿を現した。

 色々な意味で驚く二人を見ても顔色一つ変えず、グドルーンは翌日以降の行動方針を伝えるとさっさとその場を去り、残された二人はただ顔を見合わせるばかりだった。

「……なんか、少し人が変わられた感じもしましたが……」

「よっぽど怖い思いでもしたんだろう。だからって聞き出そうなんて考えるなよ、士官様には、余計な詮索はしない、それが兵の分ってもんだ。特に相手が女ならなおさら、な」

「そういうもんですか?」

「ああ、そういうもんだ」

 数日とは言え同じ釜の飯を――それほど一緒に食事した覚えは無いが――食った上官に多少なりとも感情移入のあるクルトが心配半分、不満半分に言うのを聞いて、ジンネマンは経験から来る処世術を伝授する。

「俺たちが考えるのは、どうやって効率良く仕事するかと、万一の時どうやって逃げ出すか、その二つだけさ……おっと」

 視野の隅に人影を認めたジンネマンは、

「……噂をすれば、だ」

 クルトにだけ聞こえるように小さく言って、姿勢を正して敬礼する。

「準備は如何?」

「は。正直、手が足りなくて苦労してますが、昼前には完了します。ただ……」

「……何?」

「運転手が足りなくなっちまったんで、サイドカーツンダップは置いて行かざるを得ません」

「構わないわ」

 さしたる問題ではない、そんな雰囲気で、グドルーン・ブルヴィッツ親衛隊特務少尉は言った。

「成果さえ持ち帰れれば、その程度は些細な事よ……落盤に巻き込まれて損耗、とでもしておけば?」

 落盤で現場は失われたが、写真とサンプル一体は確保出来た。これだけでも貴重で十分な成果である、そう主張するつもりだと昨日グドルーンは部下に告げていた。

「は。では、そのように」

「昼食後に出発します。乗用車カデットは私が運転します」

「え?いや、しかし、よろしいので?」

「人手が足りないのでしょう?」

 グドルーンは、今まで見たことのない優しい微笑みで、言った。

「堅苦しい上官の隣より、トラックの運転台の方が居心地がいいんじゃなくて?」

 微笑むグドルーンの胸元で、小さな水晶のペンダントが煌めいた。


 リュールカ・ツマンスカヤは、彼女の店である「魔女の家ヘキセン・ハウゼン」の奥の書斎で、大の字になって天井を見つめていた。

 服も、顔も、髪も、土ぼこりで汚れ、その中でただ、涙の流れた跡だけがくっきりと頬に残っていた。

 あの時。自身も崩壊し消滅することを甘んじて受け入れた、あの時。全てを終わらせたと、終わったと、リュールカ・ツマンスカヤは思っていた。思って、目を閉じた。

 そして、次に目を開けた時、リュールカ・ツマンスカヤはこの書斎で、天井を見つめていた。

 どうやってここに移動したのか、全く覚えていなかった。ただ、目を閉じる直前、誰かに手を引かれたような、そんな感覚だけが手のひらに残っていたが、それが誰の手だかを思い出そうとしても、果たして手を引かれたのが本当だったかすら分からないほどその記憶はあやふやだった。

 その事すら思い出せないと知った時、リュールカ・ツマンスカヤは、自分が涙を流していることに気が付いた。何故か分からなかったが、胸の奥が冷たく冷えきり、切り裂かれるように痛んだ。止めようにも原因が分からないから、涙は止まらず、あとからあとから溢れ出した。

 何も考えられず、源始力マナがほぼ空っぽの体は動かすことすらままならず、リュールカ・ツマンスカヤは、ただひたすら、胸の中の痛みを感じながら、一晩中、涙を流していた。


「……リュールカ……?」

 誰かの声が、聞こえる。

 一晩かけて多少は源始力マナの復活した体で、書斎の床に大の字になったままのリュールカは首だけを書斎の戸口に向けた。

 そこに居たのは、年の頃は十歳かそこらであろう少女。見覚えはある、でも、それが誰だったかを思い出せない。リュールカは改めて、自分の記憶が持ち去られたままである事を思い知らされ、枯れ果てたと思っていた涙がにじむのを感じた。

