第五章 Midnightー丑三つ時ー

 5メートル程の縦穴を垂直に飛び降りたリュールカは、小さく短く唱えた呪文で地下回廊の床に魔法円を描くと、その中央に着地する。重力の法則に逆らって、急激に減速しながら。

 正面に見える、広間に繋がる扉はほとんど閉まっているが、呪的な封がされているのならともかく、この世界のものではない夜鬼には単なる石壁の類いはあまり意味が無い。逆に、月の魔女とは言えこの世界のものであるリュールカは、なんらかの呪いまじないを使わない限り、扉をすり抜ける事は出来ない。

 無造作に扉に近づいたリュールカは、呪文を唱える代わりに右手の新月刀を振るう。まるでパン生地のように石造りの引き戸が切り裂かれ、崩れ落ちる。勢いを付けて広間に飛び込んだリュールカは、先に唱えておいた呪文で生み出した鬼火ウィル・オー・ウィプスを部屋の四方に散らし、明かりとする。その明かりに照らされた広間の中でリュールカが見たのは、対角の角にそれぞれ残っている二体のガーゴイル――夜鬼と、奥の扉近くに横たわる、小さな黒い仔猫だった。

「フェルディナンド!」

 思わず叫んで駆け寄ろうとしたリュールカの意に反して、右手の新月刀が斜め後ろに動き、バランスを崩したリュールカは転びかける。

 その頭上を、リュールカを抱きかかえようと後ろから音もなく飛んできた夜鬼の腕が空振りし、飛びすさる。

「……ありがとうブリュンヒルト、助かったわ」

――ご無事で何よりです。夜鬼の首筋に何か憑いています、ご注意を――

 声に出して礼を言ったリュールカに、新月刀を握る手のひらから直接リュールカの意識に返事が返ってくる。その返事の通り、確かに何か細いものが夜鬼の首に巻き付いているのをリュールカも確認する。

「上に居たのには、あんなの無かったわよね?」

――ございませんでした。斬った覚えもございません――

 左手を地面に付けて、リュールカは短く呪文を唱え、改めて、新月刀に聞く。

「斬れる?」

――この新月刀を下ろしたならば、斬れぬものはございません――

「よし!」

 言うが早いか、リュールカは跳んだ。足下に描いた魔法円を踏み台にして。一瞬遅れて、リュールカが居た空間をもう一体の夜鬼の腕が薙ぐ。

 飛び出した先の壁に魔法円を描き、リュールカはそれを足場に着地すると、そのまま壁を蹴ってまた違う方向に跳ぶ。それを追うように、リュールカの未来位置で待ち構えるように、二体の夜鬼が決して広くはない広間の空間を飛ぶ。

 もう一度別の壁を魔法円ごと蹴ったリュールカの進路上に、最初の夜鬼が両手を開いて待ち構える。

 見かけに反し、夜鬼は直接生物を殺害する事はほとんど無い。ただ、その習性に従って犠牲者を抱きかかえ、どこかへ連れ去るか、その途中で落っことすか、そのどちらかの行動しかとらない。どうやらこの廃墟から退去する事を許されていないらしいこれらの夜鬼のする事はつまり、犠牲者を高い所から突き落とす、それに尽きた。その為には、一度犠牲者を抱きとめなければならない。

 今、リュールカの進路上に居る夜鬼のしようとするのは、まさにそれであった。

 夜鬼に抱きすくめられるその直前、リュールカは夜鬼の目の前の空中に魔法円を描く。ほぼ同時に夜鬼の直上と直下の天井と床にも魔法円が出現する。斜め四十五度に描かれた夜鬼の前の魔法円を踏んでリュールカは真上に跳躍すると、体をひねって天井の魔法円に着地、間髪入れずにそこを蹴って真下に跳ぶ。足場となり、同時に跳躍力を増す魔法円の力で加速したリュールカの、その右手の新月刀が、首に巻き付く何かもろとも夜鬼を唐竹割りに両断した。

 床の魔法円を蹴って今度は水平に、今の動きを予想出来ていなかったもう一体の夜鬼の背後方向に跳躍したリュールカは、その背後に新しい魔法円を空中に垂直に描くと、その魔法円を足場に姿勢を安定させ、夜鬼が振り向くより早く半月刀を横薙ぎに、夜鬼から見れば頭頂から真一文字に振り下ろした。


「フェルディナンド!目を開けなさい!フェルディナンド!」

 黒い仔猫の小さな体を抱きかかえて、リュールカは必死に声をかける。

「……御主人様マイスター……」

 うっすらと、フェルディナンドが目を開く。

「ああ……小さなリュールカ……君の方だったか……大きくなっていたから、分からなかったよ」

「よかった……どこか痛む?すぐ呪いまじないを起動するわ」

「いや、大丈夫だよ……無駄な源始力マナは使わないで。このままでもボクは充分役目を果たせるから……」

「え?でも……」

――御主人様マイスター!――

 右手の新月刀が、ブリュンヒルトの意識が、会話に割り込み警告する。その意識が指し示す方に視線を向けたリュールカは、両断した夜鬼の首に巻き付いていた何かが、ゆるゆると、ずるずると這いうねりながらこちらに近づくのを見た。

「しまっ……」

 リュールカが躱すより早く、その紐状の何か、丁度四つあるおぞましい何かは、リュールカの両手両足首に巻き付き、長く伸びて床と天井に食い込み、はりつけのようにリュールカの四肢の自由を奪う。縛り上げられた事で取り落としてしまった新月刀が、乾いた音をたてて床に突き刺さる。

 リュールカは見た。閉じていたはずの奥の扉が開いているのを。閉じていると見えたのは幻術の類いであったと、すぐに気付いた。同時に、月の魔女たる自分にこうもあっさりと幻術を見せるなんて、地上の魔法使いの仕業ではあり得ない、とも。

「これはこれは。こちらの魔女様には初めまして、ですかな?」

 気障に、慇懃無礼に帽子をとって胸に当て、扉の向こうで白いスーツを着た浅黒い肌の男が深く頭を垂れた。

「なるほどなるほど。本当によく似ていらっしゃる。生き写しとはこの事ですね」

 その男は、そう言いながら振り向いて、男の背後に居る誰かに語りかけた。振り向き話しかけた事で、リュールカの視線が通る。その視線の先に居たのは。

先生レーレリン……」

 眼鏡と、一房の金色の髪が無いこと以外はリュールカと全く変わらない、黒衣の魔女だった。


「さてさて。役者は揃ったようですが、どうにも分かりません。偉大なる月の魔女様、あなたは一体、このあなたの分身を使って何をしようとしていたのです?」

 軽くおどけた口調で、黒い男は白い寝台に腰掛けたもう一人の黒衣の魔女に聞く。

「いやいや、あなたを見つけたのは偶然なのですがね。そこの」

 答えを待たず、床に横たわる金髪の女性士官を見下ろしながら男は続けた。

 よく見れば、その奥にも数人、白いローブを着た女性が横たわっている。

「軍の女性につきまとっていたら、本当にたまたま、あなたの御寝所を訪れる栄誉に浴したと、こういう次第なのですが。こんな田舎に引きこもって、一体何をしていたのです?」

 いつの間にか、奥に居たはずの黒衣の魔女は立ち上がり、男の脇に立っていた。今までの男の話を全く意に介していないように軽く男を押しのけ、黒衣の魔女はリュールカに近づき、その頬に手を触れた。

「……大きくなりましたね、我が教え子レアリン

先生レーレリン……」

 黒衣の魔女のその姿は、リュールカの記憶にある先生レーレリンの姿とは食い違ってはいた。記憶の中の先生レーレリンはもっと年老いて、痩せて、しかし髪は同じように黒く、瞳も同じように漆黒だった。そうだ、あの先生レーレリンがもっと若ければ、きっとこんな容姿だろう。

 リュールカは、その事に、今までは思いもしなかった事に気付き、雷に撃たれたように震えた。

 きっとこんな、自分にそっくりな、瓜二つの容姿だろう、と。

「……フェルディナンド、準備は?」

 黒衣の魔女、先生レーレリンは、リュールカの使い魔に親しげに聞いた。

「……大丈夫……源始力マナは充分溜まっているよ……リュールカ」

 はっきりと、フェルディナンドがそう答えたのを、リュールカ・ツマンスカヤは聞いた。

 先生レーレリンに向かって、リュールカと呼びかけたのを。

「水晶球はどこ?」

 フェルディナンドにリュールカと呼びかけられた黒衣の魔女が、重ねてフェルディナンドに聞いた。

「そいつが……ボクから奪い取ったんだ」

 貼り付けになっているリュールカの足下でうずくまったまま、フェルディナンドが答える。

「そう……」

「これのことですか?」

 ゆっくり振り向く黒衣の魔女に、男がペンダントをポケットから取り出してみせる。

「あなたに酷い事をしたのも、彼?」

 感情のこもらない目で男を見ながら、黒衣の魔女が重ねて確認する。

「そう、だよ」

 フェルディナンドの答えは、簡潔だった。

「そう……」

 無感情に、小さく答えた黒衣の魔女の、その返事の後に続いた聴き取れないほど小さく、しかし聞くに堪えないおぞましく狂おしい呪文を耳にして、始めて黒い男の表情が固くなった。

「……とぅぐあ。」

 男が何か行動を起こすより早く、人には発音出来ない呪文を三度唱え終えた黒衣の魔女の目の前に、ほんの一瞬、灼熱の光球が出現し、すぐに消滅した。

 ぽとり。そこに男が居た証拠は、床に落ちたペンダント以外には残っていなかった。

 そのペンダントを拾い上げ、黒い仔猫を抱き上げた黒衣の魔女が、はりつけになったままのリュールカに改めて近づく。

先生レーレリン……」

 リュールカは、震撼していた。

 『生ける炎』を瞬時に召喚し、従属させ、使役し、退去させた。

 そんな事が出来る魔女は、リュールカ・ツマンスカヤが知る限り、地上には自分しか居ない。

 先生レーレリンは、自分の先生レーレリンだから、出来てもおかしくはない。そこまではいい。

 その先生レーレリンを、フェルディナンドは、私の使い魔ファミリアーは、「リュールカ」と呼んだ。

 同じ名を持ち、同じ顔を持つ、先生レーレリン教え子レアリン

 その意味が理解出来ず、リュールカは、底知れぬ震えを、不安を覚えた。

「本当に大きくなりましたね、我が教え子レアリン

 もう一度、黒衣の魔女は先ほどの台詞を繰り返し、そして、付け加える。

「さあ、あなたがどれくらい成長したか、教えて下さい」

 黒衣の魔女は、リュールカの唇に、自分の唇を寄せた。


――ボクは、月の魔女リュールカの使い魔ファミリアーであり、記憶のバックアップであり、そして、リュールカ・ツマンスカヤ、君の為の試作品なんだ――

 混濁する意識の中で、フェルディナンドの声がする。

――月の魔女リュールカの記憶と、魔女リュールカ・ツマンスカヤの記憶の間には、わずかだけれど時間軸上の欠損がある。そこを埋めるのが、ボク、猫の人工生命ホムンクルスであるフェルディナンドの第一の役目、だった――

 ……だった?濁った思考のまま、リュールカ・ツマンスカヤは、ふと感じた疑問に気を引かれる。

――今、記憶は再構成されつつある。ボクの分も含めて。だから、ボクの第一の役目は終わり、そういう事さ――

 意識の霧が晴れてくるのを、リュールカ・ツマンスカヤは感じた。何かが、見えてくる。

――二つ目の役目は、月の魔女リュールカの使い魔ファミリアーである事。これはまあ、いいんだけど――

 ……そう、フェルディナンド、あなたは私、リュールカ・ツマンスカヤの使い魔ファミリアー

 ほんのわずか、引っかかりを感じつつ、リュールカ・ツマンスカヤはそれを認める。

――そして、ごめんね、ボクの三つ目の役目は、月の魔女リュールカの複製である人工生命ホムンクルス、リュールカ・ツマンスカヤの監視、だったんだ――

 その瞬間。リュールカ・ツマンスカヤの意識は覚醒した。


 あの時。地上に墜ち、動けなくなった月の魔女リュールカを発見し、介抱した男が居た。名を、セルゲイ・ツマンスキーと言う、たまたま近くに居た狩人であった。エーテルの薄い地上では十分な源始力マナを得られないリュールカは、セルゲイに助けられ、セルゲイの粗末な小屋のベッドで、それでも起き上がれるようになるまで地上で半年の日時がかかった。