「大丈夫?リュールカ?」

 その少女は、リュールカに近づき、跪いて声をかけてくる。

 ああ、これと似たような事が、昔にもあったっけ。

 その事自体は、そういう事があったという記録そのものは頭の中に残っている。

 だが、そのディテールはあやふやで、それがいつで、相手が誰だったか、どんな服を着て、どんな顔をしていたかを、リュールカは思い出せなかった。

 思い出せなくて、悔しくて、哀しくて、顔をくしゃくしゃにして、リュールカは、泣いた。

 声をあげて、泣いた。

 その少女は、ギーゼラは、ただ、リュールカを膝の上に抱きしめる事しか、出来なかった。


「リュールカ、なんにも思い出せないんだって……」

 自宅に帰ってきたギーゼラは、昼食のテーブルにうつ伏せたまま、祖母のヘルガにぼやいた。

「あたし達の事も、全然覚えてないんだって……フェルディナンドも居ないって」

「そりゃあ……」

 野良仕事に出ている大人を除いた、たった二人分の簡単な昼食を用意しながら、ヘルガが振り向かずに答えた。

「……辛いだろうねぇ」

 テーブルにパンとスープ、質素なザワークラウトと肉の煮付けポットローストを並べながら、ヘルガは一言それだけ呟く。呟いて、椅子を引いて、座る。

「リュールカ、大丈夫かなぁ……まだ泣いてないかなぁ……」

 お祈りの手は解いたが、スプーンに手を付けず、ギーゼラは腫れぼったい目でヘルガを見つめる。

「……あとで、おやつでも持ってお見舞いに行くかい?」

「うん!」


御主人様マイスター……」

「……何?」

 濡れ髪を拭きながら、部屋着を羽織っただけのリュールカが、遠慮がちに声をかけたブリュンヒルトに答える。努めて平静を保って。

 ブリュンヒルトの口元が、強く結ばれる。人工人格であっても、いや人工人格を持つ魔法具であるからこそ、主人の気配オドには極めて敏感だ。主が無理に笑顔を保っているのは、何故そうしようとしているのかは、痛いほど伝わる。

 だが。それがたとえ人の形をした魔法具の人工人格でなかったとしても、血の通った生身の人であったとしても、声をかけた程度で、傷つき、痛み、凍えきった心を慰めることは至難の業であろうという事も、この出来のよい魔法具の人工人格は知っていた。

「……お届け物を、預かっています。御主人様マイスターが湯浴みをされてましたので……」

 主が、形だけでも平静を保とうとしているのに気付かぬふりをしながら、ブリュンヒルトも努めて普通を装って、要件を伝えようとする。その努力が報われているかは、ブリュンヒルト自身には分からなかったが。

「届け物?誰から?」

「……クルト・タンク氏からです」

 一瞬躊躇したブリュンヒルトの口から出たその名前を聞いて、リュールカは顔を曇らせた。

「……ごめんなさい、私……」

「いえ、御主人様マイスター、お察しします」

 顔を俯かせたリュールカに、人工人格であっても、ブリュンヒルトの心も痛む。

「とにかく、ご覧下さい。店の外にあります」

 そう言って、ブリュンヒルトは主の手を引いて、やや強引にリュールカを店先に連れ出す。

「ちょ、ブリュンヒルト!」

 箒達がそうしてリュールカの手を引くことは、いや、特に必要がない限り、箒達から進んでリュールカに触れること自体、まず無い。その滅多にないはずの事態に、リュールカは少し慌てる。慌てて、慌てつつも、気が付く。箒達のことは、そういう事までキチンと覚えているのだと。そして、理解する。それは恐らく、いわゆる記憶だけでなく、主人と魔法具の関係で、純粋な事実の記憶以外の部分、この場合は源始力マナを通じた繋がりが生きていて、それが記憶を修復しているのだろう、と。

 そんな事を思っていたリュールカは、気が付けば部屋着のままで、日の傾きかけた屋外に、店の外に連れ出されていた。

「……え?これは……」

「これが、お届け物です」

 リュールカの目の前には、軍用サイドカーツンダップKS750が停まっていた。


 そのサイドカーツンダップを見た瞬間、リュールカの脳裏に、風を切って走った記憶が、運転手のペダル操作の、ハンドル捌きの一つ一つを興味深く見ていた記憶が甦った。

「これ……」

 リュールカは、思い出した。サイドカーの側車に収まったリュールカに話しかけてきた運転手、丸眼鏡で金髪の青年のことを。

「……クルトさんの……」

「はい、クルト・タンク氏が、持って帰れないので置いていくと。御主人様マイスターが気にいっていらしたようなので、よかったらもらってやって欲しいと、そう仰っておっしゃってました……御主人様マイスター、クルトさんの事を、思い出されたのですか?」