「我が教え子レアリン、あなたと居た時も含めて、私の体は丸一晩休んで源始力マナを貯め込んでも、せいぜい半日立っているのが精いっぱい、月の魔女である私の体は、地上ではその程度しか源始力マナを集める事が出来なかったの。その私を、セルゲイはよく助けてくれました。でも、そのセルゲイも、あっという間に死んでしまった。地上では人は老いるものだと知ってはいたけれど、私は、それがとても哀しく、恐ろしかった」

 リュールカ・ツマンスカヤの意識に重なって、月の魔女リュールカの声がした。自分の声とほとんど違わない、少し鼻にかかったアルトで。

 月の魔女も、いずれは老いる。だが、地上と違う時の流れの中で生きる月の魔女は地上人ちじょうびとから見れば半ば不老不死に近く、また老いるより前に魂の階位を上げて精神体アストラルに昇華する者が殆どであるため、老いるという概念そのものが理解しづらいのだと、月の魔女リュールカは語った。

 それを聞きながら、リュールカ・ツマンスカヤは思う。私は、老いを知っている。私は老いることは無くとも、村の者が何人も老いて死んでいくのを見送ったのだから。その認識のズレが、リュールカ・ツマンスカヤには不思議だった。


「話し相手が欲しかったんでしょうね。セルゲイが居なくなった後、私は何体か自動人形オートマータを作り、その人工人格を育てる事に没頭しました。私が動けるのは半日がいいところだったけれど、時間そのものはいくらでもありましたからね。でも、どれほど自動人形オートマータ作りに没頭しても、話し相手の人工人格を成長させても、私の寂しさは埋まらなかったの。あなたなら分かるでしょう?私の可愛い教え子レアリン。私は、私の世界に帰りたかったの」

 それは言葉でありながら言葉でなく、再構成された記憶の形で、直接、リュールカ・ツマンスカヤの感情に流れ込んで来た。

 哀しみが、寂しさが、望郷の念が。そして何より、大切な人が居なくなってしまった喪失感が。

 リュールカ・ツマンスカヤは見た、自分の記憶として。月の魔女リュールカは、月を見ていた。エーテルが薄く、地上の環境では十分な源始力マナを得られないリュールカにとって、月の光は最も効率良く源始力マナを得る手段であり、言わば光り輝く神々の蜂蜜酒ネクタルであった。だからこそ、月の魔女リュールカは夜な夜な月の光を求めた。だがそれは同時に、還りたくても還れない故郷を見上げ続ける事でもあり、いくばくかの源始力マナを得る代わりに、月の魔女リュールカの心の中にそれ以上に寂しさ、哀しさも募っていった。

 還る方法そのものは簡単だった。月の魔女リュールカにとって、地上から月に渡る呪いまじないを行う事は決して難しい事では無かった。だが、圧倒的に、絶望的に源始力マナが不足していた。とてもではないが、今の暮らしを続けても、必要な量の源始力マナが得られるはずなど、到底無かった。


「だから私は、その寂しさを忘れるために自動人形オートマータ作りに没頭し、その過程で私は、地上で源始力マナを得るには、地上の生き物の体を利用するのが効率がよいことに気付いたの。それに気付いたのは、自動人形の材料として人の髪を利用した時です。その当時、私はここにあった小屋に隠れ住んでいましたけれど、近くの地上人ちじょうびとの村とは最低限の交流はありましたから、そこの村人から薬や簡単な魔法具とひきかえに色々なものを都合してもらっていました。髪の毛も、当時貧しかった村の女の重要な売り物だったのですよ」

 地上の生き物の体を利用出来れば、例えば人の髪を移植すれば、オートマータ程度なら源始力マナの供給が自動化出来る。その事に気付いた月の魔女リュールカは、では部品の一部としてではなく、地上の生き物の体そのものを利用したらどうだろうか、もっと効率良く源始力マナを得られないだろうかと考え、試作品として仔猫の人工生命ホムンクルスを作成し、その効率を確認した。

――それがこのボク、フェルディナンドさ。思考まで猫のままでは意味が無いから、猫の人格、いや猫格かな?それを残したまま、リュールカはボクに最高の人工人格も与えてくれて、ボクを使い魔フェアトラートとしてくれた。つまり、実験は大成功、と言うわけさ――


 源始力マナを効率良く集められる目処が立った事で、月の魔女リュールカは故郷への帰還を具体的に考え始めた。その為には、どうしても必要なものがあった。それを作る為、いや、それを作った後、必要な量の源始力マナが溜まるまでの期間の事も考え、月の魔女リュールカは活動の拠点を、今でこそ拡大した村の周辺部だが、当時は村から外れた一軒家の魔女の家ヘキセン・ハウゼンに移した。森の中の一軒家では、必要な材料を得るにも、地上の魔法使いや錬金術師から情報を得るにも、どうにも不便だったし、何より源始力マナは、源始力マナを運んでくるエーテルは、人の活動する場所により濃く集まる性質があったからだ。勿論、自然の中にはマナの湧き出すホットスポットもあるにはあるはずだが、この周囲にはそんなものはなく、わずかなりとも源始力マナの濃い場所は人の集まる村だったのだ。

 作った自動人形のうち何体かは人手に、その当時付き合いのあった地上人の魔法使いに譲り、代わりに必要な道具や材料を入手した。売れ残りの何体かの自動人形オートマータは手元に残して自分の身の回りの世話をさせた、それがつまりそこに横たわる自動人形だと、月の魔女リュールカの声は語った。

 村の者との最低限のやりとりはしていた、病人が出れば薬をこしらえたし、村に必要なものとリュールカが必要とするものの交換もした。だが、時代というものもあったのだろう、その頃は、互いに干渉を避ける傾向があった。

「村の者は、怖がっていたのでしょう、あまり私のところには近づきませんでした。私は村の者を害する気など毛頭ありませんでしたが、干渉もされなかったのはむしろ好都合でした。私は、人付き合いというものが、どうにも下手なようでしたから。それに、私がしていた事は、自動人形オートマータにしろ人工生命ホムンクルスにしろ、そういうものを作るのは誤解を受けやすい事だというのは、私も承知していましたから」


 ある目的の為に、月の魔女リュールカは自身の最高傑作と自負する自動人形オートマータを作った。元々はある錬金術師に請われて作ったものだが、それは錬金術師の助手になり得る、錬金術を理解し実践も出来る程の高度な人工人格を搭載するものだった。依頼者が用意した、黒い東洋人の頭髪の他に、月の魔女リュールカの頭髪も混ぜ込んで完成させたその自動人形オートマータは、その完成直後の時点で初歩の魔法を理解し実践してみせ、教育レクチャーが進めば錬金術師の助手として手術にも立ち会える程の出来映えであった。

 その自動人形オートマータを依頼者に渡す前に、試運転を兼ねて月の魔女リュールカはある比較的簡単な――月の魔女リュールカにしてみれば、だが――手術を自動人形オートマータに行わせた。それがすなわち、その自動人形オートマータの作成を承諾した理由でもあった。

「私は、その自動人形オートマータ、『キク』と言ったかしら、錬金術師イーノック・コーウェン卿の『キク』に、私の卵子を摘出するよう命じました。さすがに、そればかりは私が自分で行う事は出来ませんから」

 ……卵子?それは、もしかして……

 リュールカ・ツマンスカヤは、自分の錬金術の知識に照らし合わせて、月の魔女リュールカが、先生レーレリンが行おうとしてた事に見当を付けた。それは、つまり。

「そうです。私は、私の卵子をベースにした人工生命ホムンクルスを作りたかったの」


 リュールカ・ツマンスカヤは、月の魔女リュールカが、先生レーレリンが言わんとする事を予測し、震えた。どう考えてもそれしかあり得ない結論を先に得て、それを先生レーレリンの言葉で確定されてしまう事の衝撃に、震えていた。

「効率良く源始力マナを得るためには、それに足る受け皿で無くてはならない。それだけではなく、受け取った源始力マナをきちんと管理できる知識と技術も必要。この地上で、受け皿として最もふさわしいのは、私。私なら、源始力マナを管理する能力も秀でているわ。でも、私には、受け皿の素質はあってもそもそも地上の源始力マナを受ける力が、源始力マナを流し込む取り入れ口が無い。であるならば、受け皿としての私の体をベースに、取り入れ口たる地上人の因子を付加した人工生命ホムンクルスを作って、私の知識と技術の全てを引き継いでもらえばいい。私が最終的にたどり着き、実施したのは、そういう事。もう分かったでしょう?私の可愛い教え子レアリン。あなたは」

 ……私は、先生レーレリン、あなたの……

 震える思考で、リュールカ・ツマンスカヤは月の魔女リュールカに聞く。

「あなたは、私。私の、現し身うつしみよ」


――本来なら、こんなにくどくど説明する必要はなかったはずだったんだ。けどまあ、リュールカの先見の明で最悪の事態は回避出来た、って事かな――

 フェルディナンドの呟きが、ため息交じりに響いた。

 ……最悪の、事態?……

 リュールカ・ツマンスカヤは、使い魔フェアトラートが知っているのに自分は知らない、そんな不可思議な事情に違和感と不快感を覚える。

「私のせいよ、可愛い我が教え子レアリン

 その違和感に答えたのは、月の魔女リュールカだった。


「あなたは本当にいい生徒シューレリンでした、我が教え子レアリン。私の教えた事は何でも覚えた。私の知る全ての知識、全ての技術は今、あなたの中にあるはず、あなたはそれを使えるはずです。だって、あなたは私なんですから」

 リュールカ・ツマンスカヤは、頷いた。その言葉の意味は、既に理解していた。

「私には、時間の余裕はそんなに無かった。それは分かっていたのだけれど、あなたがあまりに素直に学ぶものだから、私はすっかりあなたが可愛くなってしまって、駄目だと分かっていたけれど、もう少しだけ、もう少しだけと、あなたといる時間を延ばしてしまったの」

 リュールカ・ツマンスカヤは、統合され、再構成された記憶の中で、その時期の事実の全てを理解していた。人工生命ホムンクルスとして生まれ、人工人格の発達より知識と技術の習得を優先して教育レクチャーされたその時期の事を。最低限の自我が純粋に求める、先生レーレリンが喜ぶのが見たいという、ただそれだけの欲求で懸命に学んだ日々の事を。それが故にディテールを失い不鮮明だった記憶は、今、同時に自分を見つめる先生レーレリンの視点からの記憶によって補完され、鮮明なものになっていた。

 リュールカ・ツマンスカヤは、気付いた。自分が、どれほど先生レーレリンから大切にされていたかを。

 そして、同時に知った。どんな思いで、月の魔女リュールカが、還る事が叶わない故郷の月を、来る夜も来る夜も見上げていたかも。記憶は統合されても想いは統合されていない、しかし、記憶だけでも、その辛さは充分に理解出来た。

 全ては、月の魔女リュールカが、リュールカ・ツマンスカヤと過ごす時間を少しでも延ばす為、ただそれだけの為だったと。その悦びが、ほんの少しだけ、辛さより勝っていたのだと。

先生レーレリン……」

 無意識に、リュールカ・ツマンスカヤの声が漏れた。

「本当にごめんなさい、私の教え子レアリン。あなたに全てを授ける前に、私は力尽きてしまった。私が愚かだったの。一時の感情に流されて、あなたも不幸にしてしまった、一人にしてしまった」

 意識が直接繋がっている今だからこそ、分かる。リュールカ・ツマンスカヤは、感じる。月の魔女リュールカは、人工生命ホムンクルスリュールカ・ツマンスカヤを愛してくれている、と。

「でも、もう大丈夫。あなたは、源始力マナをいっぱい集めてくれた。これだけあれば、大丈夫」

 月の魔女リュールカは、優しく微笑んで、言った。

「さあ、一緒に還りましょう」


 涙の溢れる目で、リュールカ・ツマンスカヤは目前の、月の魔女リュールカの微笑みを見つめた。

 リュールカ・ツマンスカヤから唇を離した月の魔女リュールカは、右手を挙げ、空中で何かを掴むと、それを後ろに投げ捨てるように手を振った。その途端、リュールカ・ツマンスカヤを戒めていた混沌とした何かがが解け、広間の隅に投げ飛ばされる。