「思い出しました……でも、どうして?何故、彼の事だけ……他のことは……」

 他のことは、思い出せないのに。そう言おうとして、その言葉の重さ、怖さに口に出すのをためらったリュールカは、他の誰かが傍に近づいてきていることに気付く。

「リュールカ!」

 ぱたぱたと、誰かが駆け寄ってくる。その顔、その姿に見覚えはある気がする。そうか、さっき見た、私がしがみついて泣いた時の少女だ。

 どうしたものかと対応に迷ったリュールカに、その少女は全身で抱きついてくる。

「よかった!少し元気になった?」

「え、ええ……」

 先ほどの自分の醜態を思い出し、戸惑うリュールカに、さらに別の声がかかる。

「おや、思ったより元気そうじゃないか」

 安堵のため息だろう、腰に手を当てて大きく息を吐いたその老婆は、優しい、温かい目でリュールカを見つめる。

「じゃあ、腹だって減ってるだろう?あんたの好きなこれ、持って来てやったよ」

 老婆のその一言で、リュールカに抱きついていた少女が、手に持っていたバスケットを得意そうに示す。

 その中身が何だか、リュールカには見当がつかない。だが、何か良い匂いがする、それは確かだ。

「わざわざ老骨に鞭打ってここまで来たんだ、茶でも入れてくれないかい?」

 そう言って、老婆は微笑む。

「はい!用意します、お台所においで下さい!」

 対応に戸惑うあるじの代わりに、ブリュンヒルトが答えて台所にとって返した。


「その体の住み心地はいかがですか?」

 森の木々が壁になってくれたおかげで運良く爆風の影響を免れたオペル・カデットの助手席から、車内でもパナマ帽を被ったまま、小洒落たスーツを着た浅黒い肌の男が運転席のグドルーン・ブルヴィッツに声をかけた。

「嫌な言い方ね」

 前を向いたまま、グドルーンは答える。

「まあ、確かに仮住まいと言うのは間違ってはいませんけど。あなたこそ、この人に酷い事をしたものね」

「いえいえ。私は、この世の本当の姿って奴をほんの少しだけ、お見せしただけです」

「物は言いようね」

 グドルーンの返しは、にべもない。

「それで?この後どうされるおつもりで?」

 動じることなく、男は切り返す。

「あのまま精神体アストラルになって月に還るのかと思って見ていたのですが。その女にとりついてこちらに残るとは、少々予想外でした」

 ちらりと、横目で男を見て、グドルーンは答える。

「……折角、あの子が私の体を持っているのですから、どうせならちゃんと肉体を持って還りたいだけです」

「ははあ、それであの時、お弟子さんの手を引いたと。元の体を捨ててまで。いやはや、分かりませんなあ」

 面白そうに、男は言う。

「その理屈、感情というか、愛情というのでしょうか。分かりませんが、面白いですなあ……よろしい。もうしばらく、私もあなたにお付き合いいたしましょう」

「あなたに面白がってもらいたくはありません。今すぐ立ち去って戴いて結構です」

 もう一度、ちらりとグドルーンは、グドルーン・ブルヴィッツの体の中の、月の魔女リュールカは男を見る。

「それとも、退去のお手伝いをしましょうか?」

「いやいや。御大を呼び出されるのは御容赦を。そうポンポンと体を焼かれても困ります。今回はたまたま偶然、焼かれる前に切り離した断片があったので再生出来ましたが」

「あなたなら分身には事欠かないのではなくて?」

「分身はたくさんありますが、それぞれ別の個性、別の個体ですからね。この私は、この私だけです」

「そう……」

 何を思ったのか、月の魔女リュールカは感慨深げに、呟いた。

「……別の個性……そうなのかも、しれませんね……」

「何か?」

「こちらの話です……つきまとわれるのは迷惑ですが、互いに不干渉であるなら、まあいいでしょう。どうせあなたは、嫌だと言っても好きにするのでしょうし」

「ご理解いただけて光栄です」

「どうせ、目的は私だけではないでしょう。何をお望み?」

「……お気づきでしょう?」

 男は、心底面白そうに、口元を歪めた。

「破壊と殺戮、混沌と狂気がこの地に満ちあふれる気配がどんどん膨れ上がっています。私は、それが見たい、その場に身を置きたくてたまらないのです」

「……難儀なことです」

 軽蔑したように軽く鼻息を一つついて、月の魔女リュールカは諦めたように言う。

「私のすることを邪魔しなければ、まあ、あなたに約束を守るという概念があるかどうかも怪しいのですけれど……それにしても、そうなるとあなたに名前がないのも不便です。何か呼び名を決めましょう?」

「呼び名ですか……そうですね……」

 少し考え込んで、男は提案する。

エマノンEmanonニーマントNiemand、というのはどうでしょう?」

エマノン・ニーマント名無しの人でなし……お似合いね」

「でしょう?」

 愉快そうに、男は笑う。

「……ちょっといいかな?リュールカ?」

「何ですか?」

 後席から聞こえた声に、バックミラーに視線を投げて月の魔女リュールカが答える。

「ボクを通じて、遅かれ早かれリュールカ、君の居場所はリュールカ・ツマンスカヤに知れると思う。ボクは二人の使い魔フェアトラートだから。彼女が目の前に現れた時、リュールカ、君はどうするつもりだい?」