「不測の事態が起きた時、その状況の記憶のバックアップを録る事と、それ以降の君、リュールカ・ツマンスカヤを監視する事。それがボク、使い魔フェアトラートであるフェルディナンドにリュールカが与えた役目だったんだ。実際、不測の事態は起きてしまったから、リュールカの準備は功を奏したって事だね」

 記憶の再構成の過程で、肉体も修復したフェルディナンドが、言った。

「リュールカの使い魔フェアトラートであるボクにとって、リュールカ・ツマンスカヤ、君の体は、その体から発する気配オドも、オリジナルのリュールカとボクには区別がつかない。つまり、ボクから見て君たち二人はどちらもボクの御主人様マイスターだ」

 足下から二人の黒衣の魔女を見上げた黒い仔猫は、言葉を続ける。

「違いがあるとすれば、リュールカ・ツマンスカヤ、君の人工人格が自動起動してしまった事によるわずかな人格の差異くらい、要するに性格の違い、かな?」

「……人格?」

 リュールカ・ツマンスカヤは、そのフェルディナンドの言葉にわずかな違和感を感じた。どれだけ同じ肉体を構成したとしても、例えるなら一卵性双生児がそうであるように、人格自体は必ず何かしら差異がある。それが当然でありそういうものだと、長いとも短いとも言えない村人とのつきあいの中でリュールカ・ツマンスカヤは理解していた。

「そう、本来、教育レクチャーの期間中は必要最低限の人格形成、例えるなら乳幼児の人格レベルに制限して、教育レクチャーが終了したらリュールカの意識と人格で上書きする。教育レクチャー終了後にリュールカの体は長期間の休眠に入らざるを得なくなるから、記憶、技術、経験、意識、人格の全てをリュールカ・ツマンスカヤの肉体に載せ替えて引き継ぐ。そうすれば、リュールカとリュールカ・ツマンスカヤとの差異は誤差未満、実際には地上人ちじょうびと由来の因子は残るけど、その影響は無視出来る範囲だから問題にならない。最終的には二人分の肉体も精神も統合して月に帰還する、元々そういう計画で、けど残念な事にそれが完遂する前にリュールカが動けなくなってしまった、今のこの状況はそのトラブルの影響なんだ」

「上書き……統合?」

 リュールカ・ツマンスカヤは、その言葉の意味を、今のこの状態を示すのだと、この時は思った。


「君の教育レクチャーと並行して、リュールカは自分が動けなくなった後の準備も進めていたんだ。君の教育レクチャーに全精力を集中したリュールカが、いずれ力尽きる事は明白だったからね。だから、そうなった時、誰も次の行動が出来ないのでは困った事になるから、万が一リュールカが倒れてしまった時は自動で以降のシーケンスが進行出来るように自動人形オートマータには事前に命令されていて、まあ、実際その通りになっちゃったんだけどね」

 統合され再構成された記憶を共有しているから、そこの部分はリュールカ・ツマンスカヤにも理解できる、思い出せる。先生レーレリンが何を計画し、どのように実行し、どこで不測の事態が起きたのか、は。

「人格の上書きが終了した後だったら、何の問題も無かったんだけど。あのポンコツ自動人形オートマータどもは融通が利かないから、人事不省になったリュールカを即座に、手順通りにこの地下室に保存しちゃったんだ。幼稚な人格のままの君をお店の書斎に残してね。狭義で言えば、ボクの第一の役目である記憶のバックアップ対象期間は、リュールカが人事不省になってからリュールカ・ツマンスカヤの人格が再起動するまでの間、って事になるんだけど、実はボク、そこでちょっと失敗しているんだ」

 無言で、視線でリュールカ・ツマンスカヤはフェルディナンドに話の続きを促す。それ以降の事は、リュールカ・ツマンスカヤは自身の記憶として持っている。書斎で、ヘルガに出会って以降の事であるならば。だが、その直前の事は、ヘルガに出会う以前の事は、知らない。

「要するに、ボクはその場を離れちゃったんだ。だって、リュールカの事が心配だったし、リュールカ・ツマンスカヤ、君が自律行動するなんて事はあり得ないと、その時の僕は思い込んでいたからね。人格を上書きする前になるべくピュアな状態を維持しておきたかったから、君の人格は制限されてたんだけど、リュールカも自動人形オートマータも、使い魔フェアトラートであるボクすら傍に居ない状態が非常事態だと、君の人工人格は判定したんだろうね。リュールカがここに保管された事を見届けたボクがお店に戻った時、リュールカ・ツマンスカヤ、君は本来予定していた上書きされた人格じゃなくて、教育レクチャー時の制限された人格ベースの、まっさらな人格で再起動していたんだ。きっと、自己保全の為の機能だったんだと思うよ。まあ、その時にボクが傍に居たって、ボクは君の再起動を止める方法を知らないから、何も出来なかっただろうけれどね」

 話の流れが腑に落ちるのを感じながら、うっすらと、リュールカ・ツマンスカヤは理解した。だとしたら、その本来の計画が上手く行っていたら、自分は、この人格のリュールカ・ツマンスカヤは存在しなかったのだ、と。

 そして、自分が何者で、本来あるべきだった自分はどういう姿であったかも理解した。自分は、先生レーレリン、月の魔女リュールカの為に作られた人工生命ホムンクルス、本来望まれていたのは、先生レーレリンの器となる為の、無個性なままの私。今の私は、この人格は、トラブルの結果のイレギュラーである、と。

先生レーレリン……」

 リュールカ・ツマンスカヤは、記憶を遡れば分かる事を、聞かなくても知っているはずの事を、あえて口に出して、聞いた。

「私の、地上人の因子は、誰のものなのですか?」

「セルゲイよ」

 月の魔女リュールカは、優しく、静かに、少しだけ首を傾げて微笑みながら、流れ落ちる髪が奏でる透明な音を背景に、答えた。

「減数分裂した私の卵細胞の染色体を補完する過程で、保存しておいたセルゲイの遺髪から必要な因子だけを抽出して導入したの。あなたの、その」

 ゆっくりと手を伸ばして、月の魔女リュールカはリュールカ・ツマンスカヤの左サイドの、一房だけ金色の髪に触れる。

「金色の髪がその証拠。だから、私はあなたにあの人の名を……名ではなくて姓、と言ったかしら?私達にはない習慣だから、よく分からないけれど、それを引き継がせたの。あの人の髪は、それと同じ色だった、それが、あなたと私の唯一の違い」

 ああ、やっぱりそうだ。リュールカ・ツマンスカヤは、自分の心が満たされていくのを感じる。記憶は共有しているが、人格、感情は別だからよくわからない。でも、先生レーレリンは、きっとセルゲイ・ツマンスキーという人も愛していた。だから、その因子を私にくれた。愛情も、引き継がせるために。

 そして。今の私も、イレギュラーである私だって、きっと愛されている。そうに違いない。そうに決まっている。そうでなければならない。リュールカ・ツマンスカヤの心は、その期待にも満ちあふれていた。

 月の魔女リュールカの指が、リュールカ・ツマンスカヤの左サイドの髪から頬に、そしておとがいに触れる。

「でも、その違いは誤差みたいなもの。さあ、私の可愛い教え子レアリン一つに戻って・・・・・・、一緒に還りましょう」

 その言葉の真意をリュールカ・ツマンスカヤが理解するより早く、月の魔女リュールカの唇が、再びリュールカ・ツマンスカヤの唇を塞いだ。


「……静かだな?」

 薄暗い回廊から崩れた石扉越しに広間の中の様子をうかがいながら、ジンネマンが呟く。

「明かり、漏れてますね……」

 ジンネマンの肩越しに同じように広間を覗き込みながら、クルトも囁く。

「こうしていても始まらん。俺は左、お前は右だ。三つ数えたら行くぞ」

 ジンネマンの、低い、落ちついた声がクルトの耳に届く。

「や、了解ヤボール

 緊張でガチガチになったクルトは、そう返事するのが精いっぱいだった。返事をしながら、クルトは額の汗を左の袖で拭う。

「何があっても俺に銃向けるな、あと引き金は引きっぱなしにするな、すぐ撃ち尽くすぞ。いいな?じゃあ、ドライツヴァイアインス、」

 前を向いたまま、「狭いところならこれだ」という事で小銃に替えて持って来た短機関銃を構えたジンネマンが、小さな、しかし聴取り易い声でクルトに簡単な注意を与え、カウントダウンを始める。

 唾を飲み込む自分の喉の音が、ひどく大きくクルトの頭の中に響いた。

行くぞ!ロース!

 短く、強く、叩きつけるように合図の言葉を吐き出すと、ジンネマンはその年齢と体格からは想像も出来ないような俊敏な動きで瓦礫を跳び越え、広間の左に突撃した。

 慌てて、おっかなびっくり瓦礫と化した石扉を乗り越えたクルトが広間の右に突進する。右利きのクルトにとって、持っている短機関銃を扱いやすい右翼に展開する方をジンネマンが譲った、なんて事は新米二等兵の頭には思い浮かばない。

 そのまま突き当たりの壁まで到達したクルトは、緊張と急な運動で息を切らしながら、広間の奥を凝視し、視線が外せなくなった。

「……あ?」

 広間の反対側から、ジンネマンの間の抜けた声が聞こえた。

「こりゃ、どういう状況だ?」


 クルトの視線は、広間の奥の開いた扉の、その中の場違いにも思える光景に釘付けになっていた。

 全ての壁、天井、床までが淡く発光しているその奥の間の中央には、寝台ともテーブルとも見える、白い、差し渡し二メートル程の台があった。その端の方に、こちらを向いて黒衣で長身の女性が腰掛けている。そして、その膝に頭を乗せてもう一人、同じような黒衣の少女が寝台に横たわっている。

「……リュールカ、さん?」

 その少女、眼鏡をかけ、左のこめかみ辺りに一房だけ金髪のある黒髪の少女は間違いなくリュールカ、クルトが見慣れている魔女の家ヘキセン・ハウゼンの女店主だった。

 だが。そのリュールカに膝枕をし、左手をリュールカの胸に置き、右手で優しくリュールカの髪を撫でている妙齢の女性は、こちらもまた、さっきまで目の前に居た大人の姿に変じたリュールカにそっくりであった。

「一体、こりゃあ……」

 広間の反対側の壁で、ジンネマンも警戒を緩めて銃口を下げ、様子をうかがっている。クルトも短機関銃の銃口を床に向け、それでも警戒しながら、ゆっくりと一歩ずつその不思議な、場違いに微笑ましく、物理的に明るい光景に近づく。

 近づいてみれば、リュールカは胸の上で両手を握り合わせており、その手には銀のナイフ、相当に年代物で、彫刻象嵌の類いもすばらしい値打ちものだろう両刃の短刀ダガーが握られていた。その短刀ダガーを持ったリュールカの手に自らの左手を重ね、優しく、ゆっくりリュールカの黒髪を撫でていた女性は、クルトとジンネマンが用心しいしい近づいてきたのをみて、

「スヴェン・ジンネマンさんに、クルト・タンクさんですね。初めまして」

 微笑んで、声をかけてきた。

「私の教え子レアリンがお世話になりました。私が、月の魔女、リュールカです」


 リュールカ・ツマンスカヤは、暖かく、不思議な浮揚感のある空間を揺蕩たゆたっていた。

 体に力が入らない。だが、そもそも力を入れる必要性を感じない。気持ちがいい、心地よい暖かさ。安心感は感じるが、圧迫感は感じない、丁度いい包まれ感。

 ずっとこうしていたい、そう感じる不思議な空間。

 リュールカ・ツマンスカヤは、体が融けてしまうような錯覚を覚え、実際に融けてしまっても構わないかも、とも思った。


「え?えと、リュールカ、さん?ですか?あなたが?」

 我ながら間の抜けた質問だと思いつつ、クルトは、その女性に聞き返す。気を悪くしたそぶりも無く、軽く頷いたその女性は、

「はい、私が、リュールカです」

 同じ答えを繰り返した。

「不思議に思われていらっしゃいますね?」

 微笑んでそう聞く月の魔女リュールカを見て、

「いや、うん、俺たちはその、そこに居る女の子がリュールカさんだと、その、なんて言うか」

 しどろもどろにジンネマンが答える。

「混乱されるのも無理はありません」

 軽く小首を傾げて、月の魔女リュールカは言う。

「この娘は、私の血肉を分け、あの人の精を少しだけ足して作った私の現し身、分身なのですから」

 地上人ちじょうびと向けに噛み砕いて説明した月の魔女リュールカのその言葉を、現世の常識に当てはめてジンネマンとクルトは理解した。要するに、この人はリュールカの母親だと。なるほど、親子で名前が同じ、なんてのは世間に割とザラにある事だ、女性では滅多に見ないが。