 バックミラーに写る、リアシートの真ん中に座る黒い仔猫の問いかけに、月の魔女リュールカは答えた。

「勿論、あの子と一つになって、それから月に還ります。それまでは、私はなるべく表に出ない・・・・・ようにして、フェルディナンド、あなたにも猫を被って・・・・・いてもらいます。よくって?」

「了解。まあ、時間の問題だろうけどね……来るかな?」

「来ますとも。あの子は、きっと来ます」

 月の魔女リュールカは、グドルーン・ブルヴィッツの顔で、微笑んだ。

「あの子の記憶を私が持っている限り、あの子はそれを取り戻しに来ます。絶対に、ね」

 ……だから、必ず、取り返しにいらっしゃい、私の可愛い教え子レアリン……

 何を思うのか、その笑顔は、慈愛に満ちていたが、それに気付く物は車中に誰もいなかった。


 さくりとした歯触りのアップルパイアプフェルシュトゥルーデンを噛みしめ、飲み込んで、リュールカはボロボロと涙をこぼした。

「ヘルガ……ギーゼラ……」

 泣き笑いの顔をなじみの老婆とその孫に向け、リュールカはその名前を呼んだ。

「リュールカ……?」

 目の前で起きている事態に理解が追いつかないまま小さな魔女の名を呼んだ孫の肩に手を置くと、老婆は立ち上がり、孫より少しだけ年上にしか見えない、あふれる涙を抑えられない少女のような魔女を抱きしめた。

「ヘルガ……なのよね……」

 老婆の胸から、小さな魔女は顔を上げて聞く。

「ああ、そうだよ。忘れちまっているって聞いてたけど、覚えてたのかい?」

 ヘルガが聞き返す。

「思い出したの……あなたと、ギーゼラと、ハナと。ゲルダもよ」

 リュールカは、ギーゼラが顔も知らない曾祖母、ヘルガの母の名前も言う。

「そうかい……母ちゃんのこともかい」

「そう。多分、これのおかげよ」

 ヘルガの胸元から体を離し、リュールカは木皿の上のアップルパイアプフェルシュトゥルーデンに手を伸ばす。

「私が、最初に食べた食べ物の味。作ったのはゲルダだったわよね。ヘルガが作るのも、ハナが作るのも同じ味」

「あたしも今、練習してるんだよ!」

 パイを頬張ったまま、ギーゼラが割り込んでくる。

「そうね。期待してるわ。その味がきっと、楽しい思い出になって、私の記憶を呼び戻してくれたんだから」

 そうだ、きっとそういう事だ、リュールカは確信する。クルトさんが運転するサイドカーで走った経験、あれも楽しかった。走るのも、お話しするのも。だからきっと、クルトさんの事も思い出せたのだ、と。

「……やっと、お笑いになりましたね、御主人様マイスター

 ブリュンヒルトが、コーヒーのお替わりを注ぎながら、言う。

「ヴィルベルヴィントが、たいそう落ち込んでおりました。お戻りになってから、一度も笑顔を見せて頂いてないって」

「ブリュンヒルト!言わないって約束だろ!」

 コンロの火の加減を見ていたヴィルベルヴィントが、仲間の魔法具に抗議する。

 そうかもしれない。リュールカは思う。記憶と一緒に、笑うことも、楽しいという感覚も忘れてしまっていたのかも知れないと。

 正直、今まで通りに笑えるとは、今はまだ思わない。村人の、ほとんどの顔を思い出せない今は。でも、きっと思い出せる。楽しい思い出は、いくらでもあったはずだから。それに、それを思い出すための時間は、私にはいっぱいあるのだから。

 そして、いつか。リュールカは、決心する。必ず、記憶を取り返す。あの時何故、先生レーレリンが即座に通廊から月に還らず、あそこに居続けたのか、その理由は分からない。けど、とにかく、今は先生レーレリンは私の手の届くところにはいない。でも、いつか必ず探し出して、問いただして、記憶を取り返す、絶対に。

 

「じゃあブリュンヒルト、ヴィルベルヴィントに伝えといて頂戴」

 コーヒーポットをコンロに戻したブリュンヒルトに、リュールカは言う。

 そこに居て情けなさそうにこっちを見ているヴィルベルヴィントをほんの一瞬一瞥してから、あえて無視するように目を瞑って。

「私の笑顔が見たければ、表のサイドカーに私を乗せて、上手に走れるようになって頂戴。そうね、クルトさんの運転の、足下に及ぶ程度には、って」

 気持ちを切り替えたリュールカは、そう言ってアップルパイアプフェルシュトゥルーデンの最後の一切れを口に放り込んだ。

 それは、思わず顔がほころぶ甘さと、懐かしさの味だった。

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魔女(リュールカ)は月には還れない ー笑顔を失った小さな魔女の、永い旅の始まりー 二式大型七面鳥 @s-turkey

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