「それで、リュールカさん、えっと、お嬢さんは、一体今、どういう状況なんでしょうか?差し支えなければ……」

 クルトが、辛抱たまらず、それでも言葉を選びつつ、聞く。

「私の可愛い教え子レアリンは、今、眠っています」

 見たまんまだな、警戒を解ききっていないジンネマンは醒めた頭で思うが、口には出さない。

「この娘は、私が居ない間、頑張って源始力マナを貯めてくれました。私たちは、それを使って故郷に帰ります」

 慈しむ目でリュールカ・ツマンスカヤを見ながら、月の魔女リュールカは言った。マナを貯めるというのは分からないが、それ以外は、ジンネマンもクルトも理解出来た。

「もうすぐ、私たちは一つに戻ります。それが終わったら、すぐに私たちはここを発つでしょう。周りにも影響があるでしょうから、万一を考えて村の辺りまで離れる事をお勧めします」

 故郷に帰ると言っても、魔女のすることだから、歩いて帰るって事もあるまい。何らかの魔法でも使うとして、傍に居ると危ないってのはわかる。ジンネマンは、そこまでは理解出来た。だが。

「聞いてよろしいですか?一つに戻る、というのは……」

 クルトが、ジンネマンも理解出来なかった一言の意味を尋ねた。

「文字通りの意味です。私と、私の教え子レアリンは、身も心も一つに戻るのです」


 ゆったりと、暖かく心地よいスープのようなものに揺蕩たゆたっているリュールカ・ツマンスカヤの耳に、どこからか、先生レーレリンの声が聞こえてくる。

「すばらしいわ、私の教え子レアリン

 その声は、リュールカ・ツマンスカヤを褒めそやしているようだ。

「あなたは、私が居ない間に、こんなにも色々な地上人と関係を持ち、経験を積んだのですね」

 ……はい、先生レーレリン……

 リュールカ・ツマンスカヤは、ぼうっとした頭で、答える。その目は開いているが、どこにも焦点が合っていない。

 ……みんな、いい人です。例えば……あれ?……

 リュールカ・ツマンスカヤは、その中の誰か一人を思い出し、その人となりと、何かのエピソードを先生レーレリンに説明しようとした。

 だが。覚えているはずの顔が、名前が、思い出そうとした途端にぼやけ、不鮮明になる。心に残っていたエピソードが、急に色あせ、味気ない事実の羅列になる。

「無理に思い出さなくて大丈夫ですよ、私の可愛い教え子レアリン

 月の魔女リュールカの声は、ひたすらに優しい。

「あなたの記憶も、経験も、私と一つになるのですから」


 ……なんで、思い出せないの?……

 リュールカ・ツマンスカヤは、今はもう居ない、懐かしい村人の顔を、今まさに青年になろうとする生気に満ちた若々しい顔の数々を思い出そうとし、覚えてはいるのにはっきりとは思い出せない、急激に記憶がぼやけていくのに気付いて、急に不安を感じた。

「怖がらなくていいのよ、私の教え子レアリン

 月の魔女リュールカの、優しい、諭すような声が聞こえる。

「あなたを孤独ひとりにしてしまった間、私の記憶は全くの白紙なの。だから、その時期のあなたの記憶も、今、私の記憶と統合されつつあるの。あなたの経験も、意識も、人格も、続けて私と統合されるわ」

 ……私の記憶を、経験を、奪うのですか?先生レーレリン……

 リュールカ・ツマンスカヤは、月の魔女リュールカに聞いた。

「奪うだなんて、私とあなたは一つになるの。あなたを孤独ひとりにしてしまった事の、せめてもの私の罪滅ぼし……」

 ……一つになったら、私は無くなってしまうの?……

「無くなるのではないわ。私というベースにあなたの要素が加わって、私とあなたの統合された総体となるのよ」

 ……でも……

 リュールカ・ツマンスカヤは、月の魔女リュールカの言葉の意味を理解し、その結果として起こる一つの事実に、怯えた。

 ……個としての私は、失われてしまう……

「あなただけではありませんよ、我が教え子レアリン

 ひたすらに優しく、先生レーレリンは言った。

「個としての私も、きっと変化します、過去と全く同じ私ではあり得なくなりますから」

 ……それは……

 リュールカ・ツマンスカヤは、純粋に、今の気持ちを、ぽつりと吐露した。

 ……嫌……

「どうして?あなたと私が別れてしまっているから、きっとあなたは孤独ひとりで寂しい思いをしたでしょう?一つになれば、もう二度とそんな思いはしなくて済むのですよ?」

 ……だって……

 開いた目に、瞳に力がこもる。声にも。

 ……私は、孤独ひとりでもなければ、寂しくもなかったから!……


 その瞬間、クルトは、月の魔女リュールカと名乗ったその女性が、ぎくりと体を引いて一瞬左手をリュールカ・ツマンスカヤから離したのを見た。

 慌てて戻そうとしたその女性の左手が、リュールカ・ツマンスカヤの銀の短刀ダガーを握った両手のすぐ上で、停まる。

 クルトは見た、リュールカ・ツマンスカヤが目を開けているのを。

「私の教え子レアリン、目を醒ましてしまったの?」

 月の魔女リュールカが、リュールカ・ツマンスカヤに聞いた。その声、その表情には、驚愕も嫌悪も無く、ただただひたすらに心配だけがあった。

先生レーレリン……私の記憶を、返してください」

 ゆっくり起き上がりながら、リュールカ・ツマンスカヤは、言った。クルトの聞き慣れた、少し鼻にかかったアルトが、一段、低い。

「……どうして……」

「お願いです……先生レーレリン……私から、私を・・奪わないでください……」

 リュールカ・ツマンスカヤの双眸から、涙がこぼれた。


「私が、嫌いなの?」

 哀しそうな、心配そうな声で、月の魔女リュールカはリュールカ・ツマンスカヤに尋ねた。

「あなたを孤独ひとりにした私が、嫌いになったの?」

 震える声で、月の魔女リュールカは聞いた。

「違います!」

 リュールカ・ツマンスカヤは、叫び、そして声を落として続ける。

「確かに、先生レーレリンのいない間の私は、独りだったし、寂しかった。けど、その間、私は、独りじゃなかったし、寂しくもなかった……あれ、私、何を言ってるんだろう?……ああ、ダメですね、私……先生レーレリン、私は、先生レーレリンが……私こそ、先生レーレリンが望んだのはこの私ではないのでしょう?私こそ……」

「ああ……」

 寝台の上に膝をついて体を起こしたリュールカ・ツマンスカヤに体を寄せ、月の魔女リュールカは優しくその肩を抱く。

「そんな事を……私の可愛い教え子レアリン、分かります。村の人に、良くしてもらえたのですね……素晴らしいわ、むしろ、私には出来なかった経験を積んだあなたを、私は誇らしく思います。あなたは、私の予想を遙かに超えた、すばらしい教え子レアリン。だから」

 ぎゅっと、強くリュールカ・ツマンスカヤを抱きしめて、月の魔女リュールカはその髪に、その耳に唇を寄せて、囁くように、言った。

「だから私は、その素晴らしいあなたと一つに戻って、一緒に月に還りたいのです」


御主人様マイスター!」

 だしぬけに、青年の叫びが地下室に響いた。

 後ろからのその声に、文字通り飛び上がってクルトとジンネマンは驚き、振り向く。

 三つ目の担架を運び終えて戻って来ていた空飛ぶ箒ヴィルベルヴィントが、いつの間にか、通廊から広間に飛び込んできて、今、目の前で人の姿に変じたのだ。

 いやもう、何でもありだな。箒が変じた青年を見ながらジンネマンは、なし崩しに続けざまに進行する、目の前の信じられない出来事の数々に、それでもいちいち驚かずにはいられなかった。

 クルトも、突然の来訪者には驚きつつ、すぐにリュールカに目を戻す。リュールカを名乗る二人の会話が噛み合っていない、互いの主張が噛み合っていない事を、それがもたらすだろう予想される結果を心配して。

「……ヴィルベルヴィント、ご苦労でした。ブリュンヒルトも、姿を戻しなさい」

 月の魔女リュールカに抱きしめられたまま、リュールカ・ツマンスカヤは、静かに言った。その声を受けて、広間の真ん中辺に突き刺さっていた新月刀がテーブルブラシに変じると、そのブラシは床に落ちる前にさらに人に変じる。本性が箒であるこのしもべ達は、箒と人の姿は禁じられない限り自由に行き来出来るが、それ以外の姿は、変わるのも戻るのも命じたあるじの許しが必要になる。

御主人様マイスター……」

 一歩だけ踏み出して、ブリュンヒルトも己の主人に声をかける。

先生レーレリン、失礼ですが、あなたの認識は間違ってます。私は、孤独ひとりではありませんでした」

 体を引いて二の腕の長さほど間をあけたリュールカ・ツマンスカヤが、月の魔女リュールカの目を見て、言った。

「寂しくはありました。だって、先生レーレリンが居なくなってしまったのですから。でも、しもべが居てくれた、フェルディナンドも居てくれた。なにより、私の周りには、村には常に村人がいた……今また、こうして」

 リュールカ・ツマンスカヤは月の魔女リュールカからジンネマンへ、そしてクルトへ視線を流す。

「知り合ったばかりの兵隊さんが来てくれた。先生レーレリン、私は、独りだったけど、孤独ひとりではありませんでした。だから」

 視線を戻して、リュールカは言った。

「私の記憶を、返してください」


「私には、月に還る望みはありません」

 リュールカ・ツマンスカヤのその言葉に、月の魔女リュールカはわずかに身を引いた。

先生レーレリンがそう望まれるなら、私はどこにでもお伴します。でも、その時は、私は私としてお伴したい。私の望みは、私が私として、先生レーレリン、あなたと共にある事。もう、寂しい思いはしたくないから。でも、私は、私として、先生レーレリンの笑顔を見たい。だから……私から私を奪わないでください!」

 月の魔女リュールカの腕を掴み、押して大きく体を離すと、その勢いのままリュールカ・ツマンスカヤは寝台から降りて奥の間の床に立つ。

 その姿を寂しげに、哀しげにしばし見つめ、月の魔女リュールカも寝台から腰を上げた。

「可愛い私の教え子レアリン……私は」

 何らかの決意のこもった目で、月の魔女リュールカは、リュールカ・ツマンスカヤを見据える。

「あなたを孤独ひとりにしてしまった……いいえ、孤独ひとりだったのは、私の方だったのかも知れません。あなたと触れあうことでこんなに安らぐなんて、思ってもいなかったから。ですから、私は、あなたを離したくないの……私の可愛い教え子レアリン、あなたは、私の血肉を分けた分身。だから、一つに戻って、一緒に還りましょう?」

先生レーレリン、私は、あなたに血肉を分けて頂いたあなたの分身」

 その目を、真正面から見返して、リュールカ・ツマンスカヤも、言った。

「分身だからこそ、私は、独立した人格、独立した個性、一つには戻れません。月に還るなら、先生レーレリンが望まれるなら、私は喜んでお伴します。でも、その前に、私の記憶を、私が私である証しを返してください。そうでなければ……」

 リュールカ・ツマンスカヤは、そこで一度言葉を切った。言いにくそうに、唇が震える。握りしめた手の力が強くなり、爪が手のひらに食い込む痛みが、リュールカ・ツマンスカヤの心を後押しした。

「……私は、先生レーレリンの言いつけを守れません!」

 肩幅より少し広く足を踏みしめ、少し顔を背けてリュールカ・ツマンスカヤはその言葉を吐き出した。

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